リビングの空気は、まだ落ち着いていなかった。
悠が帰ってきた。
それだけなら、泣いて、怒って、抱きしめて、それで済んだかもしれない。
けれど、目の前の悠はもう普通の人間ではなかった。
紫の四枚羽を持つ、可変統合型エンジェロイド。
それでも、そこにいるのは三年前に消えた幼馴染、紫月悠だった。
そして問題は、明日からだった。
「学校、どうするの?」
そはらが、ふと思い出したように言った。
その言葉で、全員が黙った。
悠は、俺のパーカーを着たまま、ソファの端に座っている。
下はそはらが持ってきた部屋着のズボン。
昔の悠とは、髪も、身体も、声も違う。
それでも、そこにいるのは悠だった。
悠は視線を落としたまま、静かに答えた。
「行きたい」
答えは早かった。
「紫月悠として戻るなら、学校には行きたい」
「でも、無理でしょ」
そはらはきっぱり言った。
「三年前から行方不明だった人が、次の日いきなり教室にいたら大騒ぎになるよ」
「うん」
悠も分かっていたようだった。
「戸籍。学校記録。出席簿。教師の記憶。クラスメイトの認識。全部矛盾する」
その言い方があまりに機械的で、そはらは少し眉をひそめた。
「そういう言い方しない」
「ごめん」
悠は小さく謝った。
「でも、事実」
俺は頭を抱えた。
たしかに、どう考えても無理だった。
紫月悠は三年前に消えた。
この町では、今でもその事件を覚えている人間がいる。
学校にも記録は残っているはずだ。
そこへ、本人が何事もなかったように戻る。
しかも外見は変わっている。
声も変わっている。
身体も変わっている。
説明できるわけがない。
そはらは悔しそうに唇を噛んだ。
「そんなの、おかしいじゃない」
「おかしいよ」
悠は頷いた。
「だから、普通に戻るには、普通じゃない方法がいる」
そう言って、悠はパーカーのポケットに手を入れた。
掌の上に、一枚のカードが現れる。
紙にも金属にも見えなかった。
薄く、硬く、表面には文字にも模様にも見える光が流れている。
イカロスが、そのカードを見た。
「転送カード」
「同系統」
悠は静かに答えた。
「ボクが持っているのは、地上実験用に調整されたもの。物質転送だけじゃない。記録や認識の補正にも使える」
「持ってたのか」
俺が聞くと、悠は少しだけ目を逸らした。
「盗んできた」
「盗んだのかよ」
「ボクを作り替えた場所からだから、返す気はない」
それは当然のような言い方だった。
そはらが引いた顔をする。
「それで学校の記録をどうにかするってこと?」
「うん」
悠はカードを見下ろした。
「紫月悠が三年間、普通に学校に在籍していたように扱われる状態にする。出席簿、名簿、教師の認識、クラスメイトの記憶。全部、矛盾しないように補正する」
「さらっと怖いこと言わないでよ」
「怖いことだよ」
悠は否定しなかった。
「だから、使いたくない」
その声は、今までより少し低かった。
「このカードは、便利すぎる。物を出すだけじゃない。記録も、認識も、条件次第では記憶も変えられる」
俺はカードを見た。
便利すぎるもの。
怖すぎるもの。
それがどういうものか、俺はもう少しだけ知っている。
願ったことが、そのまま世界に通ってしまう。
冗談みたいな欲望でも、現実がそれに合わせて曲がってしまう。
一度、それで世界をめちゃくちゃにしかけた。
だから分かる。
このカードは、使い方を間違えたら、悠を学校に戻すどころか、悠がいなかった三年まで別の形に塗り替えてしまう。
「それを使うのか」
「普通には使わない」
即答だった。
「だから、自己命令で制限してる」
悠の首筋に、淡い紫の発光環が浮かぶ。
「カード使用制限。人格、記憶、自由意志、主従契約、身体恒常性への直接干渉を原則禁止」
「自分で自分に禁止してるのか」
「そうしないと、たぶん使う」
悠はカードを握った。
「ボクがいなかった三年間を、なかったことにしたくなる」
リビングが静かになった。
そはらが、悠を見る。
悠は続けた。
「でも、それをやったら、ボクが帰ってきた意味まで変わる。智樹が覚えてることも、そはらが探してくれたことも、全部、別のものになる」
「じゃあ、何をするの?」
そはらが聞いた。
悠は少しだけ息を吸った。
「過去を消すための改変は禁止。未来に戻るための身分補正だけ許可」
「身分補正?」
「紫月悠として地上生活へ復帰するための最低限の記録補正」
悠は自分の胸元を押さえた。
「本人と、強い感情接続を持つ対象への記憶上書きは禁止。嘘の思い出は入れない。真実を知った相手には、補正がほどけるようにする」
俺は少しだけ眉を寄せた。
「ほどける?」
「うん」
悠は頷いた。
「クラスメイトには、紫月悠がずっといたように感じてもらう。でも、後で本当のことを知ったら、その補正は消える。消えるというより、役目を終える」
「じゃあ、クラスの連中はどうなるんだ?」
「たぶん、紫月悠がいた気はするけど、具体的な思い出はぼやける」
「軽いな」
「軽くした」
悠は小さく言った。
「重くしたくなかった。ボクのために、誰かの大事な記憶を本物みたいに作るのは嫌だった」
そはらは黙っていた。
それから、ゆっくりと言った。
「私は?」
「そはらは上書きしない」
悠はそはらを見る。
「そはらには、覚えていてほしい」
その言葉に、そはらの表情が少しだけ歪んだ。
「三年間いなかったことも?」
「うん」
「探したことも?」
「うん」
「今日、帰ってきたことも?」
「うん」
悠は少しだけ笑った。
「忘れられたら、たぶん寂しい」
そはらは目を伏せた。
「よかった」
「よかった?」
「だって、忘れたくない」
そはらは、はっきり言った。
「三年間いなかったことも、探したことも、帰ってきてくれたことも、忘れたくない」
悠は何も言えなかった。
俺も同じだった。
便利な力で全部なかったことにする。
それはきっと楽だ。
でも、悠がいなかった三年まで消してしまったら、帰ってきた意味まで少し薄くなる気がした。
「ボク本人への補正は?」
悠は、自分で自分に聞くように呟いた。
「実体験記憶の生成を避け、必要情報のみを付与します」
イカロスが静かに言った。
全員がそちらを見る。
「その方が負荷は低いです」
悠は少しだけ目を細めた。
「三年間の思い出は、入れない」
「はい」
悠は目を伏せた。
「クラスメイトの名前。席。時間割。授業範囲。先生の癖。誰がよく話しかけてくるか」
「はい」
「でも、体育祭で何をしたとか、文化祭で誰と回ったとか、そういう思い出は入れない」
「はい。その方が安全です」
悠は目を伏せた。
「それなら、耐えられるかもしれない」
「本当に?」
そはらが聞く。
「怖い」
悠は正直に答えた。
「でも、学校に戻りたい」
「なんでそこまで」
「地上に帰ってきたから」
悠は自分の胸元を押さえた。
「ボクが戻りたいのは、施設でも、空でも、どこかの隠れ家でもない。学校とか、通学路とか、昼休みとか、そういう場所」
それは、とても悠らしい理由だった。
三年前の悠も、特別なことより、普通の日常を大事にしていた。
「本当にいいんだな」
俺が確認すると、悠は頷いた。
「ボクは、紫月悠として学校に戻りたい」
それから、少しだけ言い直す。
「エリュシオンとしてじゃなくて」
悠はカードを両手で持った。
けれど、すぐには起動しなかった。
カードの表面に淡い光が流れている。
それだけで、部屋の空気が少し冷えた気がした。
「本物みたいな三年間の思い出を、作ることもたぶんできる」
そはらは少し黙った。
「……それは、しないんだ」
「うん」
悠は小さく息を吸った。
「それをやったら、ボクがみんなの三年間まで盗むことになる」
そはらは何も言えなかった。
俺はカードを見た。
願いの言い方で、結果が変わる気がした。
雑に願えば、悠の三年間まで塗り潰される。
それだけは嫌だった。
だから俺がカードの条件を指定するのは難しい。
俺はカードの怖さを知っている。
でも、カードの扱い方を知っているわけじゃない。
「悠」
俺が呼ぶと、悠はカードを見たまま頷いた。
「分かってる」
その声は、少し硬かった。
「これは、ボクが使う」
「大丈夫なのか」
「大丈夫じゃない」
即答だった。
「でも、智樹が使うよりは安全。カードの制限条件も、補正範囲も、ボクの方が正確に指定できる」
そはらが不安そうに言う。
「ユゥが無理するんじゃないの?」
「無理はする」
「そこは否定してよ」
「でも、記憶を雑に変えるよりはいい」
悠の首筋の発光環が静かに回る。
「自己命令。転送カード使用制限、一部例外処理」
紫の光が、カードの表面を走った。
「目的、紫月悠としての地上生活復帰」
声が、少しずつ機械的になる。
けれど、その言葉は、流し込まれたものではなく、悠自身が選んでいるように聞こえた。
「処理内容、学校在籍記録および周辺認識の仮置き補正」
悠は一度、俺とそはらを見た。
「除外対象、桜井智樹、見月そはら、紫月悠本人」
少し間を置いて、言い直す。
「および、真実を保持する必要がある対象」
イカロスが静かに見ている。
悠は続けた。
「本人への補正は、学校生活に必要な参照情報に限定。実体験記憶の生成は禁止」
カードの光が強まる。
「クラスメイト、教師、学校関係者への補正は、日常整合性の仮置きに限定。真実認識時、補正記憶は段階的に解除」
そはらが小さく息を呑んだ。
「ユゥ」
「大丈夫」
悠は目を閉じた。
「過去改変ではなく、復帰補助として実行」
カードが強く光った。
部屋の空気が揺れる。
窓の外の街が、一瞬だけ白くぼやけた。
カレンダー。
学校の名簿。
出席簿。
集合写真。
教師の記憶。
クラスメイトの認識。
それらが見えないところで書き換わっていく。
いや、書き換わるというより、空いていた場所に仮の紙を差し込んでいくような感じだった。
紫月悠という名前が、三年間分の空白に差し込まれていく。
悠は胸元を押さえた。
「……入ってくる」
そはらが慌てて手を握る。
「悠!」
「大丈夫。記憶じゃない」
悠は目を閉じたまま言った。
「名前。席。時間割。授業範囲。クラスの空気。先生の癖。誰がよく話しかけてくるか」
声が少し震える。
「でも、思い出じゃない」
俺はほっとした。
「耐えられそうか」
「うん」
悠はゆっくり目を開けた。
「少し、気持ち悪い」
「だろうな」
「でも、これならボクのものじゃないって分かる」
その言い方が、少し悲しかった。
自分の記憶と、入れられた情報を区別しなければならない。
それが今の悠だった。
カードの光が消える。
悠の首筋の発光環も、ゆっくりと薄れていった。
「補正、完了」
悠が小さく言った。
「じゃあ、明日学校に行ったら、みんな悠のことを普通に知ってるの?」
「うん、普通にいたものとして扱われるようになった」
「そうだな」
「でも、ボクは三年間いなかった」
「ああ」
「それを覚えてる人がいる」
俺は頷いた。
「俺たちは覚えてる」
そはらも言った。
「私も覚えてる」
イカロスは何も言わなかった。
けれど、こちらを見ていた。
理解できないものを見るように。
あるいは、自分にはまだ分からない何かを記録するように。
悠は少しだけ笑った。
「じゃあ、大丈夫かもしれない」
嘘の記録の中でも。
今日、悠が帰ってきたことだけは本当だった。
だから明日、紫月悠はもう一度、学校へ行く。