銭湯から帰る頃には、空はすっかり暗くなっていた。
家に着いても、智子はしばらく静かだった。
玄関で靴を揃え、買ってきた服の袋を持ったまま、少しだけ考えている。
そはらが声をかけた。
「トモちゃん?」
智子は顔を上げる。
「うん」
それから、自分の手を見る。
「目的は達成したと思う」
「目的?」
ニンフが眉をひそめる。
「銭湯に行くこと」
智子は静かに言った。
「普通に入って、普通に出られた」
イカロスが頷く。
「入浴は完了しました」
「そういう報告じゃないと思う」
そはらが苦笑する。
智子も少しだけ笑った。
「うん。でも、もう十分かな」
悠が智子を見る。
「戻る?」
「うん」
智子は頷いた。
「そろそろ、元に戻る」
その言葉に、そはらが少しだけ寂しそうな顔をした。
けれど、すぐに頷く。
「そっか」
「ただ、その前に」
智子は少しだけ家の奥を見た。
「部屋に行っていい?」
「うん」
そはらが頷く。
「買った服があるから」
智子はそう言って、自分の部屋へ向かった。
部屋は、智子が片付けた後のままだった。
漫画は棚に戻されている。
プリントは机の端に揃えられている。
脱ぎっぱなしだった服もない。
布団も整えられている。
そして、部屋の隅には、この数日で買った服がまとめて置かれていた。
今の智子が生活するために必要だったもの。
学校で使うもの。
家で過ごすためのもの。
それを見て、智子は少しだけ黙った。
「これ、そはらに預かってほしい」
智子は服をまとめ、そはらへ差し出した。
「服?」
「うん」
そはらは袋を受け取る。
「どうして?」
智子は少し困ったように笑った。
「元の私が持っていると、少し心配だから」
「心配って……」
ニンフが呆れたように言う。
「自分のこと信用してなさすぎでしょ」
「今の私は、元の私をそこまで信用していない」
「言い切ったわね」
智子はそはらを見る。
「必要なら、そはらが判断して。捨てなくてもいいけど、元の私にはすぐ渡さないで」
そはらは少しだけ黙った。
それから、袋を抱え直す。
「うん。分かった」
「ありがとう」
智子は小さく頭を下げた。
そして、悠の方を見る。
「もう一つ、お願いがある」
「何?」
「戻す時に、少しだけ記憶を調整してほしい」
そはらの表情が変わる。
「トモちゃん?」
智子はすぐに首を振った。
「全部消すわけじゃない」
それから、言葉を選ぶように続ける。
「学校で着替えたこと。銭湯に行ったこと。皆が受け入れてくれたこと。自分で考えて判断したこと」
智子は胸元に手を当てた。
「それは、覚えていた方がいいと思う」
「じゃあ、何を?」
そはらが聞く。
智子は少しだけ目を伏せた。
「細かい場面」
声が少し小さくなる。
「学校の更衣室のこと。銭湯の中のこと。そういう、元の私が変に思い出しそうなところ」
ニンフは黙った。
イカロスも、何も言わなかった。
智子は続ける。
「今の私は大丈夫でも、元の私は信用できない」
「そこまで?」
ニンフが言う。
智子は真面目に頷いた。
「そこまで」
「いいきるんだ」
「言わないと駄目だと思う」
悠は少しだけ首を傾げた。
「詳細記憶の解像度を下げる」
「うん」
「出来事の記録は残す」
「残して」
「感情記録は?」
智子は少し考えた。
「残してほしい」
そはらが智子を見る。
智子は静かに続けた。
「そはらが気にしてくれたこと。みんなが普通に接してくれたこと。普通にお風呂に入れたこと」
少しだけ笑う。
「それは、忘れたくない」
そはらは少しだけ目を伏せた。
「トモちゃん……」
悠は頷いた。
「分かった。細かい映像や身体の感覚はぼかす。出来事の流れと、反省したことは残す」
「お願い」
「うん。戻す時にそうする」
悠がカードを取り出した。
智子は一度、深呼吸した。
「そはら」
「何?」
「元に戻った私が変なことを言ったら、怒って」
そはらは少し笑った。
「うん。任せて」
「ニンフ」
「何よ」
「たぶん、戻った私は騒ぐと思う」
「でしょうね」
「その時は、遠慮なく呆れて」
「いつも通りじゃない」
智子は小さく笑った。
「イカロス」
「はい」
「元の私が変な命令をしたら、そはらに確認して」
「了解しました」
そはらが苦笑する。
智子は最後に悠を見る。
「悠」
「何?」
「戻して」
「うん」
悠がカードを構える。
智子は、そはらを見た。
ニンフを見た。
イカロスを見た。
最後に、少しだけ部屋を見回した。
片付いた部屋。
そはらに預けた服。
机の上に残したメモ。
自分がここにいた跡。
智子は、小さく息を吐いた。
「トモちゃん……」
智子は少しだけ笑った。
「どうせ、また会う気がする」
ニンフが半目になる。
「元のトモキ、そんなに信用できないの?」
「うん」
智子は即答した。
「できない」
「言い切ったわね」
「だから、たぶんまた会う」
そはらは困ったように笑った。
「またね」
悠が静かに言う。
「戻す」
カードが光る。
淡い光が智子の身体を包んだ。
数秒後。
そこに立っていたのは、いつもの智樹だった。
「……ん?」
智樹は瞬きをする。
自分の手を見る。
服を見る。
周囲を見る。
「戻った……のか?」
そはらが少し緊張した顔で頷いた。
「うん。戻ったよ」
智樹はしばらく黙っていた。
それから、急に顔を上げる。
「銭湯!」
そはらの肩が跳ねた。
ニンフが半目になる。
智樹は頭を押さえた。
「行った……よな?」
「行ったよ」
そはらが答える。
「でも……」
智樹は眉を寄せる。
「なんか、思い出せねえ」
悠が淡々と言う。
「詳細記憶の解像度を下げた」
「何してくれてんだああああああああ!!」
智樹の叫びが家に響いた。
「いや、覚えてる! 行ったのは覚えてる! 普通に入ったのも覚えてる! 反省した方がいい気がするのも覚えてる!」
「十分じゃない」
ニンフが冷たく言う。
「肝心なところがぼやけてんだよ!」
「トモちゃん」
にこり。
そはらが笑った。
次の瞬間、殺人チョップが智樹の脳天に炸裂する。
「ぐぼぁっ!?」
智樹は畳に沈んだ。
「肝心じゃないよね?」
「……肝心じゃありません」
「よろしい」
ニンフは半目でそれを見ていた。
「今の、普通に効いてたわよ」
智樹は即座に正座した。
それから、ふと周囲を見る。
「ん? そういえば、この数日で買った服は……」
そはらは袋を抱え直した。
「預かってる」
「ああ、そうだった……」
智樹は額を押さえた。
「俺が、俺を信用できないからって、そはらに預けたんだった……」
「正しい判断ね」
ニンフが言う。
「俺、俺に信用されてねえ!」
「そこはさっきから分かってたでしょ」
「ぐっ……!」
智樹は胸を押さえた。
そこで、ようやく部屋の様子が目に入った。
片付いている。
漫画は棚に戻っている。
プリントは机の端に揃えられている。
脱ぎっぱなしだった服もない。
布団も整えられている。
自分の部屋なのに、自分の部屋ではないみたいだった。
「……なんか、俺の部屋じゃねえみたいだな」
智樹はそう呟いてから、本棚を見た。
「そういえば……」
声が、急に小さくなる。
怪しげな本の束があったはずの場所。
そこが、綺麗に空白になっている。
その前に、紙が一枚置かれていた。
部屋を片付けること。
そはらに謝ること。
銭湯作戦を反省すること。
そして最後に一行。
有害図書は処分済み。
智樹は固まった。
「……ない」
誰も何も言わない。
「ない」
もう一度言った。
声が震えていた。
「俺の……」
そはらが目を逸らす。
ニンフも少しだけ目を逸らす。
イカロスは不思議そうに見つめる。
悠だけが普通に見ていた。
智樹は紙を握りしめた。
「俺の宝がああああああああああああ!!」
叫びが家中に響いた。
「何してくれてんだ俺ええええええええ!!」
ニンフがぼそっと言う。
「自分でやったんでしょ」
「俺じゃねえ! いや俺だけど! 俺じゃない俺だ!」
「ややこしいわね」
智樹は床に崩れ落ちた。
そはらが近づく。
「トモちゃん」
「はい」
「反省は?」
智樹は紙を見た。
そはらを見た。
悠を見た。
ニンフを見た。
そして、深く頭を下げた。
「……すみませんでした」
「うん」
そはらは頷く。
「よろしい」
智樹はそのまま顔を上げた。
「で、本は?」
悠が少しだけ首を傾げる。
「復元可能」
智樹の動きが止まった。
「……え?」
「記録は残っている」
「先に言ええええええええええ!!」
「聞かれなかった」
「聞く余裕あるかあああああ!!」
ニンフは呆れたように肩をすくめる。
「本のためなら元気ね」
「俺の命だ!」
「命を一回焼かれてるじゃない」
「俺が焼いたんだよおおおお!!」
智樹はまた床に突っ伏した。
悠はカードを取り出す。
「復元する?」
「する! 今すぐしてくれ! 悠様!」
「了解」
「待って」
そはらの声が、静かに割り込んだ。
悠の手が止まる。
智樹も止まる。
そはらは、少し怒った顔で悠を見た。
「ユゥ、それは駄目」
「駄目?」
「うん。そういうの、すぐ戻しちゃ駄目だよ」
悠は首を傾げる。
「復元可能」
「できるかどうかじゃないの」
そはらは、少しだけ声を強めた。
「トモちゃんがちゃんと反省する前に戻したら、何も変わらないでしょ」
「ぐっ……」
智樹が変な声を出した。
そはらは智樹を見る。
「トモちゃんも」
「はい」
「本が戻るからって、なかったことにはならないよ」
「……はい」
智樹は正座した。
ニンフが半目で見る。
「本のためなら素直ね」
「本のためじゃない! 反省してるからだ!」
「順番が逆に聞こえるわよ」
イカロスは静かに言う。
「マスターは反省中です」
「実況しなくていい!」
悠はカードを下ろした。
「復元は保留」
「保留ううううう!!」
智樹は頭を抱えた。
そはらはにこりと笑う。
智樹は部屋を見回した。
片付いている。
自分の部屋ではないみたいだ。
なのに、変に居心地は悪くない。
むしろ、散らかしたくないと思っている自分がいる。
それが一番、納得いかなかった。
「……まあ」
智樹は小さく呟く。
「このくらいなら、維持してやってもいいけどよ」
そはらが少しだけ笑った。
「うん」
「笑うな」
「笑ってないよ」
「絶対笑ってるだろ」
智樹はそっぽを向いた。
その日。
智樹は、復元を保留された宝のために泣いた。
けれど、片付いた部屋はそのままにした。
むしろ、その方が落ち着いた。
机の端に置かれた智子のメモは、捨てずに残した。
悔しいが、たぶん。
少しだけ必要なものだった。