櫛田の中学に転校した 作:スクラップドラゴン
あの日、俺がクラスメイトたちの前に立ち塞がった事件は、始業のチャイムが鳴り響いたことで、ひとまずは幕を閉じた。
担任の教師が教室に入ってきたことで暴徒たちの熱は無理やり冷まされ、彼らは忌々しげに俺と櫛田から視線を外して、それぞれの席へと戻っていった。
しかし、それが根本的な解決になっていないことなど、誰の目にも明らかだった。
表面上の静寂の裏で、クラスメイトたちの胸に燻るドス黒い悪意は消えるどころか、さらに深く、陰湿なものへと変質していった。
次の日から、教室の空気は完全に一変した。
かつてクラスの中心にいて、太陽のように万人から愛されていた櫛田桔梗は、今や見る影もない。彼女が教室を歩けば、周囲の生徒たちはまるで汚物でも避けるかのように露骨に距離を取り、クスクスと品性のない嘲笑を浮かべてヒソヒソ話を始める。
完全に組織化された、凄惨な孤立。
そんな地獄のような空間の中で、俺だけは、何一つ変わらない態度で彼女に接し続けた。
「おはよう、櫛田さん。今日の数学のプリント、もう配られてるよ」
「あ……うん。ありがとう、水野くん……」
朝、俺がいつものように声をかけると、櫛田は痛々しいほど弱々しい、今にも消え入ってしまいそうな笑みを浮かべた。あの爛漫だった仮面はひび割れ、彼女の精神が限界の淵に立っていることが、そのやつれた横顔から痛いほど伝わってくる。
今の彼女が、その胸の内で何を考えているのか、俺には正確には分からない。
自分の裏の顔(ブログ)をバラした犯人を呪っているのか。それとも、自分をこんな目に遭わせたクラスメイト全員を、今すぐにでも道連れにして破滅させてやろうと、原作のような学級崩壊の毒を脳内で組み立てている最中なのか。
だが、彼女の内心がどうであれ、俺がやるべきことは一つだけだった。
俺は彼女の隣の席に寄り添い、周囲に聞こえるような明確なトーンで、何度も、何度も、彼女の存在を肯定し続けた。
「櫛田さんは悪くない。悪いのは、たかがネットの書き込み一つで、これまでの恩を全部忘れて手のひらを返すような、あの身勝手な連中だ」
「……でも、私、みんなに酷いことを書いちゃったから……」
「関係ないさ。人間なんだから本音も愚痴もあるのは当然だ。お前にすべてを押し付けて、愚痴のゴミ箱にしていたアイツらの方がよっぽど悪質だよ。だから、気にする必要なんて一切ない」
俺の言葉が、彼女の心に届いているのかは分からなかった。効果があるのかどうかすら、判然としない。
けれど、その狂信的とも言える俺の「全肯定」の付き添いのおかげか、彼女はまだ、原作で起こしたような『クラス全員の秘密をその場で大暴露する』という、最悪の学級崩壊の引き金を引いてはいなかった。
彼女はただ、嵐の中で息を潜めるように、不気味なほどの沈黙を保っている。まるで、暴発寸前の爆弾が、導火線の手前でギリギリの均衡を保っているかのように。
俺は、彼女が物理的に誰かから襲われたり、危害を加えられたりしないよう、学校生活のあらゆる場面で彼女の傍を離れなかった。国家防衛のドローンを作成する天才としての頭脳も、数億円の資産も、今はすべて彼女を無傷で守るための盾として機能させていた。
――しかし、悪意というものは、こちらの防壁の隙間を縫うようにして、最も陰湿な形で形を成す。
ある日の朝。いつものように登校してきた櫛田が、下駄箱の前で凍りついたように立ち尽くしていた。
俺が怪訝に思って近づくと、彼女の指定された下駄箱の中は、ぽっかりと空になっ
上履きが、消えていた。
「……あはは。そっか……今度は、これなんだね」
櫛田は乾いた笑い声を漏らした。その瞳からは、ついに一切の感情の光が消え失せようとしていた。周囲では、登校してきた生徒たちが、その様子を遠巻きに見ながら、満足そうにクスクスと笑い合っている。
胸の奥から、冷徹な怒りが沸き起こるのを感じた。
だが、ここで周囲の有象無象を殴り倒したところで、上履きが戻ってくるわけではない。俺は感情を押し殺し、自分のカバンから予備として持っていた来客用のスリッパを取り出して彼女に差し出した。
「これを使って。……大丈夫だ、俺が必ず見つけてくるから」
「……うん。ありがとう、水野くん」
その日は、櫛田は終始スリッパで過ごすことになった。授業中も、移動教室の時も、彼女の足元からはパタパタと情けない音が響く。その音が鳴るたびに、クラスの連中が勝ち誇ったような視線を向けるのが、心底不愉快だった。
そして、昼休み。
お弁当を食べる気力すらなさそうな櫛田を促し、俺は彼女を連れて、人気のない体育館の裏手へと向かった。
スリッパのまま外を歩く櫛田は、怪訝そうな、それでいてどこか投げやりな瞳で俺を見つめている。
「水野くん……こんな誰もいないところに連れてきて、どうするの……?」
「上履きを隠した犯人を特定するのもいいが、まずは現物を見つける。櫛田さん、ちょっとこれを見てて」
俺は衣服のポケットから、自作の超小型偵察ドローン――防衛省に提示したプロトタイプの技術を応用した、手のひらサイズの高性能機を取り出した。
スマートフォンの画面をタップすると、シュィィン、と信じられないほど静かで精密な駆動音を立てて、ドローンが空中へと舞い上がった。光学ステルスモードをONにしているため、またたく間に背景に溶け込み、肉眼ではほぼ視認できないレベルで陽炎のように揺らめきながら、校舎の周囲を高速で索敵していく。
「え……? なに、それ……」
櫛田が小さく息を呑んだ。彼女の目の前で、中学生が持っているはずのない、明らかにオーバーテクノロジーな兵器じみた機械が躍動している。俺の手元にある画面には、ドローンが捉えた高解像度の赤外線およびサーモグラフィの映像がリアルタイムで送られていた。
「周辺環境の広域スキャンを終了。……あったぞ」
画面をズームし、俺はそれを櫛田に見せた。
映し出されていたのは、今まさに俺たちが隣に立っている、体育館の最も高くて素人には手が届かない、反り返った屋根の上の隙間だった。そこに、薄汚れた上履きが転がっている。梯子でも持ってこなければ絶対に回収できない、悪意に満ちた場所だ。
「体育館の屋根の上……? そんなところ、どうやって……先生を呼んでこないと無理だよ……!」
櫛田が絶望を滲ませて呟く。だが、俺はスマホをポケットにしまうと、不敵に笑ってみせた。
「先生なんて呼んだら騒ぎになるし、あいつらの思う壺だ。――そこで見てて」
俺は深く息を吸い込み、限界まで肉体のバネを圧縮した。
見上げるほどの高さにある、体育館の非常階段と、そのさらに上にある雨樋の突起。
ドンッ! と、地面を爆発させるような勢いで跳躍する。
「えっ――!?」
櫛田の短い悲鳴が響く。
常人の限界を遥かに超えたその跳躍は、まるで重力を振り切るかのように、俺の身体を垂直に数メートル上空へと押し上げた。
空中、目一杯に腕を伸ばし、体育館の壁面にある鉄製フレームをガシッと掴む。そのまま驚異的な腕力だけで己の身体を引き揚げ、しなやかな動作で体育館の屋根の上へと這い上がった。
下を見下ろすと、櫛田が地上で、開いた口が塞がらないといった様子で呆然と俺を見上げている。
俺は屋根の傾斜を滑るように進み、排水溝の窪みに転がっていた、薄汚れた上履きを拾い上げた。サイドにマジックで『櫛田』と書かれたそれをしっかりと掴み、再び静かに、しなやかな着地で彼女の目の前へと舞い戻った。
すとん、と軽い音を立てて着地した俺の手には、あの消えた上履きがあった。少し埃を被っていたが、大きな傷はない。
「はい、お待たせ」
俺は彼女の前に、回収した上履きを差し出した。
櫛田は、差し出された上履きと、目の前に立っている俺の顔を、何度も何度も交互に見つめていた。その瞳は、言葉にできないほどの驚愕と、圧倒的な非日常を見せつけられたことによる畏怖で小刻みに震えている。
「水野くん……あなた、本当に……何者なの……?」
誰も気づかないような超小型ドローンを操り、人間とは思えない身体能力で建物を駆け上がる。そのチートなスペックの片鱗を目の当たりにした彼女の前に、俺は静かに歩み寄り、彼女の前に膝をつくようにして視線を合わせた。
そして、心の底からの謝罪を、絞り出すようにして彼女に伝えた。
「ごめんな、櫛田さん……。俺のせいで、こんな陰湿なことに巻き込んでしまって、本当に申し訳ない」
「え……? 水野くんのせいじゃ……」
「いや、俺のせいだ」
俺は彼女の言葉を遮り、その華奢な両肩を、壊れ物を扱うかのように優しく、だが決して逃がさない強さで掴んだ。
「俺がもっと早く、周りの悪意に気づいて手を打っていれば、君にこんなスリッパで過ごさせるような屈辱を味わわせずに済んだんだ。全部、君の傍にいながら無力だった俺の責任だ。……でも、約束する」
俺は彼女の、恐怖と混乱に小さく震える瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「俺が、ちゃんと最後まで責任を取るから。君を傷つけるすべてのものから、俺の命に代えても守り抜く。だから――これが全部終わったら、お前の気が済むまで、俺をどうしたっていい。殴るなり、この力を使って利用するなり、好きにしてくれ」
それは、決して俺の優しさではない。超常的な技術と肉体、そして裏の顔を知った上で、彼女のドス黒い部分も含めてすべてを買い取るという、チート転生者としての、狂気的なまでの『全肯定の誓い』だった。
俺の言葉を聞いた瞬間、櫛田桔梗の身体が、ビクリと大きく跳ね上がった。
いつもなら、ここで上手な嘘をついて「そんなことないよ♪」と笑うはずの彼女。だが、今の彼女には、そんな嘘の仮面を被る余裕すら残されていなかった。
裏の顔がバレて全員から拒絶された自分を、圧倒的な力と知略を持った怪物が、理由も分からず、ここまで盲目的に、狂信的に愛し、守ろうとしている。
「水野、君……」
櫛田は、声を震わせながら、掠れた声でそう呟いた。
その大きな瞳から、ぽろぽろと、大粒の涙が零れ落ち、俺が掴んでいる彼女の制服の肩を濡らしていく。
世界から見捨てられた魔女が、人知を超えた自分だけの「騎士」を見つけたかのような――そんな決定的な瞬間が、昼下がりの体育館裏を静かに満たしていった。