フンババ異端叙事詩 ~石板に刻まれなかった者達~ 作:ヒツジ(ラム肉
『英雄達は出立した。
神々は彼らの道を祝福した。』
――ウルク出土石板断片・現代語訳
「祝福らしい」
フンババは石板を置いた。
長老が酒を飲む。
「何人じゃ」
「三百」
「大祝福じゃな」
「大祝福じゃ」
二人は頷いた。
神々も忙しい。
冬の終わり。
杉の森。
朝は寒い。
だが昼になると少し暖かい。
雪もほとんど残っていない。
春は近い。
森の民はそれを知っていた。
そして。
今日は宴だった。
広場の中央。
大きな鹿が吊るされている。
立派な雄鹿。
冬を越えるため脂を蓄えた大物だった。
狩人達は誇らしげだ。
若い衆は騒ぐ。
犬も騒ぐ。
子供達はもっと騒ぐ。
いつものことだった。
「見たか!」
「見た!」
「俺が仕留めた!」
「外したじゃろ」
「追い込んだのは俺だ!」
「外したのもお前じゃ」
笑い声。
鹿は解体される。
肉は切り分けられる。
骨は煮込みになる。
皮はなめされる。
角も道具になる。
捨てる所は無い。
森の民はそうやって生きてきた。
やがて火が焚かれる。
煙が上がる。
肉が焼ける。
脂が落ちる。
じゅう、と音がする。
良い匂いだった。
フンババは肉を受け取る。
熱い。
旨い。
酒も来る。
蜂蜜酒だった。
濁っている。
甘い。
そして強い。
非常に強い。
一口飲む。
旨い。
二口飲む。
もっと旨い。
三口飲む。
全部旨い。
最高だった。
そして。
ふと思い出す。
昔。
まだエンキドゥが子供だった頃。
肉が焼けるのを待てなかった。
『まだじゃ』
『もう焼けた!』
『焼けとらん』
『焼けた!』
『赤い』
『大丈夫!』
『何がじゃ』
結局。
腹を壊した。
『長』
『なんじゃ』
『肉が悪い』
『お前じゃ』
周囲の大人達が笑う。
本人だけ真面目だった。
昔からそうだった。
フンババも笑う。
「何です」
若者が聞く。
「昔を思い出した」
それだけだった。
夜になる。
歌が始まる。
古い歌。
旅人の歌。
川の歌。
森の歌。
皆知っている歌だった。
その中で。
一人の老人が歌う。
『遠くへ行った若者よ』
『酒が冷める前に帰れ』
『肉が固くなる前に帰れ』
『爺が死ぬ前に帰れ』
広場が笑う。
誰かが酒を吹く。
犬が吠える。
子供が転ぶ。
実に平和だった。
だが。
フンババは少しだけ黙る。
風が吹く。
杉が鳴る。
星が見える。
「帰るかの」
小さな声。
誰にも聞こえない。
その頃。
遠い南。
遠征隊は進んでいた。
兵士。
荷車。
援軍。
神々の祝福。
いや。
都市国家達の軍勢。
焚火の前。
エンキドゥは肉を食っていた。
旨い。
都の料理人が焼いた肉だ。
塩も良い。
香辛料も良い。
文句は無い。
だが違う。
杉の煙の匂いが無い。
蜂蜜酒も飲む。
甘い。
旨い。
だが違う。
森の蜂蜜酒はもっと荒かった。
濁っていた。
強かった。
翌朝頭が痛くなる。
そして皆で笑う。
そんな酒だった。
「どうした」
ギルガメッシュが聞く。
「故郷を思い出した」
珍しい答えだった。
王は少し笑う。
「帰りたいか」
沈黙。
長い沈黙。
そして。
エンキドゥは頷いた。
「終わったらな」
本心だった。
帰る。
酒を飲む。
鹿肉を食う。
長に怒られる。
皆で笑う。
そんな未来を。
まだ信じていた。
だが。
遠征隊は既に森へ向かっている。
契約を知らぬ若い兵士達と。
名誉を求める若い王と。
帰る場所を失うことになる英雄を連れて。
そして杉の森は、
静かに彼らを待っていた。