反省はしています。
後悔はしていません。
数学ネタが苦手な方は次の話に飛ばしてもそこまで問題はないと思います
一時間目は数学だった。
正直、俺は少し安心していた。
数学なら、悠が多少変なことを言っても目立たない。
黙って問題を解いていればいい。
分からなければ、分からないふりをすればいい。
そう思っていた。
そもそも、朝一番の授業でいきなり何かが起きる方がおかしい。
学校に来た。
教室に入った。
席に座った。
誰も騒がなかった。
それだけで十分だった。
俺はそう思っていた。
竹原先生が教室に入ってくるまでは。
数学の竹原先生は、うちの数学教師だった。
普段は穏やかで、説明も分かりやすい。
けれど、時々中学生相手とは思えない問題を平然と出してくる。
本人いわく、考える練習らしい。
生徒からすれば、だいたい嫌がらせだった。
その竹原先生が、いつものように教卓へ向かい、出席簿を置いた。
それから、何事もないように黒板へ向かう。
チョークが黒板を叩く音がした。
カツ、カツ、カツ。
その時点で、教室の空気が少しだけ変わった。
黒板に書かれていく文字が、朝一番の眠い頭に優しくない。
三角関数。
俺はそれを見た瞬間、少しだけ目を細めた。
難しい。
少なくとも、中学生の朝一番に出す内容ではない。
けれど、まったく見覚えがないわけでもなかった。
前の授業で、似たようなものを見た気がする。
もちろん、見たことがあることと、解けることは別だ。
「今日はこの問題を扱う」
竹原先生は平然と言った。
教室の何人かが、小さく呻いた。
「先生、それ本当に今日やるんですか」
「やる」
「朝からですか」
「朝からだ」
「人の心は?」
「数学に持ち込むな」
いつものやり取りだった。
俺は少しだけ息を吐く。
そうだ。
これはいつもの教室だ。
少し変な問題を出す先生。
それに文句を言うクラスメイト。
そはらが呆れた顔で前を向いている。
俺は何とかやり過ごそうとしている。
そして、その横に悠がいる。
紫月悠が、普通に机に座っている。
そのことに、まだ慣れなかった。
悠は黒板を見ていた。
じっと。
まばたきが少ない。
集中している、というより、対象を解析しているように見える。
俺は小声で言った。
「悠」
悠は一拍遅れてこちらを見た。
「何?」
「分からなかったら、分からないふりしていいからな」
「分からないふり?」
「いや、分かってても、分からないふりしていい」
「どうして?」
「目立つから」
悠は少しだけ考えた。
「分かった」
その返事は真面目だった。
真面目だったからこそ、不安になった。
竹原先生は黒板に書いた問題の横へ、いくつか式を書き足していく。
「この問題では、まず三角関数の公式を使う」
角の和。
角の差。
正弦。
余弦。
そういう言葉が黒板に並ぶ。
俺は、そこでほとんど理解を諦めた。
いや、諦めたというより、脳が勝手に閉じた。
三角関数の公式。
前の授業。
朝一番。
眠い。
この四つが揃った時点で、俺の処理能力は限界だった。
竹原先生は続ける。
「ここで使う公式は、前の授業でも扱った。だから既知として進める」
その時だった。
悠が小さく手を挙げた。
俺は固まった。
そはらも固まった。
教室の何人かが、何となくそちらを見る。
竹原先生も、少し意外そうに悠を見た。
「どうした、紫月」
悠は立ち上がらず、席に座ったまま言った。
「その公式は、既知として扱いますか」
竹原先生が一瞬だけ黙った。
「……今、そう言ったな」
「確認は不要ですか」
教室の空気が止まった。
竹原先生が、ゆっくりと聞き返す。
「確認?」
「成立条件と導出です」
俺は机の下で拳を握った。
やめろ。
それはたぶん、普通の中学生が朝一番に確認するものじゃない。
竹原先生は黒板を見た。
それから悠を見た。
「紫月」
「はい」
「確認できるのか?」
「はい」
その返事があまりにも普通だった。
普通なら、そこで流す。
公式はそういうものだと言って、授業を進める。
だが、竹原先生は変なところで負けず嫌いだった。
「じゃあ、簡単にやってみろ」
教室がざわついた。
俺は心の中で叫んだ。
なぜ通した。
悠は静かに立ち上がる。
椅子を引く動作は少しぎこちない。
けれど、歩き方は静かだった。
昔の悠は、そこまで目立つ歩き方をするやつではなかった。
今の悠は違う。
足音が軽い。
姿勢がぶれない。
黒板までの距離を、まるで測ったように歩く。
それに。
昔の悠は、ここまで数学ができるやつではなかった。
成績は悪くなかった。
むしろ、ちゃんとやればそこそこできる方だった。
けれど、黒板の前で数学を最初から組み立て直すようなやつではなかった。
今、黒板へ向かっているのは紫月悠だ。
でも、そこに流れている知識と処理能力は、三年前の悠のものだけではない。
悠が黒板の前に立つ。
そこで、竹原先生がチョークを差し出した。
「簡単に、でいいからな」
竹原先生が念を押した。
悠はチョークを受け取り、頷いた。
「簡略化します」
その言葉が、すでに不安だった。
悠は黒板の端に、小さく見出しを書いた。
公式確認。
そこから、淡々と説明が始まった。
単位円。
座標の回転。
角の和。
角の差。
正弦。
余弦。
そういう言葉が並んでいく。
公式を覚えて使うのではなく、なぜその形になるのかを、最初から順番に確かめようとしているらしい。
らしい、というのは、俺には最初からほとんど分からなかったからだ。
ただ、悠がやっていることが「公式を使う」ではなく、「公式が使える状態にする」ことだというのは分かった。
その時、竹原先生がすぐに止めた。
「紫月」
「はい」
「そこまででいい」
「まだ導出が終わっていません」
「終わらせなくていい」
「不完全です」
「授業が終わる」
悠は少しだけ黙った。
それから、黒板を見た。
黒板の面積。
残りの授業時間。
竹原先生の顔。
クラスメイトの沈黙。
たぶん、その全部を処理したのだと思う。
「では、公式の確認は省略します」
悠はそう言って、黒板の端に小さく書き足した。
公式確認、省略。
「省略したことは書くんだな……」
竹原先生が疲れた声で呟いた。
悠は気にしていないようだった。
そして、そこで終わると思った。
俺も、竹原先生も、たぶんクラスの全員もそう思った。
だが、悠はもう一度黒板を見た。
「ただし」
竹原先生の肩がわずかに跳ねた。
「まだ何かあるのか」
「式変形に加法を使用します」
「使っていい」
「定義済みですか?」
「定義済みということにしていい」
「確認します」
「確認しなくていい」
しかし、悠はもう黒板のさらに端へ書き始めていた。
加法の確認。
数字はほとんどない。
代わりに、見慣れない言葉が並んでいく。
空集合。
自然数。
後者。
ペアノの公理。
加法の再帰的定義。
俺はその時点で、理解するのを諦めた。
「集合論的には、0を空集合として構成できます」
「そこからかよ」
誰かが呟いた。
悠は気にしない。
「1は0を要素として持つ集合です。つまり、1は空集合ではありません」
「今それ必要か?」
「必要です」
悠は淡々と続けた。
「2は、0と1を要素として持つ集合です。自然数は、そのように前の数をすべて含む形で構成できます」
クラスメイトたちが小声でざわつく。
「何の授業だっけ」
「数学」
「数学ってこんなんだっけ」
「いや、違うと思う」
竹原先生はこめかみを押さえていた。
悠はさらに続ける。
「ペアノの公理では、0を自然数とし、各自然数に対して次の数、つまり後者が存在するとします」
「紫月」
「はい」
「そこまででいい」
「まだ加法の確認が終わっていません」
「終わらせなくていい」
「不完全です」
「授業が進まない」
悠は少しだけ困った顔をした。
それでも、最後まで確認するつもりらしかった。
「加法は、片方が0のときはそのまま。片方が後者であるときは、結果も後者として定義します」
教室がまた静かになった。
俺にはもう分からなかった。
ただ、悠がとても真面目に、1+1の話をしていることだけは分かった。
「つまり、1+1は、1に後者操作を一回適用した結果です」
「ごめん、もう分からん」
誰かが小さく言った。
「最終的に、1の後者である2に到達します」
悠はそこで、ようやく黒板に大きく書いた。
1+1=2
「よって、加法はこの範囲で使用可能です」
教室に、妙な沈黙が落ちた。
誰も反論できない。
反論できないのに、全員が同じことを思っていた。
そこまでしなくていい。
竹原先生は深く息を吐いた。
「紫月」
「はい」
「1+1は、次から証明しなくていい」
「既知として扱いますか?」
「扱ってくれ」
「分かりました」
悠は素直に頷いた。
今度こそ、席に戻ってきた。
教室は静かだった。
誰も喋らない。
竹原先生は黒板を見たまま、しばらく黙っていた。
それから、ようやく言った。
「……加法の確認は正しい」
「ありがとうございます」
悠は普通に礼を言った。
竹原先生は、疲れた顔で黒板を見上げた。
「ただし、授業としては間違っている」
「どこがですか」
「量とタイミングだ」
「量とタイミング」
「そうだ」
悠は少しだけ考えた。
「黒板面積と授業時間を考慮しました」
「そこを考慮できるなら、もっと手前で止まれ」
俺は小声で言う。
「お前、何やってんだ」
悠は不思議そうにこちらを見た。
「必要な確認をした」
「必要の範囲がおかしい」
「公式の導出は途中で止めた」
「それで十分だと思うな」
「加法の確認?」
「そうだけど、そうじゃない」
悠は少しだけ首を傾げた。
その反応が本気だったので、俺はそれ以上言えなかった。
そはらが振り返る。
「ユゥ」
「うん」
「目立たないようにって言ったよね?」
「言われた」
「今のは?」
悠は少し考えた。
「目立った」
「分かってるならよし」
「でも、必要だった」
「そこがよくないの」
竹原先生が咳払いした。
「では、この公式と加法は既知として扱う」
その言葉に、悠が小さく頷いた。
けれど、その表情は少しだけ硬かった。
俺は嫌な予感がした。
「悠」
小声で呼ぶ。
「何?」
「今の、納得してないだろ」
悠は少しだけ間を置いた。
「授業進行上の指示としては理解した」
「納得は?」
「未完了」
「そこは完了させろ」
「根拠が不足している」
「学校の授業では足りてるんだよ」
悠は黒板を見る。
そこには、さっき悠が書いた加法の確認と、端に小さく書かれた「公式確認、省略」の文字が残っていた。
「省略した前提を使うのは不安」
その声は小さかった。
俺は一瞬、返す言葉に詰まった。
ただの真面目すぎるやつ、というだけではない。
悠にとって、省略は怖いのだ。
竹原先生は続けた。
「今から、似た形式で小テストをする」
教室に、小さな悲鳴が上がった。
「今の見たあとにですか?」
「むしろ今見たからだ」
「見たけど分かってません」
「それは努力不足だ」
「理不尽!」
竹原先生は気にせず、プリントの束を取り出した。
俺は嫌な予感しかしなかった。
小テスト。
つまり、答案を提出する。
つまり、点数がつく。
つまり、目立つ。
隣を見ると、悠はプリントが配られるのを静かに待っていた。
あまりにも静かだった。
静かすぎて怖い。
「悠」
小声で呼ぶ。
「何?」
「普通に解け」
「普通に」
「公式はさっき省略した。加法は確認した。先生も既知でいいって言った。だから、もう書かなくていい」
悠は一拍置いた。
「授業中は既知扱い」
「そうだ」
「テストでも?」
「そうだ」
「なぜ?」
俺は答えに詰まった。
なぜ、と言われると困る。
普通そうだからだ。
でも、悠にその言い方はたぶん通じない。
「竹原先生がいいって言ったからだ」
悠は先生を見る。
竹原先生はプリントを配っている。
「そういうもの?」
「そういうもの」
悠は少しだけ眉を寄せた。
「そういうもの、は難しい」
嫌な予感が強くなった。
プリントが配られる。
俺の机にも一枚置かれた。
やはり、三角関数の問題だった。
さっきの問題と似ている。
似ているが、当然俺には分からない。
「時間は十五分。始め」
教室に、シャーペンの音が広がった。
俺は問題を見る。
見る。
見なかったことにしたくなる。
横から、鉛筆の音が聞こえた。
さらさら、ではない。
ざざざ、に近い。
紙を削るような速度で、悠が書き始めた。
気になる。
ものすごく気になる。
だが、テスト中に隣の答案を覗き込むわけにはいかない。
俺は自分のプリントに目を戻した。
分からない。
黒板で省略された公式。
さっき既知として扱うことになった加法。
使っていいと言われた前提。
そのはずなのに、俺にはそれをどう使えばいいのか分からない。
横では、まだ鉛筆の音が続いている。
しばらくして、その音が一度止まった。
もう終わったのか。
そう思った瞬間、紙を裏返す音がした。
俺は思わず横を見そうになった。
だが、見ない。
何を書いているのかは分からない。
ただ、問題を解き終わったあとも、悠がまだ何かを書いていることだけは分かった。
「おい」
俺は小声で言った。
「何してる」
「補完」
「何の」
「省略された前提」
やっぱり納得していなかった。
「さっき既知でいいって言われただろ」
「授業進行上は」
「テストでは?」
「提出物なので、根拠を明記する」
「逆だろ」
「逆?」
「普通はテストの方が省くんだよ」
悠は少しだけ困った声で言った。
「省略すると、不完全に見える」
そこで竹原先生の足音が近づいてきた。
「私語は慎め」
「すみません」
俺は慌てて自分のプリントへ目を戻した。
横で、悠の鉛筆の音だけがまた続いている。
ざざざ。
ざざざ。
テスト中に聞こえていい音ではなかった。
残り時間が減っていく。
俺の答案はほとんど白い。
悠の鉛筆は止まらない。
途中から、俺は諦めた。
自分の問題を解くことを諦めたわけではない。
いや、それも少しある。
それより、隣の音を気にしないことを諦めた。
異常な速度で何かを書き続ける幼馴染。
それを横にして、普通に集中できるわけがない。
やがて、竹原先生が時間を告げた。
「そこまで。後ろから集めろ」
答案が回収される。
俺は自分の答案を出した。
白い。
非常に白い。
これはこれで問題だが、今はそれどころではなかった。
後ろから回ってきた答案の束に、悠のものが重なった瞬間、ちらりと見えた。
黒い。
圧倒的に黒い。
俺の答案は、余白が多い。
悠の答案は、余白が死んでいた。
俺は見なかったことにした。
いや、見えなかったことにした。
竹原先生は教卓で答案を軽く確認していた。
何枚か見て、頷く。
何枚か見て、ため息をつく。
そして、悠の答案を見た瞬間、動きが止まった。
教室の空気が変わった。
竹原先生が答案を持ったまま、ゆっくりと言う。
「紫月」
「はい」
「これは何だ?」
悠は素直に答えた。
「解答です」
「それは分かる」
竹原先生は答案の表面を見た。
解答欄には、普通に答えが書かれている。
途中式もある。
そこまでは、まだ小テストの答案だった。
問題は、その周囲だった。
答案欄の外側。
上下の余白。
左右の余白。
問題文を邪魔しない範囲に、同じ大きさの文字が、きっちりと並んでいる。
文字は小さい。
けれど、読めないほどではない。
むしろ、読みやすいように行間まで揃えられていた。
「では、この余白は何だ?」
「省略した前提の補完です」
教室がざわついた。
「補完?」
「何を補完したんだ?」
「答案で?」
竹原先生は答案を見たまま、こめかみを押さえた。
「途中式。使用公式の確認。条件に合わない解を除いた理由。定義域と除外条件」
教室が静かになった。
竹原先生は、さらに表面の余白を追う。
「実数。座標平面。距離。円。単位円。角度。ラジアン。回転変換。三角関数の定義」
「はい」
悠は真面目に頷いた。
「式変形と公式使用に必要でした」
「使っていい」
「証明済みですか?」
「さっきの授業では、省略しました」
「省略していいと言った」
「授業進行上は」
「テストでは?」
「提出物なので」
教室がざわついた。
「提出物だと厳密になるのか」
「紫月、真面目すぎるだろ」
「真面目の方向がおかしい」
竹原先生は目を閉じた。
それから、答案を裏返した。
そして、動きが止まった。
裏面は、表面よりさらに黒かった。
ただし、乱雑ではない。
表面と同じ大きさの文字。
同じ行間。
同じ幅。
裏面全体に、整然と文字と式が並んでいる。
表面の余白は、あくまで解答の補足だったらしい。
本命は裏面だった。
「……裏にもあるのか」
「はい」
「表面だけでは足りなかったのか」
「表面は解答を読む妨げにならない範囲に留めました」
「そこは配慮したんだな」
「読めないと提出物として機能しません」
「その判断ができるなら、なぜ裏面をここまで埋めた」
悠は少しだけ首を傾げた。
「必要だったので」
竹原先生は裏面を確認する。
「回転の合成。加法定理の導出。等式変形の正当性」
教室が静かになった。
「その下に、公理的集合論。空集合。自然数の構成。ペアノの公理。加法の再帰的定義」
誰かが小さく言った。
「答案用紙だよな?」
別の誰かが答える。
「たぶん」
竹原先生はさらに目を細めた。
「そのうえで、乗法の再帰的定義。分配法則。等式変形の正当性」
「はい」
「式変形に使用しました」
「使っていい」
「証明済みですか?」
「そこも省略されていました」
「省略していい」
「答案では?」
「答案でもいい」
「提出物なので」
竹原先生は、深く息を吐いた。
そのまま裏面の下の方へ目を移す。
「……それに、さっき黒板で確認したはずの加法まで、数式で書き直してある」
教室が静かになった。
「加法?」
誰かが呟いた。
「足し算のこと?」
「さっきやったやつ?」
竹原先生は答案の端を指で押さえた。
「1+1=2の確認だけじゃない。加法の公理、後者関数、再帰的定義まで、かなり細かく書いてある」
俺は机に突っ伏したくなった。
さっき黒板でやったことを、もう一度書いたのか。
しかも、今度は黒板の説明より細かく。
「紫月」
「はい」
「これは、さっき既知として扱うと言ったはずだが」
「はい」
「では、なぜ書いた」
「答案なので」
竹原先生は目を閉じた。
「黒板では言葉で説明した部分を、数式で補完したのか」
「はい。口頭説明では厳密性が不足します」
「小テストだぞ」
「提出物です」
教室がまたざわついた。
「提出物だと厳密になるのか」
「紫月、真面目すぎるだろ」
「真面目の方向がおかしい」
「答案用紙で数学を再建してる」
竹原先生は深く息を吐いた。
「つまり、授業では省略したが、答案では納得できなかったから書いたのか」
「はい」
「全部か?」
「全部ではありません」
「まだあるのか」
悠は淡々と答えた。
「実数の構成、極限、連続性、回転変換の厳密な存在証明、三角関数の解析的定義、指数関数との関係は省略しました」
竹原先生の目が死んだ。
「……なぜ省略した」
「スペースの関係で省略しました」
「答案用紙でそれを言うな」
教室が妙な空気になった。
竹原先生は、しばらく黙った。
それから、疲れたように言った。
「そこは判断しなくていい」
「不要でしたか?」
「不要だ」
「では、判断は正しかったです」
「そういう意味ではない」
竹原先生は深く息を吐いた。
それから、答案をもう一度見直した。
「……全部合ってる」
「まだ採点前では?」
「見れば分かる」
竹原先生が疲れたように言った。
ただ、問題は正解していることだけではなかったらしい。
竹原先生は答案を持ち上げた。
「解答欄には解答。表面の余白には公式確認と除外条件。裏面には前提の補完と、黒板で省略した説明の数式化」
教室がまたざわつく。
「答案用紙で数学を再建してる……」
誰かが呟いた。
竹原先生はその声を否定しなかった。
むしろ、深く頷きかけてから、かろうじて踏みとどまった。
「紫月」
「はい」
「これは、三角関数の小テストだ」
「はい」
「にもかかわらず、この答案には、三角関数の解答、公式の確認、単位円、回転変換、集合論、自然数の構成、加法、乗法、分配法則の確認が入っている」
「はい」
「なぜだ」
悠は少しだけ首を傾げた。
「使用したためです」
竹原先生は、もう一度深く息を吐いた。
「使ったものを全部証明するな」
「では、どこまでを既知として扱えばいいですか」
竹原先生が黙った。
教室も黙った。
それは、たぶん、誰にも答えられない質問だった。
少なくとも、今の悠に対しては。
俺は小声で言った。
「悠」
悠がこちらを見る。
「何?」
「テストでは、聞かれてることだけ書けばいい」
「途中式は?」
「必要な分だけ」
「根拠は?」
「普通に必要な分だけ」
悠は困った顔をした。
「普通に必要、が分からない」
そはらが前の席から振り返った。
「ユゥ」
「うん」
「先生が授業で使っていいって言った公式は、そのまま使っていいの」
「テストでも?」
「テストでも」
「証明しなくていい?」
「授業進行上は」
「テストでも!」
そはらが小声で強く言った。
悠は少し考えた。
「不安」
そはらの表情が少しだけ変わった。
「不安?」
「うん」
悠は答案を見た。
「どこまで省略していいのか分からない。省略すると、間違っているように見える」
その声は、さっきまでより少しだけ小さかった。
俺は何も言えなくなった。
ただ真面目すぎるだけではない。
悠にとって、根拠を確認しないことは怖いのだ。
命令。
処理。
条件。
例外。
制限。
そういうものを体に流し込まれた悠にとって、確認されていない前提を使うことは、たぶん俺たちが思うよりずっと気持ち悪い。
竹原先生も、少し黙った。
それから、いつもより少し柔らかい声で言った。
「紫月」
「はい」
「今の学校のテストでは、授業で扱った公式は使っていい。証明を全部書かなくても、それだけで間違いにはしない」
悠は先生を見る。
「採点基準ですか」
「そうだ」
「明文化されていますか」
「今した」
悠は少し黙った。
「理解しました」
「納得したか?」
竹原先生が聞いた。
悠は一拍置いて答えた。
「していません」
教室が静かになった。
竹原先生は、少しだけ眉を上げた。
「していないのか」
「はい」
悠は答案を見たまま続けた。
「採点基準としては理解しました。でも、根拠を省略した状態を完全とは判断できません」
「つまり?」
「次も、必要だと判断したら書きます」
竹原先生は目を閉じた。
教室の何人かが小さく笑った。
「紫月」
「はい」
「次からは、少しは減らせ」
「努力します」
「努力か」
「省略可能範囲がまだ不明です」
「今説明しただろ」
「採点上の範囲は理解しました。でも、ボクの中では未確認です」
その言い方は、冗談ではなかった。
悠は本当に、納得していない。
ただ先生の言葉を拒んでいるのではなく、自分の中の処理として、まだ完了していないのだ。
竹原先生は深く息を吐いた。
「分かった。なら、次からは別紙に書け」
「別紙」
「答案には解答を書く。前提確認が必要なら、別紙に書く。採点するかどうかは先生が判断する」
悠は少しだけ考えた。
「別紙なら、証明してもいいですか」
「量による」
「量」
「今回みたいなのは多い」
「では、圧縮します」
「そこも違うが……まあいい」
竹原先生は疲れたように笑った。
「ただし、答案用紙で数学を再建するな」
悠は一拍置いた。
「答案用紙では、再建しない」
「そうだ」
「別紙では?」
「ほどほどにしろ」
「ほどほど」
悠は少し困った顔をした。
「それも難しいです」
教室から、少しだけ笑いが起きた。
俺も、ようやく息を吐いた。
そはらも肩の力を抜いている。
悠だけは、まだ少し真面目な顔をしていた。
「それで」
竹原先生は答案を見直した。
「点数は満点だ」
教室がざわついた。
「満点かよ」
「そりゃあれだけ書けばな」
「むしろ満点以上あるだろ」
「答案用紙を超えてる」
竹原先生はチョークで教卓を軽く叩いた。
「満点以上はない」
「でも先生、ほぼ数学基礎論でしたよ」
「数学基礎論でも満点は満点だ」
教室が笑った。
悠は少しだけ不思議そうにしている。
たぶん、笑われているのか、褒められているのか、判断できていない。
俺は小声で言った。
「大丈夫だ。たぶん、変なやつで済んでる」
「変なやつ」
「昔からそうだったろ」
悠は一瞬だけ目を丸くした。
それから、小さく笑った。
「そうだったかも」
「そうだった」
そはらも振り返って言った。
「そこは補正じゃなくても、元からだから。細かいところ気にするのは」
「そっか」
悠は少しだけ安心したように、机の上に視線を戻した。
一時間目は、まだ終わっていなかった。
小テストの採点は終わっていない。
先生の説明も、まだ途中だった。
俺の答案はほぼ白いままだ。
けれど、教室の空気は少しだけ緩んでいた。
三年前に消えたはずの幼馴染が、普通に席に座っている。
その幼馴染は、三角関数の小テストで数学を再建しかけて、先生に止められている。
意味が分からない。
けれど、目の前ではそれが日常として処理されている。
俺は、それを少しだけありがたいと思った。
同時に、少しだけ怖いとも思った。
世界は、意外なくらい簡単に形を変える。
その中で、悠だけが、自分の空白を忘れずに座っている。
嘘の記録の中で。
本物の日常を取り戻そうとしている。
その矛盾を抱えたまま、悠は竹原先生の説明を聞くために、静かに顔を上げた。