玄関の前で、悠は足を止めた。
俺の上着を羽織っているが、その下は外装解除後に残った薄いインナーだけだった。
ただ、目の前にいるのが悠だと分かっているせいで、変な気分にはならなかった。
むしろ、寒くないのかという心配の方が先に来る。
背中の四枚羽も収納している。
髪色も、黒に近い紫へ偽装していた。
見た目だけなら、三年前の悠に近い。
少し線が細く、髪の長い少年。
昔から女子に間違われることはあった。
だから、遠目には不自然ではない。
けれど、隣に立っている俺には分かる。
足音が軽すぎる。
視線の動きが速すぎる。
玄関の向こうにいる誰かの気配まで、扉越しに読んでいる。
「イカロスが気がついたみたい。出てくる」
その言葉とほとんど同時に、玄関の内側で鍵が外れた。
扉が開く。
そこに立っていたのは、薄桃色の翼を持つ少女だった。
普段は翼を隠している。
けれど、今は違った。
淡い桃色の羽が、玄関の奥で静かに広がっている。
遠目には白く見えるほど薄い色。
だが、廊下の光を受けると、羽先にかすかな桜色が浮かんだ。
イカロスは俺を見た。
それから、悠を見た。
表情は変わらない。
けれど、空気だけが変わった。
「マスター」
イカロスは、俺の少し前で立ち止まった。
「未登録のエンジェロイド反応です」
「待て。こいつは悠だ」
「ユウ?」
イカロスが、俺の言葉を繰り返す。
悠はその名前に一拍遅れて反応した。
「……紫月悠」
そこまで言ってから、少しだけ顔をしかめる。
「ボクの名前。たぶん」
「たぶんって何だよ」
「まだ、うまく結びつかない」
悠は自分の胸元を押さえた。
「エリュシオンって呼ばれた方が、今のボクは安定する。でも、紫月悠もボクの名前」
イカロスは悠を見ていた。
「エリュシオン」
「うん」
「登録情報にありません」
「だと思う」
首筋に、紫色の光輪が浮かぶ。
「ボクのマスターは、ボク自身」
イカロスは瞬きをした。
「自己登録型」
「危険です、って言う?」
悠は苦笑した。
イカロスは少しだけ間を置いた。
「判断不能」
「不能なんだ」
「現在、該当する命令がありません」
その答えに、悠は痛そうに笑った。
「いいね」
「何が」
「命令がなければ、止まれるんだ」
悠の首筋の発光環が、淡く明滅する。
「ボクは、自分で自分に命令できる。止まる命令も出せる。でも、壊れる命令も出せる」
「そんな命令は出すな」
俺が言うと、悠は少しだけ目を伏せた。
「努力する」
「努力じゃなくて、出すな」
「……了解」
その返事が機械的に聞こえて、俺は言い直した。
「命令じゃない。頼みだ」
悠の光輪が、一瞬だけ揺れた。
「頼み」
「そうだ」
「命令じゃないんだ」
「ああ」
悠は小さく息を吐いた。
「そっちの方が、効くかもしれない」
イカロスは、まだ悠を見ていた。
「自己登録型は、通常のマスター登録と異なる状態です」
イカロスの声は淡々としていた。
ただの説明だった。
けれど悠の肩が跳ねた。
「再登録は嫌だ」
「再登録?」
俺が聞くと、悠は首を横に振った。
「嫌だ。誰かの命令で動くのは嫌だ」
少し、震えていた。
「誰も登録し直さない」
「本当に?」
「少なくとも、俺はしない」
悠は俺を見た。
「……分かった」
イカロスは、淡々と続ける。
「マスター。この個体を家に入れるのですか」
「ああ」
「未登録のエンジェロイド反応です」
「知ってる」
「追跡されている可能性があります」
「それも知ってる」
「自己命令系統は、登録情報にありません」
悠の肩が小さく揺れた。
「うん」
その声は、さっきより弱かった。
「ボクも、自分を完全には信用してない」
イカロスは少しだけ黙った。
「安全確認が必要です」
その言葉に、悠の指先がわずかに強張った。
「安全確認?」
「この個体がマスターに危害を加えないか、確認します」
イカロスの声は淡々としていた。
警戒ではなく、報告。
命令ではなく、手順。
けれど、悠には違うものに聞こえたのだと思う。
首筋の光輪が、また不安定に揺れた。
「……検査?」
「確認です」
「隔離する?」
「危険度が高い場合、距離を取る必要があります」
その瞬間、悠の顔から色が消えた。
「嫌だ」
俺は慌てて言った。
「待て、イカロスはそこまで言ってない」
「でも、そうなる」
悠は小さく首を横に振った。
「確認して、危険だって判断して、隔離して、再登録して、命令系統を安定させる。そういう手順になる」
「悠」
「嫌だ」
今度は、はっきりした声だった。
「もう、検査されるのも、隔離されるのも、誰かの命令で動くようにされるのも嫌だ」
イカロスは沈黙した。
その沈黙が、肯定にも否定にも聞こえて、悠の羽が開きかける。
俺は反射的に悠の手を掴んだ。
少し、震えていた。
「誰もそんなことしない」
「本当に?」
「少なくとも、俺はしない」
悠は俺を見た。
しばらくして、紫の光が弱まる。
「……分かった」
イカロスは言った。
「マスターの判断を待機します」
「判断ってほど大げさじゃないけどな」
俺は悠を見た。
「とりあえず、中に入る」
悠はまだ少し迷っていた。
「入って、いいの?」
「ああ」
「あとで、危険だから外に出ろって言わない?」
「言わない」
「命令?」
「違う。約束」
悠はその言葉を確かめるように、ゆっくり繰り返した。
「約束」
「ああ」
「……そっか」
紫の光が、さらに弱くなる。
「約束なら、少し分かる」
イカロスは、しばらく沈黙した。
やがて、翼を少し畳んで横に退く。
「マスターの判断を優先します」
「ありがとう」
俺はそう言って、悠と一緒に玄関をまたいだ。
三年前に消えた幼馴染が、少女型の兵器になって、俺の家に入ってきた。
それだけで、家の空気がまるごと変わった気がした。
その瞬間、玄関のチャイムが鳴った。
俺と悠は同時に固まった。
イカロスが玄関を見る。
悠の目が細くなる。
「ダウナー、一人。敵意は薄い。でも感情反応が強い」
言ってから、悠の表情がわずかに固まった。
けれど訂正する前に、聞き慣れた声が玄関の向こうから響いた。
「いるんでしょ? 開けるよ」
まずい。
非常にまずい。
鍵が開く音がした。
「ちょ、待て! 今は本当に待て!」
俺は慌てて玄関へ向かった。
けれど遅かった。
扉が開き、幼馴染の少女がいつもの調子で入ってくる。
「何よ、そんな慌てて。どうせまた変なこと――」
そこで、そはらの言葉が止まった。
まず、俺を見た。
次に、イカロスを見た。
そこまでは、ここ数日の異常な日常として、ぎりぎり飲み込んだらしい。
だが、その次に悠を見た。
俺の上着を羽織った、見知らぬ少女。
黒に近い紫の長い髪。
中性的な顔立ち。
細い身体。
そして、上着の前を少し気まずそうに押さえている姿。
沈黙。
そはらの目が、ゆっくり細くなった。
「……誰?」
声が低い。
俺は両手を上げた。
「落ち着け。これは違う」
「何が違うの?」
「見た目ほどやましい状況じゃない」
「見た目はかなりやましいけど?」
「説明する」
「今すぐ」
悠は困ったように俺を見る。
イカロスは状況を理解しているのかいないのか、淡々と立っている。
俺は深呼吸した。
「これは、親戚で」
次の瞬間、そはらの手刀が俺の脳天に落ちた。
鈍い音がした。
「痛っっ!」
「まず一発」
「まずって何だよ!?」
「嘘をついた分」
「まだ嘘と決まったわけじゃ」
「じゃあ本当なの?」
「……嘘です」
「はい二発目」
「待て待て待て!」
俺が慌てて頭を守ると、悠が小さく笑った。
本当に小さな笑いだった。
けれど、その笑い方で、そはらの動きが止まった。
「……今の」
悠も、自分で気づいたようだった。
昔と同じ笑い方をしてしまったことに。
そはらは、ゆっくり悠を見る。
「あなた、誰?」
俺は、すぐに答えられなかった。
知っている名前なのに、今の姿へそのまま重ねていいのか分からなかった。