帝国標準暦78年15月33日 (中央共通暦268年15月33日)
クラムアン帝国とルカーロ人民共和国国境上空。
高度三〇〇〇メートル。
雲海の切れ目から見える地上では、白銀の雪原を黒煙がいくつも汚していた。
クラムアン帝国東部国境地帯。
そこでは既に、地上軍同士の激しい戦闘が始まっている。
砲撃によって抉られた雪原。
燃え上がる輸送車両。
黒煙を上げる前線基地。
そして、その遥か上空。
人類は今まさに、新たな戦争の形を経験しようとしていた。
空を制する者が戦場を制する。
その思想はまだ各国で完全に確立されてはいなかったが、それでも既に、航空機が戦争の形を変え始めていることだけは、誰の目にも明らかであった。
人民共和国軍第2航空師団の編隊は、厚い灰色の雲を切り裂きながら帝国領空へ侵入していた。
プロペラ音が空気を震わせ、金属製の機体が低い唸り声を上げる。
先頭を飛ぶ師団長機の機内では、厚手の飛行服に身を包んだ男が、無線機の受話器を握り締めていた。
「こちら、第2航空師団師団長。繰り返す、こちら第2航空師団師団長。司令部返答願う。」
通信機からは、耳障りな雑音が断続的に流れている。
人民共和国軍の航空無線技術は、地上部隊と比較すれば遥かに進歩していたが、それでも雪嵐混じりの天候下では通信状態は決して良いとは言えなかった。
数秒。
いや、実際にはほんの僅かな時間だったのだろう。
しかし空中で戦闘直前の緊張に晒されている兵士にとって、その沈黙は異様に長く感じられた。
やがて。
『……こちら、司令部。第2航空師団どうした?』
ノイズ混じりの返答がようやく返ってきた。
師団長は双眼鏡越しに前方を確認しながら、淡々と報告を続ける。
「現在われわれはクラムアン帝国領域へ侵入した。事前情報では、後数キロ進むと敵航空基地が存在するはずだ。」
彼の視線の先。
雲の合間に、小規模な飛行場らしきものがぼんやりと見えていた。
積雪対策のため滑走路脇には大量の除雪車両が並び、格納庫周辺には対空機銃座らしき影も確認できる。
そこまで確認した瞬間だった。
「ッ!敵の迎撃機を捕捉!」
彼の声色が変わる。
遥か前方。
白灰色の空の中に、黒い点がいくつも現れ始めていた。
その数は急速に増えていく。
帝国軍機だ。
「これより我が師団は交戦に入る。」
『こちら司令部、了解した。幸運を。』
通信は短く終わった。
師団長は受話器を戻すと、ゆっくりと息を吐く。
機体が細かく震えていた。
寒さのせいではない。
緊張。
そして興奮。
空戦とは、地上戦とはまるで異なる。
逃げ場がない。
塹壕もない。
遮蔽物も存在しない。
あるのは空だけ。
そして、落ちれば死ぬという絶対的な現実だけだった。
「各機へ通達。高度を維持しつつ接近。敵を引きつけてから上昇する。」
師団長の命令が飛ぶ。
第2航空師団は、人民共和国軍の中でも精鋭として扱われる部隊である。
使用機材は人民共和国製60式戦闘機。
全金属製低翼単葉機。
分厚い装甲板と大型空冷発動機を備え、最高速度こそ最新鋭機としては平均的だったが、防御性能と急降下耐性に優れていた。
一方、クラムアン帝国軍の主力戦闘機は、まだ複葉機と単葉機が混在している状態であり、航空思想そのものも未成熟だった。
帝国陸軍上層部の多くは、航空機を『地上軍支援の延長』程度にしか認識していない。
その差が、これから空で明確に現れることになる。
=====帝国某所=====
「あらあら……帝国で最初の大規模航空戦が、ようやく……ようやく始まるのね。」
白い指先が、窓ガラスをなぞる。
その人物は、まるで劇場の観客のように楽しげに空を見上げていた。
「これから空の技術は加速度的に発達するでしょう。鉄の翼は更に洗練され、空を裂き、中央部の翼竜すら撃ち落とす時代が来る……」
くすくすと笑う。
「ですが、それはまだ遥か彼方。今はまだ、人々は空という戦場を理解していない。だからこそ面白いのだけれど。」
窓の向こう。
雪雲の向こう側。
そこでは既に、人間同士が殺し合いを始めていた。
「帝国の未来は導かれている。誰が望もうと、望むまいとね……」
=====帝国東部国境付近上空=====
「こちら陸軍第21航空隊!人民共和国軍機と思わしき編隊を捕捉!繰り返す!人民共和国軍の大規模航空部隊と接敵!これより交戦に入る!」
帝国軍側でも緊張が走っていた。
帝国陸軍第21航空隊。
東部軍管区所属。
本来であれば国境哨戒や偵察任務を主任務とする部隊であり、本格的な航空戦を想定して編成された部隊ではない。
所属機体も旧式が多い。
複葉機が半数以上。
残りも旧式単葉機。
機銃口径も小さく、装甲も薄い。
だが、それでも彼らは飛び立った。
地上の兵士たちを守るために。
「こちら陸軍前線指揮所、了解した。決して奴らを生きて返すな。」
「ッ……了解した、通信終わり!」
隊長は思わず舌打ちを飲み込んだ。
無線機を睨み付けながら、彼は苦々しく呟く。
(生きて返されないのは、どちらなのやら……!)
双眼鏡越しに見える人民共和国軍機。
速い。
明らかに速い。
しかも編隊が崩れない。
帝国軍機の多くは乱気流や寒気の影響で小刻みに隊形を乱していたが、人民共和国軍機は綺麗に間隔を維持していた。
練度が違う。
隊長は即座に理解した。
それでも逃げるという選択肢は存在しない。
彼らがここで敵を止めなければ、地上部隊は一方的に爆撃される。
「こちら隊長機、第21航空隊各機に告ぐ。これより敵航空集団との交戦に入る。各員奮戦されたし。」
『了解!』
『了解した!』
『帝国に栄光あれ!』
若い声。
震える声。
強がった声。
様々な返答が無線に重なる。
その中には、まだ士官学校を卒業して一年も経っていない若者もいた。
だが、誰一人として退こうとはしなかった。
彼らは機首を上げる。
そして、灰色の空へ突っ込んでいった。
====人民共和国軍第2航空師団視点====
「やっこさんら……まさかまだあんな旧式だとはな。信じがたい。」
師団長は呆れたように呟く。
帝国軍機のシルエットは明らかに古い。
布張り複葉機。
露出支柱。
空力性能を考慮しているとは言い難い機体設計。
「だが、そのおかげでこちらの損害を減らせるのならば問題なかろうて。」
彼は口元を歪めた。
「各員!訓練の成果を見せてやれ!」
『了解!』
『共和国に栄光を!』
『人民万歳!』
無線が次々返る。
その直後。
人民共和国軍機群は一斉に上昇した。
帝国軍機の頭上を奪う。
太陽を背負う形。
そして。
急降下。
人民共和国軍航空戦術の代名詞。
“逆さ落とし”。
機体を半転させ、一気に急降下しながら高速射撃を浴びせる一撃離脱戦法。
重く頑丈な人民共和国軍機だからこそ可能な戦法だった。
「撃てぇッ!」
機銃が火を吹く。
曳光弾が空を裂いた。
一瞬遅れて、帝国軍機の一機が火を吹く。
続いて二機目。
三機目。
複葉機の翼が弾け飛び、白煙を引きながら雪原へ墜落していった。
「ッ……なんて脆い機体だ……」
師団長は眉を顰めた。
まるで紙細工だった。
だが。
その瞬間。
ダダダダダダダッ!!
帝国軍機の反撃。
師団長機の左翼に弾丸が突き刺さる。
機体が僅かに揺れた。
「チッ……!」
しかし貫通しない。
分厚い装甲板が弾丸を受け止めていた。
「流石に慌て始めたか。」
師団長は操縦桿を引きながら叫ぶ。
「各機!落とされるなよ!」
その頃。
帝国軍側では既に混乱が広がっていた。
「右上だ!右上から来るぞ!」
「散開しろ!散開!」
「被弾した!エンジンが……!」
「隊長機!隊長機応答してください!」
無線は悲鳴と怒号で埋め尽くされる。
人民共和国軍機は速かった。
そして高かった。
帝国軍機が上昇しようとしても、性能差によって追いつけない。
上から撃たれる。
離脱される。
再び上を取られる。
その繰り返し。
第21航空隊は瞬く間に損耗していった。
だが。
帝国軍も一方的にやられるだけではなかった。
「捉えたぁぁぁッ!!」
帝国軍若手操縦士の一機が、急降下後に速度を失った人民共和国軍機の背後を取る。
至近距離。
機銃掃射。
共和国軍機の尾翼が吹き飛んだ。
敵機はそのまま錐揉みしながら落下していく。
『うおおおお!?』
断末魔混じりの無線。
帝国軍機の若い操縦士は息を荒げながら叫んだ。
「やれる……!やれるぞ!」
だが次の瞬間。
彼の機体は横合いから飛来した弾丸によって翼を引き裂かれた。
操縦不能。
機体が反転する。
「ッ……母さん……!」
その言葉を最後に、彼の機体は雲の下へ消えていった。
空戦は、急速に混戦へ変わっていく。
帝国軍増援。
人民共和国軍増援。
双方の航空戦力が次々戦場へ投入され、空は無数の機影で埋め尽くされていった。
燃える機体。
降下傘。
曳光弾。
黒煙。
プロペラ音。
悲鳴。
怒号。
そして死。
空は今や、一つの巨大な殺戮場へ変わり果てていた。
地上では、その様子を見上げる兵士たちがいた。
帝国軍兵士の一人が、雪塹壕の中で呆然と呟く。
「……空が燃えてやがる……」
その言葉通りだった。
灰色の空には、炎を引きながら落下する機体が幾筋も走っていた。
まるで空そのものが燃えているかのようだった。
そして、この日。
クラムアン帝国軍上層部は、骨の髄まで理解することになる。
もはや航空機は補助兵器ではない。
空を制する者こそが、戦場を制する時代が始まりつつあるのだと。
だが、その理解には既に遅すぎるほどの血が流れ始めていた。
=====帝国某所=====
「いいわぁ……実に良い。」
どこか暗い部屋。
その人物は、楽しげに笑っていた。
「人は失敗から学ぶ。ならば沢山失敗した方が、技術は進歩するでしょう?」
くすくすと笑う。
「もっと燃えなさい。もっと落ちなさい。もっと争いなさい。」
その声は、まるで祝福のようでありながら、同時に呪詛のようでもあった。
「その果てに、ようやく世界は次へ進めるのだから。」