そはらは、しばらく動かなかった。
俺を見て、イカロスを見て、それから悠を見た。
目の前にいるのは、俺の上着を羽織った見知らぬ少女だった。
しかも、妙に落ち着いている。
怯えているようにも見えるのに、逃げようとはしない。
「……説明して」
そはらの声は低かった。
俺は口を開きかけて、閉じた。
何から説明すればいい。
三年前に消えた幼馴染が、空の上で作り替えられて帰ってきた。
今は少女の身体で、エリュシオンと呼ばれていて、自分自身をマスターにしている。
そんな説明を、どうやって普通の言葉にすればいい。
「トモちゃん」
そはらが一歩近づいた。
「ちゃんと説明して」
その時、悠が小さく息を吸った。
悠はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり口を開いた。
「ボクが言う」
「悠」
俺が名前を呼んだ瞬間、そはらの表情が変わった。
「悠?」
悠はその名前に一拍遅れて反応した。
「うん」
喉が少し震えていた。
「久しぶり」
そはらは、笑わなかった。
「嘘」
「嘘じゃない」
「悠は男の子だった」
「うん」
「三年前にいなくなった」
「うん」
「そんな姿じゃなかった」
「うん」
悠は目を伏せた。
「変えられた」
その一言は、あまりにも短かった。
でも、その短さの中に、三年分の何かが押し込められている気がした。
そはらは口を開きかけて、何も言えなかった。
怒ることも、泣くことも、問い詰めることもできない。
俺も同じだった。
三年前、俺たちは悠を探した。
町の中を走って、河川敷を見て、坂道を上って、何度も名前を呼んだ。
でも、空の上なんて探せるわけがなかった。
探せるわけがない場所に、悠はいた。
そこで、変えられた。
悠は自分の胸元を押さえる。
「ボクは、エリュシオン」
首筋に、紫の発光環が浮かぶ。
「可変統合型エンジェロイド。タイプシグマ」
イカロスが静かに補足しようとした。
「対象は――」
「今は言わなくていい」
俺が止めると、彼女は口を閉じた。
悠は続ける。
「でも、紫月悠でもある……と思う」
そはらは、震える声で言った。
「思うって何よ」
「ボクにも、まだ分からない」
「分からないって、何よ」
「身体も、声も、記憶の出方も、言葉も、少しずつ変わってる」
悠は苦しそうに笑った。
「でも、そはらのことは覚えてる」
そはらの目に涙が浮かんだ。
「じゃあ、私のこと言って」
悠は一度、目を閉じた。
電子音のような小さな警告が、首筋の発光環から漏れる。
「幼馴染。地上生活時代の近接個体。高頻度接触者。感情反応、親愛、安心、軽度恐怖」
「最後の何!?」
悠は少しだけ焦った。
「違う。今のはインプット側の分類」
「分類しないでよ!」
「ごめん」
「名前は?」
悠はそはらを見た。
今度は、機械的な言葉ではなかった。
「覚えてる。そはら。見月そはら」
その呼び方は、三年前と同じだった。
その瞬間、そはらの涙がこぼれた。
「本当に……悠なの?」
悠は頷こうとして、止まった。
そして、正直に言った。
「たぶん」
「たぶんって何よ!」
そはらは悠に近づく。
俺は止めようとしたが、悠が小さく首を横に振った。
そはらは、悠の頬に触れた。
その手が震えている。
悠も震えていた。
「三年も、どこ行ってたのよ」
「空の上」
「馬鹿」
「うん」
「帰ってくるなら、もっと普通に帰ってきなさいよ」
「ボクもそうしたかった」
「なんでそんな姿になってるのよ」
「作り替えられた」
「誰に」
悠は答えなかった。
答えられなかった。
代わりに、背中に紫の光が広がる。
羽織っていた上着が、内側から押されるようにずれた。
悠は一瞬だけそれを押さえようとして、やめる。
白銀と紫の外装が、肩から背中にかけて展開した。
肌を覆うように、装甲の輪郭が組み上がっていく。
装甲は、服のようには見えなかった。
身体に着せられているというより、身体の一部が外へ現れたようだった。
肩口から背中へ、薄い白銀の板が重なり合い、紫の光がその隙間を走る。
そはらが、息を止めたのが分かった。
俺も、何度見ても慣れなかった。
悠はここにいる。
でも、目の前の姿は、人間の身体だけでは説明できない。
その背中から、収納されていた羽がゆっくりと開いた。
二対四枚。
根元は白に近い銀色。
羽先に向かうほど、淡い紫がほのかに沈む羽。
柔らかな羽毛に見える。
けれど根元には、結晶のような人工軸と紫の回路光があった。
天使の羽に見えて、自然のものではない。
そはらは息を呑んだ。
悠は言った。
「これが、今のボク」
声は小さかった。
「怖い?」
そはらはしばらく黙っていた。
やがて、涙を拭かないまま、悠を睨んだ。
「怖いに決まってるでしょ」
悠の表情が沈む。
でもそはらは続けた。
「でも、それより腹が立つ」
「え?」
「三年もいなくなって、やっと帰ってきたと思ったら、そんな顔して、怖いかなんて聞いて」
そはらは一歩踏み込んだ。
「怖いのは、悠の方でしょ」
悠の羽が小さく震えた。
「……うん」
「だったら、最初からそう言いなさいよ」
「怖い」
悠は、ようやく言った。
「ボクは、自分が怖い」
その瞬間、そはらは悠を抱きしめた。
悠は完全に固まった。
「接触過多。姿勢制御が」
「黙って抱きしめられてなさい」
「……了解」
「命令じゃない」
「じゃあ、分かった」
悠の声が震える。
「ただいま」
そはらは、泣きながら言った。
「おかえり、悠」
その言葉で、悠の羽が少しだけ力を抜いた。
紫の光が、穏やかになる。
やがて、四枚の羽がゆっくりと畳まれた。
肩から背中にかけて展開していた白銀と紫の外装も、粒子のようにほどけていく。
「……外装、しまうね」
「え?」
俺が聞き返す前に、装甲の輪郭が消えた。
次の瞬間、悠はまた薄いインナーだけの姿になって、はっとしたように自分の身体を見下ろした。
「……しまうと、服がない」
「だから先に言え!」
俺は慌てて床に落ちかけていた上着を拾い、悠の肩にかけ直した。
悠は上着の前を押さえながら、小さく頷く。
「ありがとう」
「礼はいいから前閉めろ!」
イカロスは、その光景をじっと見ていた。
理解できないものを見るように。
あるいは、自分にはまだ分からない何かを記録するように。
俺はようやく息を吐いた。
隠す相手が一人減った。
けれど同時に、悠を守らなければならない理由が一つ増えた。
その直後、そはらがこちらを見た。
涙を拭きながら、目だけはしっかり怒っていた。
「で」
「え?」
「事情は分かったけど」
嫌な予感がした。
「悠をそんな格好で家に入れて、しかも嘘までつこうとした件は別」
「いや、それは不可抗力で」
二発目が落ちた。
「痛っ!」
「とりあえず服を用意する!」
そはらはそう宣言した。
「はい!」
俺は反射的に返事をして、自分の部屋へ向かおうとした。
とりあえず、俺のシャツかジャージでも出せばいい。
サイズは合わないかもしれないが、上着だけよりはずっとましだ。
そう思ったところで、そはらに襟首を掴まれた。
「待ちなさい」
「何だよ」
「まさか、トモちゃんの服を着せるつもり?」
「他にないだろ」
「あるでしょ」
「どこに」
「私の家」
そはらは当然のように言った。
俺は一瞬、言葉に詰まった。
「いや、でも悠は男子制服がいいって」
悠が、上着の前を押さえたまま小さく頷いた。
「うん。学校に戻るなら、男子制服がいい」
そはらは悠を見た。
怒るかと思った。
けれど、そはらは怒らなかった。
少しだけ考えて、それから静かに言った。
「それは、あとで考えよ」
「あとで?」
「今は学校じゃなくて、家の中でしょ。まず普通に着られる服」
悠は視線を落とした。
「普通に着られる服」
「そう。トモちゃんの服だと大きすぎるし、余計に変に見える」
「変」
「変っていうか……」
そはらは言葉を探した。
「今のユゥには、楽に着られる服が必要なの」
悠が少しだけ反応した。
「ユゥ」
「昔からそう呼んでたでしょ」
「まだ、その呼び方なんだ」
「嫌?」
「ユウちゃんよりはいい」
「じゃあユゥ」
悠は少しだけ困ったように目を伏せた。
「……うん。それならいい」
そはらは、それを聞いて一瞬だけ泣きそうな顔をした。
けれど、すぐに表情を引き締める。
「とにかく、私の部屋着を持ってくる。制服とか、かわいい服とか、そういうのじゃなくて、普通に楽なやつ」
「女の子の服?」
悠の声が少し硬くなる。
そはらはすぐに首を横に振った。
「似合うとか、そういう話じゃないでしょ」
少し強めの声だった。
「今は、ちゃんと着られる服が必要なの。寒くないこと。動きにくくないこと。トモちゃんの上着だけで座ってないこと。まずそこ」
「寒さは、感じる」
悠がぽつりと言った。
そはらの言葉が止まる。
「感じるけど、苦痛としては処理されにくい。外装を解除しても、すぐに行動不能になるわけじゃない」
その言い方は静かだった。
静かすぎた。
「だから、寒いかどうかは、たぶん優先順位が低い」
そはらは、しばらく悠を見ていた。
それから、少し怒ったように言った。
「そういうのが駄目なの」
「え?」
「寒いなら、寒いでいいの。大丈夫かどうかじゃなくて、寒いなら服を着るの」
悠は瞬きをした。
「現実的」
「当たり前でしょ」
「うん」
悠は上着を握る指に力を込めた。
「それなら、分かる」
そはらは頷くと、イカロスを見た。
「イカロスさん」
「はい」
「私が服を取ってくるまで、ユゥを見ててください」
「監視ですか」
悠の肩が一瞬だけ強張った。
そはらはすぐに言い直した。
「見守り」
イカロスは少しだけ首を傾げた。
「見守り」
「そう。監視って言うと、ユゥが怖がるから」
イカロスは悠を見た。
悠は少し気まずそうに視線を逸らす。
「理解しました。見守ります」
「お願いします」
そはらはそう言ってから、俺に向き直った。
「トモちゃん」
「はい」
「変なこと考えない」
「考えてない!」
「じゃあ、ユゥをちゃんとリビングに座らせておいて」
「はい!」
悠が小さく笑った。
「トモちゃん、完全に怒られてる」
「お前が言うな」
「智樹」
悠は少しだけ笑ったまま言い直した。
「智樹も大変だね」
「今ちょっとからかっただろ」
「少し」
「お前な」
「ごめん」
「謝るところじゃないでしょ」
そはらはそう言って、玄関へ向かった。
そして出ていく直前、もう一度だけ振り返る。
「ユゥ」
「何?」
「勝手に外装出したりしまったりしない」
「努力する」
「努力じゃなくて、しない」
「……分かった」
「命令じゃないからね」
悠は少しだけ笑った。
「うん」
その返事を聞いて、そはらはようやく小さく頷いた。
「じゃあ、すぐ戻るから」
玄関の扉が閉まった。
俺は、ようやく息を吐く。
怒られたことよりも、悠が普通に笑ったことの方が、ずっと頭に残っていた。