フンババ異端叙事詩 ~石板に刻まれなかった者達~   作:ヒツジ(ラム肉

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第二十話 軍旗

『英雄達は杉の森へ到達した。

 

山々は彼らを迎え、

 

森は静かに立っていた。』

 

――ウルク出土石板断片・現代語訳

 

静かだった。

 

石板にはそう刻まれている。

 

静かだった。

 

確かにその通りだった。

 

だが。

 

それは歓迎ではない。

 

森が息を潜めていただけだった。

 

春。

 

杉の森。

 

朝霧。

 

冷たい風。

 

鳥の声。

 

川の音。

 

変わらない。

 

何も変わらない。

 

少なくとも。

 

まだこの時は。

 

フンババは見回りをしていた。

 

いつもの仕事。

 

橋を見る。

 

杭を見る。

 

運搬路を見る。

 

森を見る。

 

守護者の仕事だった。

 

「長」

 

若者が走って来る。

 

息が荒い。

 

顔色も悪い。

 

嫌な予感がした。

 

「なんじゃ」

 

若者は答えない。

 

答える前に。

 

南を指差した。

 

丘へ登る。

 

森を抜ける。

 

風が吹く。

 

そして。

 

見えた。

 

遠く。

 

本当に遠く。

 

だが確かに。

 

旗。

 

一つではない。

 

十。

 

二十。

 

三十。

 

もっと。

 

数え切れない。

 

軍旗だった。

 

沈黙。

 

若者達も黙る。

 

誰も喋らない。

 

ついに来た。

 

その事実だけで十分だった。

 

「遠征隊か」

 

長老が言う。

 

「遠征隊じゃな」

 

フンババも頷く。

 

否定しようが無い。

 

軍勢だった。

 

本物の。

 

風が吹く。

 

旗が揺れる。

 

陽光が青銅に反射する。

 

槍。

 

盾。

 

荷車。

 

兵士。

 

援軍。

 

神々の祝福。

 

いや。

 

都市国家達の軍勢。

 

若者の一人が呟く。

 

「本当に来た」

 

誰も答えない。

 

皆同じことを思っていた。

 

まさか。

 

本当に。

 

来るとは。

 

フンババは目を細める。

 

遠い。

 

だが見覚えがある。

 

旗。

 

紋章。

 

色。

 

全部知っている。

 

ラルサ。

 

ニップル。

 

ウルク。

 

その他の都市。

 

交易相手。

 

酒を飲んだ相手。

 

契約を結んだ相手。

 

昔からの付き合い。

 

沈黙。

 

長い沈黙。

 

やがて。

 

フンババは言った。

 

「迎えるぞ」

 

若者達が振り向く。

 

「戦うのでは」

 

「まだじゃ」

 

即答だった。

 

「だが」

 

フンババは旗を見る。

 

遠くの軍旗。

 

風に揺れる色。

 

そして。

 

静かに続けた。

 

「話は聞く」

 

それが守護者だった。

 

昔から。

 

まず話す。

 

それでも駄目なら考える。

 

それだけだった。

 

その日の夜。

 

森の広場。

 

焚火。

 

酒。

 

だが。

 

誰も酔っていない。

 

皆。

 

軍旗の話をしている。

 

不安。

 

緊張。

 

怒り。

 

恐れ。

 

色々あった。

 

フンババは酒を飲む。

 

苦い。

 

今日は妙に苦い。

 

長老が隣へ座る。

 

「どう思う」

 

沈黙。

 

長い沈黙。

 

そして。

 

フンババは答える。

 

「エンキドゥがおる」

 

長老が頷く。

 

それは皆知っている。

 

「なら」

 

フンババは火を見る。

 

揺れる炎。

 

懐かしい光景。

 

そして。

 

少しだけ笑った。

 

「まず飯じゃな」

 

長老が吹き出した。

 

「お前らしい」

 

「腹が減っとる」

 

「確かに」

 

昔からそうだった。

 

エンキドゥは。

 

腹が減る。

 

飯を食う。

 

怒られる。

 

また飯を食う。

 

そういう男だった。

 

その頃。

 

遠征軍前衛。

 

丘の上。

 

エンキドゥは森を見ていた。

 

杉。

 

谷。

 

川。

 

全部見覚えがある。

 

全部知っている。

 

故郷だった。

 

そして。

 

遠く。

 

煙が見える。

 

森の集落。

 

人々の暮らし。

 

自分が育った場所。

 

胸が痛んだ。

 

理由は分からない。

 

だが痛い。

 

ギルガメッシュが隣へ来る。

 

「どうした」

 

エンキドゥは答えない。

 

ただ。

 

故郷を見る。

 

そして。

 

本当に小さな声で呟いた。

 

「帰って来てしまった」

 

誰にも聞こえない。

 

風だけが聞いていた。

 

そして杉の森もまた。

 

長い長い物語の終わりが近付いていることを知っているかのように、

 

静かに揺れていた。

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