飛翔!!
昼休み。
俺は、もう机に突っ伏したかった。
一時間目、社会。
二時間目、家庭科。
三時間目、数学。
四時間目、英語。
午前だけで、俺の精神はかなり削られていた。
食堂に入ると、会長と守形先輩がいつものようにいた。
「どうだった、午前中の授業は?」
会長が楽しそうに聞いてくる。
「さんざんでしたよ。まあ、ニンフもイカロスも意外と優等生だったのには驚いたけど」
俺はため息をついた。
「それよりも悠がなぁ……」
数学の黒板を思い出す。
あれはもう、授業ではなかった。
黒板を使った数学再建だった。
「二人とも学校には馴染めたの?」
「少なくとも男子学生からは受け入れられたようだな」
守形先輩が窓の外を見る。
「見ろ」
視線の先には、イカロスとニンフがいた。
そして、その横に悠もいた。
三人の周りには、男子たちが群がっている。
「学校中、噂で持ちきりだもの。かわいい転校生が来たって」
「まじすか?」
確かに、イカロスとニンフは目立つ。
かわいい。
羽がある。
転校生。
その時点で騒がれないわけがない。
だが、問題はそこだけではなかった。
「エリュシオンちゃんって、ほんとに紫月なの?」
「ちゃん付けするな」
悠が淡々と答える。
「でも、かわいいし……」
「じゃあエリュシオンさん?」
「紫月悠」
「でもイカロスさんはエリュシオンって呼んでたよな?」
「識別名」
「じゃあエリュシオンちゃんで」
「だからちゃん付けするな」
同じやり取りが、淡々と繰り返されていた。
男子たちはなぜか楽しそうだった。
「悠まで巻き込まれてる……」
俺は頭を抱えた。
ニンフは頬杖をつきながら、集まった男子たちを睨んでいた。
「ちょっと? そこの
ニンフの一喝で、男子たちが一瞬静まる。
しかし、次の瞬間。
「いい! もっとしかってぇ~!」
「ありがとうございます!」
「虫でいいです!」
「駄目だこいつら!」
俺は叫んだ。
ニンフは本気で嫌そうな顔をしている。
イカロスは無表情。
悠は、男子たちの反応を観察するように見ていた。
「男子たち、叱られて喜んでる」
「分析するな!」
「異常嗜好?」
「口に出すな!」
会長は満足そうに微笑む。
「これで、変な虫もつかないだろう」
「もうついてますよ!」
「変な虫が、変な方向に喜んでいるだけだな」
守形先輩が冷静に言う。
「冷静に言わないでください!」
そう言えば、と俺は周囲を見る。
「見月は?」
「あそこにいますけど」
会長が指さした先。
そはらは、食堂の端の机に突っ伏していた。
「ほっといてください……」
完全に落ち込んでいる。
「まさか、優等生の二人と自分を比較して落ち込んでるとかぁ?」
会長が楽しそうに言う。
「はうぅ……」
「図星かよ!」
「あらぁ図星ぃ?」
会長はくすくす笑う。
「美香子、人が悪いぞ」
守形先輩が言う。
「だって本当のことだもの」
そはらはさらに小さくなる。
「だって……イカロスさんもニンフちゃんも、英語も数学もできるし……ユゥは黒板いっぱいに証明するし……」
「比較対象が悪い」
俺は即答した。
「そはら、あいつらと比べるな。人間の基準が壊れる」
「トモちゃん……」
「俺なんか問題の意味さえ分からなかったぞ」
「それはそれでどうなの……?」
「慰めてるんだよ!」
悠がこちらを見る。
「そはら」
「うん……?」
「普通の基準なら、そはらの成績はそこまで低くないと思う」
「ユゥ……」
「でも、比べる相手がイカロス、ニンフ、部長、会長、それとボクだと、低く見える」
「追い打ち!」
そはらがさらに小さくなる。
「慰めようとはしてるんだろうけど!」
「補足。家庭科の目玉焼きは、食用可能だった」
「そこ!?」
そはらは顔を上げる。
「食べられる?」
「うん」
「焦げてたけど?」
「焦げは少しだけ」
そはらは少しだけ救われた顔をした。
「ありがとう、ユゥ」
悠は一拍置いた。
「どういたしまして」
その返事は、少しだけ悠らしかった。
俺は少しだけ息を吐く。
その時、チャイムが鳴った。
昼休みの終わりを告げる音。
「さてと、午後の授業だ」
守形先輩が立ち上がる。
「えぇ……まだ授業あるの? もう飽きちゃったわ」
ニンフが露骨に嫌そうな顔をする。
「転校初日で飽きるな!」
「午前中だけで十分でしょ」
「十分じゃねえよ!」
ニンフはふと、イカロスの方を見た。
「あっ、ねぇアルファ?」
「何ですか」
ニンフがイカロスに何かを小声で吹き込む。
イカロスは少しだけ首を傾げた。
それから、ポケットから何かを取り出したように見えた。
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「今日は……空の飛び方について……勉強します……」
「理科じゃねぇ!」
「理科です」
「どこが!?」
「重力、揚力、推進力、姿勢制御」
「急にそれっぽくするな!」
イカロスは黒板の前で、スイカを抱えたまま淡々と言った。
「ではさっそく、誰かに飛んでもらいましょう」
「誰かって誰だよオォイ!!」
俺がそう言った瞬間だった。
右腕を、がしりと掴まれた。
「む」
守形先輩だった。
そして左腕も、すぐに掴まれる。
「あらあら」
会長だった。
「お前ら、何で俺を掴むんだよ!」
「桜井、実験対象としては妥当だ」
「どこが!?」
「逃げ足が速い」
「飛行実験と関係ねぇ!」
会長はにこにこと笑っている。
「桜井君なら、きっと面白い結果になるわ」
「結果で遊ぶな!」
「大丈夫。骨は拾ってあげるから」
「拾う前提で進めるな!」
俺は必死にもがく。
だが、右から守形先輩。
左から会長。
逃げられるわけがない。
「離せ! お前らその手を離せ――ッ!!」
その時、悠がこちらを見た。
最初はただ観察しているだけだった。
けれど、俺と目が合った瞬間、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
嫌な予感がした。
とても嫌な予感がした。
「悠」
「何?」
「今、笑ったよな?」
「実験条件が整った」
「笑った理由になってねぇ!」
悠はポケットからカードを取り出した。
「待て」
「飛行補助を付与する」
「待てって言ってるだろ!」
「半透明の羽。飛行制御情報。短時間限定」
「何を当然みたいに言ってんだ!」
守形先輩が頷く。
「フム。制御情報を直接与えるなら、初回飛行でも墜落リスクは下がるな」
「分析してないで止めろ!」
会長は楽しそうに俺の腕を押さえ直した。
「よかったわね、桜井君。安全になったわ」
「まず飛ばさなければ安全なんですよ!」
悠はカードを掲げた。
「飛行補助、短時間限定。身体損傷を避けるよう補正」
「その補正が必要なことをするな!」
カードが淡く光る。
次の瞬間、背中がぞわりとした。
痛みはない。
だが、何かが生えた感覚がある。
恐る恐る振り返ると、俺の背中から半透明の羽が出ていた。
「生えたあああああ!!」
さらに、頭の中へ何かが流れ込んでくる。
羽の動かし方。
重心の取り方。
上昇。
下降。
旋回。
停止。
「脳に何か入ってくるうううう!」
「操作説明を省略」
「省略するな! むしろ説明しろ!」
悠は満足そうに頷いた。
「飛行可能」
「可能にするな!」
イカロスが一歩前へ出る。
「マスター、第一段階。浮上」
「嫌だ!」
「開始してください」
守形先輩と会長が、同時に俺の腕を離した。
「離すな! いや離せって言ったけど今じゃない!」
次の瞬間、俺の身体がふわりと浮いた。
いや。
浮かせてしまった。
「浮いたあああああ!」
教室中から声が上がる。
「桜井が浮いた!」
「羽、生えてる!」
「半透明だ!」
「これ理科?」
「違う! 絶対違う!」
俺は空中で手足をばたつかせる。
だが、頭にぶち込まれた飛行制御情報のせいで、どうすれば姿勢が崩れないのか分かってしまう。
羽を少し動かす。
重心をずらす。
肩に力を入れすぎない。
考える前に、やり方が分かる。
嫌なのに、安定する。
怖いのに、飛べる。
「何で飛べてんだ俺!」
「制御情報の定着を確認」
悠が淡々と言う。
「確認するな!」
会長が下から手を振った。
「桜井君、なかなか似合ってるわよ」
「嬉しくねぇ!」
守形先輩はすでにノートを開いていた。
「人間への一時的飛行機能付与。興味深い」
「俺を研究対象にするな!」
イカロスは黒板を指した。
「第二段階。水平移動」
「やめろ!」
「マスター、前方へ移動してください」
「しない!」
しない。
しないつもりだった。
だが、空中で止まっている方が怖い。
バランスを崩しそうになる。
反射的に羽を動かす。
すると、俺の身体が教室の上を滑るように動いた。
窓際へ。
黒板前へ。
教室の後ろへ。
そしてまた中央へ。
「動いた! 俺が動かした! 今の俺が動かしたのか!?」
「はい」
イカロスが頷く。
「マスターによる操作です」
「言うな! 認めたくねえ!」
「停止してください」
「止まり方は!?」
「停止情報は送信済み」
悠が言う。
「使い方が分からねぇ!」
「脳内にある」
「あるのと使えるのは別だ!」
俺は必死に頭の中の情報を探る。
停止。
減速。
羽の角度。
重心。
「こうか!?」
身体がぴたりと止まった。
「止まれたあああ!」
教室中から拍手が起きた。
「拍手するな!」
イカロスは静かに頷いた。
「第三段階。屋外飛行」
「その段階いらない!」
窓が開いた。
風が入る。
俺は空中で固まった。
「待て。そこは本当に待て」
イカロスは俺を見る。
「マスター。外へ」
「外へ、じゃねぇ!」
悠が小さく頷いた。
「実験範囲の拡張」
「お前、完全に楽しんでるだろ!」
悠は少しだけ考えた。
「否定は困難」
「認めるな!」
外へ出る気はなかった。
本当になかった。
だが、窓から入ってくる風で身体が揺れる。
高度が少し落ちる。
床が近づく。
「うわっ、落ちる!」
落ちたくない。
それだけを考えた瞬間、背中の羽が動いた。
身体が持ち上がる。
勢いがつく。
そのまま、俺は窓の外へ飛び出した。
「うわああああああああああ!」
校舎の外。
空。
風。
地面。
俺は飛んでいた。
飛ばされているわけではない。
悔しいことに、自分で飛んでいた。
半透明の羽が背中で動き、俺の操作で空中姿勢を保っている。
「飛んでる! 飛んでるけど嬉しくない!」
教室の窓から、イカロスが見ている。
「マスター、旋回してください」
「しない!」
しないつもりだった。
けれど、教室に戻るには、向きを変えるしかない。
分かってしまう。
どう動かせばいいのかも。
「くそっ!」
俺は羽を動かす。
動かしたくないのに、動かし方は分かる。
頭の中にある旋回の情報を、嫌々なぞる。
身体が大きく弧を描いた。
「旋回できたああああ!」
悠は窓際に立ち、平然と観察していた。
「智樹、思ったより飛べてる」
「褒めるな!」
会長は笑っている。
守形先輩は記録している。
イカロスは授業を進めている。
俺だけが、空を飛んでいた。
飛ばされていたのではない。
自分で飛んでいた。
だからこそ余計に腹立たしかった。
しばらくして、俺はようやく教室へ戻った。
着地は、とても綺麗だった。
綺麗だったのが腹立たしい。
「桜井」
守形先輩がノートを閉じる。
「何ですか……」
「今日中に、飛行時の感覚をレポートにまとめて提出しろ」
「何で俺が!?」
「被験者本人の主観記録は重要だ」
「だから被験者にするなって言ってるんですよ!」
その時、悠が横から言った。
「羽は、今日いっぱい残る予定」
教室が一瞬だけ静かになった。
「今なんて言った!?」
「今日が終わるまでは、飛行補助も残る」
「解除しろ!」
「解除予定時刻、日付変更時」
「長ぇよ!」
守形先輩のペンが、再び動き出した。
「フム……さらなる実験が可能だな」
「可能にするなああああ!」
会長が楽しそうに笑う。
「よかったわね、桜井君。レポートの内容が増えるわ」
「よくないです!」
チャイムが鳴った。
五時間目の理科は、元素記号にも化学式にも一切触れないまま終わった。