― 中央共通暦268年15月 ―
==================================================
ルカーロ人民共和国 首都ポーコ
統一人民委員会館
人民委員長執務室
==================================================
ポーコ。
中央大陸東部最大の工業都市にして、ルカーロ人民共和国の首都。
帝国の帝都とは違う種類の巨大都市だった。
クラムアン帝国帝都が、古い石造建築と軍事官僚機構によって構成された“重厚な帝国都市”であるならば、ポーコは煙突と鉄骨と赤旗によって構成された“人民の工業都市”であった。
無数の工場煙突。
夜空を赤く染める製鉄炉。
高架鉄道。
電灯。
共和国は荒れた鉱物地帯の上に成り立つ国家だった。
植物は乏しい。
土地は痩せている。
だが代わりに、地中には莫大な鉱物資源が眠っていた。
人民共和国はそれを掘り尽くし、精錬し、工業へ変えた。
戦車へ。
火砲へ。
航空機へ。
そして戦争へ。
統一人民委員会館最上階。
人民委員長室。
重厚な防音扉の奥では、暖房蒸気管が低く唸っている。
部屋の中央。
ユラユラと揺れる椅子へ腰掛け、一人の老人が葉巻を燻らせていた。
ルカーロ人民共和国統一人民委員会委員長。
共和国最高指導者。
アグネス・ヴェルグ=ラディン。
年齢は七十近い。
痩せ細った老人だった。
だがその眼だけは異様なほど濁っておらず、むしろ獣じみた執念を宿している。
彼は揺り椅子をゆっくり揺らしながら、天井へ煙を吐いた。
そこへ。
コンコン。
「入りたまえ」
扉が開く。
入室したのは中年の男。
人民委員会国家保安局所属の秘書官だった。
男は素早く敬礼すると、静かに報告する。
「同志委員長。クラムアン帝国のケルヴェ元帥が、親衛軍によって処刑されたようです」
その瞬間。
部屋が静まり返った。
揺り椅子だけが、ぎぃ……ぎぃ……と鳴っている。
数秒後。
人民委員長は葉巻を灰皿へ押し付けた。
「……残念だ」
低い声だった。
「彼にはまだ利用価値があったというのに」
秘書官は何も言わない。
彼は知っていた。
共和国とケルヴェ元帥が、極秘裏に接触していたことを。
帝国側軍配置。
東部戦線兵力。
補給線。
要塞位置。
共和国側は、それら大量の機密情報を既に受け取っていた。
もちろん正式な外交などではない。
国家反逆。
それ以外の何物でもない。
だが人民委員長は気にしなかった。
「……まぁよい」
老人はゆっくり立ち上がる。
「彼が最後に送ってくれた軍配置情報は、ありがたく利用させてもらおう」
彼は窓の外を見た。
煙に覆われたポーコ市街。
そのさらに向こう。
西方。
クラムアン帝国。
「同志秘書官」
「はっ」
「宣戦布告の準備を」
老人は穏やかに言った。
「あぁ、それと」
口元が歪む。
「宣戦布告は、我が軍が攻撃を開始する五分前にしたまえ」
秘書官の表情がわずかに強張る。
つまり。
完全奇襲。
共和国は最初から交渉など考えていない。
最初から。
殴り潰す気だ。
「……了解しました、同志委員長閣下」
秘書官は一礼した。
その声には、妙な高揚が混じっていた。
大陸東方最大の宿敵。
クラムアン帝国との決戦を。
秘書官は急ぎ足で部屋を退出する。
重い扉が閉まった。
すると。
先ほどまで穏やかだった人民委員長の顔が、一変した。
彼は机の引き出しをゆっくり開く。
中から、一枚の古ぼけた写真を取り出した。
古い。
かなり古い写真だった。
セピア色に変色し、端は擦り切れている。
そこに映っていたのは。
長い髪の女性。
あるいは。
“女性のようなもの”。
どこか異様だった。
写真を見つめる人民委員長の瞳が、熱に浮かされたように揺れる。
「あぁ……」
彼は震える声で呟く。
「我が親愛なる古き者よ……」
その表情は、先ほどまでの国家指導者のものではない。
陶酔。
執着。
狂信。
「貴女様を……必ずや……」
彼は写真へ頬を寄せる。
「必ずや、あの邪悪な蛮人共から解放して差し上げます……」
その声は、祈りにも似ていた。
「必ず……必ず……!」
部屋の中には、老人の歪んだ独白だけが響いていた。
==================================================
数日後
==================================================
共和国全土が、異様な熱狂に包まれていた。
工場。
学校。
兵営。
労働者宿舎。
あらゆる場所へ赤旗が掲げられ、拡声器から軍歌が流れている。
共和国政府は既に大規模動員体制へ移行していた。
鉄道は軍事優先。
工場は24時間稼働。
民間燃料は制限配給。
そして。
中央共通暦268年15月某日。
ポーコ中央ラジオ局。
共和国全土へ向けた特別放送が開始された。
「――我々、ルカーロ人民共和国は」
重厚な男の声。
人民委員長自身だった。
「これより、邪悪で粗暴なる“クラムアン帝国”へ宣戦を布告することを、ここに広く宣言する」
共和国全土のラジオから、その声が響き渡る。
「全共和国人民は、帝国の圧政に苦しむ数億の諸民族を解放することを、統一人民委員会委員長の名において確約する!」
工場で。
兵営で。
酒場で。
人々はラジオへ耳を傾けていた。
「……だが!」
人民委員長の声が強くなる。
「クラムアン帝国は、その邪悪なる統治によって強固な抵抗を行うだろう!」
拳を振り上げる労働者。
歓声。
「しかし恐れる必要はない!」
「人民の解放者たる我々統一人民委員会と!」
「それを支える共和国人民の団結がある限り!」
「極悪非道のクラムアン帝国は、必ず人民へ膝を屈する!!」
共和国中で歓声が上がった。
熱狂。
愛国。
憎悪。
共和国政府は、それら全てを巧妙に煽っていた。
放送終了後。
ラジオ局アナウンサーが頭を下げる。
「――以上、同志統一人民委員会委員長による宣戦布告演説でした」
彼は感極まったような声で続けた。
「同志委員長、本日はありがとうございました!」
人民委員長はにこやかに笑う。
「いやいや、同志アナウンサーこそ感謝するよ」
穏やかだった。
まるで、優しい老人のように。
「では私は次の仕事があるのでね。後は任せたよ」
そう言い残し。
人民委員長はラジオ局を後にした。
その数分後。
共和国軍砲兵部隊は。
既に帝国国境要塞へ向けて、一斉砲撃を開始していた。
==================================================
十数日後
人民軍総司令部前
==================================================
開戦から十数日。
共和国軍は猛烈な勢いで西進していた。
装甲列車。
戦車部隊。
自動車化歩兵。
共和国軍の機械化率は、帝国東部軍を明確に上回っていた。
さらに、ケルヴェ元帥から流出した情報によって、共和国軍は帝国側配置を事前に把握していた。
本来なら。
戦争は既に決着していてもおかしくなかった。
だが。
現実は違った。
「これはこれは、同志人民委員長!」
共和国軍大将ダールフォが、大仰な動きで近寄ってくる。
彼は戦功派の軍人だった。
派手好き。
演説好き。
だが政治能力には長けていた。
「わざわざご足労ありがとうございます!」
人民委員長は微笑む。
「おや、同志ダールフォ大将」
その声は穏やかだった。
「戦況はどうかね?」
そして。
「順調にクラムアン軍を、計画通り殲滅できているかね?」
その瞬間。
ダールフォの顔色がわずかに曇った。
「……それが」
彼は慎重に言葉を選ぶ。
「一部地域で、帝国軍による予想以上に頑強な抵抗が確認されております」
人民委員長の笑みが消える。
「ですが、作戦全体としては概ね順調であります!」
「……ほぼ、かね?」
静かな声だった。
だが。
ダールフォの額から汗が流れ始める。
「実際の損害は?」
逃げ場は無かった。
「……歩兵四個師団壊滅」
「二個装甲連隊半壊」
「現在再編中であります」
沈黙。
風だけが吹く。
「……四個師団?」
人民委員長の声が低くなる。
「二個装甲連隊も?」
ダールフォは震えながら答えた。
「事前情報では、帝国側は七個歩兵師団、一個装甲師団規模と推定されておりました」
「ですが実際には」
彼は唾を飲む。
「国境突破後、複数の地下要塞群と接敵」
「推定十二~十七個師団規模の防衛戦力が展開しておりました」
人民委員長の顔が、ゆっくり歪む。
「……罠だった、と?」
「はっ……」
共和国軍は奇襲に成功した。
だが帝国側も、完全に無防備だったわけではない。
東部軍管区には、秘密裏に予備兵力が配置されていた。
そして要塞群。
コンクリート地下砲台。
対戦車壕。
重機関銃陣地。
共和国軍戦車部隊は、それへ真正面から突っ込まされた。
結果。
血みどろの消耗戦。
共和国軍は勝った。
だが。
勝利に対して払った代償が大きすぎた。
人民委員長は帝国方向を睨む。
その目には憎悪が宿っていた。
==================================================
数分後
==================================================
人民委員長は、大きく息を吐いた。
そして。
ダールフォを見る。
まるで。
これから解体される家畜を見るような目で。
「……残念だよ、同志ダールフォ」
ダールフォの顔が凍る。
「君に、そこまで指揮能力が欠如していたとはね」
「い、委員長……!」
「国家資源の浪費」
「無謀な作戦」
「人民生命の軽視」
一つ一つ。
処刑判決のように並べられる。
「よって、貴官を解任する」
ダールフォの膝が崩れた。
「人民法廷で、正式な裁定を下そうじゃないか」
「ま、待ってください!!」
大将は地面へ這いつくばった。
共和国軍大将。
数日前まで英雄として新聞に載っていた男が。
今や泥まみれになって縋り付いている。
「人民法廷だけは……!」
彼は泣き叫ぶ。
「私はまだ役に立ちます!! どうか!!」
しかし。
人民委員長は冷たい。
「私に触れないでください」
その声には嫌悪が滲んでいた。
「薄汚い人民の敵が」
そして。
革靴で。
ダールフォの頭を踏みつけた。
「人民の労働で作られた私のズボンを汚すなど、恥を知りなさい」
護衛兵たちがダールフォを引きずり上げる。
彼は泣き叫ぶ。
「嫌だ!! 嫌だ!!」
だが誰も助けない。
人民法廷送り。
それはつまり。
ほぼ死刑を意味していた。
人民委員長は、ダールフォの胸から勲章を乱暴に剥ぎ取る。
「この勲章は、裏切り者には相応しくない」
そして護衛へ命じた。
「独房へ入れておきなさい」
「私はこれから、人民法廷の準備があるのでね」
ダールフォは蹴飛ばされながら連行されていく。
その背を。
人民委員長は、心底軽蔑した目で見送っていた。
==================================================
某所
==================================================
「あらら」
誰かが笑った。
薄暗い部屋。
机の上には、共和国軍と帝国軍双方の戦況図。
「かわいそ」
その声は楽しそうだった。
「自分の酷い作戦を、最低限マシな形に修正してくれた優秀な人を捨てるなんて」
くすくす笑う。
「もったいないなぁ」
そして。
ふと首を傾げた。
「……ん?」
「でも、あの子」
誰かを思い出すように目を細める。
「どこかで会ったっけ……?」
しばらく考え。
やがて笑った。
「まぁ、どうでもいっか」
暗闇の中。
その笑い声だけが、不気味に響いていた。
「んふふふふ……」