そらのおとしもの -sigma-   作:effutod

28 / 30
#28 銭湯!!

それから数日。

 

智子は、思ったより普通に学校生活へ馴染んでいった。

 

もちろん、完全に普通ではない。

 

最初のうちは、教室に入るだけでざわついた。

 

体育のたびに、どこで着替えるのかを気にされた。

 

けれど、そのたびに智子は立ち止まり、考え、必要なら断った。

 

放課後には、そはらに付き添われて買い物にも行った。

 

必要な服。

 

学校で使うもの。

 

家で過ごすための最低限のもの。

 

智子は必要なものだけを選ぼうとして、そはらに「そこはもう少し余裕を持とう」と言われた。

 

ニンフは呆れながらもついてきた。

 

イカロスは荷物を持った。

 

悠は何度も「良い判断」と評価した。

 

そして、何度か学校での着替えも経験した。

 

最初は部室。

 

次も部室。

 

けれど、周りの女子たちが何度も「大丈夫だよ」と言ってくれて、そはらも隣で頷いてくれて。

 

智子は、すぐには頷かなかった。

 

けれど、少しずつ考えた。

 

自分がどう感じるか。

 

周りがどう受け取るか。

 

元の自分の記憶を、どう扱うか。

 

その全部を分けて考えることを覚えた。

 

それでも、まだ完全に慣れたわけではない。

 

だから、その日。

 

銭湯の前に立った智子は、少しだけ足を止めた。

 

昔ながらの銭湯だった。

 

暖簾が揺れている。

 

入口の横には、少し古い看板。

 

中からは、湯気の匂いと、桶の音がかすかに聞こえた。

 

「遅かったわね」

 

その声に、全員が振り向いた。

 

会長がいた。

 

なぜか、銭湯の前に当然のように立っていた。

 

「会長!?」

 

そはらが驚く。

 

「どうしてここに?」

 

「面白そうだったから」

 

「理由がそれなんですか……」

 

会長はにこりと笑う。

 

「智子ちゃんが銭湯に行くんでしょう? それなら見届けないと」

 

「見世物じゃないんですけど……」

 

智子が少し困ったように言うと、会長は楽しそうに首を傾げた。

 

「あら。見世物じゃなくて、付き添いよ」

 

「言い方でだいぶ印象が変わりますね」

 

ニンフが呆れたように言う。

 

「この人、絶対楽しみに来てるわよ」

 

「ええ」

 

「認めるんだ……」

 

「ここ?」

 

智子が聞く。

 

そはらが頷いた。

 

「うん。ここだよ」

 

ニンフは暖簾を見上げて、少しだけ眉を寄せる。

 

「本当に来ることになるとは思わなかったわ」

 

「嫌なら帰ってもいいよ?」

 

そはらが言うと、ニンフはすぐにそっぽを向いた。

 

「嫌とは言ってないでしょ」

 

悠は看板を見上げた。

 

「温度と床は確認しておいた方がいい」

 

「ユゥも、入る前から調査しないの」

 

「安全確認」

 

「銭湯にそこまで警戒しなくていいよ」

 

智子は暖簾を見ていた。

 

以前なら、たぶん何も考えずに突っ走っていた。

 

今は違う。

 

自分がここにいることの意味を、どうしても考えてしまう。

 

そはらがそれに気づいて、少し声を落とした。

 

「トモちゃん、大丈夫?」

 

智子は少し考えてから頷いた。

 

「うん。大丈夫」

 

「無理してない?」

 

「してない、と思う」

 

「思う?」

 

智子は苦笑する。

 

「自分でも良くわからない」

 

ニンフが横から言った。

 

「面倒ね」

 

「うん」

 

智子は素直に頷いた。

 

「入る前に、ちゃんと中のルール守ろうね。走らない。騒がない。変なことしない」

 

「うん」

 

智子が頷く。

 

悠も頷く。

 

「騒がない。走らない。戦わない」

 

「最後は普通いらないけどね」

 

ニンフがため息をついた。

 

「戦闘しないわよ、さすがに」

 

「ニンフさんが一番普通のこと言ってる……」

 

「何よ」

 

会長はくすくすと笑う。

 

「賑やかでいいじゃない」

 

「銭湯の前で既に賑やかすぎるんですけど」

 

そはらが小さくため息をついた。

 

それから、暖簾をくぐる。

 

中は、思ったより静かだった。

 

番台の人に挨拶をして、必要なものを受け取る。

 

そこで少しだけ視線を感じた。

 

イカロスの羽。

 

ニンフの羽。

 

祭りで羽を出していた悠。

 

けれど空美町の人間は、妙なところで適応力が高い。

 

「……思ったより普通」

 

ニンフが小さく笑う。

 

「この町の普通、だいぶ壊れてると思うけど」

 

「それは否定できないかな」

 

そはらが苦笑した。

 

会長は楽しそうに暖簾の奥を見た。

 

「普通じゃないものを、普通にしてしまうのも、この町らしいわね」

 

「会長が言うと、なんか怖いです」

 

「あら、褒めてるのよ」

 

「褒め方が怖いんです」

 

脱衣所に入ると、木の床が少しだけ軋んだ。

 

棚が並んでいる。

 

籠が置かれている。

 

湯気の気配が、奥から流れてくる。

 

智子はそこで一度立ち止まった。

 

そはらが隣に立つ。

 

「トモちゃん?」

 

「うん」

 

智子は小さく頷く。

 

「大丈夫。ここまで来たから」

 

「無理しなくていいからね」

 

「ありがとう」

 

智子は籠を一つ取った。

 

服を一枚ずつ丁寧に畳んで、籠の中へ置いていく。

 

急がない。

 

ふざけない。

 

ただ、必要なことを一つずつ確認するように進める。

 

会長はその様子を見て、楽しそうに目を細めた。

 

「ずいぶん自然に動けるのね、桜井くん」

 

「そうですか?」

 

智子は少しだけ考える。

 

「動きは、あまり考えなくても自然にできます」

 

「そうなの?」

 

「はい。カードの影響だと思います」

 

智子は畳んだ服を籠に置いた。

 

「でも、それでいいのかは、まだ考えます」

 

会長の笑みが少しだけ柔らかくなる。

 

「なるほど。身体は自然に動いても、判断は自分でしているのね」

 

「たぶん、そうです」

 

「それならいいんじゃないかしら」

 

智子は少しだけ目を瞬かせた。

 

「……ありがとうございます」

 

「どういたしまして」

 

そはらは、会長の言葉が珍しくまともだったので少し驚いた。

 

ニンフも同じことを思ったのか、小さく呟く。

 

「たまにまともなのが逆に怖いわね」

 

「聞こえているわよ、ニンフちゃん」

 

「聞こえるように言ったのよ」

 

ニンフは隣の籠に服を置きながら、ちらりと智子を見た。

 

「ずいぶん丁寧ね」

 

「雑にすると、あとで困るから」

 

「元のトモキに聞かせたいわね」

 

「戻ったら、たぶん忘れてる」

 

「自分で言うのね」

 

智子は少しだけ笑った。

 

「だからメモを残してる」

 

「部屋のやつ?」

 

「うん」

 

ニンフは思い出したように肩をすくめる。

 

「有害図書は処分済み、ね」

 

「その話は今しなくていいと思う」

 

「戻った時の叫びが楽しみ」

 

「楽しみにしないで」

 

会長が目を輝かせた。

 

「あら、何の話?」

 

「聞かなかったことにしてください」

 

そはらが即座に言う。

 

「余計に気になるわね」

 

「気にしないでください!」

 

そはらが小さく笑いながら、服を畳んでいる智子を見る。

 

「でも、トモちゃん、本当に落ち着いたね」

 

「そうかな」

 

「うん。最初はもっと不安そうだった」

 

智子は少し考える。

 

「まだ不安はあるよ」

 

「うん」

 

「でも、周りが普通にしてくれるから」

 

智子は畳んだ服を籠の中に置いた。

 

「少しずつ、考えながらでいいかなって思える」

 

そはらは優しく頷く。

 

「うん。それでいいと思う」

 

イカロスは、自分の服を丁寧に畳んでいた。

 

かなり正確だった。

 

端と端がぴったり合っている。

 

そはらがそれを見て少し驚く。

 

「イカロスさん、すごくきれいに畳むね」

 

「収納効率を優先しました」

 

「そこも効率なんだ」

 

悠は隣で服を畳みながら、イカロスの籠を見る。

 

「精度が高い」

 

「ありがとうございます」

 

「競わなくていいからね?」

 

ニンフは自分の籠を見た。

 

そこそこ雑だった。

 

それから、イカロスの籠を見る。

 

「……別に、畳めてればいいでしょ」

 

「うん」

 

智子が頷く。

 

「使う時に困らなければいいと思う」

 

「そういうところはまともね」

 

「そこだけ?」

 

「今のところ」

 

智子は苦笑した。

 

会長は自分の籠を見て、涼しい顔で言った。

 

「私は普通ね」

 

ニンフがちらりと見る。

 

「普通に見えるけど、たぶん何か企んでるわね」

 

「あら。服を畳むだけでそこまで警戒されるの?」

 

「普段の行いでしょ」

 

「ひどいわね」

 

会長はまったく傷ついていない顔で笑った。

 

脱衣所の奥から、湯の音が聞こえる。

 

誰かが桶を置く音。

 

シャワーの音。

 

低い湯気の気配。

 

智子はその音を聞いて、少しだけ息を吐いた。

 

緊張していないわけではない。

 

けれど、逃げたいほどではなかった。

 

そはらが声をかける。

 

「行こっか」

 

智子は頷いた。

 

「うん」

 

「浴場へ移動」

 

「だから、そういう言い方やめようね」

 

ニンフは呆れたように言う。

 

「ただお風呂に入るだけでしょ」

 

会長はくすりと笑う。

 

「そうよ。ただのお風呂よ」

 

その言い方が妙に意味深だったので、そはらが少しだけ警戒した。

 

「会長、変なことしないでくださいね」

 

「何もしないわよ」

 

「本当ですか?」

 

「今日は、ね」

 

「今日限定なんですか!?」

 

智子は少し笑った。

 

「うん。ただ、お風呂に入るだけ」

 

そう言って、智子は湯気の向こうへ向かう扉を見た。

 

普通のこと。

 

たぶん、普通のこと。

 

それを普通にできるかどうかを、確かめるために。

 

智子は、そはらたちと一緒に浴場へ向かった。

 

-----

 

浴場に入っても、智子は特に何も感じなかった。

 

いや。

 

何も感じない、というより。

 

思っていたほど、何かが起きるわけではなかった。

 

湯気。

 

床を流れるお湯。

 

桶の音。

 

石鹸の匂い。

 

広い浴槽。

 

それだけだった。

 

会長はそんな智子の横顔を見て、少しだけ笑った。

 

「拍子抜けした?」

 

「少し」

 

智子は正直に答えた。

 

「もっと、何かあると思ってました」

 

「何もないことも、大事なのよ」

 

会長は軽く言う。

 

「普通に入って、普通に温まって、普通に出る。それだけで十分なこともあるわ」

 

智子は少しだけ黙った。

 

「……そうですね」

 

「ええ」

 

ニンフが会長を見る。

 

「今日はやけにまともね」

 

「あら、いつもまともよ」

 

「それはないわ」

 

「ひどいわね」

 

「……普通だね」

 

智子がぽつりと言う。

 

そはらは少しだけ目を瞬かせた。

 

「普通?」

 

「うん。普通のお風呂」

 

智子は少しだけ困ったように笑った。

 

「もっと変に意識するかと思ったけど、そうでもなかった」

 

「そっか」

 

ニンフは近くで羽を軽く広げながら、呆れたように言った。

 

「ただお風呂に入るだけでしょ。考えすぎなのよ」

 

「それはそうかも」

 

智子は素直に頷いた。

 

「でも、考えないよりはいいと思う」

 

「真面目ね」

 

「今だけかも」

 

「自分で言うんだ」

 

悠は浴場の床を見ていた。

 

「床面、滑りやすい。注意」

 

「ユゥ、そういう確認は大事だけど、もう少し普通に言おうね」

 

「転ばないように」

 

「うん、それでいい」

 

イカロスは自分の羽を見ていた。

 

湯気を含んだ羽が、いつもより少し重そうに見える。

 

「羽の洗浄を開始します」

 

「だから言い方」

 

そはらが苦笑する。

 

イカロスは桶にお湯を汲み、自分の羽へゆっくり流した。

 

羽の隙間に溜まっていた小さな埃や砂が、お湯と一緒に流れていく。

 

「わ、けっこう汚れてたんだね」

 

そはらが少し驚く。

 

イカロスは頷いた。

 

「通常の浴室では、十分に展開できませんでした」

 

「広いと洗いやすい?」

 

「はい」

 

イカロスは羽を少し広げる。

 

「可動範囲に余裕があります」

 

悠も自分の羽を見た。

 

「確かに、ここなら楽」

 

「ユゥも洗う?」

 

そはらが聞く。

 

「うん」

 

悠は少し考えてから、羽を広げた。

 

湯気の中で、紫の光が淡く揺れる。

 

「羽を洗うの、なんか不思議だね」

 

「髪を洗うのと似てる」

 

「でも、髪より面積が広い」

 

「それは大変そう」

 

ニンフは自分の羽を見て、少しだけため息をついた。

 

「面倒だけど、確かに広い方が楽ね」

 

「ほら、来てよかったじゃん」

 

そはらが笑う。

 

「別に、悪くはないってだけよ」

 

ニンフはそう言いながらも、羽を広げた。

 

細い部分や、可動する場所を指先で確かめるように洗っていく。

 

普段は面倒くさそうにしているニンフも、羽の手入れだけは意外と丁寧だった。

 

智子はそれを見て、少しだけ感心する。

 

「ニンフ、丁寧だね」

 

「当たり前でしょ」

 

ニンフは少しだけ眉を寄せた。

 

「ここが引っかかると、飛ぶ時に気持ち悪いのよ」

 

「そうなんだ」

 

「そうよ」

 

智子は自分の髪を軽くまとめながら頷いた。

 

「羽があるって、大変なんだね」

 

イカロスは静かに言う。

 

「ですが、飛行には必要です」

 

「うん」

 

悠も頷く。

 

「手入れは必要」

 

「そっか」

 

智子は少しだけ笑った。

 

「じゃあ、今日は羽の手入れの日だね」

 

「銭湯の趣旨が変わってるわよ」

 

ニンフが呆れる。

 

けれど、否定はしなかった。

 

会長は羽を洗う三人を見て、感心したように言った。

 

「紫月くんの羽は見慣れているけれど、三人並ぶと壮観ね」

 

「会長、楽しんでません?」

 

そはらが聞く。

 

「ええ」

 

「やっぱり!」

 

「でも、悪い意味ではないわよ」

 

会長は笑う。

 

「それだけ大きな羽を、ちゃんと広げて手入れできる場所は貴重だもの」

 

その言葉に、イカロスが静かに頷いた。

 

「同意します」

 

一通り洗い終えると、全員で湯船へ向かった。

 

広い湯船は、思っていたより静かだった。

 

智子はゆっくり湯に浸かる。

 

肩の力が抜ける。

 

「……あったかい」

 

その言葉は、自然に出た。

 

そはらが隣で笑う。

 

「ね。来てよかったでしょ」

 

「うん」

 

智子は素直に頷いた。

 

「来てよかった」

 

イカロスは湯の中で静かに座っている。

 

ニンフは少しだけ気持ちよさそうに目を細めていた。

 

会長はそんな様子を見て、満足そうに微笑んでいる。

 

悠は湯面を見ながら、何かを確認している。

 

「ユゥ?」

 

「水温、適正範囲内。入浴環境として良好」

 

「お風呂の感想じゃなくて評価みたいだね」

 

「評価している」

 

「そっか……」

 

そはらは小さく笑った。

 

浴場には、桶の音と、湯の揺れる音だけがあった。

 

何か大きな事件が起きるわけでもない。

 

誰かが騒ぐわけでもない。

 

ただ、湯船に浸かる。

 

羽を洗って。

 

温まって。

 

それだけ。

 

智子は目を伏せる。

 

「普通って、こういうことなのかな」

 

そはらが聞き返す。

 

「何か言った?」

 

「ううん」

 

智子は首を横に振った。

 

「何でもない」

 

会長は聞こえていたのか、いないのか。

 

ただ、静かに笑っていた。

 

しばらくして、そはらが立ち上がる。

 

「そろそろ出よっか。のぼせちゃうし」

 

「うん」

 

智子も頷いた。

 

イカロス、ニンフ、悠、会長も続く。

 

湯船から出る時、ニンフが小さく呟いた。

 

「まあ……悪くなかったわね」

 

「また来る?」

 

そはらが聞く。

 

ニンフは少しだけそっぽを向いた。

 

「気が向いたらね」

 

会長はくすりと笑う。

 

「その時は、私も誘ってね」

 

「勝手に来るくせに」

 

ニンフが言う。

 

「それもそうね」

 

「否定しないんだ……」

 

智子はそれを聞いて、少し笑った。

 

浴場の扉へ向かいながら、智子は思う。

 

特別なことは、何も起きなかった。

 

ただ、普通に入って、普通に出る。

 

それだけだった。

 

でも、今の智子には。

 

それが少しだけ、ありがたかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。