帝国標準暦80年7月(中央共通暦270年7月)
夏が来ていた。
だが、それは平穏な季節の到来ではない。
腐臭と火薬と血に満ちた、戦争の夏だった。
東部戦線。
春の泥濘がようやく落ち着き始めた頃、クラムアン帝国軍は各地で異変を感じ始めていた。
人民共和国軍の動きが鈍い。
あまりにも静かだった。
前線砲撃は減少。
局地反撃も減る。
偵察隊が確認する敵部隊数も減少している。
まるで。
何かを溜め込むように。
人民共和国軍は静まり返っていた。
========クラムアン帝国東部戦線 第17軍司令部========
司令部内部には重苦しい空気が漂っていた。
巨大地図には無数の駒。
帝国軍。
人民共和国軍。
革命軍。
三勢力が複雑に入り乱れている。
帝国陸軍第17軍司令官ヴァルメン中将は、地図を睨みながら低く呟いた。
「静かすぎる。」
副官が頷く。
「はい。人民軍前線部隊の活動が明らかに低下しています。」
「補給線は?」
「逆です。鉄道輸送量は増加しています。」
ヴァルメン中将の眉が動く。
「どこへ運んでいる。」
「現在調査中です。」
沈黙。
その時。
通信兵が駆け込んできた。
「中将閣下!北部戦線第9軍より緊急報告!」
「読め。」
「人民共和国軍大規模機械化部隊を確認!戦車多数!砲兵集結を確認!」
司令部内の空気が変わった。
ヴァルメン中将は静かに地図へ視線を落とす。
「……始まるな。」
========人民共和国軍西部方面総司令部========
地下司令部。
巨大地図の前に無数の将校が並んでいる。
壁には赤旗。
空気は張り詰めていた。
その中央に立つ男。
人民共和国西部方面軍総司令官グラドネフ上級大将。
かつて東部戦線で帝国軍と激突し続けた男だった。
疲弊した顔。
痩せ細った頬。
だが、その目だけは異様な光を宿していた。
「同志諸君。」
低い声が司令部へ響く。
「祖国は今、最大の危機にある。」
誰も動かない。
「帝国軍は我々の国土を蹂躙し、革命軍は背後から国家を切り裂いている。」
地図上には革命軍支配地域。
それは少しずつ広がっていた。
「だが。」
グラドネフの声が強くなる。
「まだ人民共和国は死んでいない。」
机へ拳が叩きつけられる。
「我々は攻勢へ出る!」
ざわめき。
将校たちの表情が変わる。
「全戦線から戦力を抽出。予備兵力投入。機械化部隊集中。砲兵戦力集中。航空隊集中。」
地図へ赤線が引かれる。
帝国軍中央突出部。
エルテア方面。
「敵中央部を叩き潰し、帝国軍を分断する。」
「……夏季大攻勢。」
誰かが呟いた。
グラドネフは頷く。
「そうだ。これが最後の攻勢になる。」
その言葉に、司令部内が静まり返る。
誰もが理解していた。
人民共和国には、もう余力がない。
この攻勢が失敗すれば。
国家そのものが崩壊しかねない。
========人民共和国首都 ポーコ========
人民委員長は静かに報告書を読んでいた。
窓の外では雨。
遠くでサイレン。
都市の空気は既に戦時色へ完全に染まっていた。
「革命軍は。」
「南西部で依然活動中です。」
秘書官が答える。
「ダールフォは?」
「確認されておりません。」
人民委員長は小さく舌打ちした。
「鼠め。」
革命軍は厄介だった。
帝国軍よりも。
むしろ内部から国家を侵食する存在として危険だった。
だが。
今優先すべきは帝国軍。
「夏季攻勢が成功すれば、全て変わる。」
人民委員長は静かに呟く。
「帝国軍を押し戻し、革命軍を孤立させる。」
彼は地図を見る。
エルテア。
帝国東部の重要都市。
鉄道結節点。
補給中継地。
工業地域。
そこを奪えば。
帝国東部戦線は崩れる。
「帝国人どもへ教えてやる。」
その目には狂気が宿っていた。
「人民共和国はまだ終わっていないと。」
========帝国東部戦線========
7月12日。
午前4時17分。
それは突然始まった。
最初に響いたのは。
砲声だった。
ドォォォォォン!!
天地を揺るがす轟音。
続いて。
第二射。
第三射。
第四射。
人民共和国軍砲兵による大規模砲撃。
数千門規模。
帝国軍前線へ、一斉に火力が叩き込まれた。
塹壕が吹き飛ぶ。
鉄条網が裂ける。
通信壕が崩壊。
兵士たちは泥と爆炎の中へ叩き込まれる。
「敵砲撃!!!」
帝国兵たちが叫ぶ。
その直後。
空が唸った。
人民共和国軍航空隊。
数百機規模。
爆撃機。
攻撃機。
戦闘機。
それらが帝国軍後方拠点へ殺到していた。
「航空隊だ!!!」
対空砲火。
爆撃。
炎上する補給基地。
鉄道施設。
弾薬庫。
帝国軍は一気に混乱へ陥る。
そして。
砲煙の向こうから。
人民共和国軍戦車部隊が現れた。
TMA2。
TM1。
自走砲。
装甲車。
歩兵。
それらが津波のように押し寄せてくる。
========帝国軍第323師団========
ヴァルグレス少将は双眼鏡を下ろした。
その表情は険しい。
「……本気だな。」
眼前。
地平線を埋める人民共和国軍。
砲煙。
戦車。
歩兵波。
空には航空隊。
副官が震える声で言った。
「確認されているだけで敵七個師団です……。」
「こちらは。」
「四個師団。」
ヴァルグレス少将は静かに息を吐く。
「数で押し潰す気か。」
その時。
砲撃。
司令部近くへ着弾。
土砂。
爆炎。
兵士たちが吹き飛ぶ。
「閣下!」
「問題ない。」
ヴァルグレスは立ち上がる。
「全軍へ通達。」
その声は異様なほど落ち着いていた。
「ここが東部戦線の分岐点だ。」
彼は地図を指す。
エルテア市。
「ここを失えば、敵は帝国東部へ雪崩れ込む。」
将校たちが息を呑む。
「よって。」
ヴァルグレスは静かに言った。
「死んでも守れ。」
========エルテア市========
工業都市エルテア。
煙突群。
鉄道。
工場。
巨大倉庫群。
東部戦線最大級の補給都市である。
その都市が今。
戦場になろうとしていた。
市民たちは避難を始めていた。
荷車。
泣き叫ぶ子供。
老人。
負傷兵。
憲兵たちが怒鳴りながら交通整理をしている。
「急げ!!」
「南側道路を塞ぐな!!」
空では既に航空戦。
爆音。
機銃掃射。
墜落炎上する戦闘機。
街中では防衛準備が進む。
土嚢。
対戦車砲。
バリケード。
市民すら動員されていた。
「まさかここまで来るなんて……。」
工員の老人が呟く。
誰も答えなかった。
========前線========
人民共和国軍の攻勢は凄まじかった。
徹底的な火力集中。
航空支援。
機械化突撃。
帝国軍前線は徐々に押し込まれていく。
「後退!後退だ!!」
帝国兵たちが泥の中を下がる。
その背後で。
TMA2が砲撃。
帝国軍陣地が吹き飛ぶ。
SHT-1すら投入された。
115mm砲が火を吹き、人民共和国軍部隊を吹き飛ばしていく。
だが。
人民共和国軍は止まらない。
砲兵が集中砲撃。
航空機が爆撃。
工兵隊が地雷を敷設。
ついに。
一両のSHT-1が履帯を破壊され停止した。
「履帯損傷!!」
「動けません!!」
さらに砲撃。
巨体が揺れる。
煙。
炎。
周囲の帝国歩兵が次々吹き飛ぶ。
SHT-1はなお砲撃を続ける。
だが。
人民共和国軍砲兵が座標修正。
集中砲火。
ついに主砲塔付近へ直撃。
爆炎。
鋼鉄の怪物が停止した。
「……やったぞ!!」
人民共和国軍兵士たちが歓声を上げる。
しかし。
その代償として。
周囲には大量の死体が転がっていた。
========革命軍支配地域========
ダールフォは報告書を見つめていた。
「夏季大攻勢……。」
革命軍参謀が頷く。
「人民共和国軍は帝国軍へ戦力を集中しています。」
「こちらへの圧力は。」
「減少しています。」
ダールフォは沈黙した。
机上地図。
人民共和国軍主力はエルテア方面へ向かっていた。
つまり。
背後が薄くなる。
参謀が小声で言った。
「今なら進出可能です。」
「……分かっている。」
ダールフォは低く答える。
革命軍にとっても。
これは好機だった。
だが同時に。
帝国軍が敗北すれば。
革命軍も危うい。
人民共和国が再統一されれば。
次に潰されるのは自分たちだからだ。
「嫌な戦争だ。」
ダールフォは静かに呟く。
「誰も勝者になれん。」
========エルテア市外縁========
7月18日。
人民共和国軍先鋒がついにエルテア外縁へ到達した。
市街地戦。
それは東部戦線でも最悪の戦場の一つだった。
建物。
地下道。
工場。
瓦礫。
狙撃。
火炎放射。
近距離戦。
死体。
「敵戦車接近!!」
帝国兵が叫ぶ。
通りの向こう。
TMA2が姿を現す。
帝国軍対戦車砲発射。
命中。
だが止まらない。
逆に85mm砲。
建物ごと吹き飛ばされる。
「撤退!!!」
しかし撤退先でも砲撃。
航空爆撃。
市街地は少しずつ崩壊していく。
========第323師団司令部========
ヴァルグレス少将は疲弊していた。
数日間まともに眠っていない。
報告は悪化し続ける。
「第12連隊壊滅。」
「南部工業区喪失。」
「弾薬不足。」
「航空支援要請失敗。」
それでも。
彼は地図を睨み続けていた。
「まだだ。」
副官が言う。
「閣下、後退をご検討ください。」
「出来ん。」
即答だった。
「ここを捨てれば戦線が裂ける。」
その時。
通信兵が飛び込む。
「人民共和国軍主力確認!!北西部突破を開始しています!!」
ヴァルグレス少将の目が鋭くなる。
「予備隊投入。」
「既にありません!」
沈黙。
数秒後。
ヴァルグレスは静かに言った。
「ならば我々が行く。」
========エルテア市 北西部========
燃える街。
砲煙。
崩落建築。
その中を。
ヴァルグレス少将自ら前線へ出ていた。
帝国兵たちが驚愕する。
「閣下!?」
「持ち場を守れ!!」
ヴァルグレスは怒鳴る。
その直後。
人民共和国軍歩兵突撃。
機関銃。
手榴弾。
火炎放射。
両軍兵士が至近距離で殺し合う。
銃剣。
シャベル。
素手。
もはや戦場ではなく。
獣同士の殺し合いだった。
========人民共和国軍側========
グラドネフ上級大将は報告を受けていた。
「エルテア北西部へ到達。」
「帝国軍防衛線崩壊寸前。」
「敵補給網寸断間近。」
彼は静かに頷く。
「押し切れる。」
だが。
その時。
別の報告が入る。
「革命軍が後方鉄道を襲撃。」
グラドネフの顔が歪む。
「またか。」
革命軍は人民共和国軍後方を執拗に攻撃していた。
鉄道爆破。
補給車列襲撃。
通信線切断。
それによって大攻勢の補給も少しずつ乱れ始めていた。
「ダールフォ……。」
グラドネフは低く呟く。
「貴様、本当に国家を壊す気か。」
========帝国某所========
薄暗い部屋。
地図。
赤線。
青線。
黒い印。
ラジオからはエルテア市の戦況が流れている。
『人民共和国軍、エルテア市北西部へ突入――』
『帝国軍第323師団激戦継続中――』
『双方損害甚大――』
椅子へ座る人物が、楽しそうに笑った。
「んふふ……。」
机上には写真。
ヴァルグレス少将。
ダールフォ。
人民委員長。
グラドネフ。
全員の動きが細かく書き込まれている。
「良い感じに壊れてきたわねぇ。」
窓の外では雷雨。
「国家も、人も、戦場も。」
その人物は椅子を回す。
「極限まで追い込まれると、本当に面白い。」
その瞳は狂気じみた熱を帯びていた。
「さて。」
笑う。
「エルテアで最後に立っているのは、誰かしら?」