パビブの森の朝は、澄み切った空気に満ちていた。
木々の隙間から差し込む陽光が地面をまだらに照らし、吹き抜ける風が若葉を揺らす。
そんな静寂を切り裂くように、乾いた衝突音が連続して響いていた。
カンッ――!
「はぁっ!!」
アッシュが鋭く踏み込む。
木剣に纏わせた黄緑色の魔力が風を巻き込み、横薙ぎの一撃が唸りを上げた。
だが。
「――遅い」
淡々とした声。
白髪の少女、リリシィ・ルミリンスは、最小限の動きで後退すると、水色の魔力を帯びた木剣でその一撃を受け流した。
ぶつかった瞬間、空気が凍りつく。
アッシュの腕が一瞬だけ鈍る。
(また冷気か……!)
舌打ちしそうになるのを堪えながら、アッシュは即座に距離を詰めた。
風属性による加速。
八歳とは思えない速度で死角へ回り込む。
しかし。
「そこ」
リリシィの声と同時に、地面が凍った。
「っ!?」
足元を覆う氷。
動きが止まる。
次の瞬間には、リリシィの木剣がアッシュの胸元へぴたりと突きつけられていた。
静寂。
やがてアッシュは肩の力を抜き、苦笑する。
「……俺の負けか」
少し離れた場所で見守っていたエリィが、小さく拍手した。
金色の髪を揺らしながら、彼女は満足そうに頷く。
「三年でここまで来るとはな。正直、想像以上だ」
その言葉に、アッシュは汗を拭いながら笑った。
「リリシィ、今日も強かったな。最後の氷、完全に読まれてた」
リリシィは無表情のまま、ほんの少しだけ口元を緩める。
「アッシュも速くなった。でもまだ力みすぎ。風は押し込むんじゃなくて、流す」
「……師匠みたいなこと言うなぁ」
「エリィ先生に教わった」
「そのまんまだな!?」
思わずツッコミを入れると、リリシィは小さく笑った。
その姿を見て、アッシュは少し目を細める。
三年前。
森で出会った頃のリリシィは、今よりもっと感情が薄かった。
だが今は違う。
笑うことも増えたし、冗談めいた返しをすることもある。
もちろん天然な部分は相変わらずだが。
(……少しずつ変わってきたんだな)
そんなことを考えていると、エリィが腕を組みながら口を開いた。
「二人とも、まだ攻守に穴がある、攻守両面で戦えるようになれ」
「はい!」
「……ん」
二人が返事をすると、エリィは満足そうに頷いた。
「今日はここまでだ。午後は自由にしていい。ただし――森の奥には行くな」
その言葉に、アッシュが首を傾げる。
「何かあったんですか?」
「最近、魔物の気配が強くなっている。村の近くまで下りてきている可能性がある」
少しだけ真剣な声音だった。
アッシュも表情を引き締める。
「わかりました」
「よし。じゃあ私はガルド達のところへ行ってくる。……くれぐれも迷子になるなよ?」
「子供扱いしすぎですって」
「八歳は十分子供だ」
エリィはそう言い残し、森の奥へ消えていった。
残されたアッシュとリリシィは、並んで森の出口へ歩き始める。
しばらく無言が続いた後。
「ねぇ、アッシュ」
「ん?」
「森の奥、行ってみない?」
アッシュはぴたりと足を止めた。
木漏れ日の下、リリシィの白髪が淡く輝く。
その瞳には、珍しく好奇心の色が宿っていた。
「いやいや、エリィ先生が危ないって言ってただろ」
「だから気になる」
「その理屈はおかしい」
「大丈夫。私たち、前より強くなった」
確かに――そうだった。
魔装も扱えるようになった。
普通の成人冒険者相手なら戦える、とエリィも言っていた。
だが同時に、不安もある。
訓練ばかりで、本物の命のやり取りを知らないまま、本当に強くなれるのか。
そんな焦りが、アッシュの中にもあった。
「……少しだけだぞ」
リリシィの目がわずかに輝く。
「うん」
「危なくなったら即撤退。それが条件だ」
「了解」
二人は森の奥へ足を踏み入れた。
奥へ進むにつれ、空気が変わっていく。
木々は深く生い茂り、陽光はほとんど届かない。
落ち葉を踏む音だけが静かに響く。
アッシュは木剣を握り直した。
風の魔力を薄く纏い、周囲の流れを探る。
異変があれば、すぐ察知できるように。
「静かだね」
「まぁ、基本的に魔物なんて滅多に出ない場所だし――」
その時だった。
ぞわり、と。
肌を撫でる空気が変わる。
鳥の鳴き声が消えた。
風が止まる。
アッシュの背筋に、冷たい悪寒が走った。
「……リリシィ、止まれ」
前へ出した腕で制する。
視線の先。
茂みが揺れた。
「グルルル……」
低い唸り声。
次の瞬間、巨大な影が飛び出した。
灰色の毛皮。
異様に発達した筋肉。
鋭い牙と爪。
成人男性の倍近い体躯。
「――オーク!?」
アッシュは即座に木剣を構えた。
黄緑色の風が剣身を包む。
隣ではリリシィも静かに魔力を解放していた。
水色の冷気が周囲の温度を奪っていく。
「リリシィ。わかってるな?」
「うん。一緒に倒す」
「違う。危なかったら逃げる、だ」
「……わかってる」
二人は並んで立つ。
そして。
生まれて初めて、本物の魔物と対峙した。
最初に動いたのは、オークだった。
「グルァァァァッ!!」
地面を揺らす咆哮。
巨大な体躯からは想像もできない速度で、オークがアッシュへ突進してくる。
振り上げられた剛腕。
その一撃だけで、人間の骨など簡単に砕けるだろう。
だが――
(見える!)
アッシュの瞳が鋭く細まる。
三年間。
毎日のようにエリィと模擬戦を繰り返した。
雷属性による超高速の動きに比べれば、目の前の攻撃はまだ遅い。
「『
足元に風を纏う。
瞬間、身体が軽くなった。
アッシュは横へ滑るように回避し、そのままオークの死角へ潜り込む。
(今だ!)
木剣へ風の魔力を集中。
圧縮された風が刃の形を成していく。
「『
鋭い一閃。
風を纏った木剣が、オークの脇腹へ叩き込まれる――はずだった。
「グルァ!」
「っ!?」
オークの口元が歪む。
次の瞬間、先ほどより遥かに速い拳がアッシュへ振り抜かれた。
(罠――!?)
咄嗟に身を捻る。
だが避けきれない。
直撃する――そう思った瞬間。
「『
静かな声が響いた。
ジャキンッ!!
氷の鎖が地面から伸び、オークの身体へ巻きつく。
「グルル!?」
巨体が止まる。
鎖から放たれる冷気が、オークの動きを急速に鈍らせていく。
「アッシュ、今!」
その声より早く、アッシュは動いていた。
「助かった、リリシィ!」
『風歩』で一気に加速。
風を纏った木剣を、凍りついた首元へ叩き込む。
「はぁぁぁぁぁっ!!」
風の刃が奔る。
次の瞬間。
ズドッ――と鈍い音が響いた。
オークの首が宙を舞う。
巨体がぐらりと揺れ、そのまま地面へ崩れ落ちた。
森が静まり返る。
「……勝った?」
アッシュが呟く。
数秒遅れて、全身から一気に力が抜けた。
「や、やった……!」
初めての実戦。
初めて倒した魔物。
アッシュは思わず拳を握り締めた。
「アッシュ、すごい」
リリシィが近づいてくる。
普段は感情の薄い彼女も、今は少し嬉しそうだった。
「いや、リリシィのおかげだ。あの鎖がなかったら危なかった」
「最初の攻撃、変だったから」
「気づいてたのか?」
「うん。わざと隙を見せてた」
アッシュは思わず感心する。
(すごいな……)
自分は完全に引っかかっていた。
だがリリシィは見抜いていたのだ。
「でもアッシュも、ちゃんと動いてた。かっこよかった」
「っ……そ、そうか?」
急に褒められ、アッシュは照れ臭そうに頬を掻く。
リリシィは小さく笑った。
その時だった。
「あ、そういえば」
アッシュが倒れたオークへ視線を向ける。
「魔石、回収しないと」
エリィから聞いたことがある。
魔物は頭部にある“魔石”を核として活動している。
首を落としても、魔石を破壊か取り除くかしない限り完全には死なない。
アッシュは警戒しながらオークへ近づいた。
額には、紫色の石が埋まっている。
「これか……」
木剣の先で引き抜く。
瞬間。
オークの身体がボロボロと崩れ始めた。
まるで灰になるように、巨体が崩壊していく。
「すご……」
リリシィが小さく呟く。
アッシュは魔石を握りしめながら立ち上がった。
「今日はこれで帰ろう。さすがに先生に怒られる」
「うん。たぶんすごく怒られる」
「否定しないんだな……」
苦笑しながら踵を返す。
――だが。
その瞬間だった。
ぞわり、と。
アッシュの全身を悪寒が貫いた。
「……っ!?」
空気が変わる。
風が乱れた。
森の奥から、何かが近づいてくる。
それも、さっきのオークとは比べ物にならないほど濃密で、不気味な気配。
「アッシュ?」
「……リリシィ、戦える準備を」
アッシュの声音が低くなる。
リリシィもすぐ異常を察した。
木剣を握り直し、冷気を纏う。
風が騒ぐ。
近づいてくる。
どんどん。
どんどん。
まるで“死”そのものが歩いてくるように。
そして――。
「なんだぁ? オレ様のオークの反応が消えたと思って来てみりゃ……」
茂みの奥から、男が現れた。
紫色の肌。
黒い角。
不気味に吊り上がった瞳。
口元には、獲物を見つけた肉食獣のような笑み。
その瞬間。
アッシュの背筋が凍りついた。
(なんだ……こいつ……!?)
圧力が違う。
存在感が違う。
近くにいるだけで、本能が悲鳴を上げていた。
逃げろ。
勝てない。
関わるな。
身体中が警告している。
「リリシィ!! 逃げるぞ!!」
アッシュは咄嗟に叫んだ。
「こいつは――魔人族だ!!」