そらのおとしもの -sigma-   作:effutod

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#29 清算!!

銭湯から帰る頃には、空はすっかり暗くなっていた。

 

家に着いても、智子はしばらく静かだった。

 

玄関で靴を揃え、買ってきた服の袋を持ったまま、少しだけ考えている。

 

そはらが声をかけた。

 

「トモちゃん?」

 

智子は顔を上げる。

 

「うん」

 

それから、自分の手を見る。

 

「目的は達成したと思う」

 

「目的?」

 

ニンフが眉をひそめる。

 

「銭湯に行くこと」

 

智子は静かに言った。

 

「普通に入って、普通に出られた」

 

イカロスが頷く。

 

「入浴は完了しました」

 

「そういう報告じゃないと思う」

 

そはらが苦笑する。

 

智子も少しだけ笑った。

 

「うん。でも、もう十分かな」

 

悠が智子を見る。

 

「戻る?」

 

「うん」

 

智子は頷いた。

 

「そろそろ、元に戻る」

 

その言葉に、そはらが少しだけ寂しそうな顔をした。

 

けれど、すぐに頷く。

 

「そっか」

 

「ただ、その前に」

 

智子は少しだけ家の奥を見た。

 

「部屋に行っていい?」

 

「うん」

 

そはらが頷く。

 

「買った服があるから」

 

智子はそう言って、自分の部屋へ向かった。

 

部屋は、智子が片付けた後のままだった。

 

漫画は棚に戻されている。

 

プリントは机の端に揃えられている。

 

脱ぎっぱなしだった服もない。

 

布団も整えられている。

 

そして、部屋の隅には、この数日で買った服がまとめて置かれていた。

 

今の智子が生活するために必要だったもの。

 

学校で使うもの。

 

家で過ごすためのもの。

 

それを見て、智子は少しだけ黙った。

 

「これ、そはらに預かってほしい」

 

智子は服をまとめ、そはらへ差し出した。

 

「服?」

 

「うん」

 

そはらは袋を受け取る。

 

「どうして?」

 

智子は少し困ったように笑った。

 

「元の私が持っていると、少し心配だから」

 

「心配って……」

 

ニンフが呆れたように言う。

 

「自分のこと信用してなさすぎでしょ」

 

「今の私は、元の私をそこまで信用していない」

 

「言い切ったわね」

 

智子はそはらを見る。

 

「必要なら、そはらが判断して。捨てなくてもいいけど、元の私にはすぐ渡さないで」

 

そはらは少しだけ黙った。

 

それから、袋を抱え直す。

 

「うん。分かった」

 

「ありがとう」

 

智子は小さく頭を下げた。

 

そして、悠の方を見る。

 

「もう一つ、お願いがある」

 

「何?」

 

「戻す時に、少しだけ記憶を調整してほしい」

 

そはらの表情が変わる。

 

「トモちゃん?」

 

智子はすぐに首を振った。

 

「全部消すわけじゃない」

 

それから、言葉を選ぶように続ける。

 

「学校で着替えたこと。銭湯に行ったこと。皆が受け入れてくれたこと。自分で考えて判断したこと」

 

智子は胸元に手を当てた。

 

「それは、覚えていた方がいいと思う」

 

「じゃあ、何を?」

 

そはらが聞く。

 

智子は少しだけ目を伏せた。

 

「細かい場面」

 

声が少し小さくなる。

 

「学校の更衣室のこと。銭湯の中のこと。そういう、元の私が変に思い出しそうなところ」

 

ニンフは黙った。

 

イカロスも、何も言わなかった。

 

智子は続ける。

 

「今の私は大丈夫でも、元の私は信用できない」

 

「そこまで?」

 

ニンフが言う。

 

智子は真面目に頷いた。

 

「そこまで」

 

「いいきるんだ」

 

「言わないと駄目だと思う」

 

悠は少しだけ首を傾げた。

 

「詳細記憶の解像度を下げる」

 

「うん」

 

「出来事の記録は残す」

 

「残して」

 

「感情記録は?」

 

智子は少し考えた。

 

「残してほしい」

 

そはらが智子を見る。

 

智子は静かに続けた。

 

「そはらが気にしてくれたこと。みんなが普通に接してくれたこと。普通にお風呂に入れたこと」

 

少しだけ笑う。

 

「それは、忘れたくない」

 

そはらは少しだけ目を伏せた。

 

「トモちゃん……」

 

悠は頷いた。

 

「分かった。細かい映像や身体の感覚はぼかす。出来事の流れと、反省したことは残す」

 

「お願い」

 

「うん。戻す時にそうする」

 

悠がカードを取り出した。

 

智子は一度、深呼吸した。

 

「そはら」

 

「何?」

 

「元に戻った私が変なことを言ったら、怒って」

 

そはらは少し笑った。

 

「うん。任せて」

 

「ニンフ」

 

「何よ」

 

「たぶん、戻った私は騒ぐと思う」

 

「でしょうね」

 

「その時は、遠慮なく呆れて」

 

「いつも通りじゃない」

 

智子は小さく笑った。

 

「イカロス」

 

「はい」

 

「元の私が変な命令をしたら、そはらに確認して」

 

「了解しました」

 

そはらが苦笑する。

 

智子は最後に悠を見る。

 

「悠」

 

「何?」

 

「戻して」

 

「うん」

 

悠がカードを構える。

 

智子は、そはらを見た。

 

ニンフを見た。

 

イカロスを見た。

 

最後に、少しだけ部屋を見回した。

 

片付いた部屋。

 

そはらに預けた服。

 

机の上に残したメモ。

 

自分がここにいた跡。

 

智子は、小さく息を吐いた。

 

「トモちゃん……」

 

智子は少しだけ笑った。

 

「どうせ、また会う気がする」

 

ニンフが半目になる。

 

「元のトモキ、そんなに信用できないの?」

 

「うん」

 

智子は即答した。

 

「できない」

 

「言い切ったわね」

 

「だから、たぶんまた会う」

 

そはらは困ったように笑った。

 

「またね」

 

悠が静かに言う。

 

「戻す」

 

カードが光る。

 

淡い光が智子の身体を包んだ。

 

数秒後。

 

そこに立っていたのは、いつもの智樹だった。

 

「……ん?」

 

智樹は瞬きをする。

 

自分の手を見る。

 

服を見る。

 

周囲を見る。

 

「戻った……のか?」

 

そはらが少し緊張した顔で頷いた。

 

「うん。戻ったよ」

 

智樹はしばらく黙っていた。

 

それから、急に顔を上げる。

 

「銭湯!」

 

そはらの肩が跳ねた。

 

ニンフが半目になる。

 

智樹は頭を押さえた。

 

「行った……よな?」

 

「行ったよ」

 

そはらが答える。

 

「でも……」

 

智樹は眉を寄せる。

 

「なんか、思い出せねえ」

 

悠が淡々と言う。

 

「詳細記憶の解像度を下げた」

 

「何してくれてんだああああああああ!!」

 

智樹の叫びが家に響いた。

 

「いや、覚えてる! 行ったのは覚えてる! 普通に入ったのも覚えてる! 反省した方がいい気がするのも覚えてる!」

 

「十分じゃない」

 

ニンフが冷たく言う。

 

「肝心なところがぼやけてんだよ!」

 

「トモちゃん」

 

にこり。

 

そはらが笑った。

 

次の瞬間、殺人チョップが智樹の脳天に炸裂する。

 

「ぐぼぁっ!?」

 

智樹は畳に沈んだ。

 

「肝心じゃないよね?」

 

「……肝心じゃありません」

 

「よろしい」

 

ニンフは半目でそれを見ていた。

 

「今の、普通に効いてたわよ」

 

智樹は即座に正座した。

 

それから、ふと周囲を見る。

 

「ん? そういえば、この数日で買った服は……」

 

そはらは袋を抱え直した。

 

「預かってる」

 

「ああ、そうだった……」

 

智樹は額を押さえた。

 

「俺が、俺を信用できないからって、そはらに預けたんだった……」

 

「正しい判断ね」

 

ニンフが言う。

 

「俺、俺に信用されてねえ!」

 

「そこはさっきから分かってたでしょ」

 

「ぐっ……!」

 

智樹は胸を押さえた。

 

そこで、ようやく部屋の様子が目に入った。

 

片付いている。

 

漫画は棚に戻っている。

 

プリントは机の端に揃えられている。

 

脱ぎっぱなしだった服もない。

 

布団も整えられている。

 

自分の部屋なのに、自分の部屋ではないみたいだった。

 

「……なんか、俺の部屋じゃねえみたいだな」

 

智樹はそう呟いてから、本棚を見た。

 

「そういえば……」

 

声が、急に小さくなる。

 

怪しげな本の束があったはずの場所。

 

そこが、綺麗に空白になっている。

 

その前に、紙が一枚置かれていた。

 

部屋を片付けること。

そはらに謝ること。

銭湯作戦を反省すること。

 

そして最後に一行。

 

有害図書は処分済み。

 

智樹は固まった。

 

「……ない」

 

誰も何も言わない。

 

「ない」

 

もう一度言った。

 

声が震えていた。

 

「俺の……」

 

そはらが目を逸らす。

 

ニンフも少しだけ目を逸らす。

 

イカロスは不思議そうに見つめる。

 

悠だけが普通に見ていた。

 

智樹は紙を握りしめた。

 

「俺の宝がああああああああああああ!!」

 

叫びが家中に響いた。

 

「何してくれてんだ俺ええええええええ!!」

 

ニンフがぼそっと言う。

 

「自分でやったんでしょ」

 

「俺じゃねえ! いや俺だけど! 俺じゃない俺だ!」

 

「ややこしいわね」

 

智樹は床に崩れ落ちた。

 

そはらが近づく。

 

「トモちゃん」

 

「はい」

 

「反省は?」

 

智樹は紙を見た。

 

そはらを見た。

 

悠を見た。

 

ニンフを見た。

 

そして、深く頭を下げた。

 

「……すみませんでした」

 

「うん」

 

そはらは頷く。

 

「よろしい」

 

智樹はそのまま顔を上げた。

 

「で、本は?」

 

悠が少しだけ首を傾げる。

 

「復元可能」

 

智樹の動きが止まった。

 

「……え?」

 

「記録は残っている」

 

「先に言ええええええええええ!!」

 

「聞かれなかった」

 

「聞く余裕あるかあああああ!!」

 

ニンフは呆れたように肩をすくめる。

 

「本のためなら元気ね」

 

「俺の命だ!」

 

「命を一回焼かれてるじゃない」

 

「俺が焼いたんだよおおおお!!」

 

智樹はまた床に突っ伏した。

 

悠はカードを取り出す。

 

「復元する?」

 

「する! 今すぐしてくれ! 悠様!」

 

「了解」

 

「待って」

 

そはらの声が、静かに割り込んだ。

 

悠の手が止まる。

 

智樹も止まる。

 

そはらは、少し怒った顔で悠を見た。

 

「ユゥ、それは駄目」

 

「駄目?」

 

「うん。そういうの、すぐ戻しちゃ駄目だよ」

 

悠は首を傾げる。

 

「復元可能」

 

「できるかどうかじゃないの」

 

そはらは、少しだけ声を強めた。

 

「トモちゃんがちゃんと反省する前に戻したら、何も変わらないでしょ」

 

「ぐっ……」

 

智樹が変な声を出した。

 

そはらは智樹を見る。

 

「トモちゃんも」

 

「はい」

 

「本が戻るからって、なかったことにはならないよ」

 

「……はい」

 

智樹は正座した。

 

ニンフが半目で見る。

 

「本のためなら素直ね」

 

「本のためじゃない! 反省してるからだ!」

 

「順番が逆に聞こえるわよ」

 

イカロスは静かに言う。

 

「マスターは反省中です」

 

「実況しなくていい!」

 

悠はカードを下ろした。

 

「復元は保留」

 

「保留ううううう!!」

 

智樹は頭を抱えた。

 

そはらはにこりと笑う。

 

智樹は部屋を見回した。

 

片付いている。

 

自分の部屋ではないみたいだ。

 

なのに、変に居心地は悪くない。

 

むしろ、散らかしたくないと思っている自分がいる。

 

それが一番、納得いかなかった。

 

「……まあ」

 

智樹は小さく呟く。

 

「このくらいなら、維持してやってもいいけどよ」

 

そはらが少しだけ笑った。

 

「うん」

 

「笑うな」

 

「笑ってないよ」

 

「絶対笑ってるだろ」

 

智樹はそっぽを向いた。

 

その日。

 

智樹は、復元を保留された宝のために泣いた。

 

けれど、片付いた部屋はそのままにした。

 

むしろ、その方が落ち着いた。

 

机の端に置かれた智子のメモは、捨てずに残した。

 

悔しいが、たぶん。

 

少しだけ必要なものだった。

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