ニンフが地上に来てから、何日か経っていた。
最初は、敵だった。
次に、転校生になった。
それから、少しずつ日常に混ざっていった。
混ざっているように見えただけかもしれない。
けれど、イカロスが眠るようになったことを、ニンフはずっと気にしていた。
ある夜。
ニンフは、ぽつりと言った。
「私も、夢を見てみたい」
その声は、いつもの強がったものではなかった。
からかうような響きもない。
ただ、分からないものを前にして、少しだけ手を伸ばすような声だった。
イカロスは、ニンフを見た。
「夢は、不明な記録です」
「それ、説明になってないわよ」
「ですが」
イカロスは少しだけ目を伏せる。
「消したくない記録もあります」
ニンフは黙った。
「眠ることは、選べます」
イカロスは続けた。
「私は、選べるようになりました」
「……そう」
ニンフは小さく呟く。
「じゃあ、私も選びたい」
その言葉で、部屋の空気が少し変わった。
俺は悠を見た。
悠も、ニンフを見ていた。
今の悠は戻っている。
紫月悠として、ここにいる。
けれど、エリュシオンとしての処理が消えたわけじゃない。
だからこそ、ニンフの中にあるものも、ある程度は分かっているのだと思う。
悠は静かに言った。
「できると思う」
ニンフが眉をひそめる。
「本当に?」
「うん」
悠は頷いた。
「眠ることを、選べるようにする」
「選べるように……」
「眠るかどうかは、ニンフが決める。外から命令で眠らせるものにはしない」
ニンフは少しだけ黙った。
それから、強がるように笑った。
「ふうん。なら、やってみなさいよ」
悠はすぐには動かなかった。
「その前に、智樹とそはらに確認する」
「何でよ」
「前に、失敗したから」
ニンフが少しだけ目を細める。
「失敗?」
「イカロスの時、ボクは勝手に深く入った。それで、戻りにくくなった」
悠は静かに言った。
「だから今回は、先に話す」
「……そう」
ニンフは少しだけ顔を逸らした。
「勝手にしなさいよ。待ってるから」
悠は俺とそはらを連れて、部屋の外へ移動した。
ニンフには、少しだけ待ってもらう。
完全に隠すためではなかった。
先に、俺たちに確認するためだった。
悠は声を落とした。
「先に、智樹とそはらに話す」
「何でだよ」
「ニンフに説明する前に、智樹が受けられるか確認したい」
「受ける?」
悠は紙に簡単な図を描いた。
拘束命令。
待機命令。
マスター権限。
そして、その先に、俺の名前。
桜井智樹。
俺は息を呑んだ。
「……俺?」
悠は小さく頷いた。
「ニンフに眠る機能を追加するには、命令系統に触る必要がある」
「命令系統……」
「うん。眠ることを選べるようにするには、常時待機や服従の命令と干渉する。そこを避けると、眠る機能だけがあっても使えない可能性が高い」
そはらが小さく言った。
「それで、トモちゃんの名前が出てくるの?」
悠は頷いた。
「マスター権限の一時的な避難先が必要になると思う」
「避難先って……」
俺は図を見つめた。
「つまり、ニンフのマスターを俺に変えるってことか?」
悠は少しだけ間を置いてから答えた。
「一時的には、そうなる」
背中に、嫌な汗が流れた。
「それ、ニンフには言うんだよな」
悠は頷いた。
「言う」
その返事に、俺は少しだけ息を吐いた。
「言わなかったら止めてたぞ」
「うん」
悠は静かに答えた。
「言わずにやるのは、駄目だと思う」
そはらが胸元に手を当てる。
「よかった……」
悠は図の上に指を置いた。
「でも、説明してもニンフが拒否する可能性は高い」
「だろうな」
「自分のマスターを書き換えられるなんて、怖いに決まってる。自由になることも、自由にされることも、エンジェロイドにとっては安全とは限らない」
そはらが唇を噛んだ。
「でも、それでも必要なの?」
「たぶん」
悠は、ニンフの方を見た。
ニンフはこちらを見ないふりをしていた。
けれど、待っているのは分かった。
「現マスターの命令系統を残したままだと、ニンフは眠ることを選べないかもしれない」
「眠る機能だけじゃ駄目なのか?」
「眠れる身体にしても、眠っていいと自分で思えないかもしれない」
俺は黙った。
ニンフの命令。
待機。
回収。
破壊。
それらが、寝ることさえ許さないかもしれない。
そう思うと、胸の奥が妙に重くなった。
悠は俺を見る。
「だから、先に智樹へ確認する。ニンフが許可した場合、智樹は命令しないためのマスターになれる?」
「命令しないためのマスター……」
「うん」
悠ははっきりと言った。
「ニンフに命令しないでほしい。眠れとも、戦えとも、従えとも言わないでほしい。ただ、現マスターから命令が来ないようにするための避難先になってほしい」
俺は何も言えなかった。
そんなもの、簡単に頷ける話じゃない。
誰かのマスターになる。
その言葉だけで、気持ち悪いほど重い。
でも、断ればどうなるのかも分かっていた。
ニンフはたぶん、また命令に縛られる。
眠りたいと言った、その声ごと。
「……お前は?」
俺は聞いた。
「お前は大丈夫なのか」
悠は、今度はごまかさなかった。
「イカロスの時みたいに、戻りにくくなると思う」
そはらの顔色が変わった。
「ユゥ……」
「前より危ないかもしれない。ニンフは電子戦型だから、こっちの処理にも干渉してくる可能性がある。マスター権限まで触るなら、エリュシオン側の比率が上がると思う」
「また、戻らなくなるのか」
俺が聞くと、悠は少しだけ目を伏せた。
「戻りにくくなる」
「同じじゃねえか」
「同じじゃない」
悠はすぐに言った。
「今回は、戻ると決めてから行く」
そはらの目が揺れた。
「戻るって……」
「自分に、戻るための約束を残す」
悠は自分の胸元に手を当てた。
「紫月悠として戻る。智樹とそはらの呼びかけを切らない。戻るまで、諦めない」
そはらは泣きそうな顔で悠を見る。
「そんなの……本当にできるの?」
「万能じゃない」
悠は言った。
「すぐ戻れるわけじゃないと思う。呼ばれても、反応できないかもしれない。言葉も硬くなると思う」
「それでも?」
「それでも、完全には切らない」
悠は俺とそはらを見た。
「智樹が悠って呼んだ時と、そはらがユゥって呼んだ時だけは、必ず内部に届くようにする」
「他の人は?」
そはらが聞く。
悠は少しだけ黙った。
「届かないと思う」
それは、嫌な答えだった。
「部長や会長や、学校の人たちが紫月悠って呼んでも、反応できないと思う。即時応答が必要なら、エリュシオンと呼ぶしかない」
俺は拳を握った。
つまり、そういうことだ。
俺たち以外の人間には、紫月悠として届かない。
悠を呼ぶ名前が、世界から少しずつ削られる。
「……それ、つらくないのかよ」
俺が聞くと、悠は少しだけ困ったように笑った。
「つらいと思う」
「思うって何だよ」
「でも、戻るための道は必要だから」
そはらが震える声で言う。
「約束して」
「うん」
「戻ってきて」
悠は、今度は迷わず頷いた。
「戻る」
「絶対?」
「絶対」
「返事してくれる?」
「する」
「遅くても?」
「遅くても」
「変な言い方でも?」
「変な言い方でも」
俺は奥歯を噛んだ。
「俺は、エリュシオンって呼ばないからな」
悠は俺を見る。
「危険な時は呼んでもいい」
「嫌だ」
「即時応答が必要な場合は」
「嫌だ」
俺ははっきり言った。
「お前は悠だ」
悠は少しだけ目を見開いた。
それから、小さく笑った。
「うん」
その笑い方は、まだ紫月悠だった。
だから余計に、怖かった。
この後、それが見えなくなるかもしれないと思うと、余計に。
悠は深く息を吸った。
「じゃあ、ニンフに話す」
「おう」
「うん」
そはらが頷く。
悠は、ニンフのいる部屋へ戻った。
ニンフは腕を組んで待っていた。
「話、長いんだけど」
「ごめん」
悠はそう言った。
その声は、まだ悠だった。
「始める前に、説明する」
ニンフは眉をひそめる。
「何よ」
「眠ることを選べるようにするには、命令系統に触る必要がある」
「命令系統?」
「うん」
悠はまっすぐニンフを見た。
「今のままだと、常時待機や服従の命令が、睡眠と衝突する可能性が高い」
ニンフの表情が変わった。
「つまり?」
「今のマスター権限を、一時的に切り離す必要がある」
部屋が静かになった。
ニンフの羽が、わずかに震える。
「……それで?」
「避難先が必要になる」
悠は少しだけ間を置いた。
「智樹に、一時的なマスター権限を預ける」
ニンフは固まった。
それから、ゆっくりと俺を見る。
「……何、それ」
俺はすぐに両手を上げた。
「俺は命令しない」
「そういう問題じゃないでしょ!」
ニンフの声が鋭くなる。
「私のマスターを、トモキにするって言ってるのよ? それを、そんな簡単に」
「簡単じゃない」
悠は静かに言った。
「怖いことだと思う」
ニンフは言葉を止めた。
「だから、ニンフが嫌ならやらない」
「……」
「眠る機能だけを入れることはできるかもしれない。でも、命令が残ったままだと、選べない可能性がある」
悠は続けた。
「眠れる身体にしても、眠っていいと自分で思えないかもしれない」
ニンフは唇を噛んだ。
「……嫌よ」
小さな声だった。
「また、命令で縛られるのは嫌」
「うん」
「でも」
ニンフは唇を噛んだ。
「マスターがいないのも、落ち着かないのよ」
その声は、怒っているようで。
少しだけ、泣きそうにも聞こえた。
「それが、自分でも嫌なの」
悠は静かに頷いた。
「分かる」
「分かったような顔しないで」
「似ているから」
ニンフは言葉に詰まった。
「でも」
ニンフは俺を見る。
俺は、何も言わずに待っていた。
「……命令しないのね」
俺は頷いた。
「しない」
「本当に?」
「しない」
「私が何か言っても?」
「しない」
「私が勝手にしたら?」
「その時は、普通に怒る。でも命令はしない」
ニンフは少しだけ目を細めた。
「普通に怒るって何よ」
「普通に怒るってことだよ」
「馬鹿みたい」
ニンフはそう言って、顔を逸らした。
けれど、拒否はしなかった。
「……一時的」
「うん」
悠が頷く。
「命令遮断と睡眠機能の安定が終わったら、固定しない。ニンフが自分で選べる状態にする」
「勝手に奥まで見たら、殺すから」
「見ない」
「記憶も」
「触らない」
「自由意志も」
「触らない」
「マスター権限も、必要以上に触ったら」
「しない」
ニンフは深く息を吐いた。
「……分かったわよ」
その声は、怒っているようで。
少しだけ、震えていた。
「やりなさい」
悠は頷いた。
「うん」
ニンフは強がるように笑った。
「私にも、夢を見せて」
「うん」
悠は頷く。
そして、首元の制御環が淡く光った。
「自己命令、保存」
その声が、少しだけ硬くなる。
「帰還条件、設定」
制御環が一度だけ強く光った。
「紫月悠としての帰還条件を保持。桜井智樹、見月そはらからの呼称入力を遮断禁止」
首元に、淡い紫の輪が浮かぶ。
けれど、まだ首輪ではない。
まだ、悠のままだった。
「ただし、対象ニンフの睡眠機能実装に必要な範囲で、制限系統を一時上書き」
「制限系統を限定解除。制御系統、解析深度を拡張」
悠の声が、少しずつ硬くなる。
高く、硬く、異常に冷たい声。
偽装が剥がれていくようだった。
悠の首元に、淡い紫の輪が浮かぶ。
光輪ではない。
首輪だった。
細い紫の光でできた首輪が、悠の喉元を囲む。
そこから、鎖のような光が伸びる。
じゃらり、と音がした気がした。
鎖は誰かの手に伸びているわけではなかった。
悠自身の手へ伸びていた。
まるで、自分で自分を縛っているみたいだった。
悠は、低く告げた。
「ミラージュ・ドライヴ:オーバーライド、実行」
その声を聞いた瞬間、俺は息を呑んだ。
また、悠が遠くなる。
「睡眠を、休止ではなく、意識状態の自然低下として定義」
「悠!」
呼んでも、返事がない。
「外部命令による強制停止ではなく、対象意思による移行可能状態として実装」
「ユゥ……!」
そはらの声にも、悠はすぐには反応しなかった。
「主従契約下における常時待機命令と競合」
ニンフの羽が、小さく震えた。
「待機命令を優先する限り、睡眠移行不可」
「何よ、それ……」
ニンフの声が震える。
「制限解析」
悠はニンフだけを見ていた。
いや、見ているというより、解析しているようだった。
「主従契約拘束、切替対象」
俺の胸が、嫌なほど熱くなった。
見えない何かが、こちらへ繋がる感覚があった。
「切替」
「おい、悠!」
「対象ニンフの自由選択を阻害する拘束を、現マスター権限より分離」
紫の光が、ニンフに走った。
「現マスター権限、強制命令路を遮断」
「避難先権限、設定」
重い。
気持ち悪いほど重い。
これが、マスターというものなのか。
誰かの行動を左右できる場所に立つということなのか。
俺は喉の奥が詰まった。
命令したいとは、少しも思わなかった。
むしろ、絶対に命令してはいけないと思った。
「新規マスター権限、桜井智樹へ一時接続」
その瞬間、ニンフの身体がびくりと震えた。
「……え?」
ニンフは自分の胸元を押さえた。
「何……これ」
声が震えている。
「繋がってる」
ニンフの瞳が揺れた。
「でも……濁ってない」
部屋が静かになった。
「動けとか、壊せとか、帰れとか……そういうのが、入ってこない」
胸元を押さえる指に、少しだけ力が入る。
「命令遮断の時は、遠くなっただけだった」
ニンフは、信じられないものを見るように智樹を見た。
「でも、これは違う」
声が、小さく震えた。
「繋がってるのに、澄んでる」
智樹は何も言えなかった。
ニンフは胸元を押さえたまま、かすれるように呟く。
「何よ、これ……」
悠は硬い声のまま続けた。
「睡眠機能実装。選択条件、対象意思。外部命令による強制不可」
「そう……」
「対象ニンフ、睡眠選択権を取得」
「そう、なんだ……」
ニンフは膝をついた。
「私、眠ってもいいんだ」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
けれど、部屋の全員が聞いていた。
悠はそこで一度、静かに目を閉じた。
「対象ニンフ、拘束系統解除後安定化を継続」
「悠」
俺が呼ぶ。
反応はない。
「ユゥ」
そはらが呼ぶ。
悠の瞳が、わずかに揺れた。
けれど、返事はなかった。
首元の首輪が淡く光る。
手に伸びた鎖が、ぴんと張っている。
「ミラージュ・ドライヴ:オーバーライドに伴う、処理優先状態を継続」
俺は拳を握った。
やっぱり、すぐには戻らない。
分かっていた。
分かっていたけれど、胸が痛かった。
守形先輩が低く言う。
「エリュシオン」
悠は即座に振り向いた。
「はい」
その返事は、速く、正確で、冷たかった。
そはらが息を呑む。
俺は奥歯を噛んだ。
エリュシオンと呼べば、すぐに返事をする。
悠と呼んでも、返事はない。
それでも。
俺は、そっちの名前で呼ぶ気にはなれなかった。
「悠」
もう一度呼ぶ。
数秒遅れて、悠の視線がこちらへ動いた。
「……入力、確認」
硬い。
遠い。
それでも、届いていた。
「今すぐ戻ってこいとは言わねえ」
俺は言った。
「でも、聞こえてるなら、それでいい」
悠は何も言わなかった。
ただ、瞳がほんの少しだけ揺れた。
その直後、首元の首輪が淡く光る。
「内部命令、照合」
悠が、硬い声で呟いた。
「命令内容。紫月悠として戻る」
俺は息を止めた。
「発令者、紫月悠」
そはらが小さく震えた。
「ユゥ……」
悠はそはらの方を見なかった。
けれど、瞳だけがわずかに揺れていた。
「現在、実行不能」
胸の奥が冷えた。
「ただし、命令は保持」
悠は淡々と言った。
「桜井智樹、見月そはらからの呼称入力を遮断禁止。帰還処理、継続」
それが返事なのか、ただの処理なのかは分からない。
でも、俺はそれを返事だと思うことにした。
そうしなければ、ここに立っていられなかった。
シリアス残してここで終了です~
続きは自由に書いていただいて構いません。
そのうち続きを書くかもしれませんが当分は別作品に行きたいと思います。