フンババ異端叙事詩 ~石板に刻まれなかった者達~ 作:ヒツジ(ラム肉
『シャムハトはエンキドゥを見た。
そして彼を人の世界へ導いた。』
――ウルク出土石板断片・現代語訳
「導いた?」
フンババは石板を読む。
もう一度読む。
さらに読む。
「嘘ではないな」
長老が覗き込む。
「何がじゃ」
「導いたらしい」
「導いたな」
沈黙。
「間違ってはおらん」
「間違ってはおらんな」
二人は頷いた。
ただし。
石板には書かれていない。
何故導かれたのか。
何故森を出たのか。
そして。
何故フンババが頭を抱えたのかを。
その年の春。
雪が溶ける。
川が増水する。
森が緑を取り戻す。
そして。
交易隊が来た。
塩。
布。
酒。
青銅の小物。
都市国家の品々。
森の民も集まる。
祭りのようなものだった。
その中に。
見慣れぬ人物がいた。
女だった。
旅装。
南の都市の衣。
長い黒髪。
そして。
妙に堂々としていた。
「誰じゃ」
フンババが聞く。
商人が答える。
「神殿の女です」
「神官か」
「似たようなものです」
曖昧だった。
都市国家らしい。
女は森を見る。
杉を見る。
人々を見る。
そして。
エンキドゥを見た。
沈黙。
エンキドゥも見た。
沈黙。
二人とも動かない。
長老が呟く。
「終わったな」
「終わったな」
フンババも頷く。
その日の夕方。
エンキドゥは珍しく静かだった。
走らない。
騒がない。
木にも登らない。
川にも飛び込まない。
周囲が不安になるレベルだった。
「病気か」
「熱は無い」
「怪我か」
「無い」
「なら何じゃ」
全員。
答えを知っていた。
翌日。
エンキドゥは交易隊を手伝い始めた。
荷物を運ぶ。
馬を引く。
案内をする。
驚くほど働く。
皆が引いた。
「気持ち悪い」
「気持ち悪いな」
「本物か」
「偽物では」
本人に聞こえていた。
三日後。
女が森を案内して欲しいと言った。
当然。
エンキドゥが立候補した。
誰も驚かない。
夕方。
フンババは木陰で昼寝していた。
そこへ。
エンキドゥが来る。
珍しく真面目な顔。
嫌な予感がした。
非常に嫌な予感がした。
「長」
「なんじゃ」
「都会へ行きたい」
やはりか。
沈黙。
風が吹く。
杉が鳴る。
フンババは空を見上げた。
昔。
長老にも言われた。
海を見たい。
世界を見たい。
旅をしたい。
若者は皆同じだ。
「何故じゃ」
聞いてみる。
エンキドゥは即答した。
「見たいから」
「何を」
「全部」
沈黙。
実にエンキドゥらしい答えだった。
王。
都市。
神殿。
市場。
海。
船。
祭り。
世界。
全部見たい。
全部知りたい。
そういう目をしていた。
フンババは笑う。
少しだけ。
寂しそうに。
「そうか」
短い返事。
エンキドゥは驚く。
もっと反対されると思った。
怒られると思った。
殴られると思った。
「良いのか」
「良くはない」
即答だった。
「だが」
風が吹く。
杉が鳴る。
「馬鹿者は止まらん」
エンキドゥは笑った。
昔と同じ笑顔。
子供の頃と同じ。
「帰って来るか」
フンババが聞く。
「帰る!」
即答だった。
「いつじゃ」
「分からん!」
「馬鹿者」
「知ってる!」
二人は笑った。
その夜。
フンババは眠れなかった。
焚火を見る。
杉の音を聞く。
酒を飲む。
そして思う。
帰って来る。
きっと帰って来る。
腹を空かせて。
土産話を抱えて。
もっと馬鹿になって。
帰って来る。
そう信じていた。
その時はまだ。
誰も知らない。
その少年が。
英雄エンキドゥになることを。
そして。
帰って来る時。
軍勢の先頭に立っていることを。
誰も知らなかった。