帝国標準暦80年3月(中央共通暦270年3月)
冬は終わり始めていた。
だが、それは誰も待ち望んだ終わりではなかった。
東部戦線において春とは、生命の季節ではない。
雪解けによって露わとなる死と腐敗の季節である。
人民共和国西部国境地帯。
数か月前まで白銀に閉ざされていた大地は、今や見る影もなかった。
雪は半ば溶け落ち、地面は黒褐色の泥濘へ変わっている。
踏みしめるたびに、ぐちゃり、と不快な音が鳴る。
その泥の下には、死体が埋まっていた。
砲撃で吹き飛ばされた兵士。
凍死した歩哨。
履帯に轢き潰された兵。
腹を裂かれた軍馬。
砕けた砲。
焼けた戦車。
そして、回収されることすらなく雪に埋もれていた無数の死者たち。
春の訪れは、それらをゆっくりと地上へ押し戻していた。
腐臭が漂う。
風向き次第では数km先まで臭うほどだった。
兵士たちは鼻へ布を巻き付け、それでも吐き気を堪えながら前線を移動している。
泥濘では車両が動かない。
補給車両は次々と沈み、砲兵は馬と兵士総出で砲を引きずる。
兵士たちは膝まで泥に沈みながら歩き続ける。
そして倒れた者は、そのまま泥へ呑まれていった。
兵士たちは、この季節をこう呼んでいた。
“死の春”。
========クラムアン帝国東部戦線 第17軍司令部========
「……また補給車列が沈んだか。」
帝国陸軍第17軍司令官ヴァルメン中将は、報告書を机へ叩きつけた。
湿気を含んだ司令部内には、泥と汗と煙草の臭いが充満している。
副官が静かに答えた。
「はい。第3補給線で輸送中だった車列が泥濘へ足を取られました。十四両が行動不能、うち八両は既に放棄焼却済みです。」
「護衛は?」
「革命軍の遊撃隊と接触。小規模交戦後に離脱した模様です。」
ヴァルメン中将は顔をしかめた。
「人民共和国軍だけでも面倒だというのに、今度は革命軍か。」
机上地図には、青線と赤線、そして最近追加された黄色線が複雑に入り乱れていた。
青が帝国軍。
赤が人民共和国軍。
黄色が革命軍。
東部戦線はもはや単純な国家戦争ではなくなっていた。
「革命軍の勢力拡大は?」
「確認されているだけで西部工業地帯の三割以上を掌握しています。特に鉄道網への浸透が深刻です。」
「……補給線を握られ始めているわけか。」
「はい。」
ヴァルメン中将は椅子へ深く座り込む。
窓の外では雨が降っていた。
雪解け水と雨によって、大地は完全に泥の海へ変わっている。
その泥の中で、今この瞬間も兵士たちが死んでいた。
「人民共和国軍はどう動いている。」
副官は新たな書類を差し出した。
「革命軍鎮圧のため後方へ兵力を割いております。ただし、前線抵抗は依然として激烈です。」
「崩れないな。」
「はい。」
普通ならば国家は瓦解している。
国内反乱。
補給混乱。
政治粛清。
それら全てを抱えながら、人民共和国はなお帝国軍へ抵抗を続けていた。
もはや国家そのものが巨大な狂気によって動いているようだった。
「督戦隊は?」
「撤退部隊への即時処刑を継続中とのことです。」
ヴァルメン中将は苦々しく笑った。
「前進しなければ後ろから撃たれる、か。」
「捕虜の証言では『帝国軍に殺されるか、督戦隊に殺されるかの違いしかない』とのことです。」
沈黙。
司令部の誰も笑わなかった。
その時、司令部入口が勢いよく開く。
泥だらけの伝令兵が飛び込んできた。
「中将閣下!第8戦車大隊到着しました!」
ヴァルメン中将の目が僅かに鋭くなる。
「新型は?」
「予定通り配備済みです。」
========司令部外========
泥濘と化した広場へ、重低音を響かせながら戦車隊が入ってくる。
帝国軍新型中戦車――T-4。
従来型T-3より低く抑えられた車高。
傾斜を取り入れた前面装甲。
大型化された履帯。
そして長砲身化された50mm帝国軍正式採用79年式対戦車砲。
泥を巻き上げながら進むその姿に、兵士たちはざわめいた。
「あれがT-4か……。」
「砲身が長ぇ。」
「TMA2を抜けるって噂は本当か?」
「近距離なら、らしい。」
戦車兵たちは誇らしげだった。
これまで帝国軍は、人民共和国軍重戦車TMA2に苦しめられてきた。
従来型T-3では、正面装甲を抜けない。
先に撃たれれば終わり。
そうした戦場が幾度となく繰り返されていた。
だがT-4は違う。
少なくとも設計上は。
「……問題は近づけるかどうかだ。」
ヴァルメン中将は小さく呟いた。
泥濘では速度が出ない。
視界も悪い。
砲兵支援も遅れる。
つまり、この春の戦場では戦車戦すら泥臭い接近戦になる。
========人民共和国軍西部戦線========
「帝国軍新型戦車、か。」
人民軍少将グラドネフは煙草へ火をつけた。
司令部内は薄暗い。
発電燃料不足により、照明は最低限しか点いていない。
副官が地図を指し示す。
「確認地点はこちらです。複数のT-4が前線投入された模様です。」
「性能は。」
「不明。ただしTMA2正面装甲への有効打が確認されたとの報告があります。」
グラドネフは無言になる。
人民共和国軍も限界へ近づいていた。
革命軍との内戦。
帝国軍との戦争。
終わらない粛清。
補給崩壊。
兵員不足。
だが、それでも前線は維持されている。
理由は単純だった。
恐怖である。
人民委員長直属督戦隊。
撤退すれば処刑。
命令違反なら公開銃殺。
疑われれば収容所送り。
兵士たちは、敵より後ろを恐れていた。
「……狂ってやがる。」
グラドネフは小さく呟いた。
だが、その狂気こそが国家を繋ぎ止めている。
その時だった。
ドォォン!!
司令部が揺れる。
壁の砂が落ちた。
「砲撃!?」
通信兵が転がるように飛び込んでくる。
「帝国軍戦車隊です!南側防衛線を突破!」
「何だと!?」
========前線========
泥。
泥。
泥。
世界全てが泥だった。
帝国軍歩兵たちは泥濘へ足を取られながら進む。
靴が抜ける。
転ぶ。
起き上がる。
また進む。
その頭上を砲弾が飛び交う。
「前進!!止まるな!!」
帝国軍将校が怒鳴る。
その瞬間。
ドガァァン!!
先頭を進んでいたT-3が吹き飛んだ。
砲塔が宙へ舞う。
「TMA2!!」
泥煙の向こう。
人民共和国軍重戦車TMA2が現れる。
85mm砲。
分厚い装甲。
泥を踏み潰しながら前進する鋼鉄の怪物。
「撃てぇぇ!!」
帝国軍T-4が発砲。
50mm砲弾がTMA2へ命中。
火花。
だが貫通しない。
「くそっ!」
逆にTMA2が砲撃。
T-4前面装甲が吹き飛び、炎上。
車内から乗員が飛び出す。
だが次の瞬間。
側面へ回り込んでいた別のT-4が発砲。
至近距離。
砲弾が側面装甲へ突き刺さる。
爆炎。
TMA2停止。
「やったぞ!!」
歓声。
しかし。
ドォォン!!
さらに別方向から砲撃。
二両目。
三両目。
泥煙の中から新たなTMA2が現れる。
帝国軍歩兵たちの顔から血の気が引いた。
「まだいるのかよ……。」
泥濘の中で、鋼鉄同士が互いを食い破っていく。
========革命軍支配地域========
旧工業都市レグナ。
煙突から黒煙が上がっていた。
工場内では革命軍兵士たちが鹵獲車両を修理している。
帝国製。
人民共和国製。
両軍の兵器が入り乱れていた。
革命軍はもはや単なる反乱勢力ではない。
一つの軍隊へ変貌し始めていた。
ダールフォは工場内部を歩きながら、その光景を見つめる。
「……随分増えたな。」
隣にいた参謀が頷く。
「人民共和国軍からの離反が止まりません。」
「帝国軍は?」
「こちらへの攻撃を避けています。」
ダールフォは沈黙した。
やはり帝国内部の何者かが動いている。
だが。
それが味方とは限らない。
「人民はどう見ている。」
参謀は少し迷った。
「歓迎する地域もあります。ですが。」
「だが?」
「新しい軍閥としか見ていない者も多いです。」
当然だった。
人民共和国もまた、“人民解放”を掲げて成立した国家である。
そこへ別の武装勢力が現れたところで、民衆から見れば変わらない。
ただ支配者が変わるだけだ。
「……結局、力か。」
ダールフォは苦く笑った。
その時。
工場奥から巨大なエンジン音。
兵士たちが歓声を上げる。
シートが外される。
現れたのは帝国製T-5戦車。
さらに横には人民共和国製TMA2。
革命軍は既に両陣営の兵器を混在運用し始めていた。
「滅茶苦茶だな。」
ダールフォは呟く。
だが。
その滅茶苦茶こそが、今の人民共和国だった。
========人民共和国首都ポーコ========
人民委員長は苛立っていた。
机には報告書が山積みになっている。
反乱。
補給崩壊。
戦線後退。
離反。
処刑。
毎日のように新たな問題が発生していた。
「第41機械化旅団、未だ消息不明。」
「西部工場地帯で革命軍蜂起。」
「鉄道爆破。」
「帝国軍、新型戦車投入。」
報告を読むたびに、彼の表情は険しくなる。
だが。
それでも彼は折れていなかった。
「……まだだ。」
低い声。
「人民共和国は滅びん。」
彼は狂気的なまでに国家を信じていた。
いや。
国家というより。
自らの理想を。
その時。
秘書官が恐る恐る口を開いた。
「同志委員長……地方で食糧暴動が。」
「鎮圧しろ。」
「ですが兵力が……。」
「ならば処刑しろ。」
即答だった。
秘書官は震えながら頭を下げる。
人民委員長は窓の外を見る。
雨。
泥。
煙。
人民共和国は崩れ始めている。
だが彼はまだ、自らが勝つと信じていた。
========帝国某所========
薄暗い部屋。
ラジオから戦況報告が流れている。
「東部戦線では泥濘による補給遅延が――」
「革命軍支配地域拡大――」
「帝国軍新型戦車T-4初戦果――」
その声を聞きながら、一人の人物が楽しそうに地図へ赤線を書き込んでいた。
人民共和国。
帝国。
革命軍。
三勢力が複雑に絡み合っている。
「ふふ……いい感じ。」
机の上には無数の資料。
人民委員長。
ダールフォ。
帝国軍将校。
親衛軍幹部。
全てに細かな書き込みがされていた。
「みんな壊れ始めてる。」
椅子を回しながら、その人物は笑う。
「絶望って素敵よねぇ。」
窓の外では春の雨が降っている。
泥濘。
死体。
腐敗。
世界はゆっくり壊れていた。
そして。
その崩壊を、まるで舞台劇でも眺めるように楽しむ者がいた。
「さて。」
くすり、と笑う。
「次は誰が落ちるのかしら?」