若返った老騎士、落ちこぼれ公爵令嬢の使い魔になる 作:ですわお嬢様スキー
繁忙期で屍になっております……。
さて置き、第二章開幕です!!!
プロローグ
「ふん、ふふん、ふん」
学園の広大な中庭。その一角に植えられた庭木を剪定しながら、珍妙な調子の鼻歌を口ずさむ男が一人。
見た目は二十代半ばほどの青年である。しかし、その立ち居振る舞いから漂うのは、幾多の死線を潜り抜けた老練な武人の風格だった。
男の名は、ラングリッド・ラントブルグ・フォン・エシュタール。
異世界から召喚された公爵令嬢の使い魔であり、先日の記念パーティでは王太子を前にして一歩も引かなかったことで、今や学園中の噂となっている人物である。
もっとも、今の姿には王太子と渡り合った騎士の威厳など欠片もない。袖を肘までまくり上げ、剪定鋏を片手に、上機嫌で枝を落としている。
その何とも言い難い絵面に、通りかかった生徒が足を止めた。遠巻きにしばらく様子を窺っていたが、関わらぬが賢明と判断したのだろう。目を合わせないまま、足早に立ち去っていく。
「……何をしておりますの?」
背後から、聞き慣れた声がした。
「おお、レティシア嬢か。ご機嫌麗しゅう」
「貴方こそ、随分とご機嫌ですわね」
「いやなに。こうして草木に触れるのも、なかなか良いものだと気づいてな」
言いながら、他よりも大きく飛び出していた枝を根元から切り落とす。
足場から降りて数歩下がり、庭木全体を眺めてから、ラングリッドは満足げに一つ頷いた。
長く生きてきたが、庭仕事はまるで経験がなかった。領主であった頃も、庭の手入れは専門の者へ任せきりである。だが、いざ自分でやってみると、これがなかなか奥深い。
どの枝を残し、どれを落とすか。一つ違えれば見栄えが崩れるだけでなく、翌年の花付きや実りにまで響くのだという。教わるほどに、知らぬことばかりが増えていく。
「勝手に切って、庭師に怒られませんの?」
「もちろん許可はもらっているとも。道具の扱いから枝の見極め方まで、色々と教えてもらっている」
「そ、そうでしたの」
酒はともかく、煙草はレティシアに見つかるたびに小言をもらう。そこで新しい楽しみでも探そうと学園内をぶらついていたところ、偶然出会った庭師に手ほどきを受け、こうして庭仕事へ行き着いたのである。
「何を渋い顔で見ておる?」
「健全ではあるのですが、何と申しますか……」
「ふむ?」
レティシアは庭木とラングリッドを見比べ、わずかに首を傾げた。
「じじくさいですわね」
「む。そういう偏見は良くないぞ、レティシア嬢」
「趣味そのものではなく、貴方がしていると、ですわよ。若い姿なのに庭木を眺めて満足そうに頷いているところを見ると……ああ、本当に中身はおじいちゃんなのだと感じますの」
「……そこはかとなく馬鹿にしておるか?」
「あと、鼻歌がとても下手ですわ」
「言ってくれるではないか……!」
ラングリッドが眉を寄せると、レティシアは勝ち誇ったように小さく笑った。
「それで、わざわざ私をからかいに来たのかね?」
「違いますわ。貴方を探していたのです」
そう言って、レティシアは手にしていた一通の手紙を持ち上げた。封蝋には、炎を胸に宿した翼獅子──グランヴェル公爵家の家紋が刻まれている。
「お父様から返書が届きましたの」
「ほう」
「春季休暇の間は学園の寮を離れ、王都の公爵邸で過ごすようにとのことですわ」
口調は平静そのものだった。だが、笑みの端がわずかに強張っている。
「随分と緊張しているようだな」
「当然ですわ。わざわざ戻るよう命じられたのですもの。お叱りを受ける以外に、理由が思い当たりませんわ」
「胸を張って言うことではないと思うがなぁ」
「もう、開き直るほかありませんもの」
レティシアは手紙へ視線を落とした。
「お姉様も、今は王都邸に滞在しているそうですわ」
「姉君も王都にいるのか」
「ええ。領内の春以降の方針について、お父様と相談するためにいらしたそうです」
「確か、姉君が領地の実務を取り仕切っているのだったか」
「はい。お父様の承認を仰ぎながらではありますが、領内の実務の多くはお姉様が担っております。いずれグランヴェル家を継がれる方ですもの」
「なるほど。随分と優秀な方なのだな」
「ええ。私の自慢のお姉様ですわ」
迷いのない答えだった。だが、次の瞬間には、その表情が再び曇る。
「そして、私が無断で召喚魔法を使ったことも、すでにご存じです」
「なるほどなぁ」
父と姉の双方に知られている以上、もはや観念するほかあるまい。ラングリッドは思わず苦笑した。
「それで、王都邸へ移るのはいつなのだ?」
「明日ですわ」
レティシアは顔を上げ、当然のことのように告げた。
「貴方も一緒に来ていただきますわよ」
「おや、私も行ってよいのかな?」
「私の正式な使い魔なのですから、当然でしょう。それに、お父様もお姉様も、貴方に直接会いたいと仰っております」
「ふむ」
ラングリッドは顎に手を当てた。
召喚されて以来、世話になった者は数え切れない。中でも、記念パーティのために用意されたあの黒い外套には、失われた祖国とエシュタール家の紋章が、丁寧な刺繍で寸分違わず再現されていた。その隣には、グランヴェル公爵家の家紋まで刻まれている。
あれが公爵家の意向によるものならば、一度直接会って礼を伝えたい。かねてよりそう考えていたところだった。
「ちょうどよい。外套の礼も申し上げねばならんしな。それも含めて、一度ご挨拶しておきたかったのだ」
「あら、殊勝な心がけですわね」
満足そうに頷くレティシアを横目に、ラングリッドは剪定鋏の刃を布で拭った。
明日には、彼女の家族と顔を合わせることになるらしい。
七十年を生き、王の御前にも幾度となく立った身である。今更、貴族の一人や二人に臆する道理はない。
道理はないのだが──と、布を動かす手がわずかに止まった。柄にもない、と胸の内で苦笑する。どうやら自分は、少しばかり緊張しているらしかった。
*
翌日の昼前。
学園の正門前には、グランヴェル公爵家から遣わされた一台の馬車が待っていた。
装飾は控えめだが、磨き上げられた黒い車体も、二頭の馬の毛並みも、一目で上等と分かる。扉には小さく、翼獅子の家紋が刻まれていた。
「レティシアお嬢様。お迎えに上がりました」
馬車の脇に控えていた男が、流れるような所作で一礼する。
年の頃は六十代半ばほど。黒の執事服を一分の乱れもなく着こなし、その佇まいには、長く貴族家に仕えてきた者だけが持つ静かな落ち着きがあった。
武を修めた気配はない。だが、視線の配り方には隙がなかった。荷の量、馬の脚、主人の顔色。必要なものを必要なだけ見て、そのどれも表には出さない。人を見ることに慣れた者の目だ、とラングリッドは思った。
「ご苦労様です、ハロルド」
「お久しゅうございます、お嬢様」
ハロルドと呼ばれた執事は顔を上げると、ほんの少しだけ目元を和らげた。
「ご無事のお姿を拝見でき、何よりでございます」
「……心配をかけましたわね」
「私どものことなどお気になさらず。旦那様とエレオノーラお嬢様へ、お元気なお顔をお見せくださいませ」
それを聞いたレティシアの笑みが、わずかに引き攣った。どうやら名を聞かされるだけでも効き目があるらしい。
ラングリッドが密かに笑っていると、ハロルドの視線がこちらへ向いた。
「そして、貴方様がエシュタール様でございますね」
「いかにも。ラングリッド・ラントブルグ・フォン・エシュタールと申す。しばらく世話になる」
「旦那様より、丁重にお迎えするよう申しつかっております」
ハロルドは改めて深く頭を下げた。
「お嬢様がお世話になったこと、私からも御礼申し上げます」
「礼をいただくには、少々早いと思うがね。正式な使い魔となった以上、これからも君たちのお嬢様には振り回される予定なのでな」
「誰が誰を振り回しておりますの?」
すぐ横から抗議が飛んできた。
ハロルドは一瞬だけ目を丸くし、それから口元にごく薄い笑みを浮かべた。
「どうぞ、お乗りくださいませ」
先にレティシアが乗り込み、続いてラングリッドが向かいの席へ腰を下ろすと、扉が静かに閉じられた。
ハロルドが御者台の隣へ移り、ほどなくして馬車は緩やかに動き出す。石畳を踏む車輪の振動が、座面越しに伝わってきた。
王都は広い。
学園のある北区画から、王城や高位貴族の邸宅が集まる中央区画までは、同じ王都の中とはいえ、それなりの距離があるという。
考えてみれば、学園の敷地の外へ出るのはこれが初めてだ。
ラングリッドは窓枠に肘を預け、流れていく昼前の王都を眺めた。
露店の主が声を張り上げ、その隣を荷車を押す男たちが列をなして通り過ぎていく。母親に手を引かれた子供が、菓子屋の店先を名残惜しそうに何度も振り返っていた。井戸端では、洗濯物を干す手を止めた老婆が、隣家の女と何やら熱心に話し込んでいる。
ふと、串焼きを売る露店が目に留まった。
店番の女が竈の中へ気軽に指を向けると、その指先に小さな火が灯り、そのまま炭へと移る。詠唱らしい詠唱もなければ、魔法陣を描く手間もない。火打石を鳴らすのと変わらぬ気安さだった。
彼の故郷にも魔術はあった。だが、あれは周囲の力を借り受け、形を整え、順を追って初めて成るものだ。少なくとも、串焼き屋の女が竈に火を入れるために使うようなものではなかった。
「便利なものだな」
「何がですの?」
「この国の魔法が、だ」
レティシアは窓の外を一瞥し、なんでもないことのように答えた。
「初級であれば、才のある者なら子供でも扱えますもの」
「ふむ。その才とやらは、誰にでも宿るものではないのだったな」
「ええ。ですが、街で暮らす分には珍しいものでもありません」
「なるほど。私の故郷では、そうはいかなかった」
「あら」
「魔術師というのは、もっと勿体ぶった連中でな。火の一つ熾すにも、あれこれと支度が要ったものだ」
それを聞いたレティシアは、少しだけ目を見開いた。
「では、貴方の世界では、皆どうやって火を熾しておりましたの?」
「火打石だ。あるいは、火種を絶やさぬよう誰かが番をする」
「まぁ、不便ですのね」
「不便だとも。だが、不便であればこそ、火の一つも有り難くなる」
道は広く、人も荷車も多い割に、大きな滞りがない。要所には衛兵の姿もあり、それでいて人々が彼らを恐れて道を避けるような様子もなかった。
細かな事情までは分からない。それでも、表から見る限りはよく治められている。かつて領地を預かった者として、それだけでも素直に好ましかった。
「平和なものだなぁ」
「ええ。王都は大陸でも有数の栄えた都市ですもの」
レティシアもまた、窓の外へ視線を向ける。
「お気に召しました?」
「うむ。良い街だ」
かつての祖国の面影を探そうとして、ラングリッドは途中でやめた。似ているところを数え上げれば、似ていないところの方がよほど目につく。ここの人々は、彼の知る王都の民よりも幾分か声が大きく、そして足取りが軽かった。
「休暇中、暇があれば案内してもらえるかね?」
「構いませんわ」
「ほう」
「ただし」
「うむ?」
「酒場巡りはいたしません」
「まだ何も言っておらんのだが?」
「どうせ考えておりましたでしょう?」
「……なかなか主人らしくなってきたではないか」
行動を読まれるようになったのは、喜ぶべきか嘆くべきか。ラングリッドが大仰に考え込む素振りを見せると、レティシアが小さく笑った。
だが、その笑みも、馬車が中央区画へ近づくにつれて少しずつ薄れていった。
雑多な賑わいが遠のき、高い塀に囲まれた邸宅の並ぶ静かな通りへと入っていく。人通りが減るのに合わせるように、レティシアの背筋がこわばっていった。
膝の上に置かれた両手が、いつの間にかドレスの生地を摘んでいる。
「レティシア嬢」
「……何ですの?」
「腹は減っていないか」
「は?」
あまりに唐突だったのだろう。レティシアが呆気に取られた顔でこちらを見た。
「緊張している時こそ、飯は食っておいた方がよいぞ。朝食はちゃんと食べたのかね?」
「……喉を通りませんでしたわ」
「それは良くない。人間、腹が減っていると気まで滅入ってくるものだ。昼食はしっかり食べたまえ」
「これから戦へ向かうわけではございませんのよ」
「私にとっては、戦より厄介そうな顔をしておるがな」
「誰のせいだと思って……」
そこまで言って、レティシアは小さく息を吐いた。いくらか肩の力が抜けたらしい。
「……最後にお父様とゆっくりお話ししたのは、婚約を破棄された少し後でしたわ」
ぽつりと落とされた言葉に、ラングリッドは何も返さず、続きを待った。
「あの時、お父様は私を叱りませんでした。慰めてもくださいませんでした。ただ一言……『無理をするな』と」
「ふむ」
「それだけでしたの」
レティシアの視線は、窓の外へ向けられたままだった。
「私は、それが少し怖かったのですわ」
「怖い?」
「叱られる方が、まだよかった。何も仰らないのは……もう私に期待していないからなのではないかと」
最後の言葉は、ひどく小さかった。
ラングリッドは顎を撫でた。
親になった経験はない。生涯独身で、子も持たなかった男が、父親の胸中を知ったような口を利くつもりはなかった。
「さてなぁ」
「……否定してくださらないのですの?」
「君の父上に会ったこともない私が、知ったようなことを言う方が無責任だろう」
レティシアが少し不満そうにこちらを見る。ラングリッドは笑った。
「ただ」
「ただ?」
「どうでもよい娘なら、わざわざ家へ呼んで顔を見て話そうとはせんのではないかね」
レティシアの瞳が、わずかに揺れた。
「書状一枚で叱ることもできる。学園へ任せることもできる。それでも君を呼んだのだろう?」
「……ええ」
「ならば少なくとも、君の父上には君と向き合うつもりがある。そこから先は、実際に会って確かめればよい」
ラングリッドは窓の外へ目を戻した。
「悪い方へ決めつけるのは、家族相手には少し寂しいだろう」
「そう……ですわね」
しばらくして、レティシアが小さく笑った。
「貴方、本当に説教くさいですわ」
「七十年も生きれば、自然とそうなる」
「それで全部済ませるつもりでしょう?」
「年の功という言葉は実に便利でな」
「認めましたわね」
「おっと」
ラングリッドが口を押さえると、レティシアが吹き出した。
その笑い声に重なるように、御者台の方から何かを誤魔化すような咳払いが聞こえてくる。
「……ハロルド?」
「失礼いたしました、お嬢様」
わずかに開いた仕切り窓の向こうで、ハロルドが頭を下げている。だが、その声には微かな笑いが混じっていた。
「差し出がましいことを申し上げますが、お嬢様がそのように声を立ててお笑いになるところを、久方ぶりに拝見いたしました」
「……っ」
今度はレティシアが言葉に詰まる番だった。
「旦那様も、エレオノーラお嬢様も、ずっとお嬢様を案じておられました。今のお姿をご覧になれば、きっとお喜びになるでしょう」
静かな言葉だった。だが、そこには長く仕えてきた者にしか出せない温度がある。
レティシアは何か答えようとして、結局それを呑み込んだ。わずかに頬を染め、窓の外へ顔を向ける。
ラングリッドは、その横顔を見て口元を緩めた。
この従者が彼女を大切に思っていることくらいは、短いやり取りだけでも十分に伝わってきた。
「そうだ、ハロルド殿」
「はい、エシュタール様」
「レティシア嬢の幼い頃の話を聞かせてもらえぬかな」
「ちょっと!?」
レティシアが勢いよく振り返る。
「叱られに向かう道中だ。少しでも明るい話題があった方がよかろう」
「私の昔話を娯楽にしないでくださいませ!」
「幼い頃のお嬢様でございますか」
レティシアの抗議を華麗に躱し、ハロルドは少し考えたあと、悪びれる様子もなく口を開いた。
「それでしたら、エレオノーラお嬢様の後を追ってばかりいらした頃のお話など」
「ハロルド!」
「ほう。詳しく」
「ラングリッド!」
どうやら主人から名前で怒鳴られる程度には、距離が縮まったらしい。ラングリッドは愉快そうに笑った。
「お姉様のお姿が見えなくなりますと、それはもう大変でございました。お屋敷中の者が総出で探しに出たことも、一度や二度ではございません」
「……もう結構ですわ」
「初めて火の魔法を成功なさった日のことも、忘れられません。庭師にも、厨房の者にも、馬番にまで火を灯してご覧に入れておいででした」
「ハロルド!」
「それはもう、誇らしげでいらっしゃいましたよ」
「その話はやめてくださいませ!」
なるほど、とラングリッドは思う。
姉の背を追いかけ、掌に灯したばかりの火を誰彼構わず見せたがっていた娘が、今は自分の隣で炎の槍を放つまでになったわけだ。
「……もう、お二人とも嫌いですわ」
顔を赤くして窓の外へ向いた声には、さほど本気がこもっていない。その証拠に、口元には僅かな笑みが残っていた。
そうして他愛のない話を交わしているうちに、馬車の速度がゆっくりと落ち始めた。
「そろそろでございます」
ハロルドの声に、レティシアが窓の外へ目を向ける。ラングリッドもその視線を追った。
高い塀の向こうに、白い石造りの館が見えていた。
深紅の屋根が春の日差しを跳ね返し、広く取られた前庭には、季節の花が惜しげもなく咲いている。そして正門の上に据えられているのは、炎を胸に抱く翼獅子。
グランヴェル公爵家、王都邸。
名門に相応しい威容ではあったが、華美さを誇示する類のものではない。長い年月をかけて磨き上げられた重厚さが、建物そのものから静かに滲み出ていた。
門が開き、馬車が前庭へ入る。
道の両脇に植えられた庭木へ目をやり、ラングリッドは思わず感心の声を漏らした。
「これは見事だ」
「……この状況で、まず見るところが庭木なのですの?」
「良い仕事をしておるぞ。枝を落としすぎず、それでいて内側まで光が入っている」
「すっかり庭師の目になっておりますわね」
「あとでぜひ話を聞いてみたいものだ」
「まずは私の家族にご挨拶くださいませ」
「無論、忘れてはおらんよ」
ラングリッドは笑ったが、レティシアから返事はなかった。
見れば、彼女は膝の上で両手を固く組んでいる。先ほどまで昔話を暴露されて赤くなっていた顔から、笑みが消えていた。
「レティシア嬢」
「分かっておりますわ」
彼が何を言うより先に、レティシアが小さく答えた。
「逃げません」
「うむ」
それで十分だった。ラングリッドは、それ以上何も言わなかった。
誰かに立ち向かう時、背中を押してやることはできる。隣に立ってやることもできる。だが、最後の一歩を踏み出すのは、いつでも本人でなければならない。
馬車が館の正面へ近づいていく。
レティシアは一度だけ大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出すと、顔を上げた。
「……着きましたわね」
「うむ」
「ラングリッド」
「何だね?」
「傍に、いてくださいますわよね?」
「もちろんだとも」
「……ありがとうございます」
先ほどまでの強張りが、ほんの少しだけ和らいだように見えた。
「では、参ろうか。我が主」
馬車が、広い車寄せの前で静かに止まる。ハロルドが御者台を降りて扉を開けると、ラングリッドが先に地面へ降り、続いてレティシアが差し出されたその手を取って王都邸の土を踏んだ。
その時、ラングリッドは、館の正面へ続く石段の上に二つの人影が立っていることに気づいた。
一人は、五十前後の壮年の男。
深紅の髪には白いものが混じり、仕立てのよい上着を隙なく着こなしている。背筋は真っ直ぐに伸び、ただ立っているだけで、長く人の上に立ってきた者の重みが伝わってきた。
隣に立つのは、二十代半ばほどの若い女性だった。
レティシアとよく似た赤い長髪を緩やかに結い、穏やかな微笑みを浮かべている。柔らかな印象の女性ではあったが、その佇まいには、ただ庇護されるだけの令嬢とは異なる落ち着きがあった。
二人の容貌には、隣に立つ少女と重なる面影があった。
「お父様……お姉様」
そう呼びかけたレティシアの声は、ほんの僅かに震えていた。
壮年の男──グランヴェル公爵アーヴィングは、何も言わずに娘を見つめていた。その表情から胸の内を読み取ることは、ラングリッドにも難しい。
一方、隣に立つエレオノーラは、妹の姿を認めるなり、ふわりと相好を崩した。
「お帰りなさい、レティシア」
春の日差しのような、柔らかな声だった。
レティシアの肩が、僅かに揺れた。
ラングリッドは胸へ拳を当て、二人へ静かに一礼する。
叱責が待っているのか、感謝が待っているのか。あるいは、その両方か。それはまだ分からない。
ただ一つ──ここが少女にとって、恐れるだけの場所ではないことくらいは、今の一言だけで十分に分かった。
グランヴェル公爵家での、半月の日々が始まる。
絶対にエタりませんので……!
コツコツ更新できるように頑張ります!!!