櫛田の中学に転校した 作:スクラップドラゴン
放課後。賑わう校舎から離れ、人気のない特別棟の裏手。桜の木陰に隠れるようにして、俺と櫛田は約束通り堀北鈴音と落ち合った。
堀北は腕を組み、相変わらずの鋭い視線を俺たちに向けてくる。その佇まいは凛としているが、隠しきれない苛立ちを孕んでいた。
「……用って何かしら、水野くん。私はこれから学校側に向かわなければならないの。Dクラスに私が配属されたことについて、何らかのミスが無かったかを確かめるためにね」
彼女は本気でそう信じている。自分が最底辺のDクラスに落とされたのは、学校側の集計エラーか何かに違いないと。
俺は彼女の目をまっすぐに見つめ、まずはその言葉に深く同調した。
「ああ、その気持ちはよく分かる。学校側のミスだと思いたくなるのも当然だし、俺から見ても『今の堀北』は、絶対にDクラスなんかじゃない。そこに関しては俺も完全に同調するよ」
「……ええ。私の能力がDクラス相当なはずがないわ」
俺の言葉に、堀北の頑なな表情がほんの少しだけ和らぐ。だが、俺はすかさず真剣なトーンで言葉を続けた。
「能力だけ見たら、堀北はAクラスでも間違いなく上位だ。先日の小テストだって90点だったんだろ? Aクラスにだって60点台の奴がいるんだからな。学校側の査定には、中学初期のまだ尖っていた頃のお前の印象が引きずられているんだと思う。今の少し軟化した堀北なら、Bクラスくらいには引っ掛かる。……ただな、だからこそ俺は、お前がこのまま社会に出た時のことが心配なんだよ」
「社会に出た時……? どういう意味かしら。私は自分の力で完璧に成果を出せるわ」
納得がいかないように眉をひそめる堀北に、隣にいた櫛田が小首を傾げながら、絶妙なニュアンスで言葉を挟んだ。
「う〜ん、成る程ね〜。私もね、もし自分がクラス分けの担当だったら、鈴音ちゃんの配属クラスは凄く迷うと思う。能力は完璧だもん。……でもね、確かに将来のことを考えると『Dクラス』に置かれちゃう意味も、なんとなく分かっちゃうな〜」
櫛田の物言いに、堀北は小さく疑問符を浮かべる。俺は彼女のコミュ力の低さ――他人を見下し、突き放すような悪癖については、プライドを無駄に刺激しないよう敢えて伏せながら、具体的な例え話をすることにした。
「堀北、お前個人としての業務遂行能力は本物だ。もし普通の会社に入社すれば、平社員の中ではトップクラスに仕事が出来る有能な社員になると思う。当然、会社からも高く評価されて、やがて『係長に昇格しないか』と話が来るはずだ」
「……ええ。至極当然の評価ね」
「問題はそこからだ」
俺は言葉を区切り、一歩前に出た。
「係長という管理職になったら、上からの命令を遵守するだけじゃなく、自分の下に『部下』が出来る。その際、世の中には無能な部下や要領の悪い奴だっている。だが、そいつらに文句を言うんじゃなく、上手く長所を見つけて仕事を分担させて、チームを回さなきゃいけない。当然、部下からは色んなことを質問されるだろう」
「……」
「そうなった時に、お前が今のように必要以上に厳しい口調で、冷たく突き放すような話し方をすれば、どうなるか分かるか?」
問いかけられた堀北は、唇を真一文字に結んだまま、答えることができなかった。
「……部下たちは精神的にキツすぎて、次々と会社を辞めてしまう可能性が高い。そうなると、会社はお前をどう評価する? 『仕事は出来るが、人の上に立つ器じゃない』。お前が原因でチームが崩壊すれば、当然お前は管理責任を問われるんだ。そしてまた平社員に戻されて、二度と昇格のチャンスは回ってこない。俺はお前の能力を認めているからこそ、そんな風に挫折する姿が目に見えて心配なんだよ」
「そんなことが……」
「まあ、俺もただの高校生だから、あくまで想像での話だけどな」
俺が肩をすくめると、堀北は完全に考え込んでしまった。自分の未来に待ち受けるかもしれない致命的な壁。それを今、突きつけられたのだから。
「堀北の持つ能力の高さゆえに、いつか必ずそういう壁にぶち当たる。この学校の『Dクラス』っていう評価は、そういう将来の欠点(リスク)を先回りして指摘している意味かもしれない。まあ、それにしても初期値として下げ過ぎな気はするがな」
「……」
無言で俯く堀北に、俺はさらに踏み込んだ現実を突きつける。
「要はさ、堀北はお前自身の能力は満点なんだから、少し周りに優しく接するだけで、それだけで一発でAクラスに相応しい人間になれるんだよ。能力の心配は一切ない。
……だがな、あの荒れ果てたDクラスの環境で、人を育てるような管理職の仕事を一人で練習するのは、流石に難易度が高すぎるだろう?」
「難易度が、高すぎる……?」
堀北が怪訝そうに視線を上げてくる。俺は頷き、彼女の身を案じるようにトーンを落とした。
「ああ。風の噂で聞いた限りだと、今のDクラスの人間は真面目に勉強もしないし、感情的で暴力的な奴までいるらしい。そんな荒くれ者たちを相手に、お前が正論をぶつけたところで逆効果だ。それどころか、逆恨みされてお前が肉体的にも精神的にも傷つけられないかが、俺は本気で心配なんだよ」
俺の言葉を引き継ぐように、櫛田が両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、怯えるような表情で身を乗り出した。
「そうだよ、鈴音ちゃん! 私、女子の友達から聞いたんだけど……男子の水泳の授業のとき、女子の胸のサイズがどうとかって、勝手に賭け事をして盛り上がってたDクラスの男子たちがいたんだって……。本当に最低だし、信じられないよね。あんな野蛮で下品な人たち相手に、鈴音ちゃんが一人で勉強を教えたり関わったりするなんて、絶対に何かされそうで怖いよ……! だから、Dクラスで無理して頑張るのなんて、絶対にやめておいた方が良いと思うな」
櫛田の真に迫った軽蔑と心配の言葉(実際にはDクラス男子の下劣さを強調して堀北の嫌悪感を煽る誘導でもあるが)を聞き、堀北の瞳に明確な動揺と、強い不快感が走った。
いくら気が強くて孤高を気取る堀北とはいえ、まだ入学したばかりの女子高生だ。そんな最低な不届き者たちが同じ教室にいて、しかも彼らに自分が関わらなければならないリスク、あるいは何か標的にされるかもしれない実害を想像し、背筋に冷たいものが走ったのだろう。露骨に眉をひそめ、嫌悪感を隠しきれていない。
俺はそんな彼女に、優しく、しかし抗えない『蜘蛛の糸』を差し出す。
「安心しろ。中間試験が終わる頃には、俺の手元に、堀北をお前個人ごとAクラスに直接引き抜けるだけの『プライベートポイント』が手に入る算段がある。だから……そんな危険で不衛生な場所に長居せず、Aクラスに入ってから、俺たちと一緒に頑張らないか?」
国からのドローン開発報酬。天文学的なポイントがあれば、一人の生徒のクラス移籍など造作もない。
俺と櫛田の波状攻撃のような説得を聞き、堀北は長い睫毛を揺らしながら、静かに床を見つめた。
「……少し、考えさせて貰っても構わないかしら……」
消え入りそうな声で、しかし明確に拒絶ではない言葉が彼女の口から零れ落ちる。
「分かった。でも、俺たちはいつでも歓迎するからな。ただ、それまでの間、Dクラスで危ないことだけはするなよ」
「……分かったわ」
それだけ言うと、堀北は踵を返し、どこか足取りを重くしながら特別棟の陰から去っていった。
彼女の背中が見えなくなったのを見届けると、隣でずっと様子を窺っていた櫛田が、ふぅ、と息を吐いて俺の顔を覗き込んできた。
「ねえ、陽斗君。あれで良かったの?」
「多分、問題無いと思う。……ちょっと、今後の展開次第では堀北の身が危険に晒されるかもしれないけどな」
原作の冷徹なシナリオ、そしてDクラスを待ち受ける試練。
俺はポケットの中のスマホを弄びながら、不敵に目を細めた。少し危ない橋だが、堀北鈴音という駒をAクラスに引き入れるための布石は、これで確実に打たれた。
水野くんと櫛田さんとの密会を終え、私は一人、特別棟の裏手から職員室へと続く渡り廊下を歩いていた。
私の胸の中は、未だかつてないほどの激しい迷いと困惑で乱されていた。
私は最底辺のDクラスに配属された。それは学校側の手違いか、あるいは何らかの集計ミスの類に違いない。本気でそう信じて疑わなかった私に対し、水野くんは私の『能力』に関しては明確に肯定してくれた。先日の小テストで90点を取った実績を含め、Aクラスの上位にも匹敵すると。
けれど、彼は同時にこう言ったのだ。
今の私には、性格や他者への接し方に問題があると。だからこそ学校側は、私の過去の尖っていた部分を査定してDクラスに落としたのだと。
「……性格に問題がある、ですって? 心外極まりないわ」
小さく呟いた声は、人気のない廊下に虚しく響くだけだった。
納得が行ったかどうかと言われれば、当然、不愉快極まりない。私は私として正論を述べているだけで、周囲の無能な人間が勝手に傷ついているだけなのだから。
けれど――確かに、彼らの言うことにも一理あるような気がしてしまった。
水野くんが例え話として挙げた、将来の会社組織での私自身の姿。有能な平社員として評価されながらも、人の上に立つ管理職になった途端、無能な部下を切り捨ててチームを崩壊させ、再び失脚する未来。
(確かに……私のやり方では、そうなってしまうかもしれない)
冷徹な現実が、私の傲慢を鋭く突き刺す。私は個人の力で完璧であればそれでいいと思っていた。けれど、社会という仕組み、そしてこの『クラス全体の連帯責任』を強いる高度育成高等学校という歪な箱庭において、個の強さだけでは近い将来、絶対に壁にぶち当たる。
職員室のドアが、すぐ目の前に迫っていた。
茶柱先生の元へ行き、クラス分けの不当性を理路整然と抗議しよう――そう決意していた私の足が、完全に止まる。
ふと、私の脳裏を最愛の「兄さん」の姿が過った。
この学校の生徒会長を務める、厳格で完璧な、私の憧れのすべて。
(……私は、今のままの私で、兄さんに会いに行っていいのかしら)
もし水野くんたちの指摘が正しいのだとすれば。今の私の視野の狭さ、他者を切り捨てる傲慢さを兄さんに見透かされたら。
私は間違いなく、軽蔑され、冷たく突き放されるだけだ。
「そんなの……嫌よ……」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。
もし兄さんに冷たく拒絶されたら、私は二度と立ち直れないかもしれない。その恐怖が、私の足をどうしても前に進ませなかった。
私は、ゆっくりと踵を返した。
職員室に行くのは、今ではない。後にすることにした。
水野くんは、中間試験が終わる頃に大金(プライベートポイント)で私をAクラスへ引き抜くと言ってくれた。嬉しくないと言えば嘘になる。彼と櫛田さんのいる、あるべき上位の環境へ行けるのなら、それが一番の近道かもしれない。
けれど、私のプライドが、ただ救い上げられるだけの存在になることを拒絶していた。
私は水野くんの言う通りに、まずはこのDクラスという場所で、クラスの皆に『優しく』接してみることに決めた。
……正直に言えば、あんな真面目に勉強もしない無能なクラスメイトたちに優しくするなんて死んでも嫌だけれど、これも一つの試練だ。彼らに不器用ながらも勉強を教えてあげる。そうすれば、私に足りないと指摘された「何か」が、兄さんに認められるための答えが、分かるのかも知れない。
「DクラスをAクラスに上げる……。水野くんの力を借りずとも、私自身の力で、このクラスを押し上げてみせるわ」
拳を強く握りしめ、私は心の中で静かに、しかし熱く誓った。
兄さんに追いつくために。水野くんに「やはりお前はAクラスに相応しい」と認めさせるために。
――けれど、この時の私は、あまりにも無知で、傲慢で、何も分かっていなかった。
自分がこれから関わろうとしている、Dクラスという底辺の人間たちの、想像を絶する民度の酷さを。彼らの勉強に対する意欲の低さを。そして、水泳の授業の裏で女子の体型をネタに賭け事をするような、人としての下劣さを。
それは、かつて歴史上で強大な軍事力を誇ったドイツ国が、広大なロシアの台地へと侵攻した際、ソビエト連邦という怪物の本当の底不気味さと恐ろしさを何一つ知らなかったかのような、致命的な戦略ミスだった。
水野くんの忠告の真意を、本当の意味で理解せぬまま、自ら地獄の戦線へと志願してしまった私。
私は中間試験までの残り一ヶ月、精神を限界まで切り刻まれるような、人生で最も不快で、辛く苦しい、終わりの見えない超長期の消耗戦を強いられることになるのだった。