フンババ異端叙事詩 ~石板に刻まれなかった者達~ 作:ヒツジ(ラム肉
『エンキドゥは夢を見た。
その心は乱れ、
不吉な影が彼を追った。』
――ウルク出土石板断片・現代語訳
「夢か」
フンババは石板を読む。
長老が酒を飲む。
「夢じゃな」
「最近見たか」
「昨日見た」
「何じゃ」
「若返った」
沈黙。
「良い夢じゃな」
「起きたら腰が痛かった」
「現実じゃな」
二人は頷いた。
夢は夢だった。
冬が近い。
杉の森。
朝霧。
冷たい風。
鳥も減った。
静かな季節だった。
フンババは川沿いを歩いていた。
見回り。
守護者の仕事。
変わらない日常。
何十年も続いた日常。
川辺には古い杭がある。
木材運搬用の設備。
何代も使われている。
補修跡だらけ。
だが現役だった。
「これも古いの」
若者が言う。
「うむ」
「誰が作ったんです」
「知らん」
即答だった。
「またですか」
「昔過ぎる」
本当に昔だった。
祖父より前。
曾祖父より前。
さらに前。
名前も残っていない。
だが。
杭は残っている。
橋も残っている。
道も残っている。
「残るものもある」
フンババは呟いた。
若者は意味が分からなかった。
昼。
交易隊到着。
塩。
酒。
青銅。
布。
そして石板。
いつもの光景。
「長」
商人が苦笑している。
「今度は何じゃ」
「夢です」
「夢」
「英雄殿の」
沈黙。
フンババは石板を受け取る。
読む。
『私は夢を見た』
『暗い山』
『翼を持つ影』
『死の国』
不吉な内容だった。
石板を閉じる。
また開く。
読み直す。
そして。
小さくため息をつく。
「眠れとらんな」
商人が首を傾げる。
「そう見えますか」
「見える」
即答だった。
「何故です」
フンババは笑う。
「昔からじゃ」
エンキドゥは分かりやすい。
悩む。
眠れない。
飯を食う量が減る。
黙る。
そして夢を見る。
昔から変わらない。
夜。
焚火。
酒。
静かな時間。
フンババは空を見る。
星。
冬の空。
遠い。
ふと。
思い出す。
旅立つ前夜。
丘の上。
エンキドゥが言った。
『海を見たい』
『王を見たい』
『世界を見たい』
全部見たかった。
だから出て行った。
そして。
かなりの部分は叶った。
王も見た。
都市も見た。
英雄にもなった。
友も出来た。
だが。
それでも。
夢を見る。
眠れない。
不安になる。
「人は難しいの」
フンババは呟く。
森は単純だった。
腹が減る。
食う。
疲れる。
寝る。
春になれば植える。
秋になれば収穫する。
それだけ。
その頃。
ウルク。
夜。
エンキドゥは眠れなかった。
寝台。
豪華な部屋。
暖かい毛布。
全て揃っている。
それでも。
眠れない。
窓を開ける。
冷たい風。
遠くを見る。
見えるはずもない。
それでも。
杉の森を探してしまう。
故郷。
川。
焚火。
昼寝している老人。
「元気かな」
小さな声。
誰にも聞こえない。
返事もない。
ただ。
胸の奥だけが少し痛んだ。
遠征は近い。
夢も増える。
そして。
帰る場所のことばかり思い出していた。
第三章 帰る場所 前編 完
英雄達はまだ知らない。
帰郷が近付くほど。
取り返しのつかない未来も近付いていることを。