一時間目、社会。
そはらは、イカロスにノートを見せようとしていた。
「イカロスさん、ここはね――」
だが、イカロスのノートを見て、そはらは固まった。
地図。
年表。
人物関係。
因果関係。
全部が、異常に分かりやすく整理されていた。
「……私より分かりやすい」
そはらは静かにノートを閉じた。
ニンフは窓の外を見ている。
「ニンフちゃん、ノートは?」
「別にいい」
「いいんだ……」
悠は普通にノートを取っていた。
普通に。
ただし、横には小さく補足が書かれている。
「王権形成、宗教的正当性、軍事力、税制、婚姻政策」
「悠、それ中学の社会か?」
「発展事項」
「発展しすぎだ」
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二時間目、家庭科。
調理実習だった。
先生が出席を確認していると、クラスメイトの一人が手を上げた。
「先生、イカロスさんとニンフさんがいません!」
「何?」
先生が教室を見回す。
確かに、二人の姿がない。
「またか……」
俺は嫌な予感しかしなかった。
転校初日。
二時間目。
家庭科。
姿を消した
ろくなことになるはずがない。
その時だった。
家庭科室の扉が、がらりと開いた。
「マスター」
「遅れたわ」
イカロスとニンフが入ってきた。
イカロスは巨大なイノシシを、ニンフは巨大な魚を担いでいた。
イカロスは、他にもなぜか大量の材料をぶら下げている。
果物。
小麦粉。
砂糖。
生クリーム。
「何持ってきてんだよ……」
「マスターの栄養と嗜好を考慮しました」
「嫌な予感しかしないんだけど!」
イカロスはそのまま調理台へ向かい、肉料理とケーキを作り始めた。
同時に。
「何でその組み合わせ!?」
「マスターの栄養と嗜好を考慮しました」
「考慮した結果が肉とケーキなのか!?」
イカロスは真剣だった。
分厚い肉を綺麗に切り分けながら、隣でケーキの生地を混ぜている。
手際は異常に良い。
だが、組み合わせが致命的におかしい。
一方、ニンフはニンフで、巨大魚を床に置いた。
どん、と重い音が家庭科室に響く。
「待て。お前のそれは何だ」
「魚よ」
「見れば分かる!」
「料理するんでしょ? 食材が必要じゃない」
「限度がある!」
魚はまだ生きていた。
尾びれが床を叩く。
びたん。
びたん。
びたん。
「動いてる! めちゃくちゃ動いてる!」
「新鮮でしょ」
「新鮮の意味を間違えるな!」
ニンフはその魚の前にしゃがみ込むと、床に手をかざした。
「火を通せばいいのよね」
「床で焼く気か!?」
「丸ごと焼けば早いでしょ」
「家庭科室で焚き火するな!」
その瞬間、悠が動いた。
「待って」
短い声だった。
ニンフが振り向く。
「何よ」
「勿体ない」
「は?」
悠は床の魚を見る。
魚はまだ暴れている。
びたん。
びたん。
「鮮度、極めて良好。丸焼きでは可食部の状態を均一に保てない。焦げ、乾燥、脂質流出。損失、大」
「細かいわね」
「素材損失」
悠は包丁を手に取った。
「活造りにする」
「家庭科で!?」
そはらが叫んだ。
ニンフは顔をしかめる。
「そんな面倒なことするの?」
「する」
「誰が押さえるのよ」
悠はニンフを見る。
「ニンフ」
「何で私が」
「持ってきたから」
「……」
ニンフは一瞬黙った。
それから、乱暴に魚の尾の方を押さえた。
「分かったわよ! 押さえればいいんでしょ!」
「助かる」
「別に、あんたのためじゃないから!」
「確認」
「確認しなくていい!」
魚はまだ動いていた。
しかし悠の動きは静かだった。
包丁の角度。
骨の位置。
身の厚さ。
血の流れ。
皿の配置。
全部を一瞬で確認し、刃を入れる。
魚の身が崩れずに離れていく。
薄く引かれた身が、皿の上に花のように並ぶ。
魚の口は、まだわずかに動いていた。
「まだ動いてるんだけど!?」
「活造り」
「完成度の方向がおかしい!」
そはらは顔を引きつらせながら見ていた。
「ユゥ……これ、家庭科だよ?」
「調理実習」
「料亭じゃないよ?」
「魚を使用した料理」
「間違ってないけど!」
先生が近づいてきた。
しばらく皿を見る。
魚の頭と尾を残し、その間に美しく盛られた刺身。
家庭科室にあるには、あまりにも場違いな完成度だった。
しかも、その魚の口が、まだわずかに動いていた。
ぱく。
ぱく。
「まだ動いてるんだけど!?」
「活造り」
「説明になってない!」
「……技術点は満点です」
「満点出るの!?」
俺は叫んだ。
先生は採点表に何かを書き込む。
「ただし、家庭科の課題としては方向性が過剰です」
「そこはちゃんと減点なんですね!」
「衛生管理、包丁技術、盛り付け、素材の鮮度管理は優秀。ですが、一般家庭で再現する料理としては不適切です」
「普通の評価だ……!」
ニンフは腕を組んで、なぜか得意げだった。
「まあ、私が押さえたし?」
「押さえただけだろ!」
「重要だったでしょ!」
悠は頷く。
「尾部固定により切断精度が向上」
「ほら!」
「そこで勝ち誇るな!」
その横で、イカロスは肉料理とケーキを完成させていた。
「マスター」
「何だ」
「完成しました」
皿の上には、焼き色の整った肉料理。
そして、やたら完成度の高いケーキ。
「だから何で肉とケーキなんだよ!」
「マスターの栄養と嗜好を考慮しました」
ニンフはケーキを見て、ぱっと目を輝かせた。
「おいしそー」
「お前、そっちに食いつくのか」
「甘いもの大好き」
「今まで巨大魚を床で焼こうとしてたやつの台詞じゃない!」
一方、そはらは目玉焼きを作ろうとしていた。
卵を割った。
黄身が崩れた。
焼いた。
少し焦げた。
「うぅ……」
先生はそはらの皿を見る。
「見慣れた家庭科の作品ですね」
「先生、それ褒めてますか?」
「安心感があります」
「それ褒めてますか!?」
俺は机の上を見た。
猪肉の低温ロースト。
ケーキ。
巨大魚の活造り。
少し焦げた目玉焼き。
家庭科とは何だったのか。
たぶん、考えたら負けだ。
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三時間目、数学。
竹原先生は、黒板に問題を書いた。
円。
多角形。
そして、πを近似で求める問題。
中学数学の範囲……のはずなのだが、黒板に並んだ図と式は、俺にはもう十分に難しかった。
「今日は、近似によって円周率を評価する」
竹原先生は、やけに得意げだった。
俺は静かに思った。
中学数学って、こんなだったか。
そんな中、ニンフは窓の外を見ていた。
頬杖をつき、完全によそ見している。
竹原先生の眼鏡が、きらりと光った。
「転校生のニンフ君」
「何よ」
ニンフは窓の外を見たまま返事をした。
「君の行っていた学校では、授業を聞く必要がないくらい進んでいたのかね」
「別に」
「では、よそ見した罰としてこの問題に答えてみたまえ!」
教室がざわついた。
ニンフは黒板を一瞬だけ見た。
本当に一瞬だけ。
そして、また窓の外へ視線を戻したまま、すらすらと答えた。
途中式も、考え込む間もない。
ただ、黒板に書かれた問題を見て、答えを口にしただけだった。
「……こんな感じでいい?」
竹原先生の顔が止まった。
「き、君はちゃんと黒板を見て答えたまえ!」
「見たわよ」
「一瞬だろうが!」
「十分でしょ」
「十分ではない!」
イカロスが静かに言った。
「同解を確認」
「イカロスも分かるのかよ!」
「はい」
「はいじゃない!」
その時、俺は気づいた。
教室の横の方。
なぜか、守形先輩と会長が椅子に座っていた。
普通に授業を受けていた。
竹原先生は、震える手でさらに難しい問題を書いた。
「ならば、これはどうだ!」
守形先輩は、黒板を見て即座に口頭で答えた。
「成立する。解はそうなる」
「口で答えるな!」
会長も楽しそうに笑う。
「別解なら、こちらの方が綺麗かしら」
そして会長も、別解を口頭で答えた。
竹原先生のこめかみが震える。
「お前らはクラスが違うだろがーっ!」
竹原先生の怒号が教室に響いた。
「守形!
「仕方ないな」
「残念ね」
二人は何事もなかったように立ち上がり、教室を出ていった。
なぜ来た。
なぜ座った。
なぜ答えた。
そはらは黒板を見つめたまま、小さく呟いた。
「問題の意味さえ……分からない……」
俺も同感だった。
ただ、そこで終わればよかった。
本当に、そこで終わればよかった。
けれど、竹原先生はすでに少し熱くなっていた。
ニンフに一瞬で答えられ。
イカロスにも確認され。
守形先輩に口頭で答えられ。
会長に別解まで言われた。
完全に、先生の負けず嫌いに火がついていた。
そして、その怒りの矛先が、最悪の方向へ向いた。
「紫月」
「はい」
悠が静かに返事をする。
「お前も解けるんだろうな」
「解けます」
「なら解いてみろ!」
竹原先生は、今度は別の問題を黒板に書いた。
それは、いつもの竹原先生らしい問題だった。
中学生に出すには明らかに難しい。
だが、この先生にとっては珍しいことではない。
考える練習。
発想の訓練。
公式をただ覚えるな。
そんなことを言いながら、中学生には絶対解けないような問題を平然と出してくる。
だから、問題そのものはいつも通りだった。
問題だったのは、それを誰に向けたかだ。
竹原先生は、書き終えた直後、ほんの少しだけ手を止めた。
たぶん、思い出したのだ。
前回、悠が黒板で何をしたのかを。
しかも、悠はあの時すでに言っていた。
黒板面積と授業時間を考慮した、と。
つまり、悠は黒板の制約を理解している。
理解した上で、必要だと判断したものを、読める範囲で詰め込む。
さらに、夏休みの宿題に九十六枚も費やした悠である。
俺は先生の横顔を見て思った。
あ。
この人、今やってしまったって顔してる。
けれど、もう遅かった。
悠は席を立った。
黒板の前に立つ。
すぐには書かない。
まず、黒板全体を見る。
左端。
右端。
上の余白。
下の余白。
チョークの太さ。
書ける行数。
残り時間。
その視線の動きだけで、俺は嫌な予感を覚えた。
前と同じだ。
悠は、黒板の制約を分かっている。
分かっているからこそ、最初から全部を収めるつもりで配置する。
竹原先生も、同じものを感じ取ったらしい。
「紫月」
「何ですか」
「……普通に解け」
「普通に解きます」
悠は頷いた。
そして、黒板の左上に書き始めた。
字が小さい。
明らかに小さい。
だが、読めないわけではない。
読める範囲で、限界まで小さい。
「おい紫月、字が小さいぞ」
「黒板面積と授業時間を考慮しています」
「考慮した結果がそれか」
「はい」
「前より悪化してないか」
「改善です」
「どこがだ!」
悠は止まらない。
まず、普通の解答を書き始めた。
静かに。
速く。
無駄なく。
ただし、字は小さい。
黒板の左側に、後の証明と別解まで収まるよう、最初から配置されている。
「一解」
「一解、じゃない!」
竹原先生が叫んだ。
悠はその横に、別解、と書いた。
そして、その下に、ロピタルの定理、と書く。
竹原先生の眉が跳ねた。
「待て。授業で教えていない」
「はい」
悠は頷いた。
「そのため、使用前提を確認」
「確認しなくていい!」
「必要」
悠は、黒板に書く前に、口頭で前提を読み上げた。
「前提。実数の四則演算。等号の基本性質。分配法則。指数法則。極限の基本性質。関数の連続性。微分可能性。導関数の定義。合成関数の微分。商の微分」
「多い!」
「通常解で使用した前提。ユークリッド幾何学。円、弦、接線、正多角形の性質。三角関数の定義。加法定理。倍角公式。半角公式。基本極限」
「待て待て待て!」
竹原先生が止める。
「お前、それを全部証明する気か?」
「本来であれば必要です」
悠は淡々と言った。
「省略すると、どこまでを既知としてよいか不明。未証明の主張と、証明済みの変形の区別が困難なので」
竹原先生は一瞬、言葉に詰まった。
たぶん、自分でも分かっているのだ。
この問題を出した時点で、悠の理屈を完全には否定できないことに。
「……授業時間というものがある」
「理解しています」
「なら」
「ただし、授業時間の関係。また、この授業ではこれらを既知として扱うと定義されているため、非常に心苦しいですが省略します」
「心苦しいのか……」
「はい」
悠は黒板の端に、小さく書いた。
この黒板は、それを書くには狭すぎる。
「フェルマーみたいに言うな!」
竹原先生が叫んだ。
俺には何のことか分からなかった。
ただ、先生が何かに敗北したことだけは分かった。
しかし、それで終わるはずがなかった。
悠は、ようやく黒板の中央に戻った。
「次に、ロピタルの定理を使用するために必要な定理を証明します」
「結局やるのか!?」
「ロピタルの定理は、この授業では既知とされていません」
竹原先生は止めようとした。
だが、止める言葉が出なかった。
教えていない。
それは先生自身が言った。
ならば、使うなら証明する。
悠の中では、たぶんそれだけなのだ。
悠は、必要な定理のリストを書き始めた。
平均値の定理。
コーシーの平均値の定理。
零割る零型の不定形。
極限の存在条件。
分母の導関数が零でない条件。
関数の連続性と微分可能性。
文字は相変わらず小さい。
だが、行間も、式の位置も、すべて揃っている。
まるで黒板に印刷しているみたいだった。
「手書きでその密度を出すな……」
誰かが呟いた。
悠は止まらない。
まず平均値の定理の証明。
次にコーシーの平均値の定理の証明。
そこから、零割る零型に限定したロピタルの定理の証明。
チョークの音だけが教室に響く。
カツ。
カツ。
カツ。
黒板が、極小の文字で埋まっていく。
そはらは目を回していた。
俺は読むことを諦めた。
ニンフは窓の外を見たまま、ぼそっと言った。
「面倒なことしてるわね」
悠は振り返らずに答える。
「証明なしの使用は不適切」
「真面目」
「必要」
そして、満を持して、悠はロピタルの定理を使った別解を書き始めた。
先ほど普通に解いた問題を、別の道筋で解く。
導関数を取り、条件を確認し、極限を求める。
最後に、先ほどの答えと同じ値が、黒板の右下に収まった。
「同値」
悠は静かに言った。
黒板は、証明と別解で完全に埋まっていた。
しかも、余白がほとんど残っていない。
最初からそうなるように、文字の大きさも配置も決められていた。
竹原先生は、黒板を見上げたまま固まっている。
しばらくして、先生は深く息を吐いた。
「……紫月」
「はい」
「黒板で数学を再建するな」
「圧縮しています」
竹原先生の声には、疲労が滲んでいた。
教室の何人かが小さく笑った。
そはらも、困ったように笑っている。
ニンフは退屈そうに窓の外を見ていた。
イカロスは、黒板の内容を静かに記録しているようだった。
俺は机に突っ伏した。
もう帰りたい。
-----
四時間目、英語。
正直、もう何も起きないでほしかった。
社会。
家庭科。
数学。
特に数学。
あれの後に何か起きたら、俺の精神がもたない。
英語の先生は、黒板に単語を書いた。
water。
「では、イカロスさん。読んでみてください」
「water」
発音は、やけに綺麗だった。
英語の先生が少し驚く。
「上手ですね」
「ありがとうございます」
イカロスは普通に頭を下げた。
普通。
今のところ、普通だ。
「では、見月さん」
「は、はい!」
そはらが立ち上がる。
黒板を見る。
water。
そはらは真剣な顔で口を開いた。
「ウォルルォォタァァア~」
教室が静まり返った。
「そはら……」
「トモちゃん、今笑った?」
「笑ってない」
「笑ったよね?」
「笑ってないです」
ニンフは頬杖をついたまま、そはらを見ていた。
「……何よ、それ」
「ニンフちゃん!」
「別に。ちょっと変だっただけ」
「変って言った!」
「変でしょ」
そはらは赤くなって座った。
英語の先生は咳払いをする。
「ええと……water は、アメリカ英語とイギリス英語でも発音が少し違います」
その時、先生の視線が悠へ向いた。
「紫月くん、分かりますか?」
悠は立ち上がった。
「はい」
嫌な予感がした。
「簡単にでいいです」
「簡単に」
悠は少しだけ考えてから、英語で答えた。
「|In American English, the r sound is usually pronounced.《アメリカ英語では、母音の後のr音は通常発音されます》 |In British English, it is often not pronounced after a vowel.《イギリス英語では、母音の後では発音されないことが多いです》 |So water can sound different depending on the accent.《そのため、waterは発音体系によって異なって聞こえます》」
教室が止まった。
英語の先生は少しだけ固まったあと、頷いた。
「……正しいです」
悠は続ける。
「
「紫月くん」
「はい」
「そこまででいいです」
「了解」
悠は座った。
短かった。
かなり短かった。
たぶん、本人なりに圧縮したのだと思う。
だが、内容は全然中学英語ではなかった。
ニンフが頬杖をついたまま言う。
「発音くらいで大げさね」
「じゃあニンフ、読めるのか?」
「当たり前でしょ」
ニンフは黒板を見た。
「water」
普通に上手かった。
「何でみんな上手いんだよ!」
「言語処理」
悠が答える。
「聞いてない!」
そはらは机に突っ伏した。
「ウォルルォォタァァア~……」
「そはら、引きずるな」
こうして四時間目は終わった。
英語は、数学よりは平和だった。
たぶん。
比較対象がおかしいだけだと思う。