(樹、ごめんな……)
意識が沈んでいく。
真っ暗な闇の中で、俺は最後まで親友の顔を思い浮かべていた。
笑っていた樹。
泣いていた樹。
そして――冷たくなってしまった樹。
(お前との約束……守れなかったよ……)
そこで、俺の記憶は途切れた。
---
「――――」
柔らかな声が聞こえる。
女の人の声だ。
聞いたことのない言葉だった。
少なくとも、日本語じゃない。
けれど不思議と嫌な感じはしなかった。
まるで子守唄みたいに優しくて、意識の奥へゆっくり染み込んでくる。
「――――、――――」
今度は少し嬉しそうな声。
誰かが笑っている。
……なんだ?
俺、生きてるのか?
最後の記憶が蘇る。
夜の国道。
大型トラック。
眩しいヘッドライト。
クラクション。
そして。
全身を粉砕されるような衝撃。
骨が砕ける音。
肉が裂ける感触。
血の臭い。
あれで生きてるわけがない。
絶対に死んだ。
なのに。
(……声が聞こえる)
恐る恐る、目を開ける。
最初に見えたのは、木の天井だった。
古びた木材。
隙間から差し込む柔らかな光。
病院じゃない。
日本の建物でもない。
ログハウスのような、木造の家だった。
「――――!」
目を開けた俺に気づいたのか、誰かが嬉しそうな声を上げた。
視線を向ける。
そこには、一人の女性がいた。
茶色がかった柔らかな髪。
透き通るような碧い瞳。
優しそうな顔立ち。
歳は二十代後半くらいだろうか。
白衣ではなく、ゆったりとした生成り色のローブを着ている。
まるでファンタジー世界の住人みたいな格好だった。
女性は俺の顔を覗き込みながら、何かを話している。
「――――! ――――!」
言葉はわからない。
でも、その表情だけで理解できた。
喜んでいる。
まるで――。
“我が子”を見るような目だった。
(……待て)
嫌な予感がした。
俺は身体を動かそうとする。
だが。
動かない。
腕に力が入らない。
首もまともに回らない。
視界が低い。
やけに身体が小さい。
自分の手を見る。
そこにあったのは――。
ぷにぷにした、小さな赤ん坊の手だった。
(……は?)
思考が止まる。
試しに声を出そうとした。
「ぁ……あぅ……」
出たのは、情けない泣き声だった。
「ぁうっ! あううっ!」
違う。
そうじゃない。
ちゃんと言葉を――。
「うぇぇぇぇぇぇん!!」
だが、口から出たのは赤ん坊特有の大泣きだった。
感情が抑えられない。
混乱も恐怖も不安も、全部そのまま涙になって溢れ出す。
女性が慌てた様子で俺を抱き上げた。
温かい。
柔らかい。
甘い匂いがした。
背中を優しく叩かれる。
その瞬間。
俺は理解してしまった。
――俺は、赤ん坊になっていた。
---
それから、一ヶ月が経った。
最初の数日は地獄だった。
身体は思うように動かない。
眠気に逆らえない。
感情を抑えられない。
前世では当たり前にできていたことが、何一つできなかった。
泣くことしかできない自分が、情けなくて仕方なかった。
だが、一ヶ月も経つ頃には、少しずつ状況を整理できるようになっていた。
まず、この世界は日本じゃない。
言葉も違う。
文化も違う。
そして――。
魔法が存在する。
最初に見た時は本気で目を疑った。
母親――エレナが、俺を寝かしつける時。
指先に小さな光を浮かべたのだ。
柔らかな金色の光。
まるで蛍みたいに宙を漂うそれを見た瞬間、俺は言葉を失った。
さらに父親――ガルドは、薪に手をかざすだけで火をつけていた。
どう考えても普通じゃない。
ここは、異世界だ。
漫画やアニメでしか見たことのない、“剣と魔法の世界”。
そして。
俺は、その世界で新しい命として生まれ変わった。
名前は“アッシュ”。
どうやらそれが今の俺の名前らしい。
(……アッシュ、か)
不思議な感覚だった。
あつしだった俺は死んだ。
なのに、こうしてまた生きている。
まるで神様が、
「やり直してこい」
そう言っているみたいだった。
けれど。
夜になると、必ず思い出す。
樹のことを。
首を吊った姿。
冷たくなった身体。
最後の手紙。
『お前は、俺のヒーローだった』
その言葉が、今でも胸を抉る。
俺はヒーローなんかじゃない。
樹を見捨てた。
助けられなかった。
怖くて逃げた。
最低の人間だ。
そんな俺が、ヒーローになれるわけがない。
夜になる度、涙が溢れた。
赤ん坊の身体は感情を隠せない。
気づけば大泣きしていて、その度にエレナが優しく抱き上げてくれた。
「よしよし、大丈夫ですよー」
言葉はまだ完全にはわからない。
それでも、その優しさだけは伝わった。
……温かかった。
前世の俺は、ずっと後悔の中にいた。
自分を責め続けていた。
だが。
樹は最後まで、俺を責めなかった。
それどころか。
『前を向いて生きろ』
『たくさんの人のヒーローになってくれ』
そう願ってくれた。
(……なんでだよ)
胸が苦しい。
痛い。
樹を助けられなかった俺なんかに。
どうしてそんな言葉を残せるんだ。
(ずるいよ、お前……)
涙が滲む。
けれど。
だからこそ。
もう逃げちゃいけないと思った。
この人生は、きっとやり直すためにある。
樹を救えなかった俺が。
今度こそ誰かを守るために。
(もう、逃げない)
小さな拳を握る。
まだ力の入らない、赤ん坊の手。
それでも。
胸の奥の決意だけは、本物だった。
(この世界では、絶対に後悔しない)
誰かが苦しんでいたら手を伸ばす。
守りたいものを守る。
二度と、大切な人を見捨てない。
そして――。
(樹……)
心の中で、親友の名前を呼ぶ。
(お前の分まで、俺がヒーローになる)
それは夢なんかじゃない。
誓いだった。
罪を背負った俺が。
生涯をかけて果たすべき、“贖罪”だった。