謝礼!!
理科の授業後。
廊下は、妙に騒がしかった。
理由は分かっている。
トモキの背中に、半透明の羽が残っているからだ。
シグマいわく、本日中は残存予定。
スガタはさらなる実験を検討。
会長は楽しそう。
トモキは当然キレていた。
「ふざけんな! 何で今日中残るんだよ!」
遠くからでも声が聞こえる。
ニンフは少し離れた場所から、その様子を見ていた。
半透明とはいえ、羽はかなり目立つ。
光を拾う。
輪郭が残る。
人間の目でも、十分見える。
廊下に出た瞬間、周りの生徒たちが集まってきた。
「桜井、羽生えてるぞ」
「理科で何があったんだよ」
「飛べるの?」
「飛んで」
「飛んでみて」
トモキは完全に逃げ場を失っていた。
「飛ばねえ! 飛ばされたんだよ!」
「じゃあ飛べるんじゃん」
「そういう問題じゃねえ!」
うるさい。
ニンフは眉をひそめた。
トモキもうるさい。
周りも、うるさい。
それに、あの羽が目立てば面倒が増える。
またアルファが動く。
シグマも何か言い出す。
スガタは実験と言い出す。
会長は笑う。
結果、もっと面倒になる。
つまり、邪魔だった。
それだけだ。
ニンフはため息をついて、トモキの方へ歩いた。
「邪魔」
「誰が!?」
「あんたの羽。廊下で目立ちすぎ」
「俺だって好きで生やしてるんじゃねえよ!」
トモキが文句を言う前に、ニンフは羽を見る。
半透明。
ただし、輪郭の反射が強い。
動くたびに空気の揺らぎも出る。
完全に消す必要はない。
人間の視覚に引っかからない程度に誤魔化せばいい。
「光学的には半透明。でも反射と輪郭が強い。人間の視界なら簡単に誤魔化せるわね」
「おい、何する気だ」
「見えにくくするだけよ。記憶はいじらない」
そこで、トモキが少し止まった。
「……記憶は?」
ニンフは、少しだけ苛立った。
そんな顔をされるのは、分かっていた。
分かっていたから、先に言ったのだ。
「いじらないって言ってるでしょ。私だって、あんたがそういうの嫌がるくらい分かってるわよ」
トモキは言葉に詰まった。
ニンフはそれ以上見ない。
指先を軽く動かす。
羽の反射を抑える。
輪郭をぼかす。
周囲の光に溶けるように、視認性だけを下げる。
トモキ本人と、エンジェロイドなら見える。
けれど、普通の人間にはほとんど見えない。
その程度で十分だった。
周りの生徒たちが首を傾げる。
「あれ?」
「羽、消えた?」
「今なんか見えてたよな?」
「気のせいじゃね?」
騒ぎが少しずつ引いていく。
トモキは自分の背中を振り返った。
「お、消えたのか?」
「見えにくくしただけ。物理的には残ってるわよ」
「物理的には?」
その直後。
トモキの羽が、廊下の壁にぶつかった。
「痛っ……ていうか、見えないだけで邪魔じゃねえか!」
「そこまで面倒見られないわよ」
「最後まで面倒見ろ!」
「嫌よ」
それでも、騒ぎは収まった。
周囲の視線は減った。
トモキは不満そうにしながらも、少しだけ肩の力を抜いた。
そして、小さく言った。
「……助かった。ありがとな」
ニンフはそっぽを向く。
「別に。目障りだっただけ」
「それでも助かった」
「うるさい」
それ以上言われると、どう返せばいいか分からない。
――『ありがとう』って言葉は――
私が言う言葉じゃ、なかったっけ。
私が言われる言葉じゃなくて――
私が言う言葉じゃ……なかったっけ。
「……ほんと、うるさい」
ニンフは早足で廊下を進んだ。
ほんの少しだけ、羽が揺れた。
自分では、気づかないふりをした。
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放課後。
トモキは、商店街の小さな店に寄ってから家に戻った。
買ったのは、プリンだった。
特別高いものではない。
でも、少しだけいいやつだ。
縁側では、ニンフがテレビを見ていた。
正確には、見ているふりをしていた。
画面の中では、女が泣いていた。
男が何か言っている。
たぶん大事な場面なのだろう。
けれど、内容はあまり頭に入ってこなかった。
昼間のことが、少しだけ引っかかっていた。
見えにくくしただけ。
記憶はいじっていない。
トモキが嫌がることはしていない。
ただ、それだけ。
目障りだったから消した。
騒がしいのが嫌だったから、静かにした。
それだけのはずだった。
「ニンフ」
声をかけられて、ニンフは面倒くさそうに振り向いた。
「何よ」
トモキが立っていた。
手には、小さな袋。
また何か変なものでも持ってきたのかと思った。
トモキは袋から何かを取り出し、ニンフの前に置く。
プリンだった。
「これ」
「……何?」
「礼」
ニンフは眉をひそめる。
「礼?」
「今日、羽を見えにくくしてくれただろ」
「ああ、あれ」
ニンフはそっぽを向いた。
「別に。目障りだっただけよ」
「それでも助かった」
トモキは少しだけ頭を下げた。
「ありがとな」
惑わされるな。
惑わされるな。
私はエンジェロイド。
この首の鎖がある限り、マスターには逆らえない。
けれど、その機能は今、シグマのせいで止められている。
だから、私はここにいる。
命令が止まっているから。
それだけのはずだ。
視線が、勝手にプリンへ落ちる。
それから、トモキを見る。
またプリンを見る。
特別高そうなものではない。
けれど、少しだけいいやつに見えた。
わざわざ買ってきたのだろう。
その事実が、妙に落ち着かなかった。
「……こんなので懐柔されないわよ」
「懐柔じゃねえよ。礼だって」
「同じでしょ」
「違う」
「ふん」
ニンフはそう言いながら、プリンを手に取った。
手に取ってから、少しだけ後悔する。
嬉しそうに見えただろうか。
見えていないはず。
たぶん。
「食べるのか?」
「くれるんでしょ」
「まあな」
「じゃあ食べるわよ」
ニンフはスプーンを刺し、一口食べた。
甘い。
冷たくて、柔らかい。
思っていたより、ずっとおいしかった。
「……おいしい」
声が出た。
小さく。
本当に小さく。
ニンフはすぐに咳払いした。
「まあ、悪くないわね」
トモキは、少しだけ安心したような顔をした。
「そりゃよかった」
その顔がまた、落ち着かない。
「勘違いしないでよ。次も助けるとは言ってないから」
「ああ」
トモキは頷く。
「でも、今日のは助かった。ありがとな」
二度目。
また礼を言われた。
ニンフはプリンを見下ろしたまま、少しだけ黙る。
一度なら流せた。
でも、二度言われると、流し方が分からない。
トモキは一体、何を考えている。
こいつは
見下ろして、踏み潰すだけの存在だ。
そんな下等生物に優しくされたからって、何だっていうのよ。
何だって。
何だって……いうのよ……
「……うるさい!」
気づけば、ニンフはスプーンですくったプリンをトモキに投げつけていた。
べちゃり、と音がする。
「うわっ!? 何すんだよ!」
「うるさいって言ったの!」
「礼を言っただけだろ!?」
「それがうるさいのよ!」
ニンフはトモキから顔を逸らし、残ったプリンをもう一口食べた。
甘い。
やっぱり、おいしい。
それが余計に腹立たしかった。
羽が、少しだけ揺れた。
気づかれないように、テレビの音量を少し上げた。
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数日後。
トモキの背中から羽は消えていた。
消えた。
はずだった。
昼休みの教室が、少しだけ騒がしくなる。
「桜井、これお前じゃね?」
クラスメイトの一人が、携帯をトモキに見せていた。
ニンフは少し離れた席から、その様子を見ていた。
画面には、校舎の外を飛ぶトモキが映っている。
半透明の羽を生やして。
全力で叫びながら。
「違う」
トモキは即答した。
「いや、どう見ても桜井だろ」
「違う」
「この叫び声も桜井だろ」
「違う!」
かなり無理がある。
ニンフはそう思った。
そもそも、声も顔も動きもトモキそのものだ。
否定で押し切れる映像ではない。
トモキは頭を抱えていた。
終わった、という顔をしている。
大げさ。
そう思った。
けれど、あの映像が広まれば、面倒なことになるのは分かる。
トモキが騒ぐ。
クラスが騒ぐ。
学校中が騒ぐ。
アルファが反応する。
シグマが何か対処を始める。
スガタは記録を増やす。
会長は笑う。
つまり、面倒だった。
ニンフはため息をついて、後ろから画面を覗き込んだ。
「何よ。うるさいわね」
「うるさいのは俺じゃねえ! 俺の人生が終わりそうなんだよ!」
「大げさね」
ニンフは画面を見る。
一秒。
「……ああ、これ」
「見覚えある反応するな!」
「残ってたのね」
「何が!?」
「校内端末と防犯カメラの記録。あと、生徒の携帯に転送された映像」
トモキが固まった。
本当に、分かりやすい。
「消せるのか?」
ニンフは眉をひそめる。
その言い方だと、何でもかんでも消せると思われているみたいで気に入らない。
「記憶はいじらないわよ」
「そこは分かってる」
トモキは即答した。
その返事に、ニンフは少しだけ黙った。
前なら、まずそこを疑われたかもしれない。
いや、今でも警戒はされているのだろう。
でも、トモキは分かっていると言った。
「なら何よ」
「映像だけなら?」
ニンフは少しだけ考える。
映像データ。
校内端末。
防犯カメラ。
携帯へ転送された複製。
外部に出た分は、完全には追えない。
けれど、今見えている範囲ならどうにでもなる。
「……別に、できなくはないわ」
「本当か!?」
「騒がしいのが嫌なだけよ」
ニンフはそう言って、携帯にちょこんと触れた。
携帯の画面が一瞬だけ揺れる。
次の瞬間、動画は真っ黒になっていた。
「え? あれ?」
クラスメイトが画面を叩く。
「壊れた?」
「壊れてないわよ」
ニンフは面倒くさそうに言った。
「映像データが飛んだだけ」
「それを壊れたって言うんじゃないのか!?」
「言わない」
ニンフは頬杖をつく。
ついでに、校内端末の記録を消した。
防犯カメラの保存領域も上書きした。
転送履歴を追跡して、見つけられる範囲の複製も潰した。
人間の記憶には触らない。
見たことを忘れさせるわけではない。
ただ、騒ぎが広がる材料を消すだけ。
記憶を消したわけじゃない。
証拠を消しただけ。
だから、これは違う。
「ついでに、校内の記録も潰したわ。外に出てた分は、見つけた範囲だけ」
「……」
トモキが、しばらくニンフを見ていた。
その視線が少し落ち着かない。
「何よ」
「いや」
トモキは少しだけ息を吐いた。
「助かった」
「別に。あんなのが広まったら、こっちまで面倒になるでしょ」
「それでも助かった」
トモキは、今度ははっきりと言った。
「ありがとな、ニンフ」
まただ。
また、礼を言われた。
ニンフは少しだけ視線を逸らす。
前なら、たぶん投げ返していた。
うるさいと怒鳴って、何でもないふりをして、全部なかったことにしていた。
でも、今は少しだけ違った。
プリンの時みたいに、胸の奥がざわつく。
ただ、そのざわつきが、前ほど嫌ではなかった。
「……何度も言わなくていいわよ」
「前のプリンの分とは別だ」
「別にしなくていい!」
「でも、助かったからな」
「うるさい」
ニンフは机に顔を向けたまま、ぽつりと言った。
「次、変なもの生やしたら自分で隠しなさいよ」
「俺が生やしたんじゃねえ!」
「知らないわよ」
そう言いながら、ニンフの羽が少しだけ揺れた。
怒っているようで。
たぶん、そうでもなかった。
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その日の帰り。
トモキは、また商店街に寄った。
前みたいにプリンを買うだけなら簡単だった。
けれど、今回は少し違う気がした。
ニンフは、食べ物を渡せばたぶん喜ぶ。
ケーキならなおさらだ。
でも、さっき助けてくれたのは、ただ甘いものが欲しかったからではない。
たぶん。
たぶん、だが。
だからトモキは、商店街のリサイクルショップで見つけた小さな携帯テレビを買った。
箱はない。
説明書もない。
少し古い。
アンテナを伸ばさないと映りが悪いらしい。
でも、録画機能はついていた。
正直、細かいことはよく分からない。
値段は、トモキの財布にはかなり痛かった。
かなり痛かったが。
今日の礼としては、たぶんこれが一番いい気がした。
昼ドラを見るくらいなら、使えるはずだった。
家に戻ると、ニンフは縁側で退屈そうにしていた。
テレビはついていない。
昼ドラの時間ではなかったからだ。
それでも、何となく縁側に座っていた。
何をするでもなく。
ただ、暇だった。
そこへ、トモキがやって来る。
「ニンフ」
「何よ」
ニンフは面倒くさそうに顔を上げた。
トモキは、小さな袋を差し出す。
「これ」
「……また?」
「礼」
ニンフは眉をひそめた。
「今度は何?」
「開けてみろ」
ニンフは警戒するように袋を受け取った。
また食べ物だろうか。
そう思った。
プリンなら悪くない。
ケーキなら、まあ、少しは評価してもいい。
そんなことを考えながら中を見る。
そして、少しだけ目を丸くした。
「小型テレビ?」
「録画もできるらしい」
「……」
「昼ドラ、見てるだろ」
ニンフはすぐに顔を逸らした。
「別に、毎日見てるわけじゃないわよ」
「見てるだろ」
「たまたまよ」
「録画もできるぞ」
「……」
ニンフは、小型テレビを袋から取り出した。
少し古い。
新品ではない。
箱もない。
けれど、手の中に収まるその画面を見て、すぐに分かった。
トモキは、ニンフが昼ドラを見ていることを覚えていた。
ただ甘いものを買ってきたわけではない。
適当に礼を済ませようとしたわけでもない。
ニンフが使うものを考えて、これを選んできた。
それが、妙に落ち着かなかった。
ニンフは指先で画面をなぞる。
さっきまでの不機嫌な顔が、少しだけ緩みそうになる。
慌てて、口元に力を入れた。
「中古だけどな」
「別に、そこはいいわよ」
「助かったからさ」
トモキは少しだけ頭を下げた。
「ありがとな」
ニンフは黙った。
礼を言われるのは、まだ慣れない。
まして、物まで渡されると、どう返せばいいのか分からない。
「……何度も言わなくていいって言ったでしょ」
「前の礼とは別だ」
「別にしなくていいの」
「でも助かった」
「うるさい」
ニンフは小型テレビを抱え直した。
少しだけ、大事そうに。
そのつもりはなかった。
ただ、落としたら困ると思っただけ。
そういうことにしておいた。
「……使えなかったら文句言うから」
「ああ」
「録画、ちゃんとできるんでしょうね」
「たぶん」
「たぶんって何よ」
「俺もよく分かんねえんだよ」
ニンフは呆れたようにため息をついた。
けれど、すぐに電源を入れた。
画面が光る。
少し砂嵐が混じったあと、ぼんやりと映像が出た。
ニンフの羽が、ほんの少しだけ揺れる。
「……まあ、悪くないわね」
思ったより、声が柔らかくなった。
ニンフは慌てて画面へ視線を落とす。
嬉しいわけではない。
ただ、使えそうだと思っただけ。
そういうことにしておいた。
腕の中の小型テレビを、少しだけ強く抱え直した。
「……ありがと」
聞こえないくらい、小さな声だった。
トモキには、たぶん届いていない。
それでいい。
ニンフは画面へ視線を戻す。
羽が、もう一度だけ小さく揺れた。