バスの揺れに身を任せながら、俺は窓の外をぼんやり眺めていた。
朝靄の残る街並みを、バスは一定の速度で進んでいく。 時間が早いせいか車内はかなり空いていて、エンジン音だけが静かに耳に残る。
周囲を軽く見渡してみても、高度育成高等学校の制服を着ている人間は見当たらない。
「まぁ、そりゃそうか」
入学式にはまだかなり早い時間だ。 わざわざこんな時間帯に乗る物好きなんて、そうそういない。
いや――。
原作知識を持ってる転生者なら、むしろ“あのシーン”を見たがるかもしれない。
綾小路清隆と、 堀北鈴音の最初の会話。
櫛田桔梗の愛想の良さ。
そして――。
高円寺六助とOL女性のやり取り。
原作ファンなら「生で見たい」と思う名場面だ。
だが――。
「別に興味ないんだよな」
俺は小さく呟く。
正直、イベント回収みたいな感覚は無かった。
ここはもう“アニメの世界”じゃない。
現実だ。
失敗すれば本当に退学する。
人間関係を間違えれば人生が狂う。
だから俺は、“原作の名シーンを見る”ことより、自分がどう生き残るかの方が重要だった。
それに――。
「ジロジロ見て、不審がられる方が面倒だしな」
もし綾小路や堀北を見つけて、「本物だ……」なんて反応をしたら終わる。
観察しているつもりが、逆に観察される。
特に綾小路は危険だ。
あいつは、人の視線や違和感に異常なほど敏感な気がする。
だからこそ、俺は決めている。
関わりすぎない。
――そう、決めていたのだ。
「あ」
不意に、バスが停車する。
開いた扉から、一人の少女が乗り込んできた。
長い黒髪。 鋭い目つき。 どこか他人を寄せ付けない空気。
……堀北鈴音だった。
「……は?」
思わず、心の中で間抜けな声が漏れた。
何でこんな時間に堀北鈴音が乗って来るんだよ……!
写真と原作で見慣れていたはずなのに、実際に目の前へ現れると破壊力が違いすぎる。
マジで心の準備が出来てねぇ。
俺の心臓は、バクバクと嫌になるほど暴れ回っていた。
ゆっくりと通路を歩いてくる堀北。 ただ普通に歩いているだけだというのに、その瞬間だけ車内の空気が変わったように感じる。
長く綺麗な黒髪。 凛とした横顔。 近寄りがたい雰囲気すら、逆に魅力になっている。
……いや、待て待て。
「可愛すぎだろ……」
危うく声に出しかけ、慌てて口を押さえた。
堀北はそんな俺を一瞬だけチラリと見た。
それだけ。
ただ視線が一度交わっただけなのに、俺の脳みそは軽く爆発しかける。
そのまま堀北は何事もなかったように前の席へ座った。
だが、俺はもう駄目だった。
落ち着かない。
視線を向けちゃダメだと思うのに、気付けば見てしまう。
横顔が綺麗すぎる。 姿勢も綺麗。 髪を耳に掛ける仕草すら絵になる。
原作知識とか、Dクラスの危険性とか、そんなものが頭から吹き飛びかける。
「……もう堀北の奴隷でもいいかもしれん」
いや良くない。
良くないはずなんだが、脳が正常な判断を放棄し始めている。
これがヒロイン補正ってやつか? いや、違うな。
単純に堀北鈴音が強すぎる。
俺が勝手に悶えている間にも、バスは静かに進み続け――。
やがて、大きな門が見えてきた。
未来を約束されたエリート育成機関。
高度育成高等学校。
「……着いたか」
胸の高鳴りを誤魔化すように、小さく息を吐く。
これから始まる学園生活への緊張よりも、 数メートル先に座っている堀北鈴音の存在の方が、今の俺には遥かに問題だった。
バスが静かに停車する。
プシューッ――という音と共に扉が開いた。
俺はゆっくり立ち上がり、肩に掛けたバッグを持つ。
そして、バスを降りた。
朝の空気は少し冷たい。
だが、それ以上に――。
目の前の光景が、俺の呼吸を止めた。
「……でか」
思わず声が漏れる。
高度育成高等学校。
テレビやネットで見た時とは、圧迫感がまるで違った。
巨大な校舎。
整備された敷地。
高級ホテルみたいな設備。
“学校”というより、一つの都市だ。
いや――。
俺には別のものに見えた。
「……地獄の門、だな
ここには天才がいる。
と同時に、どうやらオレの視線が気に入らなかったのか、堀北が横から声をかけてきた。
「ちょっと、あなた。さっき私の方を見ていたけれど、なんなの?」
原作でも見たことのある、あの冷たい第一声。
横を振り返ると、不機嫌そうな顔をした堀北が俺の橫からこちらを見ている。
朝日を背にしているせいか、妙に絵になる。
……いや、感心してる場合じゃない。
「え、あー……」
ヤバい。 頭が真っ白だ。
さっきまで“あまり関わらない”とか決意してた男とは思えないくらい動揺している。
だが、このまま黙っているのも不自然だ。
俺は必死に脳を回転させる。
原作の綾小路なら、ここで淡々と返す。 だが俺は綾小路じゃない。
コミュ力もメンタルも一般人だ。
「いや、その……」
言い訳を考えろ。 変態認定だけは回避しろ。
「同じ新入生っぽい人がいたから、つい気になっただけだ」
……よし。 ギリギリセーフなはず。
堀北はじっと俺を見る。
鋭い視線。 まるで相手の内面を見透かそうとするような、冷たく真っ直ぐな瞳。
普通なら、その迫力に気圧される場面だ。
だが――。
(……顔、小さっ)
俺の脳は別方向へ暴走していた。
近くで見ると、本当に整いすぎている。
肌は綺麗だし、 まつ毛は長いし、 黒髪もさらさらだし、 何より距離が近い。
(ヤバい……可愛すぎるだろ……)
心臓がうるさい。
しかも無表情気味なのが逆に破壊力を上げていた。
クール系美少女って現実に存在したんだな、とどうでもいい感想まで浮かんでくる。
そして、思考はさらに危険な方向へ滑っていく。
(……キス、とかしたらどんな感じなんだろ)
――終わっていた。
完全に終わっていた。
入学初日の俺の理性は、もう限界だった。
もちろん、そんなこと口に出せるわけがない。 出した瞬間、学校生活どころか人生が終わる。
だから俺は必死に無表情を装う。
だが。
「……あなた」
堀北が怪訝そうに眉を寄せた。
「今、失礼なことを考えていなかった?」
「!?」
ギクリと肩が跳ねる。
な、何で分かる!?
エスパーか!?
俺の反応を見た堀北は、さらに警戒を強めたようだった。
「……図星みたいね」
「ち、違う!」
半分くらい違わない。
「とにかく、あなたは感情が顔に出やすすぎるわ」
呆れたようにそう言って、堀北は小さく息を吐く。
その仕草すら綺麗なのが腹立たしい。
「入学初日から問題を起こしたくないなら、もう少し自制したらどう?」
興味を失ったような声。
だが、そのまま会話を切るかと思った瞬間、堀北は校門へ視線を向けながら言った。
「でも、あまりジロジロ見ない方がいいわ。不愉快だから」
冷たく言い放ち、堀北は校門へ視線を向ける。
普通なら、ここで謝って終わりだ。 むしろ、それが正解だろう。
だが――。
緊張と動揺でテンパっていた俺の口は、理性より先に動いてしまった。
「……仕方ないだろ」
「?」
堀北の眉がわずかに動く。
俺は半ばヤケになりながら言った。
「お前が、あまりにも可愛すぎるから……つい見ちまったんだよ」
――言ってしまった。
終わった。
人生終了のお知らせである。
一瞬、空気が止まる。
堀北は無言だった。
その表情は変わらない。 だが逆に、それが怖い。
数秒後。
「……は?」
ものすごく低い声だった。
ヤバい。 完全にヤバい。
俺の脳内警報が、過去最大音量で鳴り響く。
(何言ってんだ俺ぇぇぇぇ!?)
入学初日。 開始五分。
女子に見惚れて、 注意されて、 勢いで口説き文句みたいなことを言った。
冷静に考えて、ただの危険人物である。
堀北はじっと俺を見つめていた。
逃げたい。
今すぐこの場から走って逃げたい。
だが足が動かない。
そして――。
「あなた」
堀北が静かに口を開く。
「初対面の女子に、誰にでもそういうことを言っているの?」
声音は冷静。 だが目は全然冷静じゃない。
鋭い。
完全に警戒されている。
「ち、違っ――!」
「どうでもいいけれど、軽薄な人は嫌いよ」
バッサリだった。
致命傷。
堀北はそれだけ言うと、俺の横を通り過ぎて歩き出す。
ふわりと髪が揺れ、シャンプーの匂いが一瞬だけ鼻を掠めた。
そして彼女は、一度だけ立ち止まる。
「……それと」
振り返らないまま、堀北は小さく言った。
「可愛い、なんて言われ慣れていないから反応に困るわ。次からはやめて」
そう言い残し、今度こそ校舎の方へ去っていく。
俺はその背中を見送りながら、しばらく固まっていた。
「……え?」
今のって。
もしかして。
完全拒絶、では――なかったのか?
いや、でも警戒はされてる。 むしろかなりされてる。
だが最後の一言は、ほんの少しだけ――。
「……照れてた?」
その瞬間。
遠くを歩いていた堀北の肩が、ピクリと揺れた気がした。
俺はふと気付く。
これ、ある意味では綾小路ポジションを奪ってないか?
原作なら、さっきの会話は綾小路とのイベントだったはずだ。
つまり俺はいま、知らず知らずのうちに原作へ干渉している可能性がある。
その事実に気付いた瞬間――。
「……マズくね?」
高度育成高等学校の入学式が始まる前から、 俺の平穏な学園生活は、すでに少しずつ狂い始めていた。
高度育成高等学校。
ここは実力主義の学園であり、 天才たちの戦場であり――。
下手な発言一つで、ヒロインとの距離感が致命的に変わる危険地帯なのだと。
色々案が浮かんで書き直しが、多くなってます