帝国標準暦79年1月7日(中央共通暦269年1月7日)
クラムアン帝国東部戦線 エルテア方面軍第3防衛線
雪は止む気配を見せていなかった。
灰色の空から延々と降り続く雪は、既に塹壕の縁を半ば埋めるほど積もっており、兵士たちは定期的に雪を掻き出さなければ、そのまま凍り付いた棺桶のようになってしまう有様だった。
湿った軍靴。
凍て付いた指先。
燃料不足で弱々しく燃えるドラム缶の火。
そして遠くから響いてくる、断続的な砲撃音。
前線は既に、誰もが思い描いていたような「短期決戦」から程遠いものへと変貌していた。
「……結局、今年も実家には帰れなかったなぁ。」
塹壕の片隅で、若い兵士が小さく呟いた。
彼の肩には雪が積もっている。
傍らでは、年配の兵士が携帯用コンロの上で缶詰を温めていた。
「帰れると思っていたのか?」
「思いますよ普通……開戦前は演習だって言われてたんですから。」
若い兵士は不満げに鼻を鳴らした。
年配兵は、少しだけ困ったように笑う。
「まぁ、そうだな。俺も最初はそう思ってた。」
彼はそう言いながら、温まり始めた缶詰を二つに分け、若い兵士へ片方を渡した。
「食っておけ。今のうちに食える時に食っておかないと、次いつ飯が来るかわからん。」
「補給隊、また遅れてるんですか?」
「雪で鉄道が止まってるらしい。昨日も輸送車両が横転したとか何とか。」
「はぁ……。」
若い兵士はため息を吐きながら、スプーンを缶へ突っ込んだ。
その瞬間。
遠くの監視哨から怒鳴り声が飛ぶ。
「前方に機関音!機関音多数!」
塹壕の空気が一瞬で変わった。
先ほどまで疲弊し切っていた兵士たちが、一斉に立ち上がる。
「敵戦車か!?」
「距離は!?」
「まだ遠い!だが数が多い!」
直後。
雪煙の向こうから、低く重苦しいエンジン音が響き始めた。
ゴゴゴゴゴ……。
地面そのものが震えているような感覚。
若い兵士は、思わず顔を青ざめさせた。
「な、なんだよあれ……。」
白い雪原の彼方。
吹雪の幕を押し破るようにして、複数の黒い影が姿を現していた。
先頭を走るのは人民共和国軍のTM1軽戦車。
高速で雪原を走破しながら、左右へ散開していく。
だが、その後方にいた“それ”は明らかに異質だった。
巨大。
鈍重。
しかし圧倒的な存在感。
分厚い装甲板。
長大な砲身。
そして、雪を押し潰しながら前進するその姿は、まるで鉄の要塞そのものだった。
「TMA2だ……!」
誰かが恐怖混じりに呟いた。
帝国軍が開戦初期に「少数生産された重戦車」と誤認した人民共和国軍最新鋭戦車。
しかし実際には、それは既に量産体制へ入っていた。
帝国軍戦車部隊を各地で壊滅へ追い込んだ、人民共和国軍機甲戦力の中核。
その巨体が、今まさに第3防衛線へ迫っていた。
「対戦車砲用意!急げ!」
「砲弾は!?」
「徹甲弾残り12発!」
「12発だと!?」
怒号が飛び交う。
兵士たちは雪の中を滑りながら陣地へ走った。
対戦車砲班が必死に砲の角度を調整する。
その間にも、人民共和国軍戦車群は距離を詰め続けていた。
TM1軽戦車が先行し、機関砲をばら撒く。
ズダダダダダダッ!!
雪が跳ね上がり、塹壕の縁が砕け散る。
「伏せろぉ!」
若い兵士が悲鳴を上げながら塹壕へ飛び込んだ。
その頭上を20mm砲弾が通過し、後方の通信機材を粉砕する。
「通信線切断!」
「伝令を出せ!」
「無理です!もう前出れません!」
そこへ。
ドォォォン!!
TMA2の85mm砲が火を吹いた。
砲撃は帝国軍トーチカへ直撃。
厚いコンクリート壁が砕け散り、内部から炎と黒煙が噴き上がる。
「う、嘘だろ……。」
若い兵士は呆然としていた。
帝国軍が「絶対に抜かれない」と豪語していたトーチカが、一撃で吹き飛んだのだ。
「落ち着け!まだだ!まだ防衛線は生きてる!」
年配兵が怒鳴る。
彼は震える若い兵士の肩を掴み、無理やり立たせた。
「戦車は化け物じゃない!止めれば死ぬ!」
「でも、どうやって……!」
その問いへ答えるように。
後方から、低く重いエンジン音が響き始めた。
ゴォォォォ……。
雪煙の向こうから、帝国軍戦車部隊が姿を現す。
先頭を走るのはLT-3軽戦車。
比較的小柄な車体。
20mm重機関銃を装備した軽戦車群が、防衛線へ滑り込むように展開していく。
その後方には、鈍重ながら巨大な車体を持つT-3中戦車の姿もあった。
「第7機甲連隊だ!」
「増援だぞ!」
帝国兵たちの表情に、僅かな希望が戻る。
だが。
T-3戦車の車長たちは、双眼鏡越しにTMA2を見た瞬間、険しい顔を浮かべていた。
「……なんだあれは。」
「報告より数が多すぎる。」
「しかも正面装甲が異様に厚い。」
T-3車長は舌打ちした。
帝国軍のT-3は、50mm対戦車砲を搭載した帝国初の本格砲塔式中戦車である。
T-2系統の車体を流用しているため生産性は高く、帝国軍機甲部隊の切り札として期待されていた。
しかし。
開発思想そのものが、既に時代遅れになり始めていた。
車体速度は17km/h。
防御力も40mm。
対するTMA2は。
正面95mm装甲。
85mm砲。
しかも速度は32km/h。
帝国軍戦車兵から見ても、それは悪夢のような性能差だった。
「全車停止!距離1200!」
「徹甲弾装填!」
「撃ち方始め!」
ドドドドォン!!
帝国軍T-3部隊が一斉射撃を開始。
複数の50mm砲弾が、先頭のTMA2へ命中した。
しかし。
「……弾かれた?」
砲弾は火花を散らしただけだった。
装甲を貫通していない。
TMA2は速度を緩めることすらなく前進を続けている。
「馬鹿な……。」
次の瞬間。
人民共和国軍側が反撃した。
ドォォォォン!!
85mm砲弾が帝国軍T-3へ直撃。
正面装甲が紙のように引き裂かれ、砲塔ごと吹き飛ぶ。
炎上する車体。
吹き飛ばされた履帯。
中から逃げ出そうとした搭乗員が、炎に包まれながら雪の上へ転がった。
「1号車撃破!」
「散開!散開しろ!」
帝国軍戦車隊は慌てて陣形を崩した。
だがTMA2は、圧倒的火力と防御力を背景に、じわじわと前進を続ける。
まるで鉄の城壁そのものだった。
=====人民共和国軍第12師団前線=====
「同志大将閣下、敵戦車部隊を確認。」
報告を受けたダールフォは、静かに前線双眼鏡を覗き込んだ。
吹雪の向こう。
帝国軍T-3戦車隊が、必死に抵抗している。
「……なるほど。あれが帝国軍の新型か。」
彼は静かに呟いた。
傍らの参謀が口を開く。
「性能差は明白です。TMA2の敵ではありません。」
「慢心するな。」
ダールフォは即座に否定した。
「性能差だけで戦争は決まらん。追い詰められた兵士は恐ろしい。」
彼は再び双眼鏡を向ける。
すると。
帝国軍側で、数両のLT-3軽戦車が高速で側面へ回り込み始めていた。
「ほう……。」
LT-3は軽戦車ゆえ装甲は薄い。
しかし小型で機動性が高く、雪上でも比較的動けた。
20mm重機関銃はTMA2には無力に近いが、TM1軽戦車に対してなら十分脅威となる。
「軽戦車を囮に使うつもりか。」
ダールフォは僅かに感心したように笑った。
「悪くない。」
次の瞬間。
LT-3部隊がTM1群へ突撃した。
20mm機関銃が火を噴く。
ズダダダダダッ!!
TM1の側面装甲へ弾丸が突き刺さり、一両が炎上。
だが。
人民共和国軍側も即座に対応した。
「左翼部隊、迎撃!」
TM1群が散開。
高機動を活かしながら、逆にLT-3を包囲し始める。
45mm砲が次々と火を吹いた。
ドォォン!
LT-3の車体が吹き飛ぶ。
軽量な車体は雪の上で横転し、そのまま炎に包まれた。
「クソッ!速すぎる!」
帝国軍戦車兵が叫ぶ。
LT-3は確かに優秀な軽戦車だった。
だがTM1は、速度・火力・装甲の全てで一歩上を行っていた。
しかも人民共和国軍戦車兵は、開戦以前から大規模機甲運用訓練を積んでいる。
帝国軍がまだ「歩兵支援兵器」として戦車を見ていた頃、人民共和国軍は既に独立機甲戦力として研究していたのだ。
=====帝国軍第7機甲連隊=====
「連隊長!このままでは押し切られます!」
通信兵が悲鳴のように叫ぶ。
連隊長は険しい顔で地図を睨んでいた。
「……後退すれば歩兵が死ぬ。」
「ですが!」
「わかっている。」
彼は静かに目を閉じた。
そして。
「全車前進。」
「れ、連隊長!?」
「敵重戦車に接近する。側背面を撃て。」
「しかし正面突破など……!」
「やるしかない。」
彼の声は静かだった。
だが、その静けさこそが覚悟を物語っていた。
「帝国陸軍はここで崩れるわけにはいかん。」
T-3戦車隊が再び前進を開始する。
雪煙を巻き上げながら、真正面からTMA2へ突撃した。
人民共和国軍側でもざわめきが起こる。
「正面から来るぞ!?」
「自殺か!?」
だが。
帝国軍戦車兵たちは、本気だった。
T-3部隊は被弾を恐れず距離を詰める。
次々に撃破されながらも、なお前進を続けた。
そしてついに。
一両のT-3がTMA2側面へ回り込む。
「撃てぇぇぇぇ!!」
至近距離から放たれた50mm徹甲弾。
それはTMA2側面装甲へ命中し、ついに装甲を貫通した。
爆炎。
黒煙。
人民共和国軍重戦車が停止する。
「やったぞ!」
帝国軍兵士たちが歓声を上げた。
しかし。
その歓声は長く続かなかった。
次の瞬間、別のTMA2が反撃。
至近距離から放たれた85mm砲弾がT-3を粉砕した。
衝撃で砲塔が吹き飛び、雪原へ転がる。
内部の乗員が生きている気配はなかった。
=====数時間後=====
戦場は地獄になっていた。
燃え上がる戦車。
砕けた履帯。
雪へ広がる黒煙と血。
両軍の死体が折り重なるように散乱している。
それでも戦いは終わらない。
人民共和国軍は前進を続け。
帝国軍は後退しながらも抵抗を続ける。
そして。
夕刻。
ついに帝国軍第3防衛線は突破された。
=====帝国東部方面軍司令部=====
「第3防衛線、突破されました。」
報告を受けた少将は、静かに目を閉じた。
部屋の中は重苦しい沈黙に包まれる。
「……損害は。」
「第7機甲連隊、戦車稼働数残り11両。歩兵部隊も半壊状態です。」
少将は深く息を吐いた。
窓の外では、吹雪がなお続いている。
「大佐。」
「はい。」
「本国へ報告を。」
「どのように?」
少将は苦々しく笑った。
「“人民共和国軍新型重戦車確認。現行対戦車火器では対処困難”……そのまま送れ。」
大佐は僅かに沈黙した。
「……上層部は認めますかね。」
「認めねば帝国が死ぬ。」
少将は静かに答えた。
=====帝国某所=====
「ふふ……ついに始まったわねぇ。」
薄暗い部屋。
誰とも知れぬ人物が、机の上に並べられた写真を眺めていた。
そこには。
炎上するT-3。
撃破されたTMA2。
雪原へ横たわる兵士たち。
そして。
新たな戦争の時代を象徴するような、鉄の怪物たちの姿。
「空だけじゃない。陸もまた変わる。」
その人物は、愉快そうに笑った。
「歩兵の時代は終わりつつある。これからは鋼鉄が戦場を支配する……でも、まだ足りない。」
指先で一枚の写真を撫でる。
そこには、撃破されたTMA2の姿が写っていた。
「もっと大きく。もっと速く。もっと硬く。もっと遠くを撃てるように。」
窓の外。
雪はなお降り続いていた。
その雪の下で。
帝国と人民共和国は、互いの血を吸い合うように消耗していく。
だが。
その戦争の裏側で。
誰かが静かに次の時代を見据えていた。
陸の覇者。
その称号を得る者が誰なのかは、まだ誰にもわからなかった。