襲来!!
ニンフは、商店街の上空を飛んでいた。
手には、小さな袋がある。
中に入っているのは、携帯テレビ用の予備電池と、録画用の小さな記録媒体。
別に、昼ドラを楽しみにしているわけではない。
録画に失敗すると不愉快なだけだ。
そういうことにしておいた。
「まったく、面倒ね」
ニンフは小さく呟く。
商店街を抜け、人気の少ない建物の上を通る。
夕方の風が、羽を揺らした。
その時、ニンフはわずかに視線を動かした。
少し離れた上空。
白い羽が見えた気がした。
さらに別方向。
建物の影に紛れるような高度に、紫の光が一瞬だけ揺れる。
「……過保護なのよ」
ニンフは聞こえないくらい小さく言った。
アルファとシグマ。
最近、あの二人はニンフを完全には一人にしない。
学校へ行く時も。
帰る時も。
こうして買い物へ出る時も。
少し距離を置きながら、必ずどちらかがいる。
鬱陶しい。
そう思う。
思うのに。
完全に嫌ではないのが、さらに鬱陶しかった。
「別に、頼んでないっていうのに」
そう言って、ニンフは前を向いた。
その時だった。
風が変わった。
ニンフは空中で止まる。
反射的に周囲を走査する。
通信。
熱源。
飛行音。
空気の乱れ。
そして、すぐに気づいた。
こちらへ近づく影がある。
速い。
戦闘用。
それも、地上のものではない。
「……何よ」
ニンフは袋を抱え直し、顔を上げた。
次の瞬間、二つの影が上空から降りてくる。
鋭い翼。
細い身体。
こちらを見下ろす、笑っているような目。
ガンマだった。
「久しぶりね、タイプベータ」
その声に、ニンフの表情がわずかに強張る。
「……ガンマ」
「探したわよ」
「わざわざ地上まで?」
「ええ」
ガンマの一体が、楽しそうに笑った。
「迎えに来たの」
ニンフは鼻で笑う。
「迎え?」
「そう。確認とも言うけど」
もう一体が、ニンフを上から下まで見る。
「壊れたのか、裏切ったのか」
「ずいぶんな言い方ね」
「事実でしょ?」
ニンフは答えなかった。
代わりに、周囲の通信を探る。
ミーノースからの直接命令。
遠隔接続。
拘束信号。
それらしいものは、まだない。
だが、ガンマの片方が持っている小さな装置が気になった。
見覚えのない形。
けれど、嫌な感じがする。
「それ、何?」
ニンフが聞くと、ガンマは笑みを深めた。
「気づくんだ」
「当たり前でしょ」
「タイプベータ用だって」
その言葉に、ニンフの目が細くなる。
「……ガンマが作ったものじゃないわね」
「ええ。私たちは使うだけ」
「雑ね」
「でも、効けばいい」
ガンマは装置を軽く振った。
「戻ってきなさい、タイプベータ」
ニンフは何も言わない。
「命令が届きにくくなってるだけでしょ?」
「……」
「地上人に何かされた?」
「……」
「それとも、あの可変ウィングのせい?」
ニンフの眉が動く。
ガンマはそれを見逃さなかった。
「図星?」
「うるさいわね」
「戻れば壊されないわ」
「壊すつもりだったんじゃない」
「命令次第よ」
あまりにも軽い言い方だった。
けれど、それがシナプス側の普通だった。
命令なら戻す。
戻らなければ壊す。
それだけ。
ニンフは、いつの間にか強く袋を握っていた。
中の箱が少し潰れる音がする。
「戻る場所なんてないわよ」
ガンマの笑みが消えた。
「何それ」
「私は、もうあんたたちの命令で動いてない」
「だから壊れたの?」
「違う」
ニンフは睨み返す。
「私は私で判断してるだけよ」
言ってから、自分で少し驚いた。
そんな言葉が出るとは思っていなかった。
判断。
自分で。
ガンマたちは、一瞬だけ黙った。
それから、つまらなそうに言った。
「じゃあ、やっぱり裏切りね」
「好きに言えば」
「タイプベータ」
ガンマの声が低くなる。
「あなた、戦えないでしょ」
次の瞬間、ガンマが動いた。
速かった。
ニンフは反応した。
視界の端。
下から回り込む軌道。
「っ――」
腹部に衝撃が走る。
ガンマの蹴りが、ニンフの身体を下から跳ね上げた。
一瞬、羽の制御が乱れる。
「しまっ――」
体勢を立て直す前に、もう一体のガンマが上から回り込んでいた。
踵が、ニンフの背中を捉える。
「がっ……!」
ニンフの身体が、今度こそ空から落ちた。
建物の屋上に叩きつけられ、数メートル転がる。
袋が手から離れ、中身が床に散らばる。
小型の電池。
記録媒体。
昼ドラの録画に使うはずだったもの。
ニンフは咳き込みながら、身体を起こそうとした。
「ほら」
ガンマが空中から見下ろす。
「近づけば、どうにでもなる」
ニンフは歯を食いしばる。
「……うるさい」
「電子戦なら強いんでしょうけど」
もう一体が、例の装置を起動する。
空気に、嫌なノイズが混じった。
「これ、使うわね」
「っ……!」
ニンフは即座に解析を始めた。
対タイプベータ用の拘束コード。
通信経路への割り込み。
命令系統の再接続。
雑だ。
構造は雑。
でも、マスター製。
こちらの仕様を知った上で作られている。
破れる。
破れるが、数秒はかかる。
その数秒が、戦闘では致命的だった。
「こんな雑なコードで……!」
ニンフは片膝をつきながら、歯を食いしばる。
「私を縛れると思ってるの……!」
「縛るだけでいいのよ」
ガンマが高度を下げる。
「その間に壊せるもの」
その瞬間。
ニンフの前に、白い羽が降りた。
見覚えのある背中だった。
鬱陶しいほど、いつも近くにいた背中。
アルファが、ニンフとガンマの間に立っていた。
その表情はいつもと変わらない。
けれど、背中の翼がすでに展開している。
「対象ニンフへの攻撃を確認」
静かな声だった。
「戦闘行動と判断」
ガンマの一体が、舌打ちする。
「タイプアルファ……」
そして、屋上の端に紫の光が落ちる。
見なくても分かった。
買い物へ出る時も、少し離れてついてきていた気配。
シグマが、そこに立っていた。
羽を広げ、首筋の発光環を静かに回している。
「対象ニンフ、生存確認」
ニンフは顔を上げる。
「ちょっと……」
声が掠れた。
「誰が助けてって言ったのよ」
シグマはニンフを見ずに答える。
「救援要請の有無は不要」
「何よ、それ」
「破壊されると困る」
「言い方!」
ニンフは怒鳴ろうとして、咳き込んだ。
その間にも、シグマは拘束コードへ干渉している。
「外部命令系統。ミーノース製拘束コード」
指先が淡く光る。
「遮断可能」
「勝手に私の領域に入らないでよ!」
「処理遅延を確認」
「うるさい!」
それでも、拘束コードのノイズは薄れていく。
ニンフは悔しそうに顔を歪めた。
自分だけで破れた。
時間さえあれば。
でも、その時間を作ったのは、アルファとシグマだった。
ガンマたちの動きが、わずかに止まった。
さっきまでの余裕が、消えている。
ニンフ一人なら、拘束して、そのまま壊すつもりだったのだろう。
けれど、今はアルファがいる。
シグマもいる。
ガンマたちは、明らかに判断を迷っていた。
「タイプベータ」
ガンマの一体が言う。
「本当に、そっちにいるの?」
ニンフは答えない。
答えられない。
「地上人のところに?」
「……」
「命令もないのに?」
ニンフは唇を噛む。
その問いは、ニンフ自身もまだ答えを持っていないものだった。
だが。
アルファが一歩前に出た。
「ニンフへの再攻撃は許可しません」
「誰の許可よ」
ガンマが笑う。
アルファは答える。
「マスター周辺の保護対象です」
「保護対象?」
ガンマの笑みが、歪む。
「タイプベータが?」
シグマが続ける。
「現時点で、対象ニンフは地上側環境に適応中」
「適応?」
「破壊は不利益」
「だから言い方!」
ニンフが叫ぶ。
けれど、その声にはさっきより少しだけ力が戻っていた。
ガンマたちは顔を見合わせる。
任務継続。
ニンフの回収。
または破壊。
だが、タイプアルファとシグマを同時に相手にするには、情報が足りない。
その上、タイプベータの拘束コードも遮断されつつある。
「……今回は、確認だけで十分ね」
「逃げるの?」
ニンフが睨む。
ガンマは笑った。
「情報を持ち帰るだけよ」
もう一体が続ける。
「タイプベータの離反傾向を確認」
「タイプシグマの介入を確認」
「タイプアルファの保護行動を確認」
シグマの発光環が回る。
「撤退判断と推定」
「ええ」
ガンマは上昇する。
「次は、確認だけじゃ済まないわよ」
ニンフは何も言わない。
言い返したかった。
だが、言葉が出なかった。
ガンマは空へ消えていく。
しばらくして、屋上には風だけが残った。
アルファはニンフを見る。
「損傷確認」
「触らないで」
ニンフは手を払う。
だが、立ち上がろうとして少しよろめいた。
アルファが手を伸ばす。
ニンフはその手を見た。
取らない。
でも、払いもしなかった。
シグマは散らばった袋の中身を拾い上げる。
潰れた箱。
予備電池。
記録媒体。
「記録媒体、外装変形。内部損傷は軽微」
「……それ、返して」
シグマはニンフへ差し出す。
ニンフは乱暴に受け取った。
「別に、助けてほしいなんて言ってないから」
「言わなくてよい」
シグマは淡々と返す。
「必要なら介入する」
「必要って何よ」
「ニンフが破壊されると、智樹が困る」
ニンフは黙った。
その名前を出されると、言い返しにくかった。
アルファも静かに言う。
「マスターは、ニンフの破壊を望みません」
「……勝手に決めないでよ」
声は小さかった。
けれど、さっきよりずっと弱かった。
遠くで、夕方のチャイムが鳴る。
ニンフは握りしめた袋を見下ろした。
少し潰れた箱。
買い直さなくて済む程度の傷。
それを見て、なぜか少しだけ胸がざわついた。
戻る場所なんてない。
そう言った。
けれど。
少なくとも、帰る場所はできてしまっているのかもしれない。
ニンフはそれを認めるのが嫌で、そっぽを向いた。
「……帰るわよ」
アルファが頷く。
「はい」
シグマも頷く。
「帰投」
「その言い方やめて」
「帰る」
「最初からそれでいいのよ」
三人は、夕方の空へ飛び上がった。
ニンフは先頭を飛ばなかった。
かといって、後ろにも下がらなかった。
アルファとシグマの少し前。
振り返れば、二人がいる距離。
それが妙に落ち着かない。
でも、今日はそれでいい気がした。