フンババ異端叙事詩 ~石板に刻まれなかった者達~ 作:ヒツジ(ラム肉
『フンババは七つの威光を持つ。
神々は彼に森を託した。
その命ある限り、
杉の森は守られる。』
――ウルク出土石板断片・現代語訳
「七つもあったかの」
フンババは石板を見た。
長老が酒を飲む。
「腰痛」
「膝痛」
「肩痛」
「老眼」
「寝不足」
「物忘れ」
沈黙。
「あと一つ足りん」
「酒切れじゃな」
二人は頷いた。
実に恐るべき威光だった。
冬。
杉の森。
朝。
白い息。
凍る水溜まり。
静かな森。
フンババは倉庫へ向かっていた。
古い倉庫。
誰も使わない。
守護者しか入らない。
そんな場所だった。
扉を開ける。
軋む。
埃が舞う。
木箱。
縄。
壊れた道具。
そして。
石板。
大量の石板。
「長」
若者が付いて来る。
「何しに来たんです」
「探し物じゃ」
「何を」
沈黙。
「昔をじゃ」
若者は意味が分からなかった。
石板を一枚。
また一枚。
さらに一枚。
読み返す。
何十年。
何百年。
積み重なった記録。
そして。
一枚の契約石板。
ひどく古い。
角も欠けている。
だが読めた。
『ウルク』
『ラルサ』
『ニップル』
『森の部族連合』
王印。
神殿印。
部族印。
全部揃っている。
若者が息を呑む。
「こんな昔から」
「うむ」
フンババは頷く。
そこには。
伐採区。
通行税。
橋の維持。
交易量。
休養林。
紛争処理。
全部書いてある。
若者は黙る。
思っていたより。
ずっと大きい。
ただの森ではない。
ただの部族ではない。
ただの長でもない。
「守護者とは」
若者が聞く。
沈黙。
フンババは石板を撫でる。
冷たい。
重い。
そして答えた。
「仲裁役じゃ」
小さな声。
「森と都市の」
「部族と部族の」
「昔からずっとな」
若者は驚いていた。
もっと強い言葉を想像していた。
王。
神官。
英雄。
そういうものを。
だが違う。
仲裁役。
それだけだった。
昼。
焚火。
酒。
長老も来ていた。
契約石板を見る。
そして笑う。
「まだ残っとったか」
「残っとる」
「捨ててないか」
「捨てる理由が無い」
長老は酒を飲む。
少し真面目な顔になる。
「遠征隊が来たらどうする」
風が吹く。
杉が鳴る。
静かになる。
長い沈黙。
やがて。
フンババは答えた。
「まず話す」
即答だった。
「それから?」
「話す」
「それから?」
「まだ話す」
長老が吹き出した。
「戦わんのか」
「出来ればの」
フンババは笑う。
本心だった。
契約は残っている。
石板も残っている。
印も残っている。
なら。
話せる。
そう思っていた。
その頃。
ウルク。
王宮。
遠征準備は終わりに近かった。
兵士。
荷車。
援軍。
武器。
全部揃う。
エンキドゥは一人だった。
手には古い木槍。
旅立ちの日。
フンババから貰った物。
まだ使っている。
もう古い。
だが捨てていない。
指で傷跡をなぞる。
昔。
熊と戦った時。
崖から落ちた時。
蜂の巣を落とした時。
全部覚えている。
そして。
ふと思う。
「帰ったら」
小さな声。
「酒でも飲むか」
誰もいない部屋。
返事は無い。
だが。
その時。
彼はまだ信じていた。
遠征が終われば。
帰れると。
森も。
守護者も。
昔のままで待っていると。
それが。
最も残酷な勘違いだった。