櫛田の中学に転校した 作:スクラップドラゴン
結局兄さんには会いに行かなかった。
水野くんと櫛田さんからの忠告を胸に抱いたまま、私は平田くんから提案された『中間試験のための勉強会』に参加することにした。
不本意、という言葉すら生温い。本来の私であれば、他人を巻き込むなど時間の無駄だと一蹴していただろう。けれど、水野くんが残した「社会に出た時に必ず壁にぶち当たる」という言葉が、私の不器用なプライドをどうしても縛り付けていた。
一度は引き返したはずの茨の道。
私はこの目で、この耳で、Dクラスという泥濘の底を確かめる必要があったのだ。
放課後の教室、いくつかの机を寄せただけの急ごしらえの勉強会。
ふと視線を向けると、私の隣の席の住人である綾小路清隆くんが、帰るでもなくその場に残っていた。けれど彼は、誰かに何かを教わるわけでもなく、ただ平田くんや私の様子を、感情の読めない瞳でじっと眺めているだけだった。
入学してからの一ヶ月、彼とは名前を教え合う程度しか会話を交わしていない。
当然だ。私には、彼のような存在に割くべき興味など一欠片も持ち合わせていない。私が興味を抱き、私の視界に入ることを許されるのは、唯一無二の憧れである兄さん。そして、私を真っ向から評価し、引き抜くとまで言ってくれたAクラスの水野くんと、彼の隣で微笑む櫛田さんだけなのだから。
「……何か用かしら、綾小路くん」
時折、彼が思い出したように脈絡のない話しかけ方をしてくるため、私は最低限の礼儀として、取り敢えず言葉を返してはあげていた。この一ヶ月で、彼がどこか世間知らずで、掴みどころのない性質であることだけは理解していた。ただの、無害で平凡な背景の一コマ。それが私の中の彼の評価だった。
そんなことよりも、私の目の前には、より現実的で、より凄惨な問題が転がっていた。
平田くんによって私に割り当てられたのは、篠原さつきさんと佐藤麻耶さん、そして森寧々さんの三人。
「――だから、この公式の因数分解は、あらかじめ基礎的な展開を理解していれば……」
私は私なりに、極めて真剣に、噛み砕いて説明をしているつもりだった。森さんは辛うじてノートにペンを走らせていたけれど、問題は残りの二人だ。
「ねえねえ平田く~ん、この問題ってさぁ?」
「あ、私もそこ聞きたかった! 平田くん、教えてよ!」
篠原さんと佐藤さんは、私の説明など右から左へと完全に聞き流し、視線も意識も、すべて中心にいる平田くんの方ばかりに向けていた。色めき立った声を上げ、勉強の場をただの社交場か何かと勘違いしている。
(……この、愚か者たちが)
手元の小テストの結果を見れば、二人の点数は揃って50点以下。平均点にすら遠く及ばない、文字通りの『赤点予備軍』だ。あまりにも基礎の緩すぎる、義務教育の敗北とすら言えるその解答用紙の惨状に、私の脳の奥が怒りでジリジリと焼け焦げそうになる。
なぜ、こんな低レベルな、理解しようという意志すら希薄な人間たちのために、私の貴重な時間を割かなければならないのか。
凄まじい苛立ちが胸の内で渦を巻く。しかもタチの悪いことに、この二人は危機感を持って本腰を入れることすらしていないのだ。平田くんの気を引くための道具として、勉強会という免罪符を利用しているに過ぎない。
私は、口を完全に閉ざした。
無言のまま、冷徹極まりない視線で、へらへらと笑う篠原さんと佐藤さんの二人をただじっと見据えた。
私の喉元まで、Dクラスの民度を木っ端微塵に全否定するような、容赦のない本音の罵倒がせり上がってきていた。それを、本当にギリギリのところで踏みとどまらせ、言葉として吐き出さなかったことだけは、今の自分を褒めてあげたかった。ここで私が感情に任せて正論の刃を振るえば、彼らは一瞬で敵に回り、水野くんの言った『泥沼』が即座に完成してしまう。
(水野くん……あなたの言う通りだわ。このクラスの人間は、あまりにも……)
冷たい沈黙を保ちながら、私は自分の選択を激しく後悔し始めていた。
優しく教える? 長所を見つける? 冗談ではないわ、と思ってしまった私は頭を振る。感情に流されては駄目、落ち着かなければ、私は無能な彼女達に勉強を教えなければならないのだ。
…でも、こうも思う。人としての最低限の知性も敬意も持ち合わせていない野生の獣たちを相手に、私がどれほど神経をすり減らさなければならないのか。
私はまだ、Dクラスという地獄の本当の底を知らなかった。
中間試験という最終防衛線に向けて、私はこの下劣で怠惰な人間たちを抱えながら、精神を文字通り限界まで摩耗させる、辛く苦しい一ヶ月の消耗戦へと、本格的に引きずり込まれていくのだった。
そんな地獄のような勉強会の最中、私の制服のポケットでスマートフォンが小刻みに震えた。
平田くんたちの目を盗んで画面を開くと、そこに表示されていたのは、私の現状を完璧に見透かしているかのような水野くんからの短いメッセージだった。
『Dクラスは大丈夫か? 聞いた限りだと相当荒れているみたいだけど。……一言言っておくが、最初からまともに勉強する気がない奴にまで、お前がわざわざ貴重な時間を割いて教える必要はないと思うぞ。あまり無理はするなよ』
さらに追い打ちをかけるように、櫛田さんからも通知が届いていた。
『お疲れ様、鈴音ちゃん元気? 私たちAクラスの勉強会は、陽斗くんが用意してくれた演習問題のおかげで、ある程度順調だよ♪ 鈴音ちゃんも困ったことがあったら、いつでも言ってね!』
画面から溢れ出る二人の余裕と、私を純粋に案じる言葉。それらを受け取った瞬間、私の顔がこれ以上ないほど苦虫を噛み潰したような表情に歪むのが、自分でもよく分かった。
一方は完璧な教材を手に順風満帆な航海を続けており、もう一方は泥濘の底で溺れかけている。この圧倒的な環境の差。それでも彼らの言葉が私の頑なな心を微かに支えてくれたのは事実だけれど、今の私の置かれた状況とのギャップが、ただただ惨めだった。
私は小さく息を吐き、チラリとこの勉強会のメンバーを観察した。
見渡す限り、平田くん以外は女子ばかりだ。男子生徒たちの姿はどこにもない。聞けば、クラスの男子たちは人気者の平田くんを勝手に嫉妬し、嫌って、この勉強会を完全にボイコットしているらしい。そして、私の隣に座る綾小路くんは、相変わらず何もせず、ただ他人事のようにこちらを見ているだけ。
「えっと……なんだっけ、堀北さん。ここ、もう一回教えてほしいんだけどー」
私の思考を遮るように、佐藤さんが悪びれもせずに声をかけてきた。
それは、私がこの一時間の間に、すでに数回は繰り返し説明したはずの基礎的な部分だった。信じられない。彼女たちの脳細胞は一体どういう構造をしているのかしら。
私は酷く疲れた気分になりながらも、水野くんの『無理をするな』という言葉を思い出し、ギリギリのところで感情を殺して、取り敢えずもう一度教えることにした。
これだけ時間を費やしているというのに、まだテスト範囲の最初の方の、さらにその基礎すら終わっていない。篠原さんも佐藤さんも、本音を言えば私の冷徹な授業など受けたくはなく、優しくて格好いい平田くんに教わりたいのだろう。何も言わずにノートを見つめている森さんも、おそらく内面では同じ気持ちに違いない。
(本当に……時間の無駄だわ……)
精神がゴリゴリと削られるような時間がようやく過ぎ去り、今日の勉強会が終わりを迎えた。鞄をまとめ、一刻も早くこの淀んだ空気から解放されようと席を立った私に、平田くんが申し訳なさそうな表情を浮かべて近づいてきた。
「堀北さん、お疲れ様。……実は、少し頼みたいことがあるんだ」
「何かしら」
私が足を止めると、平田くんは声を潜め、今回の小テストで最も点数が低かった三人の名前を口にした。
「池くん、山内くん、そして須藤くんの三人なんだけど……彼らを、僕たちの勉強会に誘ってくれないかい?」
「……私が、彼らを?」
あまりの突飛な提案に、私は眉をひそめた。なぜ女子である私に、あのクラスで最も素行が悪く、私を毛嫌いしている男子三人の説得を任せるのか。
これ以上、この平田くんの生温い勉強会に出席し続けたところで、私個人にとっては何の意味もないことはすでに分かっていた。彼らのレベルに付き合っていたら、私の勉強時間まで奪われてしまう。
けれど、あの三人が中間試験で赤点を取って退学にでもなれば、Dクラスのクラスポイントは永久に『ゼロ』のままであることも、また明確な事実だった。
嫌だけれど、ここで私が投げ出したら、私は永遠に兄さんの背中に追いつくことすらできない。Aクラスに行く資格がないと、水野くんに落胆されてしまう。どんなに泥水をすするような思いをしようと、今は頑張らなければならないのだ。
「……分かったわ。明日、私から彼らに声をかけてみる」
「本当かい? ありがとう、堀北さん。助かるよ」
彼らの救済を引き受ける承諾をした私は、「明日誘うわ」とだけ言って、平田くんと別れた。
校舎を出て、沈みゆく夕日を浴びながら歩を進める。
明日私が対峙しなければならないのは、Dクラスの怠惰と下劣さを凝縮したようなあの三人組だ。水野くんのくれた警告が、まるで不吉な予言のように私の脳裏で何度もリフレインしていた。
翌日。私は平田くんとの約束通り、意を決してクラス最底辺の三人組――須藤くん、池くん、山内くんの勧誘へと向かった。
だが、私の覚悟は最初から最悪の形で打ち砕かれることになる。
「勉強会だぁ? ふざけんな、俺は部活があるんだよ。そんな暇ねえ」
最初に声を荒らげたのは須藤くんだった。彼はバスケットボールを小脇に抱え、私を忌々しげに睨みつける。私は水野くんの忠告を必死に思い出し、トゲを引っ込め、出来る限りの正論で食い下がった。
「待ちなさい、須藤くん。今回の中間試験で赤点を取れば、あなたはこの学校を退学になるのよ? そうなれば、大好きなバスケを続けることすら出来なくなる。それが分かって――」
「るっせえな!! お前に関係ねえだろ、余計なお世話なんだよ!」
怒号と共に床を強く蹴り、須藤くんは教室を去ってしまった。話が通じない。対話のテーブルにすら着こうとしない野生の獣。残されたのは、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべてこちらを見ている池くんと山内くんの二人だけだった。
(……一人、落としてしまったわ。けれど、残る二人だけでも、何としてでも赤点を回避させなければ……!)
私は嫌悪感を押し殺し、努めて冷静な声を出して二人へ声をかけた。
「池くん、山内くん。あなたたちも、このままだと退学は免れないわ。私で良ければ、基礎から教えるけれど……どうかしら」
「え? マジ? 堀北ちゃんが教えてくれんの? 行く行くー!」
「俺も行くわ! 堀北ちゃん直々の家庭教師とか最高じゃん」
顔を見合わせて、予想以上に快く誘いに乗ってきた二人に、私は一瞬だけ安堵した。それが、単なる不純な動機に基づくものであるとも知らずに。
放課後。私の机の周りに二人を座らせ、勉強会を開始した。
「まずはこの公式から。中学レベルの基礎だけれど、ここが分かっていないと……」
私は丁寧に順を追って解説していく。けれど、彼らは一向にノートにペンを走らせようとはしなかった。
(……な、何なの、この視線は……)
背筋に、不快な寒気が走る。
二人は教科書など一切見ていなかった。ただひたすらに、勉強とは無関係な興味本位の眼差しで私を眺め、ニヤニヤと品のない笑みを浮かべている。
あまりの集中力のなさと、そこに込められた無遠慮な視線に、私の脳は拒絶反応を起こし、こちらまでまともな思考が維持できなくなっていく。
「あー、全然分かんねえわ。なぁ堀北ちゃん、そんな固いこと言ってないでさ、今から俺たちとどっか遊びに行こうぜ〜」
山内くんが椅子をガタリと鳴らして立ち上がった。あろうことか、馴れ馴れしく私の肩を組もうと、土足で踏み込んでくるかのような距離まで詰め寄ってきた。
「っ……! 触らないで欲しいのだけれど!!」
私は鳥肌が立つのを感じながら、反射的に椅子を蹴立てて席を立ち、大きく後方へと飛び退いた。
「えー、そんな冷たいこと言うなよ。少くらいいいじゃんかさ〜」
池くんも同調して立ち上がり、私を困らせることを楽しむかのように薄笑いを浮かべる。
不気味。ただただ、理解不能。
視界の端では、平田くんの周りに集まっていた女子たちが、池くんと山内くんを侮蔑と嫌悪の目を向けて見ていた。けれど、彼女たちも巻き込まれるのを恐れて誰も声を上げない。
そして――クラスのまとめ役であるはずの平田くんは、女子たちの対応に追われているのか、あるいはこの異常な空気に困惑したのか、こちらに気付きながらも助けの手を差し伸べようとはしてくれなかった。
綾小路くんの席を振り返る。けれど、そこには誰もいなかった。この非効率極まりない勉強会に、初めから意味を感じていなかったのだろう。彼は今日、終業のチャイムが鳴ると同時に、早々に帰宅してしまっていた。
(……誰も、いない)
一人は最初から参加すらしてくれない。
目の前にいる二人は、勉強する気など一欠片もないどころか、私に対してあからさまに不誠実で下劣な興味を向け、距離を詰めようと迫ってくる。
これでは勉強会どころではない。ただの不毛な時間だ。
クラスの人間は、歩み寄れば応えてくれるような、そんな単純な存在ではなかった。対話の通じない拒絶か、あるいはルールを解さない自分勝手な振る舞い。
引き返そうにも、私一人の力ではもうどうすることも出来ない。
迫り来る中間試験。赤点=退学のタイムリミット。
逃げ場のない焦燥感の中で、私はただ一人、次にどう動けばいいのか、その答えを完全に失って立ち尽くしていた。
私は結局、その日、それ以上の指導を全て投げ出して逃げるように帰ってしまった。
池くんたちのあの卑しい笑い声が、廊下にまで追いかけてくるような錯覚に囚われながら、足早に寄宿舎の自室へと引きこもった。
お湯を沸かす気力すら湧かない。
制服のままベッドに倒れ込み、薄暗い天井を見つめていると、手元のスマートフォンが続けて二回、微かに震えた。
『鈴音ちゃん、今日の勉強会は大丈夫だった? もし大変なことがあったら、いつでも話してね』
『堀北、ちゃんと帰れたか? 例の三人組を誘うって平田から聞いた。あいつらは常識が通じる相手じゃない。無理をしてお前が傷ついていないか心配だ』
私の惨めな現状を、あらかじめ予見していたかのような二人の言葉。
私は、震える指先で『問題ないわ、心配いらない』とだけ、嘘で固めた短い返信を送り、端末をベッドに放り出した。
嘘をつきながら、今日の出来事が脳裏を何度も、何度も残酷にリフレインする。
(誰も……私の話なんて、ちゃんと聞いてくれないじゃない……)
実感した。そして、認めざるを得なかった。
このDクラスという最底辺の泥濘には、私の言葉を、私の正論を、真摯に受け止めてくれる人間など最初から一人も存在しないのだ。
ただ歩み寄ろうとしただけで、暴言を吐かれ、拒絶され、挙句の果てには下品な目線で泥を塗られる。
本当に……なんという惨めな気分かしら。
私は今まで、どんな環境でも自分一人で完璧にこなしてきたはずだった。それなのに、この学校に来て、Dクラスという檻に入れられた途端、有象無象の凡人どもに足を引きずられ、まともに対話することすらできない。
(これでは……こんな無様な姿では、兄さんは絶対に私を認めてくれない……!)
最愛の兄、堀北学。あの完璧な背中が、今の私を見たら一体どんな視線を向けるだろう。
「やはりお前はDクラス相当の無能だ」と、冷酷に言い放たれる未来が、すぐそこまで迫っている。
胸の奥が、張り裂けそうなほどの焦燥感と絶望で満たされていく。
水野くんの忠告は正しかった。私は、己の力を過信して、地獄の作戦へ自ら飛び込み、そして無残に敗北したのだ。
「私は……これから、どうすればいいのかしら……」
静まり返った自室で、私は膝を抱え、ただ一人ぽつりと呟いた。
自力でクラスを上げるという傲慢な誓いは、脆くも崩れ去った。中間試験までのタイムリミットが刻一刻と迫る中、私は暗闇の中で、完全に立ち往生していた。