少しして、玄関の向こうから足音が聞こえた。
そはらが戻ってきたらしい。
扉が開き、そはらが紙袋を抱えて入ってくる。
「お待たせ」
「早かったな」
「近いから。それに、あんまり待たせるのもよくないでしょ」
そはらはそう言って、悠を見る。
悠はまだ俺の上着を羽織ったままだった。
そはらは少しだけ表情を緩める。
「ちゃんと座ってた?」
「座ってた」
「トモちゃんは変なこと考えてない?」
「考えてねえ!」
「本当に?」
「本当に!」
悠が小さく笑った。
そはらはそれを見て、少しだけ目を細める。
けれど、今度は何も言わなかった。
「着られそうなもの持ってきたよ」
そはらはそう言ってから、もう一度悠を見た。
「下は私の部屋着で何とかなると思う。ウエスト紐のやつ持ってきたから」
「上は?」
悠が聞く。
そはらは少し迷った。
俺はそこで、自分の部屋へ向かった。
「じゃあ、上は俺のパーカーでいいんじゃないか。俺のほうが身長は近いし」
戻ってきて、普段着ている大きめのパーカーを差し出す。
そはらがじっと俺を見た。
「……変な意味じゃないよね?」
「あるわけないだろ!」
「なら、上はそれでいいかも」
悠はパーカーを見つめた。
それは、俺がいつも着ているものだった。
少し大きめで、悠の今の身長ならゆったり着られるはずだ。
「智樹の服」
「嫌か?」
悠は少しだけ首を横に振った。
「嫌じゃない」
それから、少し困ったように笑った。
「むしろ、少し安心する」
そはらはその言葉を聞いて、一瞬だけ黙った。
それから、袋の中から部屋着のズボンを取り出した。
「じゃあ、上はトモちゃんのパーカー。下はこれね」
「混合装備」
「装備って言わない」
「じゃあ、服」
「そう。服」
そはらはさらに袋の中を探る。
「あと、インナーなんだけど」
悠の動きが止まった。
「不要」
「不要じゃない」
「胸部保持対象がほぼ存在しない」
「言い方!」
「なくても困らないと思う」
「困るの」
そはらは強めに言った。
「今はよくても、服によっては擦れるし、外に出るなら見た目もあるし、そういうのはちゃんとした方がいいの」
悠は少し黙った。
「そういう知識は入ってる。でも、自分のこととしては繋がらない」
「じゃあ、今は私が見る」
「命令?」
「生活指導」
悠は一拍置いて、小さく笑った。
「それなら、分かった」
そはらは袋からカップ付きのインナーを取り出した。
「普通のは合わないと思ったから、締め付け弱いやつ。無理なら今日は厚手のパーカーでごまかす。でも、何もなしは駄目」
「選択肢がある」
「ある」
「じゃあ、試す」
俺がその場に立っていると、そはらがこちらを向いた。
「トモちゃん」
「はい」
「部屋から出る」
「はい!」
俺は即答した。
今の悠をどうこう見るつもりなんて、当然なかった。
そもそも、目の前にいるのは三年前まで一緒にいた幼馴染だ。
身体が変わったからといって、そんな目で見られるわけがない。
そう思っていたのに、そはらの目はまったく信用していなかった。
「イカロスさん」
「はい」
「トモちゃんを監視してください」
「命令ですか」
悠の肩が、ほんの少しだけ強張った。
そはらはすぐに悠を見る。
「ユゥは見守り。トモちゃんは監視」
「扱いが違う」
悠が小さく言った。
「違うわよ」
そはらはきっぱり言った。
「ユゥは怖がるから。トモちゃんは油断すると馬鹿なことするから」
「しない!」
「前科が多すぎるの!」
「今は本当にしない!」
イカロスは俺を見る。
「命令を受諾しました。監視対象、マスター」
「受諾するな!」
「監視を開始します」
「本当にするのかよ」
「はい」
そはらが冷たい目で俺を見る。
「当然でしょ」
「理不尽!」
悠が小さく笑った。
「智樹、大変だね」
「お前も笑うな」
「ごめん。でも、少し安心した」
「何が」
「いつもの智樹っぽい」
その一言で、俺は少しだけ言葉に詰まった。
そはらも、一瞬だけ黙った。
けれどすぐに表情を戻す。
「じゃあ、ユゥはこっち。着替えるよ」
「うん」
そはらは悠の背中を軽く押して、部屋の奥へ向かわせた。
俺はリビングに残された。
目の前には、イカロス。
「監視を開始します」
「本当にするのかよ」
「はい」
イカロスは表情を変えずに、じっと俺を見た。
……覗くつもりなんてない。
ないのに、ものすごく居心地が悪かった。
部屋の奥から、そはらの声が聞こえる。
「ユゥ、無理だったらすぐ言ってね」
「うん」
「締め付け苦しくない?」
「大丈夫。苦痛反応は低い」
「そういう意味じゃないの!」
少し間があった。
「じゃあ、違和感はある」
「それでいいの。そう言って」
「うん。違和感はある」
「痛くはない?」
「痛くはない」
「なら次。ズボン穿いて」
「これ、下に広い」
「部屋着だから」
「戦闘には向かない」
「戦闘しない!」
俺は思わず顔を覆った。
着替えの会話のはずなのに、ところどころ物騒すぎる。
イカロスは俺を見たまま動かない。
「マスター」
「何だよ」
「移動しないでください」
「しないって」
「監視中です」
「分かったよ……」
しばらくして、部屋の奥から足音がした。
先に出てきたのは、そはらだった。
「トモちゃん」
「はい」
「変な顔しない」
「出てくる前から釘刺すなよ」
「刺すわよ」
そはらはそう言ってから、少し横に退いた。
その後ろから、悠がゆっくり出てきた。
上は俺のパーカー。
袖は少し長く、手の甲まで隠れている。
下はそはらの部屋着のズボン。
紐で調整しているらしく、少しゆるそうだが落ちるほどではない。
白に近い銀色の長い髪が、パーカーの肩にかかっている。
その毛先だけが、光の加減で淡く紫を帯びていた。
さっきまでの上着だけの姿より、ずっと落ち着いて見えた。
けれど、それでも三年前の悠とは違った。
男物のパーカーを着ているのに、身体の線はもう昔とは違う。
髪も、昔の短い髪ではない。
そはらの部屋着も、妙に違和感なく収まっている。
悠は袖口を少し引っ張りながら、こちらを見た。
「変?」
「いや」
俺は少し迷ってから言った。
「落ち着いた」
「似合うって言わないんだ」
「言った方がよかったか?」
「今は、たぶん困る」
「じゃあ言わない」
悠は小さく頷いた。
「ありがとう」
そはらは満足そうに息を吐いた。
「とりあえず、これで家の中は大丈夫」
「外は?」
悠が聞く。
「外はまだ駄目」
「駄目」
「その格好で出たら目立つでしょ。あと、髪も長いし」
「髪色は偽装できる」
「色だけの問題じゃないの」
そはらは悠の髪を見る。
「明日までには、ちゃんと整えた方がいいかも」
悠は自分の髪に触れた。
白に近い銀色の髪。
指先で梳くと、毛先に残る淡い紫がゆっくり揺れた。
「切る?」
そはらはすぐには答えなかった。
昔の悠は、髪が短かった。
少し癖のある黒に近い紫の髪で、女子に間違われる顔立ちを気にして、余計に短くしていた時期もある。
だから、今の長い髪は明らかに昔とは違う。
「切りたくないなら、今すぐ切らなくていいよ」
「いいの?」
「三年ぶりに帰ってきて、いきなり何もかも昔に戻さなくていいでしょ」
悠は髪を握ったまま、少し黙った。
「この髪も、ボクのもの?」
そはらは一瞬だけ言葉に詰まった。
それでも、すぐに答えた。
「今のユゥの髪でしょ」
悠はゆっくり瞬きした。
「そっか」
「ただ、学校に行くなら色は何とかしないとね」
「偽装できる」
「じゃあ明日はそれ。長さは、邪魔なら結ぶ」
「結び方は分かる」
「それ、インプット?」
悠は少し考えた。
「たぶん」
そはらは一瞬だけ眉を寄せた。
でも、すぐに言った。
「じゃあ、明日教える。インプットじゃなくて、私が」
悠は目を瞬かせた。
「そはらが?」
「そう」
「そっか」
悠は袖口を握ったまま、小さく笑った。
「それなら、覚え直せるかもしれない」
その言葉に、そはらはまた泣きそうな顔をした。
けれど今度は、泣かなかった。
「覚え直せばいいでしょ」
「うん」
悠は頷いた。
「少しずつ」
イカロスは、そのやり取りをじっと見ていた。
「学習補助ですか」
そはらが振り返る。
「違います」
「違うのですか」
「友達として教えるの」
イカロスは少しだけ首を傾げた。
「友達」
「そう」
イカロスは悠を見た。
悠もイカロスを見る。
「ボクとそはらは、幼馴染」
少し間を置いて、悠は続けた。
「友達でもあると思う」
そはらは、そこには突っ込まなかった。
ただ、少し照れたようにそっぽを向いた。
「思うじゃなくて、そうなの」
「うん」
悠は小さく笑った。
「そうだった」
俺はその様子を見て、ようやく肩の力を抜いた。
帰ってきた悠は、もう昔のままではない。
身体も違う。
名前の反応も違う。
言葉の出方も違う。
時々、自分のことすら他人事みたいに話す。
それでも、そはらと話している時の悠は、少しだけ昔に近かった。
少なくとも、さっきよりは。
「で」
そはらが俺を見る。
嫌な予感がした。
「トモちゃん」
「はい」
「ユゥをどこで寝かせるつもり?」
「え」
「まさか同じ部屋とか言わないよね?」
「言ってない!」
「考えてもない?」
「考えてない!」
「本当に?」
「本当に!」
イカロスが俺を見る。
「マスターの心拍数が上昇しています」
「言わなくていい!」
悠がまた小さく笑った。
「智樹、監視されてる」
「お前、楽しんでないか」
「少し」
「少し楽しむな」
そはらは呆れたようにため息をついた。
「とりあえず、今日はリビング。布団を出して。ユゥはそこで寝る」
悠は少しだけ驚いた。
「ここでいいの?」
「いいの」
「でも、迷惑」
「迷惑なら、今さら服なんて持ってこない」
そはらはきっぱり言った。
悠は何も言えなくなった。
代わりに、ゆっくりと頭を下げる。
「ありがとう」
「いいから、ちゃんと休んで」
「うん」
悠はパーカーの袖口を握ったまま、静かに頷いた。
その姿は、やっぱり三年前の悠ではなかった。
けれど。
そこにいるのは、確かに悠だった。