フンババ異端叙事詩 ~石板に刻まれなかった者達~ 作:ヒツジ(ラム肉
第一話 石板の一文
『フンババは打ち倒された。
ギルガメッシュは栄誉を得た。』
――ウルク出土石板断片・現代語訳
石板にはそう刻まれている。
英雄の勝利。
王の栄光。
後世に語り継がれる偉業。
だが。
石板は語らない。
討たれた者が何を守り、
何を愛し、
何を残したのかを。
これは。
杉の森を守った最後の守護者、
フンババの物語である。
杉が鳴いていた。
風が吹くたび、
森はざわめく。
数千本の木々が揺れる音は、
まるで海のようだった。
その森の真ん中で。
老人が寝ていた。
大木の根元。
木陰。
昼寝には絶好の場所。
「長」
返事はない。
「長」
返事はない。
若者はため息をついた。
そして。
小石を拾った。
ごつん。
「痛い」
老人が起きた。
「起きとるじゃないですか」
「今起きた」
「嘘です」
「半分寝ておった」
「全部寝てました」
老人は欠伸をする。
杉の森の守護者。
部族連合の長。
交易路の管理者。
森の番人。
そして。
昼寝常習犯。
それがフンババだった。
「何の用じゃ」
「川です」
「増えたか」
「減りました」
「では問題ない」
「問題あります」
「あるのか」
「あります」
若者は頭を抱えた。
今年二十になったばかり。
部族の期待の若手。
真面目。
働き者。
不幸にも上司がフンババだった。
「上流の堰が壊れてます」
「直せ」
「人手が足りません」
「集めろ」
「集まりません」
「飯を出せ」
「それで来ますか」
「儂なら行く」
若者は何も言えなくなった。
来る。
絶対来る。
フンババが一番最初に来る。
しかも二杯食う。
「木材運搬隊も戻ってます」
「事故は」
「なし」
「死人は」
「なし」
「良いことじゃ」
老人は頷く。
森は広い。
木を切る者がいる。
苗木を植える者がいる。
狩りをする者がいる。
川を管理する者がいる。
そして。
都市国家へ木材を売る者がいる。
森だけでは生きられない。
都市だけでも生きられない。
だから取引する。
だから守る。
何百年も続いてきた営みだった。
昼。
広場。
部族の子供達が走り回る。
犬も走る。
鳥も逃げる。
そして。
一人の少年が木の上から落ちた。
どさり。
「痛い!」
「何しとる」
フンババが聞く。
少年は立ち上がった。
土を払う。
笑う。
「蜂の巣を取ろうと思って」
「落ちた」
「落ちた」
沈黙。
「馬鹿者」
即答だった。
「でも取れたぞ!」
少年は誇らしげに蜂蜜を掲げる。
顔は刺されまくっていた。
周囲が笑う。
フンババも笑う。
呆れながら。
どこか嬉しそうに。
少年の名はエンキドゥ。
力が強い。
足も速い。
喧嘩も強い。
そして。
驚くほど馬鹿だった。
「長!」
エンキドゥが駆け寄る。
「なんじゃ」
「海は本当にあるのか!」
「ある」
「見たことあるか!」
「ない」
「王様は!」
「見たことない」
「都会は!」
「行ったことない」
エンキドゥは愕然とした。
「守護者なのに!?」
「守護者じゃからじゃ」
フンババは笑った。
「儂は森を守る」
「海は海の者が見る」
「王は王の者が見る」
「では誰が都会を見るんだ」
エンキドゥが聞く。
フンババは少し考えた。
そして答える。
「馬鹿者じゃな」
少年は首を傾げる。
意味が分からない。
周囲の大人達は笑っていた。
夕暮れ。
森が赤く染まる。
杉が鳴る。
風が吹く。
エンキドゥは丘の上に立っていた。
南を見る。
森の向こう。
見たこともない世界。
海。
都市。
王。
旅人達が語る遠い国。
少年の胸は高鳴っていた。
その背中を。
フンババは遠くから見ていた。
そして。
小さく笑う。
「そのうち行くな」
誰に聞かせるでもなく。
呟く。
馬鹿者は。
いつか森を飛び出す。
昔からそうだった。
だが。
その時のフンババは知らない。
その少年が英雄になることを。
そして。
再び森へ帰って来ることを。
討伐者として。