それから数日。
智子は、思ったより普通に学校生活へ馴染んでいった。
もちろん、完全に普通ではない。
最初のうちは、教室に入るだけでざわついた。
体育のたびに、どこで着替えるのかを気にされた。
けれど、そのたびに智子は立ち止まり、考え、必要なら断った。
放課後には、そはらに付き添われて買い物にも行った。
必要な服。
学校で使うもの。
家で過ごすための最低限のもの。
智子は必要なものだけを選ぼうとして、そはらに「そこはもう少し余裕を持とう」と言われた。
ニンフは呆れながらもついてきた。
イカロスは荷物を持った。
悠は何度も「良い判断」と評価した。
そして、何度か学校での着替えも経験した。
最初は部室。
次も部室。
けれど、周りの女子たちが何度も「大丈夫だよ」と言ってくれて、そはらも隣で頷いてくれて。
智子は、すぐには頷かなかった。
けれど、少しずつ考えた。
自分がどう感じるか。
周りがどう受け取るか。
元の自分の記憶を、どう扱うか。
その全部を分けて考えることを覚えた。
それでも、まだ完全に慣れたわけではない。
だから、その日。
銭湯の前に立った智子は、少しだけ足を止めた。
昔ながらの銭湯だった。
暖簾が揺れている。
入口の横には、少し古い看板。
中からは、湯気の匂いと、桶の音がかすかに聞こえた。
「遅かったわね」
その声に、全員が振り向いた。
会長がいた。
なぜか、銭湯の前に当然のように立っていた。
「会長!?」
そはらが驚く。
「どうしてここに?」
「面白そうだったから」
「理由がそれなんですか……」
会長はにこりと笑う。
「智子ちゃんが銭湯に行くんでしょう? それなら見届けないと」
「見世物じゃないんですけど……」
智子が少し困ったように言うと、会長は楽しそうに首を傾げた。
「あら。見世物じゃなくて、付き添いよ」
「言い方でだいぶ印象が変わりますね」
ニンフが呆れたように言う。
「この人、絶対楽しみに来てるわよ」
「ええ」
「認めるんだ……」
「ここ?」
智子が聞く。
そはらが頷いた。
「うん。ここだよ」
ニンフは暖簾を見上げて、少しだけ眉を寄せる。
「本当に来ることになるとは思わなかったわ」
「嫌なら帰ってもいいよ?」
そはらが言うと、ニンフはすぐにそっぽを向いた。
「嫌とは言ってないでしょ」
悠は看板を見上げた。
「温度と床は確認しておいた方がいい」
「ユゥも、入る前から調査しないの」
「安全確認」
「銭湯にそこまで警戒しなくていいよ」
智子は暖簾を見ていた。
以前なら、たぶん何も考えずに突っ走っていた。
今は違う。
自分がここにいることの意味を、どうしても考えてしまう。
そはらがそれに気づいて、少し声を落とした。
「トモちゃん、大丈夫?」
智子は少し考えてから頷いた。
「うん。大丈夫」
「無理してない?」
「してない、と思う」
「思う?」
智子は苦笑する。
「自分でも良くわからない」
ニンフが横から言った。
「面倒ね」
「うん」
智子は素直に頷いた。
「入る前に、ちゃんと中のルール守ろうね。走らない。騒がない。変なことしない」
「うん」
智子が頷く。
悠も頷く。
「騒がない。走らない。戦わない」
「最後は普通いらないけどね」
ニンフがため息をついた。
「戦闘しないわよ、さすがに」
「ニンフさんが一番普通のこと言ってる……」
「何よ」
会長はくすくすと笑う。
「賑やかでいいじゃない」
「銭湯の前で既に賑やかすぎるんですけど」
そはらが小さくため息をついた。
それから、暖簾をくぐる。
中は、思ったより静かだった。
番台の人に挨拶をして、必要なものを受け取る。
そこで少しだけ視線を感じた。
イカロスの羽。
ニンフの羽。
祭りで羽を出していた悠。
けれど空美町の人間は、妙なところで適応力が高い。
「……思ったより普通」
ニンフが小さく笑う。
「この町の普通、だいぶ壊れてると思うけど」
「それは否定できないかな」
そはらが苦笑した。
会長は楽しそうに暖簾の奥を見た。
「普通じゃないものを、普通にしてしまうのも、この町らしいわね」
「会長が言うと、なんか怖いです」
「あら、褒めてるのよ」
「褒め方が怖いんです」
脱衣所に入ると、木の床が少しだけ軋んだ。
棚が並んでいる。
籠が置かれている。
湯気の気配が、奥から流れてくる。
智子はそこで一度立ち止まった。
そはらが隣に立つ。
「トモちゃん?」
「うん」
智子は小さく頷く。
「大丈夫。ここまで来たから」
「無理しなくていいからね」
「ありがとう」
智子は籠を一つ取った。
服を一枚ずつ丁寧に畳んで、籠の中へ置いていく。
急がない。
ふざけない。
ただ、必要なことを一つずつ確認するように進める。
会長はその様子を見て、楽しそうに目を細めた。
「ずいぶん自然に動けるのね、桜井くん」
「そうですか?」
智子は少しだけ考える。
「動きは、あまり考えなくても自然にできます」
「そうなの?」
「はい。カードの影響だと思います」
智子は畳んだ服を籠に置いた。
「でも、それでいいのかは、まだ考えます」
会長の笑みが少しだけ柔らかくなる。
「なるほど。身体は自然に動いても、判断は自分でしているのね」
「たぶん、そうです」
「それならいいんじゃないかしら」
智子は少しだけ目を瞬かせた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
そはらは、会長の言葉が珍しくまともだったので少し驚いた。
ニンフも同じことを思ったのか、小さく呟く。
「たまにまともなのが逆に怖いわね」
「聞こえているわよ、ニンフちゃん」
「聞こえるように言ったのよ」
ニンフは隣の籠に服を置きながら、ちらりと智子を見た。
「ずいぶん丁寧ね」
「雑にすると、あとで困るから」
「元のトモキに聞かせたいわね」
「戻ったら、たぶん忘れてる」
「自分で言うのね」
智子は少しだけ笑った。
「だからメモを残してる」
「部屋のやつ?」
「うん」
ニンフは思い出したように肩をすくめる。
「有害図書は処分済み、ね」
「その話は今しなくていいと思う」
「戻った時の叫びが楽しみ」
「楽しみにしないで」
会長が目を輝かせた。
「あら、何の話?」
「聞かなかったことにしてください」
そはらが即座に言う。
「余計に気になるわね」
「気にしないでください!」
そはらが小さく笑いながら、服を畳んでいる智子を見る。
「でも、トモちゃん、本当に落ち着いたね」
「そうかな」
「うん。最初はもっと不安そうだった」
智子は少し考える。
「まだ不安はあるよ」
「うん」
「でも、周りが普通にしてくれるから」
智子は畳んだ服を籠の中に置いた。
「少しずつ、考えながらでいいかなって思える」
そはらは優しく頷く。
「うん。それでいいと思う」
イカロスは、自分の服を丁寧に畳んでいた。
かなり正確だった。
端と端がぴったり合っている。
そはらがそれを見て少し驚く。
「イカロスさん、すごくきれいに畳むね」
「収納効率を優先しました」
「そこも効率なんだ」
悠は隣で服を畳みながら、イカロスの籠を見る。
「精度が高い」
「ありがとうございます」
「競わなくていいからね?」
ニンフは自分の籠を見た。
そこそこ雑だった。
それから、イカロスの籠を見る。
「……別に、畳めてればいいでしょ」
「うん」
智子が頷く。
「使う時に困らなければいいと思う」
「そういうところはまともね」
「そこだけ?」
「今のところ」
智子は苦笑した。
会長は自分の籠を見て、涼しい顔で言った。
「私は普通ね」
ニンフがちらりと見る。
「普通に見えるけど、たぶん何か企んでるわね」
「あら。服を畳むだけでそこまで警戒されるの?」
「普段の行いでしょ」
「ひどいわね」
会長はまったく傷ついていない顔で笑った。
脱衣所の奥から、湯の音が聞こえる。
誰かが桶を置く音。
シャワーの音。
低い湯気の気配。
智子はその音を聞いて、少しだけ息を吐いた。
緊張していないわけではない。
けれど、逃げたいほどではなかった。
そはらが声をかける。
「行こっか」
智子は頷いた。
「うん」
「浴場へ移動」
「だから、そういう言い方やめようね」
ニンフは呆れたように言う。
「ただお風呂に入るだけでしょ」
会長はくすりと笑う。
「そうよ。ただのお風呂よ」
その言い方が妙に意味深だったので、そはらが少しだけ警戒した。
「会長、変なことしないでくださいね」
「何もしないわよ」
「本当ですか?」
「今日は、ね」
「今日限定なんですか!?」
智子は少し笑った。
「うん。ただ、お風呂に入るだけ」
そう言って、智子は湯気の向こうへ向かう扉を見た。
普通のこと。
たぶん、普通のこと。
それを普通にできるかどうかを、確かめるために。
智子は、そはらたちと一緒に浴場へ向かった。
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浴場に入っても、智子は特に何も感じなかった。
いや。
何も感じない、というより。
思っていたほど、何かが起きるわけではなかった。
湯気。
床を流れるお湯。
桶の音。
石鹸の匂い。
広い浴槽。
それだけだった。
会長はそんな智子の横顔を見て、少しだけ笑った。
「拍子抜けした?」
「少し」
智子は正直に答えた。
「もっと、何かあると思ってました」
「何もないことも、大事なのよ」
会長は軽く言う。
「普通に入って、普通に温まって、普通に出る。それだけで十分なこともあるわ」
智子は少しだけ黙った。
「……そうですね」
「ええ」
ニンフが会長を見る。
「今日はやけにまともね」
「あら、いつもまともよ」
「それはないわ」
「ひどいわね」
「……普通だね」
智子がぽつりと言う。
そはらは少しだけ目を瞬かせた。
「普通?」
「うん。普通のお風呂」
智子は少しだけ困ったように笑った。
「もっと変に意識するかと思ったけど、そうでもなかった」
「そっか」
ニンフは近くで羽を軽く広げながら、呆れたように言った。
「ただお風呂に入るだけでしょ。考えすぎなのよ」
「それはそうかも」
智子は素直に頷いた。
「でも、考えないよりはいいと思う」
「真面目ね」
「今だけかも」
「自分で言うんだ」
悠は浴場の床を見ていた。
「床面、滑りやすい。注意」
「ユゥ、そういう確認は大事だけど、もう少し普通に言おうね」
「転ばないように」
「うん、それでいい」
イカロスは自分の羽を見ていた。
湯気を含んだ羽が、いつもより少し重そうに見える。
「羽の洗浄を開始します」
「だから言い方」
そはらが苦笑する。
イカロスは桶にお湯を汲み、自分の羽へゆっくり流した。
羽の隙間に溜まっていた小さな埃や砂が、お湯と一緒に流れていく。
「わ、けっこう汚れてたんだね」
そはらが少し驚く。
イカロスは頷いた。
「通常の浴室では、十分に展開できませんでした」
「広いと洗いやすい?」
「はい」
イカロスは羽を少し広げる。
「可動範囲に余裕があります」
悠も自分の羽を見た。
「確かに、ここなら楽」
「ユゥも洗う?」
そはらが聞く。
「うん」
悠は少し考えてから、羽を広げた。
湯気の中で、紫の光が淡く揺れる。
「羽を洗うの、なんか不思議だね」
「髪を洗うのと似てる」
「でも、髪より面積が広い」
「それは大変そう」
ニンフは自分の羽を見て、少しだけため息をついた。
「面倒だけど、確かに広い方が楽ね」
「ほら、来てよかったじゃん」
そはらが笑う。
「別に、悪くはないってだけよ」
ニンフはそう言いながらも、羽を広げた。
細い部分や、可動する場所を指先で確かめるように洗っていく。
普段は面倒くさそうにしているニンフも、羽の手入れだけは意外と丁寧だった。
智子はそれを見て、少しだけ感心する。
「ニンフ、丁寧だね」
「当たり前でしょ」
ニンフは少しだけ眉を寄せた。
「ここが引っかかると、飛ぶ時に気持ち悪いのよ」
「そうなんだ」
「そうよ」
智子は自分の髪を軽くまとめながら頷いた。
「羽があるって、大変なんだね」
イカロスは静かに言う。
「ですが、飛行には必要です」
「うん」
悠も頷く。
「手入れは必要」
「そっか」
智子は少しだけ笑った。
「じゃあ、今日は羽の手入れの日だね」
「銭湯の趣旨が変わってるわよ」
ニンフが呆れる。
けれど、否定はしなかった。
会長は羽を洗う三人を見て、感心したように言った。
「紫月くんの羽は見慣れているけれど、三人並ぶと壮観ね」
「会長、楽しんでません?」
そはらが聞く。
「ええ」
「やっぱり!」
「でも、悪い意味ではないわよ」
会長は笑う。
「それだけ大きな羽を、ちゃんと広げて手入れできる場所は貴重だもの」
その言葉に、イカロスが静かに頷いた。
「同意します」
一通り洗い終えると、全員で湯船へ向かった。
広い湯船は、思っていたより静かだった。
智子はゆっくり湯に浸かる。
肩の力が抜ける。
「……あったかい」
その言葉は、自然に出た。
そはらが隣で笑う。
「ね。来てよかったでしょ」
「うん」
智子は素直に頷いた。
「来てよかった」
イカロスは湯の中で静かに座っている。
ニンフは少しだけ気持ちよさそうに目を細めていた。
会長はそんな様子を見て、満足そうに微笑んでいる。
悠は湯面を見ながら、何かを確認している。
「ユゥ?」
「水温、適正範囲内。入浴環境として良好」
「お風呂の感想じゃなくて評価みたいだね」
「評価している」
「そっか……」
そはらは小さく笑った。
浴場には、桶の音と、湯の揺れる音だけがあった。
何か大きな事件が起きるわけでもない。
誰かが騒ぐわけでもない。
ただ、湯船に浸かる。
羽を洗って。
温まって。
それだけ。
智子は目を伏せる。
「普通って、こういうことなのかな」
そはらが聞き返す。
「何か言った?」
「ううん」
智子は首を横に振った。
「何でもない」
会長は聞こえていたのか、いないのか。
ただ、静かに笑っていた。
しばらくして、そはらが立ち上がる。
「そろそろ出よっか。のぼせちゃうし」
「うん」
智子も頷いた。
イカロス、ニンフ、悠、会長も続く。
湯船から出る時、ニンフが小さく呟いた。
「まあ……悪くなかったわね」
「また来る?」
そはらが聞く。
ニンフは少しだけそっぽを向いた。
「気が向いたらね」
会長はくすりと笑う。
「その時は、私も誘ってね」
「勝手に来るくせに」
ニンフが言う。
「それもそうね」
「否定しないんだ……」
智子はそれを聞いて、少し笑った。
浴場の扉へ向かいながら、智子は思う。
特別なことは、何も起きなかった。
ただ、普通に入って、普通に出る。
それだけだった。
でも、今の智子には。
それが少しだけ、ありがたかった。