放課後。
智子は部室に呼び出されていた。
正確には、呼び出されたというより、そはらに連れられて部室へ向かった。
そこには、ニンフ、イカロス、悠もいる。
そして、いつものようにノートを開いていた守形先輩と、当然のようにお茶を飲んでいた会長がいた。
「来たか、桜井」
守形先輩は顔を上げる。
そこで、手が止まった。
会長も湯呑みを口元に運んだまま、ぴたりと動きを止める。
部室が、一瞬だけ静かになった。
「……桜井?」
守形先輩が言った。
智子は少しだけ頭を下げる。
「はい。桜井智子です」
「智子」
守形先輩は、珍しく二秒ほど黙った。
会長は、智子を見て、それから悠を見た。
「なるほどね」
「会長?」
そはらが嫌な予感を覚えたように声をかける。
会長はにこりと笑った。
「桜井くんが智子ちゃんになったのなら、今日はなかなか面白い日になりそうね」
「面白がらないでください……」
ニンフが半目で言う。
「この人、絶対よからぬこと考えてるわよ」
「失礼ね」
会長は楽しそうに言う。
「今はまだ、考えているだけよ」
「まだ?」
そはらの声が少し裏返った。
守形先輩はノートの新しいページを開く。
「状況を説明しろ」
「切り替え早っ!」
そはらが声を上げる。
智子は少しだけ困ったように笑った。
「悠のカードで、こうなりました」
守形先輩は悠を見る。
「紫月」
「はい」
「何をした」
悠は淡々と答える。
「智樹が銭湯の女湯に入るために女体化を希望した。だから身体構造、性自認、羞恥反応、対人距離、性的関心を整合した」
守形先輩のペンが止まった。
会長の笑みが、深くなる。
そはらは頭を抱えた。
「ユゥ、そこをそんな普通に言わないで……」
「事実」
「事実でも!」
会長は悠を見る。
「悠ちゃん、ずいぶん器用なことができるのね」
「可能」
「服装も?」
悠は少しだけ首を傾げた。
「可能」
「会長、そこで何を確認してるんですか」
そはらが慌てて止める。
会長は湯呑みを置いた。
「いえ、少し気になっただけよ」
「絶対少しじゃないです」
悠は自分の服を見下ろした。
「服装変更は必要?」
「今は必要ないよ!」
そはらが即答する。
ニンフはため息をついた。
「また余計な火種が増えたわね」
守形先輩は少しだけ目を細める。
「桜井智樹の記憶は保持しているのか」
「はい」
智子は頷いた。
「記憶はあります。でも、今の私は元の私を少し信用できません」
「本人が言うのか」
「言います」
智子は真面目に答えた。
「元の私の目的は、かなり駄目だったので」
「そこまで言われる桜井くんも可哀想よね」
ニンフがぼそっと言う。
「自業自得でしょ」
「それはそう」
智子が素直に頷いた。
「トモちゃんが自分で自分に厳しい……」
そはらが複雑そうに呟く。
守形先輩はしばらく智子を見ていた。
驚きは残っている。
けれど、もうそれ以上に、観察する目になっていた。
「桜井、現在の状態について、レポートを書け」
智子は少しだけ首を傾げた。
「レポート?」
「そうだ」
守形先輩は机の上に紙束を置く。
「身体変化、認識変化、行動変化、周囲の反応。加えて、自分がどこで迷い、どう判断したか。可能な範囲で記録しろ」
そはらが慌てて口を挟む。
「先輩、いきなりそんな……」
「必要だ」
守形先輩は淡々と言った。
「今の桜井は、桜井智樹の記憶を持ちながら、判断基準が変化している。本人の主観記録は貴重だ」
ニンフが呆れたように言う。
「また観察対象扱い?」
「観察対象ではある」
「言い切ったわね」
会長はくすくす笑った。
「でも、今回は悪くないんじゃないかしら」
「会長まで?」
そはらが見る。
会長は智子を見た。
「桜井くんが、自分で自分をどう扱うのか。そこを残しておくのは大事だと思うわ」
会長はそこで、ちらりと悠にも視線を向けた。
「誰かが自分をどう扱うか、という話でもあるものね」
悠は会長を見る。
「対象は智子では?」
「今はね」
会長はにこりと笑った。
「でも、悠ちゃんにも関係ない話ではないと思うわ」
「会長……?」
そはらがまた嫌な予感を覚える。
悠は少し考えてから頷いた。
「保留」
「保留でいいよ。今は保留で」
そはらは小さく息を吐いた。
智子は紙を見つめていた。
それから、小さく頷く。
「書いた方がいいと思います」
「トモちゃん!?」
そはらが驚く。
「納得するの!?」
智子は少し困ったように笑った。
「今の私は、元の私とかなり違うから」
「うん……」
「戻った後の私が、今の私の考えを都合よく忘れるかもしれない」
智子は紙を一枚取る。
「だから、残しておいた方がいいと思う」
ニンフは腕を組む。
「自分に対して信用なさすぎでしょ」
「今のところ、信用できる材料が少ないかな」
「本人が一番ひどいこと言ってるわよ」
悠は静かに頷いた。
「良い判断」
「ユゥまで乗らないで……」
そはらが頭を抱えた。
守形先輩は続ける。
「ただし、何でも細かく書けばいいわけではない」
智子が顔を上げる。
「どういう意味ですか?」
「視覚的な詳細ではなく、判断過程を書け」
「判断過程」
「たとえば今日の体育だ」
守形先輩はノートをめくる。
「時間割上、体育があったはずだ」
智子は小さく頷く。
「ありました」
「その中で、お前は何かを選んだはずだ」
「……はい」
「どこで着替えたか、誰に何を言われたか、そこまで俺は知らん」
守形先輩は淡々と言った。
「だが、今のお前なら、そこで何も考えずに動いたわけではないだろう」
智子は少しだけ黙った。
それから、静かに頷く。
「はい。考えました」
「なら、それを書け」
「何を、ですか?」
「何を問題と見たのか。何を避けたのか。何を保留したのか」
守形先輩はペンを置いた。
「事実の細部ではなく、判断過程を書け」
智子は静かに頷く。
「はい」
そはらは少し黙った。
ニンフも、茶化さなかった。
会長も、静かに智子を見ている。
さっきまでの面白がるような笑みは残っていた。
けれど、それだけではなかった。
智子は紙を見下ろした。
「それなら、書けると思います」
「なら書け」
守形先輩はペンを置いた。
「これは実験記録ではない」
智子が少し意外そうに目を上げる。
守形先輩は、いつも通りの声で言った。
「お前が、自分をどう扱うかの記録だ」
部室が少しだけ静かになった。
智子はしばらく黙っていた。
それから、紙の一番上に題名を書いた。
『桜井智子状態における行動判断と反省記録』
そはらが複雑そうな顔をする。
「題名が真面目……」
ニンフは小さく笑った。
「戻ったトモキが読んだら、頭抱えるわね」
智子は頷いた。
「抱えた方がいいと思う」
「本人が一番厳しい……」
会長は楽しそうに目を細めた。
「桜井くんに読ませるのが楽しみね」
「楽しみにしないでください」
智子が言う。
「でも、読ませるんでしょう?」
「はい」
「なら、楽しみだわ」
「会長らしいですね……」
そはらが苦笑した。
イカロスは智子の手元を見る。
「記録を確認」
「イカロスさんは確認しなくていいからね」
智子はペンを持った。
少しだけ迷ってから、最初の一文を書く。
『今日、私は女子更衣室ではなく部室で着替えた。』
そこで一度止まる。
そして、続けた。
『周囲が許してくれても、自分が納得できないなら、保留していいと思った。』
そはらは、その文字を見て、少しだけ安心したように笑った。
悠は紙を見て、小さく頷いた。
「記録形式は妥当」
「ユゥは評価しなくていいよ……」
会長も、その一文を見て静かに笑う。
「いい文章ね」
「そうですか?」
「ええ」
会長は軽く言った。
「今のあなたが、ちゃんと自分で考えているのが分かるわ」
智子は少しだけ目を伏せた。
「……ありがとうございます」
守形先輩はノートを閉じる。
「それでいい」
智子は小さく頷いた。
「はい」
その日から、智子は少しずつ記録を書くことになった。
何をしたか。
何を思ったか。
どこで迷ったか。
何を選ばなかったか。
それは、事件の記録ではなかった。
実験の記録でもなかった。
桜井智樹だった記憶を持つ智子が、今の自分をどう扱うか。
そして、いつか元に戻った智樹に、何を残すか。
そのための記録だった。
紙の上で、智子の文字が静かに増えていく。
そはらは隣でそれを見守っていた。
ニンフは呆れたような顔をしながら、時々ちらりと覗いた。
イカロスは静かに立っていた。
悠は、必要以上に口を出さなかった。
守形先輩はただ記録を取る。
会長は楽しそうに笑う。
けれど、その笑みはいつもより少しだけ柔らかかった。
智子は最後に、一行だけ書き足した。
『戻った私がこれを読んで嫌がっても、これは必要な記録だと思う。』
それを見たニンフが、小さく笑った。
「ほんと、元のトモキが可哀想ね」
智子は少し考えてから答えた。
「でも、必要だから」
「そこは変わらないのね」
「うん」
智子はペンを置く。
「変えちゃいけないと思う」
その手つきは自然だった。
けれど、そこに書かれた言葉は、誰かに作られたものではなかった。
今の智子が、自分で考えて選んだものだった。
会長は、ふと悠を見た。
「悠ちゃん」
「何?」
「さっきの話だけど」
「服装変更?」
「ええ」
そはらがすぐに反応した。
「会長、まだ続いてたんですか!?」
「もちろん」
会長は悪びれずに笑う。
「智子ちゃんは、自分で考えて今の自分を扱ったわ。なら、悠ちゃんも少しだけ考えてみたらどうかしら」
悠は自分の服を見下ろした。
「現在の服装に重大な問題はない」
「重大ではないわね」
会長は頷く。
「でも、学校にいるなら、女子生徒服という選択肢もあるでしょう?」
「選択肢」
「そう。命令ではなくて、選択肢」
その言葉に、悠は少しだけ黙った。
そはらも黙る。
ニンフがちらりと悠を見る。
悠は、命令という言葉を好まない。
それを、会長が分かって言っているのか、たまたまなのかは分からない。
たぶん、分かって言っている。
悠はしばらく考えた。
それから、静かに頷く。
「学校では、その方が馴染みやすい。見た目の違和感も減ると思う」
「ユゥ、真面目に検討してる……」
そはらが小さく言う。
「それに」
悠は少しだけ智子を見る。
「自分をどう扱うかを考えるなら、選択肢としてはありだと思う」
会長は満足そうに笑った。
「そういうこと」
悠はカードを取り出した。
「女子生徒服へ変更」
「即決!?」
カードが淡く光った。
次の瞬間、悠の服装が女子生徒の制服へ変わっていた。
智子のものと同じ系統の制服。
けれど、悠が着ると印象が少し違う。
淡々としていて、どこか静かで。
服だけが変わったのに、部室の空気が少しだけ変わった。
悠は袖を軽く動かし、裾を確認する。
「可動域、問題なし」
「最初の感想がそれなんだ……」
そはらが呟く。
会長は楽しそうに目を細めた。
「よく似合っているわ、悠ちゃん」
「評価を受領」
「そこは、ありがとうでいいと思うよ」
そはらが言うと、悠は少しだけ間を置いた。
「ありがとう」
その言い方は、まだ少し硬かった。
けれど、前よりは少しだけ自然だった。
智子はそれを見て、小さく笑った。
「悠も、自分で選んだんだね」
「選んだこととして、覚えておく」
「いいと思う」
ニンフが呆れたように言った。
「今日はあんたたち、変な方向に真面目ね」
「そういう日なのよ」
会長が笑う。
守形先輩は、閉じたはずのノートをもう一度開いた。
「紫月の服装変更による周囲反応も記録対象だな」
「先輩、増やさないでください!」
そはらの声が部室に響いた。
放課後の部室に、夕方の光が差し込む。
長かった一日は、ようやく終わろうとしていた。
智子は自分のレポート用紙を揃える。
悠は新しい制服の袖を、もう一度だけ見た。
それは、誰かに命令されたからではなかった。
会長に乗せられた形ではあったけれど。
それでも、最後に選んだのは悠自身だった。
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翌日。
教室は、朝から少しだけ騒がしかった。
理由は二つある。
一つは、桜井智子がまだ桜井智子のままだったこと。
そして、もう一つ。
悠が女子生徒服で登校してきたことだった。
「……え?」
「紫月?」
「制服、変わってない?」
「いや、似合ってるけど」
「似合ってるけど、何で?」
教室中の視線が、智子と悠の間を行ったり来たりする。
昨日は智子。
今日は悠。
空美町の生徒たちにも、さすがに処理が追いついていなかった。
智子は席に着きながら、少しだけ悠を見る。
悠はいつも通りだった。
いや、服装はいつも通りではない。
けれど、本人の表情も、歩き方も、鞄の置き方も、ほとんど変わらない。
制服だけが自然に馴染んでいた。
「ユゥ、本当にそのまま来たんだ……」
そはらが小さく言う。
悠は頷いた。
「昨日選んだから、今日もこのまま来た」
「昨日の一回だけじゃなかったんだ」
「選択したから」
「そこはちゃんとしてるんだ……」
智子は少しだけ笑った。
「似合ってると思う」
「ありがとう」
ニンフは後ろの席で頬杖をついていた。
「昨日から変な方向に真面目なのよ、あんたたち」
「変?」
悠が聞く。
「変よ」
「問題?」
「似合ってるから余計に問題なのよ」
「意味が不明」
「でしょうね」
やがて、担任が入ってきた。
出席簿を開く。
そして、教室を見る。
智子を見る。
悠を見る。
一度、出席簿を閉じた。
「えー……」
担任は、昨日よりさらに疲れた顔で言った。
「桜井は引き続きなんか女で、紫月はなんか女子制服になった」
「雑!!」
教室中から声が上がった。
担任は咳払いする。
「詳しい事情は聞かない。昨日の時点で聞かないと決めた」
「先生、投げてませんか!?」
「投げている」
「認めた!」
担任は悠を見る。
「紫月。その服装で問題はないのか」
悠は立ち上がる。
「可動域、校則上の外見、授業参加に支障なし」
「校則上は?」
担任は出席簿と服装を見比べる。
「まあ……制服ではあるな」
「はい」
「じゃあ、今日はそれでいい」
「いいんですか!?」
クラスメイトが叫んだ。
担任は遠い目をした。
「空美町では、制服を着ているだけまだ扱いやすい」
「基準がおかしい!」
悠は静かに座った。
その動きも自然だった。
服装だけ変わったのではない。
服に合わせた動きが、もう身体に馴染んでいるようだった。
近くの女子が、おそるおそる声をかける。
「紫月さん……でいいの?」
悠は少し考えた。
「呼称は任意」
「任意なんだ」
「紫月でよい」
「じゃあ紫月さん」
「了解」
「その制服、自分で選んだの?」
悠は少しだけ視線を落とす。
「会長が選択肢として提示した」
「会長かぁ……」
その一言で、周囲が妙に納得した。
「それで?」
女子が続ける。
「着るって決めたのは?」
悠は短く答える。
「ボク」
教室が少し静かになった。
「命令じゃない」
悠は続ける。
「選択」
その言葉に、そはらが少しだけ表情を緩めた。
智子も、静かに悠を見た。
昨日、会長が言った言葉。
命令ではなく、選択肢。
悠はそれを、ちゃんと自分の中で処理したらしい。
ニンフは小さくため息をつく。
「ま、本人がいいならいいんじゃない?」
「ニンフちゃんが普通のこと言ってる」
「何よ」
そはらが小さく笑った。
クラスメイトたちはまだざわついていた。
「桜井が智子で」
「紫月が女子制服で」
「昨日より状況増えてない?」
「でも、二人とも普通にしてるんだよな」
「普通とは?」
「分からん」
智子はその声を聞きながら、ノートを開いた。
守形先輩に出すレポート用の下書き。
昨日書いた題名の下に、新しい行を足す。
『翌日、悠は女子生徒服で登校した。』
そこで少し止まる。
それから、続きを書いた。
『周囲は驚いたが、本人が選択したことなら、それを尊重していいと思う。』
智子はペンを止めた。
自分のことではない。
けれど、自分のことにも少し似ていた。
周囲がどう見るか。
本人がどう選ぶか。
それを、どう扱うか。
そはらが隣からノートを覗き込む。
「トモちゃん、また書いてるの?」
「うん」
「レポート?」
「うん」
智子は少しだけ笑った。
「昨日の続き」
悠がその文字を見た。
「記録対象?」
「たぶん」
智子は答える。
「でも、実験記録じゃなくて、選択の記録」
悠は少しだけ黙った。
それから、小さく頷いた。
「妥当」
「また評価してる」
「評価ではなく、同意」
「それなら、ありがとう」
悠は少し考えた。
「ありがとう」
そはらは、二人を見て少しだけ笑った。
昨日までとは違う。
でも、完全に別の何かになったわけでもない。
智子も。
悠も。
少しずつ、自分の扱い方を選んでいる。
それが妙に不思議で。
けれど、少しだけ安心できた。
朝の確認が終わると、担任は出席簿を閉じた。
担任は扉へ向かいながら、最後に振り返る。
「本当に、今日は何も増えないな?」
誰も答えなかった。
悠は少し考えた。
「増加予定なし」
「予定って言うな!」
教室中が笑った。
担任は深いため息をついて、教室を出ていった。
その少し後。
一限の数学教師、竹原先生が入ってきた。
出席簿を見る。
智子を見る。
悠を見る。
少し止まる。
「……変数が増えているな」
教室が一瞬静かになった。
「先生、処理できますか?」
誰かが聞く。
竹原先生はチョークを持ち直した。
「未知数が二つ増えた程度なら、連立方程式で足りる」
「足りるんだ……」
「ただし、今日の授業範囲ではない」
竹原先生は黒板を叩いた。
「よって無視する。授業を始める」
「流した!」
悠は少しだけ首を傾げた。
「分類上、未知数?」
「そこを掘るな、紫月」
竹原先生は即座に言った。
「今は数学を再建しない」
「了解」
「了解するんだ……」
智子はレポートに、小さく書き足した。
『翌朝、悠は自分で選んだ服で教室にいた。』