智子は、自分の部屋の前で立ち止まった。
いや、正確には、元の自分の部屋の前だった。
「……」
「トモちゃん?」
そはらが心配そうに声をかける。
「大丈夫?」
「分かんない」
智子は真面目に答えた。
「元の私の生活の跡を見るの、ちょっと怖い」
「自分の部屋なのに?」
ニンフが呆れたように言う。
智子は小さく頷いた。
「今の私から見ると、元の私はあんまり信用できない」
「そこまで言うのね」
「事実だと思う」
悠が横で頷く。
「変換前の智樹は、行動目的に問題があった」
「ユゥ、追い打ちしないで」
「確認」
「確認しなくていいから」
智子は一度、深呼吸をした。
それから、襖に手をかける。
「開けるね」
「そんな重大発表みたいに言わなくても……」
そはらが苦笑した。
襖が開く。
部屋の中は、いつもの智樹の部屋だった。
漫画。
ゲーム。
読みかけの雑誌。
脱ぎっぱなしの服。
机の上に雑に積まれたプリント。
適当に放り出された鞄。
布団は畳まれていない。
思ったより普通。
いや、普通に散らかっていた。
智子は無言で部屋を見た。
しばらく何も言わない。
そはらが恐る恐る聞く。
「トモちゃん?」
智子は静かに口を開いた。
「……最――低!!」
「自分の部屋に!?」
ニンフが思わず声を出した。
智子は部屋へ一歩入る。
床に落ちていた服を拾い、少しだけ眉を寄せた。
「洗濯物を床に置くのは、よくないと思う」
「怒る場所そこなんだ……」
「元の私は、なんでこれを放置したんだろ」
「自分に聞いてる……」
智子は深く息を吐いた。
「片付ける」
「そこから!?」
「見過ごせない」
「トモちゃんが部屋を片付けようとしてる……」
智子は机の上を見る。
宿題のプリント。
落書き。
よく分からないメモ。
その端に、銭湯と書かれた紙があった。
さらにその横に、女湯、カード、作戦、という単語が並んでいる。
智子はそれを見た。
そっと紙を裏返した。
「……最低」
「また自分に言った」
そはらが小さく呟く。
ニンフは腕を組んで笑う。
「元のトモキ、信用されてないわね」
「信用できる要素が少ないかな」
「本人が一番厳しいじゃない」
智子は机の上を整え始めた。
プリントを揃える。
漫画を積み直す。
服を洗濯物としてまとめる。
動きは妙に手際が良かった。
そはらはそれを見ながら、複雑そうな顔をする。
「トモちゃんが部屋を片付けてる……」
「異常事態?」
悠が聞く。
「かなり」
「記録する」
「しなくていいよ」
イカロスは智子の様子を見ていた。
「マスターの行動効率が向上しています」
「イカロスさんまで」
智子は振り返る。
「効率というより、見過ごせないだけ」
「見過ごせないんだ……」
部屋の隅に、怪しげな本の束があった。
智子は、それを見つけた瞬間、動きを止めた。
そはらも気づいた。
ニンフも気づいた。
イカロスは無表情のまま見ている。
悠は、ただ静かに首を傾げた。
智子は、ゆっくりと本の束を持ち上げる。
「これは」
「トモちゃん、待って」
そはらが慌てて止めた。
智子は真面目な顔で言う。
「元の私の部屋にある、よくないものだと思う」
「判断が早いよ!」
「処分する」
「待って! 戻ったトモちゃんが絶対叫ぶから!」
「叫ぶと思う」
「分かってるなら!」
智子は少しだけ目を伏せた。
「でも、残しておく方がよくないと思う」
ニンフが呆れたように言う。
「自分の物でしょ、それ」
「だからこそ」
智子は本の束を抱え直した。
「元の私には、反省が必要だと思う」
悠がカードを取り出した。
「焼却?」
「ユゥも乗らないで!」
智子は頷く。
「お願い」
「了解」
カードが光った。
本の束が、淡い光に包まれる。
熱はほとんどない。
煙も出ない。
ただ、紙が光の粒になって崩れていくように消えていった。
そはらは頭を抱えた。
「トモちゃん……戻ったら本当に大変だよ……」
智子は静かに答える。
「その時は、元の私が反省すると思う」
ニンフは肩をすくめる。
「泣くわね」
「泣くと思う」
「そこまで分かっててやるのね」
「うん」
智子は、空になった本棚の一角を見た。
そこに紙を一枚置く。
部屋を片付けること。
そはらに謝ること。
銭湯作戦を反省すること。
そして最後に一行。
有害図書は処分済み。
そはらがそれを見て、顔を引きつらせた。
「トモちゃんが戻った時の叫び声が、もう聞こえる気がする……」
ニンフは少しだけ笑った。
「自分でやったんだから、自業自得でしょ」
智子は真面目に頷く。
「その通りだと思う」
その真面目さが、余計に怖かった。
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部屋の確認が終わったあと、智子は自分の服装を見下ろした。
今着ている服は、身体に合わせて変わっている。
だが、それは今着ている分だけだった。
引き出しを開けても、そこにあるのは元の智樹の服ばかり。
当然だ。
部屋そのものは変わっていない。
「……着替えがない」
智子は静かに言った。
そはらが一瞬止まる。
「そっか。服は今の分だけなんだ」
悠が頷く。
「今着ている分だけ補った。予備の服までは作ってない」
「そこまで気が回らなかったのね」
ニンフが呆れたように言う。
悠は少し考えた。
「必要なら追加生成可能」
「待って」
智子がすぐに止めた。
「これ以上、カードで生活環境を変えるのは避けたい」
そはらが少しだけ目を丸くする。
「トモちゃん……」
「元の私の部屋まで変わっていないのは、たぶん良かったと思う」
智子は引き出しを閉めた。
「今の状態が一時的なものなら、必要なものだけ買えばいい」
「買うの?」
「うん」
智子は真面目に頷いた。
「この状態で生活するなら、最低限の服は必要だと思う」
ニンフは腕を組む。
「ずいぶん冷静ね」
「必要だから」
「喜んでるわけじゃないのね」
智子は少しだけ眉を寄せた。
「喜ぶ状況ではないと思う」
「でしょうね」
そはらは慌てて言う。
「じゃ、じゃあ私も一緒に行くよ。さすがに一人だと困るでしょ?」
智子は少し考えてから頷いた。
「お願い」
イカロスが一歩前に出る。
「荷物の運搬は可能です」
「ありがとう、イカロスさん」
「はい」
悠も頷く。
「必要物資の調達」
「買い物って言って」
「買い物」
ニンフはため息をついた。
「ほんと、面倒なことになってるわね」
「ごめん」
智子が素直に頭を下げる。
ニンフは少し言葉に詰まった。
「……別に、あんたが今謝ることじゃないでしょ」
「元の私の責任だから」
「それはそうだけど」
そはらが苦笑する。
「と、とにかく行こっか。必要なものだけ、ね」
智子は頷いた。
「うん。最低限でいい」
そして一行は、商店街へ向かうことになった。
遊びでも、はしゃぐためでもない。
必要だから買う。
智子にとって、それはかなり切実な問題だった。
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翌日。
智子は、普通に学校へ来た。
普通に。
少なくとも、本人はそのつもりだった。
だが、教室に入った瞬間、空気が止まった。
「……え?」
「誰?」
「桜井?」
「いや、でも……」
教室中の視線が集まる。
智子は少しだけ足を止めた。
それから、静かに席へ向かう。
歩き方が違う。
鞄の持ち方が違う。
視線の下げ方も、席に座る時の動作も、昨日までの智樹とは明らかに違っていた。
けれど、顔には智樹の面影がある。
だからこそ、クラスメイトたちは余計に混乱していた。
やがて、先生が教室に入ってきた。
出席簿を開く。
そして、智子を見た。
一秒。
二秒。
「えー……」
先生は、妙に疲れた顔で言った。
「桜井が、なんか女になった」
「雑!!」
教室中から声が上がった。
先生は黒板の前で咳払いする。
「詳しい事情は聞かない。聞いたら面倒なことになる気がする」
「先生、それでいいんですか!?」
「空美町では、時々ある」
「ないですよ!」
先生は智子を見る。
「桜井。いや……今は?」
智子は立ち上がった。
立ち上がり方も、昨日までとは違った。
椅子を引く音が小さい。
背筋が伸びている。
クラス中が、また静かになった。
「桜井智子です」
智子は、少しだけ頭を下げた。
「しばらく、この状態で過ごすことになりました」
声は落ち着いていた。
丁寧だが、硬すぎない。
智樹の面影はあるのに、智樹ではない。
「元の私は、かなり駄目な理由でこの状態になりました」
「自分で言った!?」
「その点については、戻ったあとに反省します」
「戻ったあとなんだ……」
「ただ、今の私は、その目的には納得していません」
智子は真面目な顔で続ける。
「迷惑をかけると思いますが、よろしくお願いします」
そう言って、もう一度頭を下げた。
沈黙。
それから、ざわめき。
「桜井がまともな挨拶してる……」
「昨日までの桜井なら絶対ふざけてたよな」
「仕草まで違くない?」
「なんか、普通に女子っぽい……」
「桜井なのに?」
「桜井なのに」
智子は席に座る。
その動作も、やはり自然だった。
そはらは隣で複雑そうな顔をしている。
「トモちゃん……」
「何?」
「本当に、普通にしてるね」
「変?」
「変じゃないけど、変」
「難しいね」
智子は少し困ったように笑った。
その笑い方にも、クラスメイトがまたざわついた。
「桜井が困った顔してる……」
「いつもの変な顔じゃない……」
「誰だよあれ……」
ニンフは後ろの席で頬杖をついている。
「昨日までがひどすぎたんでしょ」
「ニンフちゃん、それ言っちゃう?」
「事実じゃない」
先生は出席簿を閉じた。
そこで一拍置いて、先生は小さく呟いた。
「今日はもう、これ以上何も起きないでくれ……」
その願いは、かなり切実だった。
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三時間目。
体育。
その言葉を聞いた瞬間、智子は少しだけ表情を硬くした。
体操着は、学校の備品がある。
だから着替えること自体はできる。
問題は、場所だった。
女子更衣室の前で、智子は足を止めた。
そはらも隣で止まる。
「トモちゃん?」
「うん」
智子は扉を見る。
向こうから、女子たちの声が聞こえる。
何気ない会話。
笑い声。
布の擦れる音。
体育の前の、普通の空気。
今の自分なら、入っても不自然ではない。
周囲も、ある程度は受け入れている。
そはらも隣にいる。
それでも、智子は動かなかった。
「やっぱり、よくないと思う」
そはらが少しだけ目を丸くした。
「トモちゃん?」
「今の私は女の子として自認してるから」
智子は静かに言った。
「だから、普通に入っていいのかもしれない」
「うん」
「でも、元の私がどういう理由でこうなったのか、私は覚えてる」
智子は少しだけ目を伏せた。
「その記憶があるまま入るのは、やっぱり違うと思う」
そはらは黙った。
それから、困ったように笑う。
「私は、今のトモちゃんなら大丈夫だと思うよ」
「ありがとう」
智子はそはらを見る。
「でも、私が大丈夫だと思えない」
「そっか」
「うん」
そはらは少し考えてから頷いた。
「じゃあ、部室で着替える?」
「そうする」
「一人で大丈夫?」
「大丈夫。すぐ戻る」
智子は体操着の入った袋を抱え直した。
「そはら」
「何?」
「気を遣わせてごめん」
そはらは首を横に振る。
「ううん。ちゃんと考えてくれてるなら、それでいいよ」
智子は少しだけ安心したように息を吐いた。
「ありがとう」
そのまま、智子は女子更衣室へは入らず、部室の方へ向かった。
廊下の角で、ニンフが壁にもたれていた。
「面倒なことしてるわね」
「そうかも」
智子は素直に答えた。
「でも、必要だと思う」
ニンフは少しだけ目を細める。
「今のあんた、本当にトモキなの?」
「記憶はあるよ」
智子は体操着の袋を見る。
「でも、元の私をそのまま通していいとは思えない」
「ふうん」
ニンフはそっぽを向いた。
「ま、好きにすれば」
「うん」
智子は小さく頷き、部室の扉を開けた。
中には誰もいない。
智子は一度だけ深呼吸する。
それから、静かに扉を閉めた。
廊下に残ったニンフは、しばらくその扉を見ていた。
「……ほんと、変なの」
小さく呟いてから、ニンフは校庭の方へ歩き出した。