翌朝、悠は玄関に立っていた。
男子制服を着ている。
サイズは不自然ではない。
髪色は黒に近い紫へ偽装されている。
声も、いつもより少し低めに調整しているらしい。
背中の羽は完全に隠れていた。
見た目は、普通の男子中学生だった。
少し線が細く、髪が長く、顔立ちが中性的なだけの、普通の生徒。
ただ、昔の悠とは少し違う。
昔は、髪がもっと短かった。
今は長い髪を後ろで軽くまとめている。
そはらが朝早く来て、結び方を教えたのだ。
「これで少しは邪魔にならないでしょ」
「うん」
「きつくない?」
「大丈夫」
「本当に?」
「違和感はある。でも、痛くはない」
「そう言えるならよし」
そのやり取りを、俺は横で見ていた。
悠は、自分の髪に触れる。
偽装された髪は、黒に近い紫に見えた。
けれど、俺たちは知っている。
本当は、白に近い銀色の髪で、毛先だけが光の加減で淡く紫を帯びている。
「どう?」
悠が聞いた。
俺は答えた。
「バレないと思う」
そはらは腕を組んで、上から下まで悠を見る。
「昔から女子に間違われてたし、まあ、いけるんじゃない?」
「その評価、喜んでいいの?」
「知らない」
悠は少しだけ困ったように笑った。
イカロスは、悠の周囲を観察している。
「偽装状態は安定しています」
「ありがとう」
悠がそう言うと、イカロスは少しだけ首を傾げた。
「感謝の必要はありません」
「あるよ」
悠は静かに答えた。
「ボクを家に入れるの、許してくれたから」
「マスターの判断です」
「それでも」
イカロスは、しばらく黙った。
それから小さく言った。
「理解できません」
「うん」
悠は少し笑った。
「でも、言いたかった」
イカロスはそれ以上何も言わなかった。
俺は玄関を開けた。
朝の光が差し込む。
悠は一瞬だけ足を止めた。
「どうした?」
「学校に行くの、三年ぶり」
それから、少しだけ苦笑する。
「でも、みんなにとっては昨日もいたことになってる」
そはらが言った。
「変なこと言わないようにね」
「努力する」
「努力じゃなくて、ちゃんとして」
「……了解」
「硬い」
「じゃあ、分かった」
そのやり取りに、俺は少し笑った。
悠も笑った。
三年前のように。
でも、その笑顔はまだ少しだけ不安定だった。
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教室に入った瞬間、俺は息を止めた。
クラスメイトたちは、普通だった。
本当に、普通だった。
「おはよー」
「紫月、昨日の宿題やった?」
「今日小テストあるってマジ?」
「お、今日は髪まとめてんじゃん」
誰も驚かない。
誰も叫ばない。
誰も「三年前に消えたはずじゃ」と言わない。
紫月悠がそこにいることを、当たり前のように受け入れている。
悠は一瞬だけ固まった。
それから、ぎこちなく答える。
「おはよう」
声は少し低い。
でも、不自然ではない。
クラスメイトの一人が悠の肩を叩こうとした。
その瞬間、悠の身体がわずかに反応した。
速すぎる反応だった。
俺は慌てて咳払いする。
悠はハッとして、動きを止めた。
「ごめん」
「え、何が?」
クラスメイトは何も気づいていない。
悠は少し笑った。
「なんでもない」
席に着く。
悠の席は、ちゃんとあった。
机の中には教科書が入っている。
ノートには、悠の字に似せた文字で授業内容が書かれている。
悠はそれを見て、少しだけ顔を歪めた。
「大丈夫か?」
俺が小声で聞くと、悠は頷いた。
「大丈夫。これはボクの記憶じゃない」
「気持ち悪いか」
「うん」
悠はノートを閉じた。
「でも、必要な情報だって分かる」
そはらが前の席から振り返る。
「無理しないでよ」
悠は一拍置いて、微笑んだ。
「うん」
その返事は、少しだけ昔の悠に近かった。
その日の朝、紫月悠は普通に教室にいた。
誰も疑わない。
誰も騒がない。
カードの力で、世界はそういう形になっていた。
けれど、俺たちだけは知っている。
悠はずっとここにいたわけじゃない。
三年間、空の上に奪われていた。
そして今、嘘の記録の中で、本当の日常を取り戻そうとしている。
その矛盾を抱えたまま、悠は静かに教科書を開いた。