「魔人族……?」
リリシィが小さく呟く。
アッシュは即座に彼女の腕を掴み、駆け出した。
「説明は後だ!!」
『風歩』
足元へ風を纏い、一気に加速する。
今までで最速。
全力だった。
だが――。
「おいおい、逃げんなよぉ」
間延びした声が響く。
次の瞬間。
ゴゴゴゴゴ――ッ!!
地面が盛り上がった。
「なっ――!?」
森の地面が隆起し、巨大な土壁となってアッシュ達を囲い込む。
逃げ道が、塞がれた。
「チッ……!」
アッシュは舌打ちしながら立ち止まる。
リリシィを背に庇い、木剣を構えた。
ゆっくりと。
魔人族の男が歩いてくる。
「人の顔見て逃げるなんてよぉ、最近のガキは礼儀がなってねぇなぁ?」
ヘラヘラと笑いながら、男は頭を掻いた。
その姿だけ見れば、どこにでもいる軽薄な男だ。
だが纏う魔力が異常だった。
空気が重い。
呼吸するだけで肺が軋む。
「……アッシュ。魔人族ってあの?」
「あぁ」
アッシュは唇を噛み締める。
本で読んだことがある。
人族と長年戦争を続けてきた、魔の種族。
圧倒的な身体能力。
強大な魔力。
そして何より――残虐。
「紫色の肌に黒い角……間違いない」
「へぇ? ちゃんと勉強してるじゃねぇか」
男がニタリと笑う。
「だったら分かるよなぁ? お前らみてぇなガキじゃ、オレ様には絶対勝てねぇって」
その笑みを見た瞬間、アッシュの本能が告げる。
勝てない。
今まで出会った誰よりも強い。
エリィに近い――いや、もしかしたらそれ以上。
「リリシィ」
「うん」
短いやり取り。
だが互いに理解していた。
今は生き残ることだけを考える。
「……行くぞ!!」
アッシュが地面を蹴る。
同時に、魔人族の男が笑った。
「あはははは!! 本当にやる気かよぉ!?」
男が地面へ手を触れる。
その瞬間。
ドゴォッ!!
無数の岩槍が地面から突き出した。
「っ!!」
「『
アッシュは木剣を振り抜きながら身体を回転させる。
風の刃が渦となり、迫る岩槍を次々と切り裂いた。
だが数が多い。
左右から迫る岩槍へ、今度はリリシィが魔力を放つ。
「
水色の魔法陣が展開される。
直後、無数の氷槍が放たれ、岩槍と正面衝突した。
轟音。
土煙。
視界が白く染まる。
「おぉ、やるじゃねぇか」
声が近い。
アッシュの目が見開かれた。
「――速っ!?」
煙の中から、魔人族が飛び出してきた。
狙いはリリシィ。
「守りが薄い方から潰すのが基本だよなぁ!!」
拳が迫る。
「リリシィ!!」
だが。
リリシィは逃げなかった。
静かに木剣を地面へ突き刺す。
「
バキィィィン!!
地面が凍る。
次の瞬間、巨大な氷柱が爆発的に突き上がった。
森を突き破るほどの氷槍群。
「ほぉ!!」
魔人族は笑った。
避ける。
いや、それだけではない。
飛来する氷柱へ手を触れる。
「『
――グニャリ。
氷が、歪んだ。
次の瞬間。
氷柱そのものが砕け散り、無数の氷塊となってリリシィへ襲い掛かる。
「え――」
避けきれない。
ドゴッ!!
「かはっ――!!」
リリシィの小さな身体が吹き飛んだ。
「リリシィ!!」
アッシュが駆ける。
倒れた彼女を抱き起こした。
額から血が流れている。
呼吸はある。
だが戦える状態ではない。
(なんだ今の……!?)
アッシュの背中を冷たい汗が伝う。
触れた氷を、分解した?
いや違う。
形そのものを書き換えた。
「『
理解不能な能力。
だがひとつだけ分かる。
危険だ。
「おいおい、もう終わりかぁ?」
魔人族が笑う。
「オレ様はまだ遊び足りねぇぞ?」
その瞬間。
地面が再び脈動した。
巨大な岩の拳が形成される。
アッシュ達を押し潰すほど巨大な拳。
「くっ……!」
リリシィを抱えたままでは避けきれない。
だが下ろせば間に合わない。
防ぐしかない。
でも――。
(防げるのか……?)
脳裏によぎる。
前世の記憶。
助けられなかった親友。
動けなかった自分。
もできなかった、弱い自分。
(また……失うのか?)
岩の拳が迫る。
死が迫る。
だが。
その瞬間。
アッシュの瞳に、強い光が宿った。
(違う……!!)
拳を握る。
木剣へ魔力を注ぎ込む。
限界を超えて。
身体が軋むほど。
「俺は……!!」
風が吹き荒れる。
森全体が揺れる。
「もう何も守れず終わるだけの俺じゃない!!」
黄緑色の暴風が剣へ集束する。
風が唸る。
大気が震える。
「風よ――龍となれ!!」
木剣を振り抜く。
「『
轟音。
暴風が龍の形を成し、咆哮を上げながら放たれた。
暴風の龍が、森を喰らうように荒れ狂った。
轟々と唸る風。
木々が軋み、地面が抉れ、周囲一帯の空気が激震する。
それはもはや“風”ではなかった。
破壊そのもの。
巨大な龍となった暴風が、一直線に魔人族へ襲い掛かる。
「はぁ!?」
初めて。
魔人族の男――ゴードの表情から余裕が消えた。
「なんだよそれぇぇぇぇ!!」
咄嗟に両手を前へ突き出す。
「
紫色の魔力が迸る。
今までと同じように。
触れたものを捻じ曲げ、分解し、自分に都合のいい形へ変える絶対の能力。
そのはずだった。
だが――。
「……変わらねぇ!?」
ゴードの目が見開かれる。
暴風龍は止まらない。
確かに変質はしている。
風の流れも、形も、軌道も歪めている。
だが。
変えても変えても、暴風が再構築される。
龍が崩れない。
「なんなんだこの技はぁ!!」
暴風が唸る。
風が風を生み、壊されるたびに再び龍を形成していく。
暴風そのものが“喰らう意思”を持っているかのようだった。
アッシュは荒い呼吸を繰り返しながら、それでも剣を構え続ける。
全身が悲鳴を上げていた。
魔力が急速に削れていく。
視界も揺れる。
それでも――。
「『暴風龍抉』は……止まらない……!」
アッシュが叫ぶ。
「相手を喰らい尽くすまで、終わらない!!」
「クソガキがぁぁぁぁぁ!!」
ゴードが吠える。
次の瞬間。
暴風龍が、ついにゴードを呑み込んだ。
「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!?」
凄まじい悲鳴。
風の牙が肉を裂き、骨を砕き、魔力を削り取る。
ゴードの身体が宙へ吹き飛ばされた。
地面へ叩きつけられる。
ズドォォォンッ!!
土煙が舞い上がる。
やがて。
暴風龍は空高く舞い上がり、そのまま爆散した。
森へ、強烈な風だけが吹き抜ける。
静寂。
アッシュは膝をついた。
「はぁ……っ、はぁ……っ……」
限界だった。
今の一撃で、ほとんどの魔力を使い切った。
指先すら震えている。
それでも。
最初に向いた視線は、敵ではなかった。
「リリシィ!!」
アッシュは慌てて駆け寄る。
『暴風龍抉』は広範囲を巻き込む技だ。
咄嗟に威力を逸らしたとはいえ、無事とは思えない。
「大丈夫か!?」
「……ん」
リリシィが小さく返事をする。
氷の壁で身を守っていたらしく、致命傷にはなっていなかった。
だが全身はボロボロだ。
「アッシュの技、すごすぎ……」
「馬鹿! そんなことより怪我は!?」
「平気。ちょっと痛いだけ」
「それ平気じゃないからな!?」
思わず声を荒げる。
だが、生きている。
それだけで、胸の奥が熱くなった。
(守れた……)
涙が滲む。
前世では、守れなかった。
手を伸ばせなかった。
間に合わなかった。
でも今は違う。
ちゃんと戦った。
ちゃんと守れた。
「……アッシュ、なんで泣いてるの?」
リリシィが不思議そうに首を傾げる。
アッシュは涙を拭いながら笑った。
「嬉しいんだよ」
「変なの」
「うるさい」
そう言いながら、アッシュはリリシィへ肩を貸す。
「帰ろう。さすがに先生達に怒られる」
「たぶんすごく怒られる」
「だろうな……」
苦笑しながら歩き出そうとした、その時だった。
「おいおい……どこ行く気だぁ?」
声。
背筋が凍る。
アッシュとリリシィが同時に振り返った。
そこには。
先ほど吹き飛ばされたはずのゴードが、立っていた。
「なっ……!?」
上半身に大穴が空いている。
普通なら即死。
だがゴードは、口元を歪めて笑っていた。
「いい顔してんなぁ、お前ら」
ゴードの瞳が狂気に染まる。
「せっかく勝ったと思ったんだろぉ?」
アッシュの顔から血の気が引いた。
「なんで……生きて……」
「あぁ? 知らねぇのか?」
ゴードがニタァッと笑う。
「魔人族はなぁ……首から上を完全に潰されねぇ限り、簡単には死なねぇんだよ」
絶望的な言葉だった。
「残念だったなぁ!!」
ゴードが吠える。
「オレ様、今すっげぇムカついてんだよ。ガキ相手にこんな姿にされてよぉ!!」
紫色の魔力が爆発する。
森が震える。
空気が軋む。
先ほどまでとは比べ物にならない圧力。
「もう遊びは終わりだ」
ゴードが、自らの胸へ右手を突き刺した。
「
ドクン。
心臓の鼓動のような音が響く。
ゴードの身体が脈打つ。
骨が砕ける音。
肉が膨れ上がる音。
バキバキバキ――ッ!!
「っ……!」
アッシュ達が目を見開く。
ゴードの身体が変貌していく。
筋肉が異常なまでに膨張する。
角が巨大化し、牙が伸び、背中から漆黒の翼が生えた。
その姿は、もはや人型ですらない。
怪物。
まさに化け物だった。
「『
ゴードが低く笑う。
「さぁ第二ラウンドだ、ガキども」
圧力が違った。
先ほどまでのゴードですら怪物だった。
だが今、目の前に立っている存在は、その比ではない。
空気が重い。
息を吸うだけで肺が軋む。
森全体が、ゴードという存在を恐れて震えているかのようだった。
「なんだよその顔ぉ?」
ゴードが醜悪な笑みを浮かべる。
「絶望してんのかぁ?」
漆黒の翼を広げながら、一歩前へ出る。
その瞬間。
ドゴォッ!!
地面が陥没した。
ただ歩いただけで、大地が砕ける。
アッシュの頬を冷たい汗が流れた。
(勝てない……)
本能が理解してしまう。
今の自分では、絶対に届かない。
『暴風龍抉』ですら耐えられた。
しかもあれは、全魔力を注ぎ込んだ一撃だ。
もう二度と撃てない。
「アッシュ……」
隣で、リリシィが小さく呟く。
声が震えていた。
無理もない。
彼女も限界だ。
全身傷だらけで、まともに戦える状態じゃない。
それでも。
リリシィは前へ出た。
「リリシィ!?」
「……アッシュ、下がって」
「何言ってんだよ!」
アッシュが叫ぶ。
だがリリシィは振り返らない。
ボロボロの身体で木剣を握り締め、ゴードを見据えていた。
「私が時間を稼ぐ」
「ふざけんな!!」
アッシュはリリシィの肩を掴む。
「置いて逃げろなんて言うな! 二人で生き残るんだろ!?」
「無理」
即答だった。
「今のアッシュ、もう魔力ほとんど残ってない。私を抱えたままじゃ絶対逃げられない」
「だったら俺が残る!」
「ダメ」
リリシィが初めて強い声を出した。
その瞳には涙が滲んでいる。
「アッシュは、生きなきゃダメ」
アッシュの心臓が強く打つ。
「私は、アッシュにいっぱい守ってもらった。だから今度は……私が守る番」
「そんなの……!」
「お願い……逃げて」
ぽろり、と。
リリシィの瞳から涙が零れ落ちた。
アッシュは目を見開く。
泣いている。
いつも無表情だったリリシィが。
「私は、アッシュに英雄になってほしい……!」
その言葉が、胸を貫いた。
アッシュは奥歯を噛み締める。
逃げたいわけじゃない。
置いていきたいわけじゃない。
そんなこと、できるはずがない。
だが――。
(俺が弱いから……!)
もっと強ければ。
もっと力があれば。
こんな選択をさせずに済んだのに。
ゴードが、そんな二人を見て大笑いした。
「あはははははッ!! 泣けるねぇ!! 友情ごっこかぁ!?」
巨大な腕を鳴らす。
「いいぜぇ! だったら先にそっちの白髪から殺してやるよ!!」
「やめろォ!!」
アッシュが叫ぶ。
だがゴードは止まらない。
地面を砕きながら、一瞬でリリシィへ迫った。
速い。
今までとは比較にならない。
「死ねぇぇぇぇぇ!!」
巨大な拳が振り下ろされる。
直撃すれば、リリシィの身体など跡形もなく吹き飛ぶ。
その瞬間――。
バチィッ!!
緑色の雷光が森を裂いた。
「……は?」
ゴードの動きが止まる。
拳が空を切った。
そこにいたはずのリリシィが消えている。
「どこ行きやがった!?」
周囲を見回すゴード。
そして。
「ノロマめ」
冷たい声が響いた。
ゴードが振り返る。
そこには、一人のエルフが立っていた。
金色の髪。
鋭い眼差し。
全身を走る緑雷。
その腕の中には、気絶しかけたリリシィとアッシュが抱えられていた。
ゴードの目が細まる。
「……誰だぁ、お前」
エルフは静かにリリシィを下ろした。
そして。
腰の細剣へ手を添える。
「悪いが魔人に名乗る名は持ち合わせていない」
バチバチと雷が迸る。
森の空気が震えた。
「だが、強いて言うなら――」
エリィが笑う。
それは、弟子達へ向ける優しい笑みではない。
獲物を見定めた“戦士”の笑みだった。
「この子達の先生だ」