帝国標準暦80年5月(中央共通暦270年5月)
東部戦線の泥濘は、未だ終わってはいなかった。
雪解けは進み、冬の白は消え去った。
だが、それによって訪れたのは春ではない。
腐敗だった。
泥に沈んだ死体は膨れ上がり、砲弾で抉れた地面には濁った水が溜まり、その水面には油膜と血が浮かぶ。
戦車は泥に沈み、馬は脚を折り、人間は疲弊し、兵士たちは日に日に無表情になっていった。
戦争は既に、一年前のそれとは別物になっている。
最初は国家同士の戦争だった。
次に思想の戦争になった。
そして今。
それは消耗の戦争になっていた。
========クラムアン帝国中央部 帝都近郊 第六兵器開発廠========
帝都近郊の広大な軍需工業地帯。
その最奥部。
幾重もの鉄条網と警備線に囲まれた巨大格納庫の前へ、一台の軍用車両が到着した。
車両から降り立ったのは、黒灰色の軍装を纏った親衛軍将校たちだった。
先頭を歩く男――親衛軍少将グレイヴァは、巨大格納庫を見上げながら口を開く。
「随分と厳重だな。」
傍に立っていた技術士官が小さく笑う。
「当然です、少将閣下。ここには帝国の未来がありますので。」
重厚な防爆扉がゆっくり開く。
低い金属音。
蒸気。
油の臭い。
そして。
その奥に鎮座していたものを見た瞬間、親衛軍将校たちは一瞬言葉を失った。
「……これは。」
巨大だった。
あまりにも巨大だった。
鋼鉄の山。
いや。
鋼鉄そのものが生き物になったような異様な威圧感を放っている。
SHT-1。
帝国超重戦車計画の結晶。
車高だけで通常戦車の倍近くある。
分厚い装甲。
無数の補助銃座。
巨大砲塔。
左右副砲。
履帯は人間の身長ほどの幅があり、車体前面には幾重もの増加装甲が貼り付けられていた。
それはもはや戦車というより。
移動要塞だった。
「……化け物だな。」
誰かが呟く。
技術士官は誇らしげに頷いた。
「えぇ。“鋼鉄の怪物”です。」
========格納庫内部========
技術士官は黒板の前へ立ち、親衛軍将校たちへ説明を始める。
「では諸君、本日より親衛軍第8独立重戦車連隊へ正式配備されるSHT-1について解説します。」
黒板には巨大な設計図。
通常戦車の三倍以上の大きさがある。
「まず主兵装ですが、115mm CAT-115B戦車砲を搭載しています。」
ざわめき。
115mm。
現行帝国軍最大戦車砲を遥かに超える口径だった。
「徹甲榴弾使用時、TMA2の正面装甲を1500m以内で貫通可能。榴弾使用時は敵野戦陣地を一撃で破壊できます。」
「1500m……。」
親衛軍将校たちの顔色が変わる。
従来、TMA2相手には接近戦を強いられていた。
だがSHT-1は違う。
遠距離から叩き潰せる。
「さらに副兵装として50mm75年式対戦車砲を左右へ一門ずつ搭載。」
設計図へ棒を向ける。
「主砲が重装甲目標へ対応中でも、左右別方向の敵戦車へ同時交戦可能です。」
「……本当に移動要塞だな。」
「その認識で概ね正しいです。」
技術士官は続ける。
「補助兵装として20mm連装空冷機関銃を五基搭載。歩兵接近を許しません。」
「死角は?」
「あります。」
即答だった。
「本車両は万能ではありません。」
技術士官は表情を引き締める。
「まず速度。最高速度7km/h。」
親衛軍将校たちの間で苦笑が漏れる。
「歩兵並みだな。」
「はい。」
「撤退戦には向かん。」
「全く向きません。」
技術士官は頷く。
「本車両は突破兵器です。防衛線粉砕専用と考えてください。」
黒板へ新たな図が描かれる。
最前列。
SHT-1。
後方に歩兵。
さらに後方へ通常戦車。
「本車は敵砲火を引き受けながら前進し、敵防衛線へ穴を開けます。その後通常部隊が突破口へ流入する。」
「つまり盾か。」
「いえ。」
技術士官は少し笑った。
「槌です。」
========格納庫奥========
実車視察が始まる。
親衛軍将校たちは梯子を使って車体上へ登っていた。
近くで見ると、なお異様だった。
装甲厚315mm。
もはや野戦砲程度では傷すら付かない。
副砲だけで通常戦車並み。
内部には十二名が乗り込む。
車長。
操縦手。
主砲手。
装填手。
副砲手。
通信手。
補助銃座要員。
まるで小規模艦艇だった。
「燃費は?」
「最悪です。」
「航続距離。」
「実戦では80km持てば良い方でしょう。」
「故障率。」
「高いです。」
「……。」
技術士官は淡々と続ける。
「ですが、戦場で必要なのは完璧な兵器ではありません。」
彼はSHT-1の装甲を軽く叩いた。
鈍い音。
「敵を恐怖させる兵器です。」
その時だった。
格納庫奥から、不意に怒鳴り声が響く。
「油圧がまた落ちてるぞ!!」
「左副砲塔の旋回停止!」
「補助冷却回せ!このままだと主砲閉鎖器が焼き付く!」
親衛軍将校たちはそちらを見る。
巨大なSHT-1の周囲で、技術兵たちが慌ただしく動いていた。
車体下部では数人が泥だらけになりながら履帯整備を行い、砲塔上では整備兵がレンチを振るっている。
「……随分騒がしいな。」
グレイヴァ少将が言うと、技術士官は僅かに表情を曇らせた。
「超重量ゆえに各部への負荷が大きいのです。」
「つまり。」
「長時間稼働には不向きです。」
「それで数百両も量産したのか?」
「はい。」
「狂気だな。」
「戦争ですので。」
技術士官は平然と言った。
========帝国東部戦線========
数日後。
SHT-1は実戦投入された。
東部戦線北部。
人民共和国軍防衛線。
雨が降っていた。
泥濘。
腐臭。
煙。
兵士たちは塹壕の中で震えている。
その時だった。
地鳴り。
最初は誰も気づかなかった。
だが次第に。
大地そのものが震え始める。
「……何だ?」
人民共和国軍兵士たちが顔を上げる。
霧と雨の向こう。
巨大な影。
「戦車……?」
誰かが呟く。
だが。
近づくにつれて、それが常識外の存在であることを理解した。
「な……。」
「で、でかすぎる……。」
SHT-1。
泥を押し潰しながら前進する鋼鉄の怪物。
通常戦車の数倍。
砲塔だけで小屋ほどある。
20mm機関銃群が旋回し、主砲がゆっくりと持ち上がる。
人民共和国軍兵士たちの顔から血の気が引いた。
「撃て!!撃てぇ!!」
対戦車砲が火を吹く。
砲弾命中。
火花。
だが。
止まらない。
装甲へ白い傷が付いただけだった。
「ば、化け物……。」
次の瞬間。
115mm砲発射。
轟音。
塹壕線そのものが吹き飛ぶ。
泥。
肉片。
鉄片。
全てが空へ舞った。
さらに左右副砲が発砲。
前進する歩兵群へ砲撃。
20mm機関銃が火線を吐く。
人民共和国軍防衛線は一瞬で崩壊し始めていた。
========前線後方 帝国軍視点========
「凄ぇ……。」
若い帝国兵が呆然と呟く。
SHT-1はまさに戦場を踏み潰していた。
対戦車砲陣地を正面から突破し、塹壕を履帯で押し潰しながら進む。
その背後を帝国歩兵たちが続く。
兵士たちの士気は異様なほど高揚していた。
これまでTMA2へ怯えていた戦車兵たちですら歓声を上げている。
「これなら勝てる!」
「人民共和国の鉄屑共を踏み潰せ!」
だが。
最初の異変は、あまりにも突然だった。
ズズン。
鈍い音。
先頭を進んでいた一両のSHT-1が、不自然に傾いた。
「……止まった?」
次の瞬間。
巨大な履帯が泥濘へ半ば沈み込む。
「履帯が沈下しています!」
「出力上げろ!」
「駄目です!空転します!」
超重量。
230tを超える鋼鉄の塊は、泥濘地帯との相性が最悪だった。
履帯幅を広げてもなお、大地そのものが耐えられない。
車体はゆっくりと沈み始める。
しかも。
巨大重量ゆえに回収も困難だった。
「後退できんのか!?」
「無理です!駆動輪に泥が詰まってます!」
その時。
人民共和国軍砲撃が始まった。
ドォォン!!
泥が吹き飛ぶ。
停止したSHT-1へ砲弾が集中する。
正面装甲は抜けない。
だが問題はそこではなかった。
「上部銃座被弾!」
「通信アンテナ損傷!」
「左副砲塔旋回不能!」
巨大な車体は、逆に言えば極めて当てやすい目標でもあった。
しかも速度が遅い。
一度停止すれば、ただの巨大な固定砲台と化す。
========SHT-1内部========
車内は地獄だった。
轟音。
振動。
熱気。
「主砲装填急げ!!」
「装填完了!」
「発射!」
115mm砲が火を吹く。
だが。
主砲反動だけで車体全体が軋む。
「油圧低下!」
「冷却温度上昇!」
「右履帯駆動系異常!」
「クソッ!」
車長が怒鳴る。
SHT-1は確かに強力だった。
だが。
巨大すぎた。
複雑すぎた。
主砲。
副砲。
五基の補助銃座。
それら全てを同時運用すると、内部は一瞬で混乱する。
通信も錯綜する。
「右だ!右!」
「どの右だ!?」
「副砲旋回しろ!」
「人員足りません!」
「機関銃が過熱!」
「弾薬手!早く運べ!」
まるで戦車ではない。
狭い鋼鉄の中へ、無理矢理小型艦艇の機能を押し込んだような代物だった。
========人民共和国軍側========
「止まったぞ!!」
人民共和国軍兵士たちは気づき始めていた。
怪物は無敵ではない。
遅い。
巨大。
目立つ。
そして泥に弱い。
TMA2部隊が側面迂回を開始する。
「正面は無理だ!側面を狙え!」
85mm砲発射。
側面装甲へ命中。
一撃では抜けない。
だが。
二発。
三発。
繰り返される砲撃。
さらに歩兵たちが接近する。
「爆薬持って来い!」
「履帯狙え!」
SHT-1の20mm機関銃が火を吹く。
人民共和国兵が吹き飛ぶ。
だが止まらない。
数十人が死んでも、さらに後ろから兵士が来る。
ついに。
一人の工兵が泥まみれになりながら履帯下へ爆薬束を押し込んだ。
「人民に栄光あれぇぇぇ!!」
爆発。
轟音。
巨大履帯が吹き飛ぶ。
SHT-1の車体が大きく傾いた。
「履帯損傷!!」
「旋回不能!」
「敵歩兵接近!!」
そして。
怪物は初めて恐怖した。
========帝国軍司令部========
ヴァルメン中将は報告を聞きながら顔を顰めていた。
「SHT-1二両行動不能?」
「はい。」
「敵砲撃で?」
「いえ……泥濘による機動不能後、集中攻撃を受けました。」
司令部内が静まり返る。
誰もが理解していた。
SHT-1は強い。
だが。
強すぎるが故に、戦場環境へ適応できない。
「橋は渡れん、道路は沈む、燃料消費は異常、整備部隊は疲弊……。」
ヴァルメン中将は頭を押さえる。
「これ、本当に量産したのか……。」
副官が小声で答える。
「親衛軍は“戦局を変える兵器”だと。」
「変えてるさ。」
中将は苦々しく言った。
「味方の補給計画をな。」
========革命軍支配地域========
ダールフォもまた報告書を読んでいた。
「超重戦車SHT-1……。」
革命軍参謀が頷く。
「脅威ではあります。ですが同時に欠陥も多い。」
「ふむ。」
「特に泥濘地帯では機動不能例が頻発しています。」
ダールフォは地図を見る。
東部戦線。
泥。
河川。
湿地。
「……帝国は焦っているな。」
「はい。」
「短期決戦兵器だ。」
彼は静かに言った。
「長期運用を考えていない。」
参謀が少し驚いた顔をする。
ダールフォは続けた。
「巨大兵器というのはな、“勝利を確信できなくなった国家”が作り始めるものだ。」
彼の視線は遠かった。
「人民共和国も同じだった。」
========帝国某所========
薄暗い部屋。
ラジオから流れる戦況。
「新型超重戦車SHT-1、戦果を挙げる一方――」
「一部車両で機動不能――」
「泥濘地帯で損害増加――」
その声を聞きながら、一人の人物が楽しそうに笑っていた。
机の上にはSHT-1の設計図。
人民委員長の写真。
ダールフォの資料。
親衛軍内部人脈図。
全てが繋がっている。
「ふふっ……やっぱり極限状態になると、人って面白いものを作るわねぇ。」
その人物は椅子を回す。
「こんな馬鹿げた鉄の塊を、本当に数百両も作っちゃうんだもの。」
机には別の報告書もあった。
“前線整備兵の疲弊”
“燃料不足”
“橋梁崩落”
“輸送車両不足”
SHT-1は敵だけでなく、自国兵站すら圧迫していた。
「でも。」
その人物はくすりと笑う。
「だからこそ面白い。」
窓の外では雨。
泥濘。
死体。
戦争。
世界はますます壊れていく。
だが。
その崩壊を、まるで舞台劇のように眺める者がいた。
「さて。」
その人物は楽しそうに微笑む。
「次は誰が、この怪物に呑み込まれるのかしら?」