若返った老騎士、落ちこぼれ公爵令嬢の使い魔になる   作:ですわお嬢様スキー

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プロローグ 老騎士の最期、そして新たなる始まり

 プロローグ 竜殺しの騎士

 

 王国唯一の独立騎士。

 騎士の中の騎士。

 

 ラングリッド・ラントブルグ・フォン・エシュタールを語る時、人々はしばしばそう口にした。

 

 だが、その実像は、絵物語に描かれるような清廉潔白の英雄とは少し違う。

 

 もちろん、騎士として、貴族として、なにより一人の人間として、礼節を軽んじることはない。

 命の尊さも、人の営みの重さも知っている。剣を握る以上、その刃が何を奪い、何を守るのかを忘れたこともなかった。

 

 だが、七十年も生きていれば分かることがある。

 

 人は、正しさだけでは息が詰まる。

 忠義だけでは腹は満ちぬ。

 誇りだけでは、夜の寒さはしのげない。

 

 だから彼は、戦の後の酒を好んだ。

 火を入れた煙草の豊かな香りを好んだ。

 酒に呑まれた若い騎士たちが、失敗談を隠そうとしてかえって墓穴を掘る様を見るのも、決して嫌いではなかった。

 

 忠義や忠誠は、騎士を立派にする。

 それは間違いない。

 

 けれど、それだけで人生が満ちるわけではない。

 杯を交わす夜があり、煙草の煙を眺める沈黙があり、くだらない失敗を笑う声がある。そうした彩りが、時に誇りや誓いよりも深く人をこの世につなぎ留める楔となり、死中に活を見出す火事場の馬鹿力とでもいうべき力の燃料となるのだ。

 

 ラングリッドがそれを本当の意味で理解したのは、随分と年を重ねてからだった。

 

 始めるに遅すぎるということはないと、人生の佳境で大成した芸術家が言った名言がある。

 

 だが、七十を過ぎてようやく気づいたとなれば、さすがに少しばかり遅すぎたと言わざるを得ない。

 少なくとも、本人はそう思っていた。

 

 ──そして今、そうした遅すぎたほろ苦い悔いを煙草の煙にくゆらせる暇もなく、彼は剣を握っていた。

 

 大地が焼けていた。

 

 黒く焦げた草原の向こうで、竜が咆哮を上げる。

 その声は嵐のように空気を震わせ、城壁の石を軋ませ、馬上の騎士たちの顔から血の気を奪った。

 

 無理もない、とラングリッドは思った。

 

 あれは、人が相手にするにはあまりに大きすぎる。

 

 鱗は鋼より硬く、爪は城門を裂き、吐き出す炎は盾も鎧も焼き尽くす。生物として格が違うのだと警鐘を鳴らす本能をねじ伏せ挑んだところで、それは勇気ではなく蛮勇でしかない。

 

 恐れることは恥ではない。

 恐れを知らぬ者から先に死ぬのが、戦場という場所である。

 

「全騎、退け」

 

 そして正しく恐れを抱くことができる優秀な若い騎士たちをここで死なせるわけにはいかなかった。

 低く告げた一言に、背後の騎士たちがざわめいた。

 

「ラングリッド様!」

「我らも共に戦います!」

「お一人でなど──」

「ならん」

 

 ラングリッドは振り返らず、有無を言わせぬ口調で言う。

 

 七十年。

 

 戦場に身を置きながら随分と長く生きたものだと、ラングリッドは思う。

 

 若き日に侯爵家の三男坊として剣を取った。

 戦場で名を上げ、爵位を賜り、領地を任され、王国唯一の独立騎士などという、いささか大仰な称号まで得るに至った。

 

 戦うことしか脳のない男には、十分過ぎるほどの人生だった。

 

 王には仕えた。

 国には尽くした。

 民も守った。

 そして最後に、未来を託せる有望な若者達の礎となって逝けるのであれば、もはや望外の喜びである。

 

「竜殺しの名誉はこのラングリッドが貰っていく」

 

 ラングリッドは、軽く肩を鳴らして言った。

 

「お前たちは後で悔しがればよい。老いぼれに英雄となる名誉を奪われたと。なに、愚痴くらいなら聞いてやるとも」

「ラングリッド様……!」

「聞こえなかったか」

 

 そこで初めて、ラングリッドはわずかに顔だけを向けた。

 

 深く皺の刻まれた老いた顔。しかし、その奥に燦然と煌めく鋭い眼光には濁りの一つもない。

 

 若い騎士たちは息を呑む。

 

 死地へ向かう者の悲壮ではなかった。

 まして、名誉に酔った英雄の昂ぶりでもない。

 ただ、己の命の使いどころを見定めた騎士の目だった。

 

「最後だ、退け。これは命令だ」

 

 その言葉に、若い騎士たちは歯を食いしばった。

 

 従いたくなどなかっただろう。

 共に戦いたかっただろう。

 竜を前にしてなお逃げずに立った彼らは、決して臆病者ではない。

 

 だからこそ、ラングリッドは彼らを生かしたかった。

 

 彼らには明日がある。

 帰りを待つ者がいる。

 これから家を継ぐ者がいる。

 まだ誰かを愛することも、誰かに愛されることもできる。

 失敗し、悔やみ、笑い、時に酒に呑まれて翌朝に頭を抱える事もあるだろう。

 

 王国の未来とは、そういうものの積み重ねだ。

 

 七十まで剣を握った老人の命ひとつで、それが買えるのなら、随分と安いものだった。

 

 やがて、背後で馬蹄が鳴った。

 遠ざかっていく。

 何度も振り返る気配がある。それでも、若い騎士たちは涙を流し血が滲むほどに固く手綱を握りしめる。

 

 良い騎士たちだ、とラングリッドは思う。

 

 命令に従えぬ情熱も、命令に従う理性も、どちらも若者には必要だ。それぞれの使い所を弁えている。

 

 竜が動いた。

 

 巨体が地を踏み砕き、翼が焦げた風を巻き上げる。

 灼けた臭いが鼻を刺した。血と土と煙の混じった、平穏の世になって久しく感じていなかった懐かしくも忌々しい戦場の臭いだ。

 

「さて」

 

 ラングリッドは剣を構え、盾を前に出す。

 

「見ての通りの老いぼれだ。手加減してくれると嬉しいんだがなぁ」

 

 もちろん、竜がそんな頼みを聞くはずもない。

 

 瞬間、視界が赤く染まる。

 

 迫り来る竜のブレスにラングリッドは横へ飛ぶのではなく、前へ踏み込んだ。炎の奔流は広く、後ろへ退けば呑まれる。横へ逃げれば爪が来る。ならば、それを切り捨ててしまえばいい。

 

 老いた足が悲鳴を上げた。

 

 膝が軋む。

 肺が焼けるように熱い。

 それでも、身体はまだ動いた。

 

 炎が肩をかすめ、マントが燃えた。

 ラングリッドは一太刀でブレスを切り裂くと、驚きに身を竦ませる竜の首筋へと更に刃を振るった。

 

「ぬぅ」

 

 硬い。

 刃が鱗を裂ききれず、火花が散った。

 

「まったく、年寄りの歯では欠けてしまいそうなほど硬いものだ」

 

 ぼやきながらも、彼の目は笑っていなかった。

 

 一撃で斬れぬなら、二撃。

 二撃で足りぬなら、三撃。

 それでも足りぬなら、斬れるまで何度でも。

 寝物語に語られる勇者が持つような聖剣でもなければ命を吸って切れ味を増す魔剣でもない、数打ちの剣しか持たぬ彼はそうしてきたのだ。

 

 竜が爪を振るう。

 ラングリッドは盾で受けた。

 

 受けた、というよりは、受け流した。まともに食らえば人の身体など鎧ごと潰れる。盾の角度をわずかにずらし、衝撃を逃がし、地面を転がる。

 

 背中を打つ。

 息が詰まる。

 それでも即座に立ち上がる。

 

 若い時分であれば、もっと俊敏に動けたものだが。そう思って彼は少し笑った。

 

 竜が再び炎を吐こうと喉を膨らませる。

 その瞬間、ラングリッドは腰の短槍を抜き、投げた。

 

 狙いは目ではない。

 喉元でもない。

 

 炎を吐く直前にわずかに開く、顎下の柔らかな膜。

 

 短槍が突き刺さる。

 

 竜が苦悶の咆哮を上げた。

 吐き出されるはずだった炎が喉の奥で暴れ、黒煙となって漏れ出す。

 

 ラングリッドは走った。

 

 鎧が重い。

 傷が熱い。

 足元の土は焼け、踏み込むたびに靴底から熱が伝わる。

 

 それでも走った。

 

 竜の前脚が迫る。

 彼は盾を捨てた。

 

 得物は選ばぬラングリッドだがこれは長く使った盾だった。いくつもの戦場で命を守ってくれた。

 だが、ここから先に必要なのは守りではない。

 

 両手で剣を握る。

 

 竜の脚爪が左肩を裂いた。

 鎧が砕け、血が飛ぶ。

 

 痛みはあった。

 だが、痛いということは、まだ腕が生きているという証である。

 

 ラングリッドは踏み込んだ。

 

 竜の喉元。

 先程投擲した短槍より傷付き、自らの炎によって焼かれたそこならば今の刃でも十分に届く急所となる。

 

「私の、勝ち、だ」

 

 ラングリッドは呟き、三度剣を振るう。

 

 一撃目で焼け焦げた鱗が割れた。

 二撃目で肉が裂けた。

 三撃目で骨に届いた。

 

 竜が暴れる。

 尾が地を薙ぎ、翼が空気を叩き、耳をつんざく咆哮をあげる。

 

「しぶといものだ」

 

 たったこれだけの時間でラングリッドの身体も限界を迎えていた。元より若くない身体に加え、人と竜という比べるまでも無い生物的な格差があるとなれば下手に長引く戦いに先に倒れるのは間違いなく自分。

 

 故に、ラングリッドは竜が己を格下と侮り、ただの「狩り」であると油断している間に決着を着けるべく、文字通り肉を切らせて骨を断つ命を顧みない超短期決戦を選んだのだ。

 

 いつしか痛みすら感じなくなった腕と霞む視界。どうやら血を流しすぎたらしい。

 

 思うように息ができず、浅い呼吸を何度も繰り返している。

 心臓が胸の奥で壊れた鐘のように鳴る。

 

 それでも、剣を離さなかった。

 

 彼は独立騎士だった。

 王国唯一の、騎士の中の騎士と謳われた男だった。

 だが、その称号のために剣を握っているわけではない。

 

 背後に城がある。

 城には人がいる。

 人には暮らしがある。

 パンを焼く者がいる。

 子を叱る母がいる。

 恋文を書き損じる若者がいる。

 今日の酒代を心配する兵士がいる。

 

 そういうものを守るために、騎士は剣を握る。

 ラングリッドは、最後の力を込めた。

 

「──これで、終いだ」

 

 剣が、竜の首を断った。

 

 一瞬、世界から音が消えた。

 

 次いで、巨体が崩れ落ちる。

 大地が震え、土煙が舞い上がり、赤黒い血が焦げた草原に広がった。

 

 竜の首が、ゆっくりと転がる。

 

 勝った。

 

 その確信と同時に、ラングリッドの膝が折れた。

 

 剣を杖代わりにしようとする。

 だが、指が動かない。握っていたはずの柄が、ひどく遠く感じられた。

 

 空が見えた。

 

 煙に汚れた空だった。

 だが、その向こうには確かに青がある。

 

「……上々、だな」

 

 声になったかどうかは、分からなかった。

 

 悪くない最後だった。

 

 国を守った。

 若者も逃がした。

 その上で、竜殺しの栄誉すらも手に入れたのだ。

 

 これ以上を望めば、さすがに罰が当たるだろう。

 

 意識が沈んでいく。

 

 その底で、懐かしい声がいくつも聞こえた気がした。

 

 ──お前も少しは、自分の幸せを考えろ。

 

 あれは、兄の声だったか。

 

 ──ラングリッド兄様は、国と結婚なさったようなものですね。

 

 むくれてそう言ったのは、妹のように可愛がっていた侯爵家と縁深い家の令嬢だ。

 

 ──孫の顔くらい見せてくれても罰は当たらんぞ。

 

 顔も朧気になった父は、そんなことを言っていたか。

 あの武骨な父が、酒に酔った夜だけは妙に寂しそうにそんなことを言うものだから、返答に困った記憶がある。

 

 ──あなたの帰りを私は待ちます。いつまでも。

 

 それは誰だったか。

 もう顔も曖昧だった。

 

 自分の幸せ。

 

 ずいぶんと多くの者が、そんなことを言っていた気がする。

 

 振り返ってみれば、後悔がないわけではない。

 もっと違う道もあったのだろう。

 酒場で酒と煙草に未練を溶かすのではなく、愛する誰かと朝を迎える人生も。

 領地の子らを眺めるだけではなく、自分の子を抱く人生も。

 主君のため、王国のため、民のためではなく、ただ自分のために何かを望む人生も。

 

 そういうものは、ついぞ縁遠かった。

 

 だが、悪い人生ではなかった。

 

 剣を握り、王に仕え、民を守った。

 幾度も傷を負い、幾度も失い、それでも胸を張れるだけのものは残した。

 

 ならば、十分だ。

 十分に、良い人生だった。

 

 ただ。

 もしも、次があるのなら。

 

 彼らが言っていた、自分の幸せとやらを。

 少しくらいは、探してみるのも悪くない。

 

 そんなことを思った瞬間だった。

 眩い光が、閉じかけた意識を塗り潰した。

 

 死後の静寂ではなかった。

 

 焼けた草の臭いも、竜の血の熱もない。

 代わりに、春の草の匂いがした。石畳の冷たさがあった。どこか遠くで、若者たちのざわめく声が聞こえた。

 

 ラングリッドは、ゆっくりと目を開けた。

 

 身体が驚くほどに軽い。

 

 痛みがない。

 肩も裂けていない。膝も軋まない。肺も焼けていない。指先には熱く滾る血が通い、日毎に弱まっていく気配を感じさせた心臓は力強く脈打っている。

 

 見下ろした手は、しわがれた老人のものではなかった。

 

 剣を握り続けた硬さこそ残っている。

 だが、皺は浅く、筋肉は張り、かつて最もよく動いた頃の形をしていた。

 

「……これは」

 

 死後の世界にしてはやたらと生々しいというか、現実味に溢れている。

 そう思った時、目の前から声がした。

 

「どちら様かしら?」

 

 顔を上げれば、燃えるような美しい赤髪をした少女がそこに立っていた。

 

 ルビーのような大きな瞳には困惑と苛立ちが浮かび、唇は不満そうに結ばれている。

 

「いや、それは私の方こそ聞きたいのだが」

 

 どうやら、次とやらは本当にあったらしい。

 しかも始まりは、随分と騒がしそうだった。

 

 *

 

 後の世において、グローバウム王国にその人ありと謳われた最強の騎士、ラングリッド・ラントブルグ・フォン・エシュタールは、竜殺しの騎士として新たな英雄譚に名を刻むことになる。

 

 一刻にも満たぬ短時間ながらに激戦を物語るその戦場には首を落とされ、巨躯を大地に沈めた竜の骸だけが残されていたという。

 

 剣も、盾も、砕けた鎧も、血に濡れた外套もあった。

 だが、ラングリッドの亡骸だけは、ついに見つからなかった。

 

 かの騎士は竜の血を浴び、竜殺しの偉業を以て半神へと至ったのだ。誰かが、そう言った。

 

 やがてそれは詩となり、歌となり、子どもたちに語られる物語となった。

 

 王国を守護した伝説の騎士は、今もどこかで人知れず誰かを守り続けているのだと。

 

 人々はそう信じた。

 そして、どうやらその物語は半分だけ正しかったようだ。

 




お読みいただきありがとうございます!

ですわ口調お嬢様はいいぞ……いいぞ……!
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