そらのおとしもの -sigma-   作:effutod

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#06 補正!!

リビングの空気は、まだ落ち着いていなかった。

 

悠が帰ってきた。

 

それだけなら、泣いて、怒って、抱きしめて、それで済んだかもしれない。

 

けれど、目の前の悠はもう普通の人間ではなかった。

 

紫の四枚羽を持つ、可変統合型エンジェロイド。

それでも、そこにいるのは三年前に消えた幼馴染、紫月悠だった。

 

そして問題は、明日からだった。

 

「学校、どうするの?」

 

そはらが、ふと思い出したように言った。

 

その言葉で、全員が黙った。

 

悠は、俺のパーカーを着たまま、ソファの端に座っている。

下はそはらが持ってきた部屋着のズボン。

 

昔の悠とは、髪も、身体も、声も違う。

 

それでも、そこにいるのは悠だった。

 

悠は視線を落としたまま、静かに答えた。

 

「行きたい」

 

答えは早かった。

 

「紫月悠として戻るなら、学校には行きたい」

 

「でも、無理でしょ」

 

そはらはきっぱり言った。

 

「三年前から行方不明だった人が、次の日いきなり教室にいたら大騒ぎになるよ」

 

「うん」

 

悠も分かっていたようだった。

 

「戸籍。学校記録。出席簿。教師の記憶。クラスメイトの認識。全部矛盾する」

 

その言い方があまりに機械的で、そはらは少し眉をひそめた。

 

「そういう言い方しない」

 

「ごめん」

 

悠は小さく謝った。

 

「でも、事実」

 

俺は頭を抱えた。

 

たしかに、どう考えても無理だった。

 

紫月悠は三年前に消えた。

この町では、今でもその事件を覚えている人間がいる。

学校にも記録は残っているはずだ。

 

そこへ、本人が何事もなかったように戻る。

 

しかも外見は変わっている。

声も変わっている。

身体も変わっている。

 

説明できるわけがない。

 

そはらは悔しそうに唇を噛んだ。

 

「そんなの、おかしいじゃない」

 

「おかしいよ」

 

悠は頷いた。

 

「だから、普通に戻るには、普通じゃない方法がいる」

 

そう言って、悠はパーカーのポケットに手を入れた。

 

掌の上に、一枚のカードが現れる。

 

紙にも金属にも見えなかった。

薄く、硬く、表面には文字にも模様にも見える光が流れている。

 

イカロスが、そのカードを見た。

 

「転送カード」

 

「同系統」

 

悠は静かに答えた。

 

「ボクが持っているのは、地上実験用に調整されたもの。物質転送だけじゃない。記録や認識の補正にも使える」

 

「持ってたのか」

 

俺が聞くと、悠は少しだけ目を逸らした。

 

「盗んできた」

 

「盗んだのかよ」

 

「ボクを作り替えた場所からだから、返す気はない」

 

それは当然のような言い方だった。

 

そはらが引いた顔をする。

 

「それで学校の記録をどうにかするってこと?」

 

「うん」

 

悠はカードを見下ろした。

 

「紫月悠が三年間、普通に学校に在籍していたように扱われる状態にする。出席簿、名簿、教師の認識、クラスメイトの記憶。全部、矛盾しないように補正する」

 

「さらっと怖いこと言わないでよ」

 

「怖いことだよ」

 

悠は否定しなかった。

 

「だから、使いたくない」

 

その声は、今までより少し低かった。

 

「このカードは、便利すぎる。物を出すだけじゃない。記録も、認識も、条件次第では記憶も変えられる」

 

俺はカードを見た。

 

便利すぎるもの。

 

怖すぎるもの。

 

それがどういうものか、俺はもう少しだけ知っている。

 

願ったことが、そのまま世界に通ってしまう。

冗談みたいな欲望でも、現実がそれに合わせて曲がってしまう。

 

一度、それで世界をめちゃくちゃにしかけた。

 

だから分かる。

 

このカードは、使い方を間違えたら、悠を学校に戻すどころか、悠がいなかった三年まで別の形に塗り替えてしまう。

 

「それを使うのか」

 

「普通には使わない」

 

即答だった。

 

「だから、自己命令で制限してる」

 

悠の首筋に、淡い紫の発光環が浮かぶ。

 

「カード使用制限。人格、記憶、自由意志、主従契約、身体恒常性への直接干渉を原則禁止」

 

「自分で自分に禁止してるのか」

 

「そうしないと、たぶん使う」

 

悠はカードを握った。

 

「ボクがいなかった三年間を、なかったことにしたくなる」

 

リビングが静かになった。

 

そはらが、悠を見る。

 

悠は続けた。

 

「でも、それをやったら、ボクが帰ってきた意味まで変わる。智樹が覚えてることも、そはらが探してくれたことも、全部、別のものになる」

 

「じゃあ、何をするの?」

 

そはらが聞いた。

 

悠は少しだけ息を吸った。

 

「過去を消すための改変は禁止。未来に戻るための身分補正だけ許可」

 

「身分補正?」

 

「紫月悠として地上生活へ復帰するための最低限の記録補正」

 

悠は自分の胸元を押さえた。

 

「本人と、強い感情接続を持つ対象への記憶上書きは禁止。嘘の思い出は入れない。真実を知った相手には、補正がほどけるようにする」

 

俺は少しだけ眉を寄せた。

 

「ほどける?」

 

「うん」

 

悠は頷いた。

 

「クラスメイトには、紫月悠がずっといたように感じてもらう。でも、後で本当のことを知ったら、その補正は消える。消えるというより、役目を終える」

 

「じゃあ、クラスの連中はどうなるんだ?」

 

「たぶん、紫月悠がいた気はするけど、具体的な思い出はぼやける」

 

「軽いな」

 

「軽くした」

 

悠は小さく言った。

 

「重くしたくなかった。ボクのために、誰かの大事な記憶を本物みたいに作るのは嫌だった」

 

そはらは黙っていた。

 

それから、ゆっくりと言った。

 

「私は?」

 

「そはらは上書きしない」

 

悠はそはらを見る。

 

「そはらには、覚えていてほしい」

 

その言葉に、そはらの表情が少しだけ歪んだ。

 

「三年間いなかったことも?」

 

「うん」

 

「探したことも?」

 

「うん」

 

「今日、帰ってきたことも?」

 

「うん」

 

悠は少しだけ笑った。

 

「忘れられたら、たぶん寂しい」

 

そはらは目を伏せた。

 

「よかった」

 

「よかった?」

 

「だって、忘れたくない」

 

そはらは、はっきり言った。

 

「三年間いなかったことも、探したことも、帰ってきてくれたことも、忘れたくない」

 

悠は何も言えなかった。

 

俺も同じだった。

 

便利な力で全部なかったことにする。

 

それはきっと楽だ。

 

でも、悠がいなかった三年まで消してしまったら、帰ってきた意味まで少し薄くなる気がした。

 

「ボク本人への補正は?」

 

悠は、自分で自分に聞くように呟いた。

 

「実体験記憶の生成を避け、必要情報のみを付与します」

 

イカロスが静かに言った。

 

全員がそちらを見る。

 

「その方が負荷は低いです」

 

悠は少しだけ目を細めた。

 

「三年間の思い出は、入れない」

 

「はい」

 

悠は目を伏せた。

 

「クラスメイトの名前。席。時間割。授業範囲。先生の癖。誰がよく話しかけてくるか」

 

「はい」

 

「でも、体育祭で何をしたとか、文化祭で誰と回ったとか、そういう思い出は入れない」

 

「はい。その方が安全です」

 

悠は目を伏せた。

 

「それなら、耐えられるかもしれない」

 

「本当に?」

 

そはらが聞く。

 

「怖い」

 

悠は正直に答えた。

 

「でも、学校に戻りたい」

 

「なんでそこまで」

 

「地上に帰ってきたから」

 

悠は自分の胸元を押さえた。

 

「ボクが戻りたいのは、施設でも、空でも、どこかの隠れ家でもない。学校とか、通学路とか、昼休みとか、そういう場所」

 

それは、とても悠らしい理由だった。

 

三年前の悠も、特別なことより、普通の日常を大事にしていた。

 

「本当にいいんだな」

 

俺が確認すると、悠は頷いた。

 

「ボクは、紫月悠として学校に戻りたい」

 

それから、少しだけ言い直す。

 

「エリュシオンとしてじゃなくて」

 

悠はカードを両手で持った。

 

けれど、すぐには起動しなかった。

 

カードの表面に淡い光が流れている。

それだけで、部屋の空気が少し冷えた気がした。

 

「本物みたいな三年間の思い出を、作ることもたぶんできる」

 

そはらは少し黙った。

 

「……それは、しないんだ」

 

「うん」

 

悠は小さく息を吸った。

 

「それをやったら、ボクがみんなの三年間まで盗むことになる」

 

そはらは何も言えなかった。

 

俺はカードを見た。

 

願いの言い方で、結果が変わる気がした。

 

雑に願えば、悠の三年間まで塗り潰される。

 

それだけは嫌だった。

 

だから俺がカードの条件を指定するのは難しい。

 

俺はカードの怖さを知っている。

でも、カードの扱い方を知っているわけじゃない。

 

「悠」

 

俺が呼ぶと、悠はカードを見たまま頷いた。

 

「分かってる」

 

その声は、少し硬かった。

 

「これは、ボクが使う」

 

「大丈夫なのか」

 

「大丈夫じゃない」

 

即答だった。

 

「でも、智樹が使うよりは安全。カードの制限条件も、補正範囲も、ボクの方が正確に指定できる」

 

そはらが不安そうに言う。

 

「ユゥが無理するんじゃないの?」

 

「無理はする」

 

「そこは否定してよ」

 

「でも、記憶を雑に変えるよりはいい」

 

悠の首筋の発光環が静かに回る。

 

「自己命令。転送カード使用制限、一部例外処理」

 

紫の光が、カードの表面を走った。

 

「目的、紫月悠としての地上生活復帰」

 

声が、少しずつ機械的になる。

 

けれど、その言葉は、流し込まれたものではなく、悠自身が選んでいるように聞こえた。

 

「処理内容、学校在籍記録および周辺認識の仮置き補正」

 

悠は一度、俺とそはらを見た。

 

「除外対象、桜井智樹、見月そはら、紫月悠本人」

 

少し間を置いて、言い直す。

 

「および、真実を保持する必要がある対象」

 

イカロスが静かに見ている。

 

悠は続けた。

 

「本人への補正は、学校生活に必要な参照情報に限定。実体験記憶の生成は禁止」

 

カードの光が強まる。

 

「クラスメイト、教師、学校関係者への補正は、日常整合性の仮置きに限定。真実認識時、補正記憶は段階的に解除」

 

そはらが小さく息を呑んだ。

 

「ユゥ」

 

「大丈夫」

 

悠は目を閉じた。

 

「過去改変ではなく、復帰補助として実行」

 

カードが強く光った。

 

部屋の空気が揺れる。

 

窓の外の街が、一瞬だけ白くぼやけた。

 

カレンダー。

学校の名簿。

出席簿。

集合写真。

教師の記憶。

クラスメイトの認識。

 

それらが見えないところで書き換わっていく。

 

いや、書き換わるというより、空いていた場所に仮の紙を差し込んでいくような感じだった。

 

紫月悠という名前が、三年間分の空白に差し込まれていく。

 

悠は胸元を押さえた。

 

「……入ってくる」

 

そはらが慌てて手を握る。

 

「悠!」

 

「大丈夫。記憶じゃない」

 

悠は目を閉じたまま言った。

 

「名前。席。時間割。授業範囲。クラスの空気。先生の癖。誰がよく話しかけてくるか」

 

声が少し震える。

 

「でも、思い出じゃない」

 

俺はほっとした。

 

「耐えられそうか」

 

「うん」

 

悠はゆっくり目を開けた。

 

「少し、気持ち悪い」

 

「だろうな」

 

「でも、これならボクのものじゃないって分かる」

 

その言い方が、少し悲しかった。

 

自分の記憶と、入れられた情報を区別しなければならない。

 

それが今の悠だった。

 

カードの光が消える。

 

悠の首筋の発光環も、ゆっくりと薄れていった。

 

「補正、完了」

 

悠が小さく言った。

 

「じゃあ、明日学校に行ったら、みんな悠のことを普通に知ってるの?」

 

「うん、普通にいたものとして扱われるようになった」

 

「そうだな」

 

「でも、ボクは三年間いなかった」

 

「ああ」

 

「それを覚えてる人がいる」

 

俺は頷いた。

 

「俺たちは覚えてる」

 

そはらも言った。

 

「私も覚えてる」

 

イカロスは何も言わなかった。

 

けれど、こちらを見ていた。

 

理解できないものを見るように。

あるいは、自分にはまだ分からない何かを記録するように。

 

悠は少しだけ笑った。

 

「じゃあ、大丈夫かもしれない」

 

嘘の記録の中でも。

 

今日、悠が帰ってきたことだけは本当だった。

 

だから明日、紫月悠はもう一度、学校へ行く。

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