若返った老騎士、落ちこぼれ公爵令嬢の使い魔になる 作:ですわお嬢様スキー
遅くなりすいません!!!!
色々明かされて物語が多きく進み始める第十三話です!
女子寮の自室。まだ重い気怠さを残す身体を柔らかな寝具に預けたまま、レティシアは天蓋をじっと見つめていた。
全身の魔力を絞り尽くした反動による昏睡から目覚め、すでに数時間が経過している。深い疲労はまだ抜けきっていなかったが、彼女の思考はかつてないほどに冴え渡っていた。
彼女にとってこの一週間は、人生で最も濃密で、それでいて嵐のようにあっという間の時間であった。
己の理想と意地を貫こうとした結果、実技の成績は中途半端な初級止まり。間近に迫ったダンジョン攻略の課題も、共にパーティを組んでくれる同期は一人もおらず、退学処分すら覚悟の上で、彼女は公爵家に秘匿された召喚魔法に縋った。
果たして、魔法陣の中心から現れたのは、見上げるほどの体躯に無数の傷跡を刻み込んだ、浮浪者と見紛うほどに薄汚れた一人の青年であった。
「本当に、不思議な人……」
彼は迷わず己を『命の恩人』だと言い、詳しい事情も聞かずに使い魔となることを承諾してくれた。自分でもどうにもならなくなっていた魔法へのこだわりを優しく解きほぐし、泥にまみれるような過酷な鍛錬にまで、最後まで付き合ってくれた。
底抜けに善人で、義理堅い人なのだろう。あの暗闇の底で、己の武器が砕け散ってもなお前に立ち続け、自分に勝利を預けてくれた、広く逞しい背中を思い出すたびに、言葉にできない感情が胸の奥を熱くした。
しかし、彼がただの善良な異邦人ではないことを、レティシアはつい先ほど知らされたばかりだった。
昏睡から目を覚ました彼女のもとを、密かに訪れたのは学園長ルーヴェリアであった。
告げられたのは、進級試験の合格と、これまでのペナルティの取り消し。そして、記念パーティでの《成績優良生徒》としての表彰。
ここまでは、レティシアにとっても予想の範囲内であった。だが、続けて語られたラングリッドの《正体》は、彼女の常識を覆すに余りあるものだったのだ。
『あの子はね、ただの人間じゃないわよぉ』
いつもの間延びした口調のまま、ルーヴェリアは事もなげに告げた。
『あの子が竜と相討った時に浴びた竜の血。それが、異世界召喚という大魔法を通じて肉体と混じり合った。結果として今のあの子は、竜の因子を宿した《竜人》に近い存在といっても過言ではないわねぇ』
あまりに常識を外れた話に、レティシアは咄嗟に言葉を返せなかった。
竜人。伝承や叙事詩の中にしか存在しないものだ。なのに、つい先ほどまで隣で剣を振り、共に魔物を打ち倒した、あの男のことだという。
『……当のご本人は、その自覚を?』
『ふふ、ないわよぉ。「少し若返って力が強くなった」程度に思っているんじゃないかしらねぇ。困ったものよねぇ、本当に』
ルーヴェリアは、肩を竦めて笑った。
だが、レティシアの心を最も激しく揺さぶったのはその先であった。
『ところでね、レティシアちゃん。ここ最近の自分の成長、そしてあの時あなたが最後に放った炎槍──あの一撃が、どうしてあれだけの威力を発揮できたのか、自分でも不思議に思っていない?』
『……それは』
『使い魔のパスを通じて、あの子の竜の魔力が無意識のうちにあなたへ流れ込んでいたの。それがあなた自身の魔力と共鳴して、あの一撃になったのよぉ』
その瞬間、レティシアの視界が、暗く沈んだ。
……では、あれは。
あの、命を賭けて掴んだはずの一撃は。
ダンジョンの最奥、彼が血を流して倒れる寸前、自分が限界を超えて紡ぎ出したと信じていた、あの炎槍は。
結局のところ、彼の力に依存したものだったのか。一週間の鍛錬も、的に火を撃ち続けた日々も、彼に必死で食らいついた時間も、本当の意味では何の意味も成していなかったのか。
胸の奥が、しん、と冷たくなった。
公爵令嬢としての矜持が、音を立てて崩れそうになる。グランヴェルの娘として、これまで必死に積み上げてきた何もかもが、結局は他者の力に頼っただけの幻だったと知らされる。それは、これまで彼女が受けてきたどの侮辱よりも、深いところに刺さる痛みだった。
俯きかけた彼女に、ルーヴェリアは静かに声をかけた。
『勘違いしないでちょうだいね、レティシアちゃん』
その声音は、それまでの間延びした調子とは打って変わって、はっきりと芯のあるものだった。
『あの子の魔力が助けになったのは事実よぉ。でもね、火属性魔法に関しては、元々レティシアちゃん自身の才能が、とびきり高かったの。だから遅かれ早かれ、レティシアちゃんは同じ魔法を使えるようになっていたわぁ』
『……本当に、ですか』
『王国最強の魔法使いであるわたしの名に誓って、これは絶対に事実よぉ。あなたの才能は、あの子の加護がなくても、いずれ必ず花開いていた。ただ、それには十年、二十年とかかったでしょうけどねぇ』
ルーヴェリアは、悪戯っぽく目を細めた。
『あの子のしたことは、それを今、この瞬間に引き出してくれた。それだけの話よぉ』
その言葉を反芻するたび、レティシアの胸の奥で確かな熱が蘇ってくる。
己の才能を、王国最高の権威が保証してくれた。
あの地獄のような的当ての日々も、不届きな老騎士に必死に食らいつこうとした時間も、決して無駄ではなかったのだ。火種が自分のものであるならば、それを引き出してくれた彼の存在もまた、誇るべき出会いではないか。
「ええ、そうですわ」
レティシアは天蓋から視線を外し、自室の窓へと目を向けた。
春の柔らかな陽光が、彼女の鮮やかな赤髪を照らし出している。
深く息を吸い込むと、いつもの不敵で、気高い笑みが自然と浮かんだ。
常に優雅で、凛とした公爵令嬢。ここで悩み続けているのは、自分らしくない。この力の源が何であれ、今は自分の力であることに変わりはない。ラングリッドがそれほどの存在であるならば、主である自分が未熟なままでいるわけにはいかないのだ。
*
そして時間は進み、試験結果が発表される記念パーティの夜を迎えた。
普段は式典や大規模な講義に使用される大講堂も、今宵ばかりは別世界のように華やいでいる。
高い天井から吊るされた幾つもの魔道灯が、星空を切り取ったような淡い光を降らせ、磨き上げられた床には着飾った生徒たちの姿が万華鏡のように映り込んでいた。壁際に並べられた長卓には色鮮やかな料理や果実水が隙間なく並べられ、一角で奏でられる楽団の穏やかな調べに合わせて、すでに何組かの男女が楽しげに踊っている。
レティシアもまた、今夜のために仕立てられた礼装に身を包んでいた。
燃えるような赤髪は丁寧に結い上げられ、宝石を散らした髪飾りが魔道灯の光を受けて瞬いている。身に纏う深紅のドレスは、華やかでありながら過度な装飾を避けた、洗練された意匠だ。細く絞られた腰から流れるように広がる裾が、歩くたびに静かな波を作る。
そしてその胸元には、成績優良者として表彰された証である銀の記章が、誇らしげに輝いていた。
「レティシア様、この度はおめでとうございます」
「ありがとうございます」
「まさか、突如現れたコアキーパーを討伐なさるなんて。さすがはグランヴェル公爵家の御令嬢ですわ」
声をかけてきたのは、確かレティシアと同じ学年の侯爵令嬢だった。
予科の入学当初、礼法の授業でほんの数度言葉を交わしたきりの相手である。婚約破棄の一件以降は、廊下で擦れ違っても目を伏せて通り過ぎていた令嬢が、今夜は満面の笑みを浮かべて祝辞を述べている。
あのダンジョンには出現しないはずの魔物、その上位個体をレティシアが討伐したという報せはすでに学園中へ広まっているらしい。
「私一人の功績ではございません。優秀な使い魔の助力があってこその結果です」
「あら、そんなご謙遜を。あの上位個体を相手に、中級の炎槍を完成させたとお聞きしましたわ。本当に素晴らしいご活躍で、わたくし、感動してしまって」
侯爵令嬢の隣に控える二人の取り巻きも、揃って熱心に頷いている。
レティシアは完璧な笑みで応じながら、内心では冷ややかに観察していた。
この令嬢たちは、ほんの一月前まで、レティシアと擦れ違うときに小さく囁き交わしていた。
『あの方が』
『ええ、王太子殿下と』
『お可哀想に』
同情の体裁を取った嘲笑であることを、レティシアは聞き取れぬほど鈍くはなかった。
その同じ口が、今は祝辞を述べている。
好奇心と、関係を繋ぎ直しておこうという打算が、その目の奥に張りついていた。
貴族社会とは、そういう場所だ。
理解しているからこそ、彼女は完璧な笑みで応じることができた。今さら彼らを責める気はない。だが、忘れるつもりもなかった。
祝辞を述べていた令嬢たちが、また別の輪へと去っていく。
レティシアは小さく息を吐き、無意識に講堂の入口へ視線を向けた。
そこに、待っている者の姿はない。
ラングリッドも出席すると聞いていた。怪我の回復は驚くほど早く、短時間ならば歩き回れるまでになっているという。それでも、あれほどの重傷を負ったばかりである。彼が来るとしても、しばし遅れるのは当然のことだった。
「遅いですわね」
小さく呟き、レティシアは慌てて口を引き結んだ。
別に、彼が来るのを待っているわけではない。使い魔が主人の表彰式に同行するのは当然のことで、その所在を気にかけるのも、召喚主としての責務に過ぎない。
そう自分に言い聞かせた時、講堂の入口付近の空気が、俄かに変わった。
「王太子殿下がお見えになりました」
会場係を務める教師の声が響き渡る。楽団の演奏が一度止まり、生徒たちが一斉に入口へと身体を向けた。
レティシアの背筋が、無意識のうちに固くなる。
大講堂へ足を踏み入れたのは、一組の男女だった。
王家の色である青と金を基調とした正装を纏い、堂々と歩く若い男。アルヴェリア王国の王太子であり、かつてレティシアの婚約者であった人物、フェリクス・フォン・アルヴェリアである。
そして、その腕に寄り添うようにして歩くのは、柔らかな蜂蜜色の髪を持つ小柄な少女だった。淡い桃色のドレスに身を包み、周囲へ愛らしい笑みを振りまいている。あの男爵家の令嬢、リリアーナ・フォン・メルトである。
今さら、王太子に未練などない。
しかしどうにも苦い物を感じてしまうのは、目を背け続けていた過去が、否応なく形を持って眼前に現れたことへの抵抗感からか。
レティシアと王太子の婚約は、幼い頃に家同士の合意によって結ばれたものだった。王国最高位の公爵家に生まれた令嬢と、未来の国王。政治的には、これ以上ないほど釣り合いの取れた縁談である。
幼い頃の王太子は、決して悪い少年ではなかった。礼儀正しく、穏やかで、人に強く当たることを嫌う優しさを持っていた。
だが、優しいことと、王になる覚悟を持つことは、決定的に違う。
王太子は争いを嫌い、厳しい決断を避け、皆が納得する答えばかりを探そうとした。しかし国を治める者が、すべての者を満足させることなど不可能だ。時には一方を切り捨て、己が憎まれると知りながら、決断しなければならない瞬間がある。
レティシアは、未来の王妃として、そのことを何度も彼へ伝えた。耳に心地よい言葉ではなく、必要な言葉を選んだ。愛らしい婚約者ではなかっただろうが、それが王太子の妻となる者の務めだと、彼女は信じていた。
そんな二人の間へ、あの男爵令嬢は現れた。
彼女はレティシアとは正反対に、いつも柔らかく笑い、王太子の言葉を否定しなかった。
自分を否定せず、責務を突きつけず、ただ苦労を理解して寄り添ってくれる少女。
王太子が求めているのは、共に王国を背負う者ではなく、疲れた時に優しく慰めてくれる者なのだと、レティシアもとうに気づいてはいた。
だが、だからといって、未来の国父と国母となるべき者が、ただ甘やかされ甘やかすだけの関係に逃げ込むことを、王太子妃候補として座視できようはずもなかった。
その歪んだ関係を放置できず、レティシアは度々その男爵令嬢を呼び止めては、厳しく問いかけた。
王妃として、時にその重責を背負う覚悟が貴女にあるのか、と。
気品を欠いた所作、分を弁えぬ不調法な礼節を含め、厳格にその資質を質した。国を背負う立場へ就こうとする者へ、最善を求めての忠告であった。
ただ──その問いかけの奥に、自分が積み上げてきた場所を奪われることへの、ほんの僅かな動揺が、なかったと言い切れるだろうか。
レティシアは、今でもそれに答えを出せずにいる。
あの時の自分の問いかけは、すべて職責としての正論であったと信じている。だが、完全に私心がなかったかと問われれば、彼女は俯くしかなかった。
冷静であろうとして、冷静さの仮面で必死に押さえ込んでいた何かが、確かに自分の中にもあった。それを認めることが、彼女には今もできない。
ともあれ、彼女なりの責任感から発した忠告は、ただの『悪意あるいじめ』として男爵令嬢の反感を買い、王太子の怒りを誘う結果にしかならなかった。
忘れもしない、一年前の夜会の日。
王太子は男爵令嬢を庇うようにレティシアを睨みつけ、衆人環視の中で冷酷に《婚約破棄》を宣告したのだ。
曰く、嫉妬に狂って可憐な少女を虐げた、気位の高い傲慢な公爵令嬢。
事実とはあまりにも異なる汚名。否定し、王太子の王としての資質の甘さを、その場で糾弾することもできた。
だが、これ以上の醜聞を晒せば、ただでさえ揺らいでいる王太子の威信に致命的な傷がつく。未来の国王の評判を完全に貶めるわけにはいかないという、グランヴェル公爵家の娘としての最後の理性が、彼女の口を噤ませた。
己がすべての泥を被り、悪役となることで場が収まるのなら、それでよい。
そう思って耐え忍んだ結果、同級生たちは彼女から一斉に離れていった。進級試験でパーティを組む者すら、一人も残らなくなるほどに。
「レティシア様」
甘やかな声に、意識が現在へ引き戻される。
いつの間にか、王太子と男爵令嬢が、レティシアの目の前まで歩み寄っていた。彼女は即座に表情を整え、優雅に一礼する。
「王太子殿下におかれましては、ご機嫌麗しゅうございます」
「ああ。レティシアも、元気そうで何よりだ」
王太子の声は穏やかだった。
だが、その目はレティシアを真っ直ぐに見ようとはせず、ほんの一瞬だけ視線を合わせると、すぐに彼女の胸元の銀の記章へと逃げるように移された。
その所作には、わずかな決まり悪さが滲んでいた。もっとも、それが後悔によるものなのか、単なる気まずさに過ぎないのか、レティシアには分からない。
婚約破棄の一件以来、彼が公の場でレティシアと言葉を交わすのは、おそらくこれが初めてである。その胸中に何か揺らぐものがあるとしても、彼がそれを表に出すことはないだろう。
だからこそ、その視線はレティシアの顔ではなく、胸元の記章へと向けられていた。
「進級試験に合格したそうだな。それも、成績優良者として表彰されると聞いた」
「はい。身に余る評価を賜りました」
「身に余るだなんて、とんでもありませんわ」
王太子の隣で、男爵令嬢が朗らかに笑った。
「本当に驚きましたもの。レティシア様は実技がお不得手だと、皆様から伺っておりましたから」
「……そうですか」
「ですから、先日のお話を聞いた時には、本当に信じられない思いでしたのよ。特別な召喚魔法でお喚びになった使い魔が、それはもう、お強い方だとか」
柔らかな口調と、無邪気な笑顔。
一見すれば、純粋に感心しているようにしか聞こえない。
だが、その言葉の奥に潜む意図を、レティシアが聞き違えるはずもなかった。
──不得手だったはずの貴女が突如として結果を出せたのは、優秀な使い魔のおかげに違いない。
そう、暗に告げているのだ。
それが計算ずくなのか、それとも本人にそこまでの自覚はないのか。男爵令嬢の表情からは、どちらとも判じがたい。蜂蜜色の睫毛の奥で、淡い色の瞳がほんの僅かに揺らいだ気がしたが、それも一瞬のことで、すぐに愛らしい笑みに戻っていた。
「使い魔の力も、召喚主の才の一つとして評価されるのではないのか」
王太子が、僅かに男爵令嬢を窘めるように言った。
「もちろん存じておりますわ、殿下。ただ、あれほど強力な上位個体と渡り合える使い魔を連れているのであれば、試験も随分と容易だったのではないかと思いまして」
男爵令嬢は申し訳なさそうに眉を下げた。
「ご不快にさせてしまったのなら、申し訳ありません。レティシア様ほどの御方でしたら、使い魔のお力を借りずとも、きっと合格なさっていたのでしょうね」
周囲の空気が、わずかに張り詰めた。
近くにいた生徒たちは会話を続けるふりをしながら、明らかにこちらへ意識を向けている。先ほどまでレティシアを取り囲んでいた侯爵令嬢たちまでが、酒杯を傾けるふりをして、こちらの様子を窺っているのが視界の端に見えた。
レティシアは、ドレスの裾を握り締めそうになる指を、寸前で止めた。
怒りに任せて言い返すことは簡単だ。
だが、あの戦いの最後に核を撃ち抜いたのは、紛れもなくレティシア自身の炎槍だった。たとえそこにラングリッドの加護が無意識に流れ込んでいたとしても、最後の引き金を引いたのは自分である。
そして同時に、彼女は知っていた。
ラングリッドがいなければ、自分はあの場まで辿り着けなかった。だが、自分がいなければ、彼もまたあの魔物に決定打を与えられなかった。
二人で掴んだ勝利を、誰かに軽んじられる謂れはない。
「いいえ」
レティシアは顔を上げ、赤い瞳で正面の少女を真っ直ぐに見据えた。
「あれは、どちらか一人の功績ではありませんわ。彼の力か、私の力かという話では──」
「これは異なことを仰る」
低く、よく通る男の声が、レティシアの言葉を静かに遮った。
大講堂の空気が、一変した。
入口の方角から、ざわめきが波のように広がっていく。立ち話をしていた生徒たちが、果実水を傾けていた来賓が、ひとり、またひとりと振り返り、やがて会場全体の視線が、その一点へと吸い寄せられていく。
その声を、レティシアが聞き違えるはずがなかった。
弾かれたように振り向く。
そして、息を呑んだ。
いつもの無骨な探索服でも、学園から借りた簡素な衣服でもない。
漆黒を基調とした礼装には、銀糸で控えめな意匠が施されている。広い肩と鍛え抜かれた体躯に合わせて仕立てられた上着は、驚くほどよく似合っていた。
だが、何よりも周囲の視線を釘付けにしたのは、彼の片肩から流れるように纏われた、豪奢な外套であった。
そこに金糸で鮮やかに刺繍されていたのは、三つの紋章。
伝説の世界樹と、それを守護するように聳える城壁を描いた、彼の祖国──グローバウム王国の国章。
掲げられた盾の前で、剣と槍とが交差する、彼がその功績によって叙されたエシュタール子爵家の家紋。
そして、その二つと並んで中央に最も誇り高く刻まれていたのは、深紅の盾に、胸へ炎を宿した金翼の獅子。他でもない、グランヴェル公爵家の家紋であった。
……まさか。
レティシアの胸の奥で、何かが大きく揺らいだ。
あの家紋は、グランヴェルに連なる者か、公爵家が正式に認めた者にしか身につけることを許されない。それを彼が纏っているということは──父か、姉か、誰かが、彼を《グランヴェル家に連なる者》として認めたということに他ならない。
いつ、誰が、どこで。
レティシアは何も知らされていない。だが、その紋章は確かに、誰かが彼にそれを許した結果として、そこにあった。
異世界の騎士としての誇りと、レティシアの使い魔としての誓い。そのすべてを同時に背負うと無言で宣言するような、あまりにも見事な装束だった。
今日まで彼は、救護室で絶対安静を命じられていたはずだった。レティシアにとっても実に数日ぶりの再会となるが、その歩みに負傷の影や弱々しさは、微塵も感じられない。
歴戦の騎士。
かつて一国において、騎士の中の騎士と称えられた男。
ラングリッド・ラントブルグ・フォン・エシュタール、その人であった。
彼が歩くたびに、人の波が自然と左右へ割れていく。
ラングリッドはレティシアのもとまで来ると、王太子へ礼を失さぬ流麗な一礼をしてみせた。
「お初にお目にかかります、王太子殿下。ラングリッド・ラントブルグ・フォン・エシュタールと申します。現在は、こちらのレティシア・フォン・グランヴェル嬢の使い魔を務めております」
そして、レティシアの半歩前へ出た。
完全に庇うのではない。彼女の姿を隠さず、かといって一人で矢面にも立たせない。ダンジョンの暗闇の中で、彼女が幾度も見た、彼だけの立ち位置だった。
「先ほど、随分と興味深いお話が耳に入りまして」
ラングリッドは穏やかに笑った。
だが、その瞳には、戦場で敵将を見据えていた時と同じ、静かな鋭さが宿っている。
「どうやら、あの戦いが私一人の功績であるかのようにお考えらしい」
男爵令嬢の愛らしい笑みが、僅かに固まった。
ラングリッドは、そんな彼女から王太子へ、そして周囲を取り囲む生徒たちへと、静かに視線を巡らせる。
会場のざわめきが、いつしか完全に消えていた。
誰もが、次に紡がれる言葉を待っている。
「それは、私に対する過大評価であり──」
一度言葉を切り、彼は隣に立つレティシアを見た。
春の陽だまりのように、深く、温かな眼差しだった。
「私の主人に対する、甚だしい過小評価だ」
多分次話が第一章の最終話になります!