帝国標準暦79年1月14日(中央共通暦269年1月14日)
人民共和国西部辺境地帯。
冬はなおも終わる気配を見せていなかった。
空は灰色の雲に覆われ、吹き荒れる雪風が大地を削るように流れていく。街道は完全に雪に埋まり、かつて物流の大動脈として栄えた道路標識すら半ば凍り付き、白い地獄の中へ沈み込んでいた。
そんな吹雪の中を、一台の軍用トラックがライトを消したまま慎重に進んでいた。
エンジン音は低く抑えられ、タイヤチェーンが雪を噛む鈍い音だけが周囲に響く。
運転席の兵士は何度も前方を確認していた。
視界は最悪だった。
吹雪によって数十メートル先すら見えない。
もし道を外れれば、そのまま谷へ落ちる可能性もある。
だが、それでも進まなければならなかった。
荷台には十数名の男たちが身を寄せ合うように座っている。
全員が人民軍の軍服を着ていた。
しかしその顔に浮かぶ表情は、勇ましい兵士のものではない。
疲労。
疑念。
怒り。
恐怖。
それらが複雑に混ざり合い、全員の目の奥を濁らせていた。
彼らは敗残兵ではない。
脱走兵でもない。
処刑されるはずだった者たちだ。
「……あとどれくらいだ。」
荷台の隅で毛布を被っていた男が低く問いかける。
副官格らしき若い将校が助手席側の小窓を開け、後ろへ振り返った。
「あと十五分ほどです、同志大将。」
その言葉に、毛布の下の男――元人民共和国軍大将ダールフォは静かに息を吐いた。
吐息は白く凍り付き、すぐに闇へ溶けていく。
彼は数週間前まで、西部戦線司令官だった。
人民共和国軍でも有数の実戦派将校として知られ、人民委員長からも厚い信任を受けていた。
少なくとも、表向きは。
だが今の彼は国家反逆罪容疑者であり、人民法廷への出頭を命じられた粛清対象である。
罪状は「国家資源浪費」「無謀な作戦指揮」「人民生命の軽視」。
実際の理由はもっと単純だった。
前線で損害を出したからだ。
それだけだった。
「……未だに現実感が無いな。」
ダールフォはぽつりと呟いた。
「まさか、あの地下監房から生きて出られるとは。」
隣に座る副官が乾いた笑みを浮かべた。
「我々も同じです。」
「送り主はまだ分からんのか。」
「はい。全く。」
ダールフォは再び沈黙した。
人民法廷地下第三区画。
そこは共和国高官専用の特別監房だった。
政治犯や粛清対象となった高級将校が収監される場所であり、一度入れば生きて出られないことで有名だった。
監視兵は二重配置。
通路には機関銃座。
扉は三重ロック。
更には毎日警備編成が変更される。
常識的に考えれば脱出など不可能。
だが。
処刑前夜。
地下監房の照明が突如消失。
警備兵の一部が何故か持ち場を離れ。
施錠されていたはずの鉄格子が開いていた。
しかも通路には軍服と武器まで用意されていた。
それだけではない。
脱出経路。
地下排水路の構造図。
巡回時間。
監視塔の死角。
全てが正確だった。
あまりにも出来すぎていた。
「……誰かが最初から逃がすために動いていた。」
ダールフォは低く呟く。
副官は黙って頷いた。
「帝国か。」
「可能性は高いかと。」
「敵国の将軍を救出して何になる。」
「分かりません。」
「……。」
ダールフォは目を閉じた。
現在も国境では戦争が続いている。
雪原では毎日何千人もの兵士が死んでいた。
砲撃。
飢餓。
凍死。
戦病死。
その全てが人民の名の下に正当化されていた。
だが、ダールフォは知っている。
人民委員長は既に正常ではない。
前線で損害が出れば将校を処刑。
補給遅延で管理官を処刑。
撤退した指揮官を臆病罪。
命令違反なら反人民罪。
最近では戦果を挙げた者ですら粛清対象になり始めていた。
軍内部は完全に疑心暗鬼へ陥っている。
「……あの国は狂っている。」
ダールフォが呟くと、荷台の誰も反論しなかった。
その時だった。
トラックが急停止する。
全員が反射的に銃へ手を掛けた。
吹雪の音だけが耳を打つ。
運転席から低い声。
「前方に人影。」
兵士たちは安全装置を外した。
数秒後。
白い吹雪の中から、小さなランタンの灯りが現れた。
厚い外套を纏った男がゆっくり歩いてくる。
顔の半分はマフラーで隠されていた。
男はトラックの前へ立つと、小声で言った。
「……白鳥は東へ飛ぶ。」
副官が即座に返す。
「だが北風は翼を凍らせる。」
男は小さく頷いた。
「確認した。ついて来い。」
トラックは再び動き始めた。
十分後。
彼らは放棄された鉱山施設へ到着した。
外見は完全な廃墟だった。
だが内部には灯火がある。
煙突からは薄く煙が上がっていた。
中へ入った瞬間、ダールフォは目を細める。
そこには普通ではない者たちがいた。
軍人。
技術者。
元官僚。
武器商人らしき男。
そして。
帝国製軍装を着た者。
「……なるほど。」
ダールフォは低く呟く。
「これは随分と大掛かりだ。」
その言葉に、一人の痩せた男が前へ出た。
三十代半ばほど。
丸眼鏡。
神経質そうな顔。
だが、その目だけは異様に冷静だった。
「お初にお目にかかります、同志ダールフォ大将。」
「同志ではない。」
ダールフォは即座に訂正した。
男は少し笑う。
「では、ダールフォ元大将。」
「貴様は?」
「仲介人です。」
「帝国のか?」
「さぁ。」
否定しない。
それだけで十分だった。
ダールフォは周囲を見回す。
木箱。
弾薬。
通信機材。
燃料缶。
そして、シートに覆われた数両の車両。
そのシルエットを見た瞬間、彼の眉が動いた。
「……T-5か?」
帝国軍最新鋭中戦車。
東部戦線でも数が少ない新型。
それが何故ここにある。
「支援物資です。」
「誰の。」
「貴方の革命の。」
空気が凍り付いた。
周囲の兵士たちが僅かに身構える。
ダールフォは男を睨みつけた。
「革命だと?」
「現在の人民共和国は既に人民の国家ではありません。」
男は静かに言う。
「恐怖によって維持されているだけです。」
「……。」
「工場では生産未達で処刑。農村では徴発による飢餓。軍では粛清。国家保安局は互いを監視し合い、中央政府は崩壊寸前です。」
男は机へ数枚の書類を置いた。
ダールフォはそれを手に取る。
そこには部隊名と将校名が並んでいた。
人民軍第12師団。
第23師団。
第41機械化旅団。
更には補給局、鉄道局、通信局の内部協力者まで記載されている。
「……何だこれは。」
「現在、貴方への合流を予定している者たちです。」
「こんな人数が?」
「はい。」
男は淡々と続ける。
「人民軍内部の不満は、貴方が考えている以上に深刻です。」
ダールフォは紙を握り締めた。
指先に力が入る。
「……もし断れば?」
男は少しだけ笑った。
「その場合、貴方は雪原のどこかで死ぬでしょう。」
「脅しか。」
「現実です。」
沈黙。
吹雪の音だけが響く。
やがてダールフォは口を開いた。
「……人民委員長を倒せば、この戦争は終わるのか。」
男は即答しなかった。
代わりに窓の外を見る。
「少なくとも、“今の形”では終わります。」
「曖昧だ。」
「戦争とは曖昧なものです。」
ダールフォは乾いた笑みを漏らした。
「政治家みたいな言い方だな。」
「政治とは戦争の延長ですから。」
その瞬間、ダールフォは理解した。
この男は危険だ。
そして、その背後にいる存在はもっと危険である。
だが今更引き返せない。
人民共和国は既に狂気へ突入している。
ならば、自らも狂気へ踏み込むしかなかった。
「……いいだろう。」
ダールフォは静かに言った。
「私は立つ。」
男はゆっくり頷く。
「感謝します。」
「勘違いするな。これは貴様らのためではない。」
「えぇ、もちろん。」
「人民を救うためだ。」
男は僅かに笑みを深くした。
「そういう事にしておきましょう。」
その夜。
鉱山施設地下では秘密会議が行われた。
地図が広げられる。
補給路。
鉄道。
反政府派拠点。
革命派将校。
全てが整理されていた。
そしてダールフォは気付く。
これは即席の蜂起計画ではない。
何ヶ月も前から準備されている。
いや、下手をすれば戦争開始以前から。
「……誰がここまで。」
ダールフォが呟く。
だが仲介人は答えなかった。
代わりに別の資料を差し出す。
そこには人民共和国全土の不満分布図が描かれていた。
飢餓地域。
徴発過多地域。
反乱危険区域。
軍内部不穏分子。
恐ろしいほど詳細だった。
「我々は人民委員長を倒します。」
男は静かに言う。
「そのためには象徴が必要だ。」
「私か。」
「はい。」
「失敗した将軍を象徴にするとは趣味が悪い。」
「失敗したからこそです。」
男は淡々と返した。
「人民は勝者よりも、“見捨てられた者”に共感する。」
ダールフォは苦々しく笑った。
「随分と人心を理解している。」
「理解している者が背後にいるのでしょう。」
その言葉に、ダールフォは違和感を覚える。
“背後にいる”。
まるで仲介人自身も、誰かに使われているような言い方だった。
======数日後======
人民共和国西部戦線後方都市ノルグ。
夜。
吹雪。
停電。
通信障害。
都市全域が混乱していた。
守備隊司令部では怒号が飛び交う。
「まだ通信は回復しないのか!?」
「西部通信局と接続不能です!」
「発電所は!?」
「爆破されました!」
「何だと!?」
数十分前。
都市各地で同時爆発が発生。
発電所。
通信中継所。
鉄道分岐器。
弾薬庫。
全てが正確に破壊されていた。
偶発ではない。
計画的破壊工作。
その時。
ドォン!!
爆音。
司令部入口が吹き飛んだ。
雪煙の中から兵士たちが突入する。
「動くな!」
「革命軍だ!」
「武器を捨てろ!」
守備兵たちは混乱した。
既に市内守備隊の一部が反乱軍へ合流していたのだ。
銃撃は長く続かなかった。
床へ押さえつけられる将校たち。
その中を、一人の男が歩いてくる。
ダールフォだった。
司令官の顔色が変わる。
「だ……ダールフォ!?」
「久しぶりだな。」
「貴様、生きて……!」
「残念だったな。」
ダールフォは冷たく言った。
「人民委員長に伝えろ。革命は始まった、と。」
その言葉と同時に。
ノルグ市内各所で一斉に赤い照明弾が打ち上がった。
それは蜂起成功の合図だった。
======人民共和国首都ポーコ======
「何だと?」
人民委員長は報告書を見つめたまま固まっていた。
「ノルグが陥落しただと?」
秘書官は震えながら答える。
「は、はい……。」
「守備隊は?」
「多数が投降……一部は革命軍へ合流した模様です……。」
部屋の空気が凍り付く。
人民委員長の笑みが消えた。
「……ダールフォ。」
低い声。
目には明確な殺意が宿っていた。
「生きていたか。」
彼はゆっくり立ち上がる。
「ならば今度こそ徹底的に殺してやろう。」
だが、その瞬間。
更なる報告が飛び込む。
「第12師団が反乱軍へ合流!」
「第41機械化旅団も通信途絶!」
「南部工業地帯で暴動発生!」
「鉄道局員がストライキを開始!」
「西部補給基地が占拠されました!」
人民委員長の目が見開かれる。
そして初めて理解した。
国家が崩れ始めている。
彼は震える指で机を叩いた。
「国家保安局を呼べ。」
「は、はい!」
「反乱分子を全員処刑しろ。」
「ですが、数が……!」
「全員だ!!」
怒号が響く。
だがその怒号の中には、以前までの絶対的確信が無かった。
恐怖。
焦り。
疑念。
人民共和国そのものが、今まさに崩壊へ向かっていた。
======帝国某所======
薄暗い部屋。
ラジオから反乱の速報が流れている。
その前で、一人の人物が楽しそうに笑っていた。
「んふふ……始まった。」
机の上には大量の地図。
人民共和国各地に打たれた赤印。
潜伏工作員網。
補給経路。
反政府組織。
全てが既に配置済みだった。
「やっぱり人間って面白いわねぇ。」
椅子を回しながら、その人物は愉快そうに呟く。
「ほんの少し押してあげるだけで、勝手に転がり始めるんだもの。」
その声は女のものにも聞こえた。
だが、不思議と年齢感が無い。
若くも老いてもいない。
窓の外では雪が降っている。
しかし、その瞳の奥だけは異様な熱を帯びていた。
「帝国も、人民共和国も、革命軍も……みーんな必死。」
くすくす笑う。
「でもねぇ、まだ足りないのよ。」
机の端には写真が置かれていた。
ダールフォ。
人民委員長。
そして帝国軍のある人物。
その全てに赤線が引かれている。
「もっと壊れて、もっと混ざって、もっと争ってくれないと。」
その人物は頬杖をつきながら呟く。
「だって、その先にようやく“舞台”が整うんだから。」
ラジオはなおも流れ続ける。
人民共和国各地での暴動。
反乱。
離反。
そして戦闘。
国家が音を立てて崩れていく。
その全てを聞きながら。
その人物だけが、心底楽しそうに笑っていた。