妖狐の私、人間の社会で稼ぐためVtuberとして百合営業をしていたら相方の化け狸がガチだった件 作:パッタリ
残っていた妖気は薄かった。
けれど、完全に消えてはいない。
私は夜の街を歩きながら、鼻先に意識を集中させていた。
人間の匂い、排気ガス、雨上がりのアスファルト、コンビニの揚げ物、どこかの飲食店から漂う焼き鳥の煙。
その中に、細い糸のような妖気が混じっている。
「……こっちだね」
「はい。ですが、だいぶ薄いです」
隣を歩くコノハが、小さく頷いた。
いつもより口数が少ない。
私の部屋が荒らされたこと、私の古い私物が盗まれたこと。それが相当腹に据えかねているらしい。
「コノハ、顔怖いよ」
「申し訳ありません。ですが、シズク殿の物を盗むなど……」
「昔、私の櫛を盗んだ狸がいた気がするけど」
「その件は深く反省しております」
盗まれた名刺入れは、大正から昭和の初め頃に使っていたものだ。
中には、当時の偽名で作った古い名刺が数枚。人間の目から見れば、ただの古い紙片でしかない。
しかし、妖怪や裏の事情に通じた者なら、そこから過去の縁を辿れる可能性がある。
「少し面倒なことになってきたね」
「はい」
私たちは繁華街を抜け、古い住宅地へ入った。
かつては商店街だったらしい通り。シャッターの下りた店が並び、古い看板が夜風に揺れている。
その景色を見て、ふと、別の時代の街が脳裏をよぎった。
焼けた木材に崩れた塀、薄い煙と痩せた人間に犬。
そして、瓦礫の陰で震える汚い毛玉。
「……あ」
私は足を止めた。
「シズク殿?」
コノハが振り返る。
私はしばらく何も言えなかった。
思い出したのだ。
応仁の乱の頃のことを。
***
当時の京は、ひどい有様だった。
家は焼け、寺は荒れ、人間は飢え、死体と煙と腐った水の匂いがあちこちに溜まっていた。
当時の私は、まだ弱い妖狐だった。
八尾どころか、尻尾も今よりずっと頼りない。人間に見つかれば、退治されるか、売られるか、飢えた者に捕まって鍋に入れられるか。
妖怪だからといって強いとは限らない。弱い妖怪にとって、戦乱の人間は普通に怖い。
だから私は狐のふりをしていた。
ただし、人語を理解する妖怪ではなく、ただの野生動物として。
瓦礫の陰を走り、夜にだけ食べ物を探し、危ない人間が近づけば息を殺す。
その日、私は焼け残った店の裏で油揚げを拾った。
半分焦げて、泥もついていて、決して上等なものではない。
瓦礫の陰でそれをかじっていると、足元から小さな音がした。
きゅう、と。
見ると、汚い毛玉がいた。
最初は何の生き物かわからなかった。
泥と煤で毛並みはぐちゃぐちゃ。小さな耳は伏せられ、目だけが妙に大きい。狸の子ども、いや、妖怪になりかけの何か。
そんな感じだった。
「…………」
私は油揚げを抱え、そいつを睨んだ。
近寄るな。これは私の食べ物だ。
毛玉はびくっと震えた。だが逃げない。
腹を空かせた目で、私の手元を見ていた。
まず思ったのは、面倒だということ。
自分だって腹が減っている。他人に分ける余裕なんてない。
そもそも、弱い妖怪同士で助け合ったところで何になるのか。
けれど、毛玉はまた鳴いた。か細い声で。
私は舌打ちの代わりに、油揚げを半分かじると、残りを毛玉の方へ投げた。
「……食べな」
声に出したかどうかは覚えていない。狐の姿だったから、ただ喉を鳴らしただけかもしれない。
毛玉は、最初は信じられないように油揚げを見ていた。
それから恐る恐る近づき、小さな口でかじった。
よほど空腹だったのだろう。泥まみれの顔で必死に食べていた。
私はそれを見て、少しだけ笑った気がする。
ああ、そうか。
あれがコノハだった。
今の、料理上手で、財務にも強くて、重すぎる愛を煮詰めた化け狸ではない。
ただの、汚くて弱くて腹を空かせた毛玉。
そして私は、その毛玉にたまたま半分残した油揚げを投げただけ。
***
「……思い出した」
ぽつりと呟くと、コノハが息を呑んだ。
「京で会った時のこと。ほんとに汚い毛玉だったね」
「……はい」
コノハの声が震えた。
「あの頃は私も弱かった。人間に見つからないよう、ただの狐のふりをしてた。コノハも、狸っていうより何かの毛玉だった」
コノハの目が、みるみる潤んでいく。
次の瞬間、全力で抱きついてきた。
「シズク殿……っ!」
「うわっ」
私はよろけた。
いつものような、じわじわ距離を詰める抱きつきではない。
遠慮も計算もない、ただ感情が溢れたみたいな抱擁だった。
コノハは私の胸元に顔を押しつけ、ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる。狸耳は震え、尻尾は完全に膨らんでいた。
「ちょっ、耳と尻尾が出てる」
「うぅ……すぐ戻します」
珍しい。
普段のコノハは重い。怖いくらい重い。
だけど、その重さはどこか計算されていて、私にどう刺さるかを理解したうえで押してくるところがある。
今のこれは違う。
ただ泣きそうな子どものようだった。
「……あの日、わたしは本当に、死ぬと思っていました」
コノハが小さく言う。
「親も、群れも、居場所もなくて。人間も怖くて、他の妖怪も怖くて。何を食べればいいのかもわからなくて」
「うん」
「そんな時に、シズク殿が油揚げを分けてくださったのです。半分かじってありましたけど」
「そこ強調しなくていい」
「泥もついていましたけど」
「なおさら強調しなくていい」
「でも、温かかったのです」
コノハの腕に力がこもる。
「わたしにとっては、救いでした」
私は黙った。
あの時の私は、そんな大層なことをしたつもりはなかった。
ただ、腹を空かせた毛玉が哀れで少しだけ分けた。それだけ。
けれど、受け取った側にとっては違ったのだろう。
人間も妖怪も、そういうところは面倒くさい。何気ない行為が、誰かの人生を曲げることがある。
いや、妖怪の場合は人生ではなく、数百年分の執着になることもある。
「……まあ、でも」
私は片手を上げ、コノハの頭をぽんぽんと撫でた。
「生きててよかったね」
コノハの体が、びくりと震えた。
「はい……っ」
「あと、あの時の油揚げでここまで重くなるとは思わなかった」
「それは、シズク殿の責任です」
「責任重すぎない?」
コノハは顔を上げた。目元は赤いが、いつものように熱っぽい笑みも戻りつつある。
「では、責任を取って、今後もわたしをお側に置いてください」
「そこに繋げる?」
「はい」
私はため息をついた。
夜の住宅地。盗まれた名刺入れ。薄い妖気。
追跡中のはずなのに、道端で化け狸に抱きつかれている。
状況としてはだいぶおかしい。
けど、コノハの腕を振りほどく気にはならなかった。
「ほら、行くよ。犯人追うんでしょ」
「はい」
「歩ける?」
「歩けます。ですが、もう少しだけ」
「だめ」
「では、手を繋ぐのは」
「……迷子防止なら」
「はい。迷子防止です」
コノハが嬉しそうに私の手を取る。
絶対に迷子になるような狸ではない。
むしろ、室町から現代まで私を追跡してきた執念の塊である。
それでも、私は手を振りほどかなかった。
薄い妖気はまだ夜の街に残っている。過去を狙う誰かがいる。その正体はまだわからない。
ただ一つ、思い出したことがある。
焼け野原の京で、弱い狐と汚い毛玉が出会った。半分かじった油揚げを分けただけの、どうでもいいような出来事。
それが、今に繋がる私たちの始まりだった。
「コノハ」
「はい、シズク殿」
「あの時よりは、だいぶマシになったね。私たち」
コノハは少しだけ笑った。
「はい。今は、油揚げを二人で好きなだけ買えます」
「そこ?」
「とても大事です」
まあ、確かに。
焦げて泥のついた油揚げを奪い合うより、現代のスーパーで特売の油揚げを選ぶ方がずっといい。
私はコノハと手を繋いだまま、妖気の残る路地へ歩き出した。
過去は過去。今は今。
けれど時々、古い記憶が今を少しだけ温かくすることもある。