フンババ異端叙事詩 ~石板に刻まれなかった者達~   作:ヒツジ(ラム肉

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第四話 旅立ちの日

『エンキドゥは女と共に去った。

 

彼は獣の野を離れ、

 

人の住む世界へ向かった。』

 

――ウルク出土石板断片・現代語訳

 

「去った」

 

フンババは石板を読む。

 

「去ったな」

 

長老が頷く。

 

「止めたか」

 

「止めた」

 

「聞いたか」

 

「聞かんかった」

 

沈黙。

 

「馬鹿者じゃからな」

 

「馬鹿者じゃな」

 

二人は頷いた。

 

実に正しい評価だった。

 

旅立ちの日。

 

森は静かだった。

 

雨は降っていない。

 

風も穏やか。

 

空も青い。

 

良い旅立ちの日だった。

 

本人以外には。

 

「忘れ物はないか」

 

フンババが聞く。

 

「ある!」

 

即答だった。

 

沈黙。

 

「何じゃ」

 

「まだ決めてない!」

 

「馬鹿者」

 

即答だった。

 

エンキドゥは荷物をまとめていた。

 

革袋。

 

水袋。

 

干し肉。

 

保存果実。

 

旅道具。

 

全部ある。

 

だが。

 

本人だけが落ち着かない。

 

立つ。

 

座る。

 

歩く。

 

また座る。

 

落ち着け。

 

誰もが思った。

 

広場。

 

部族の者達が集まる。

 

見送りだった。

 

老人達。

 

若者達。

 

子供達。

 

犬までいる。

 

犬は意味が分かっていない。

 

「都会行くんだって?」

 

「行く!」

 

「王様見るんだって?」

 

「見る!」

 

「海は?」

 

「見る!」

 

「帰って来る?」

 

「帰る!」

 

全部即答だった。

 

子供達が笑う。

 

エンキドゥも笑う。

 

誰も泣かない。

 

まだ。

 

旅装の女。

 

シャムハト。

 

彼女は少し離れて待っていた。

 

森を見る。

 

杉を見る。

 

人々を見る。

 

そして。

 

少し驚いていた。

 

こんな別れ方をするのか。

 

都市では違う。

 

もっと悲しい。

 

もっと重い。

 

もっと涙がある。

 

だが。

 

この森は違った。

 

笑って送り出す。

 

帰って来る前提だからだ。

 

「長」

 

エンキドゥが来る。

 

フンババの前へ立つ。

 

珍しく静かだった。

 

少しだけ。

 

「なんじゃ」

 

「ありがとう」

 

沈黙。

 

風が吹く。

 

杉が鳴る。

 

フンババは頭を掻く。

 

苦手だった。

 

こういうのは。

 

「まだ早い」

 

「何が」

 

「帰ってから言え」

 

沈黙。

 

そして。

 

エンキドゥが笑う。

 

「分かった!」

 

元通りだった。

 

安心する。

 

フンババは槍を差し出す。

 

一本の木槍。

 

何の変哲もない槍。

 

だが。

 

丁寧に作られている。

 

柄は固い木。

 

穂先は石。

 

革で補強されている。

 

長年使える品だった。

 

「持って行け」

 

「いいのか」

 

「帰って来るなら返せ」

 

「分かった!」

 

即答だった。

 

長老が近付く。

 

「死ぬなよ」

 

「死なない!」

 

「そういう奴ほど死ぬ」

 

「死なない!」

 

「馬鹿者」

 

「知ってる!」

 

笑い声。

 

森に響く。

 

そして。

 

出発。

 

エンキドゥが歩き出す。

 

南へ。

 

森の外へ。

 

知らない世界へ。

 

何度も振り返る。

 

手を振る。

 

また振る。

 

さらに振る。

 

見えなくなるまで振る。

 

子供だった。

 

本当に。

 

やがて。

 

姿が見えなくなる。

 

森が静かになる。

 

誰も喋らない。

 

しばらく。

 

誰も。

 

そして。

 

フンババが呟いた。

 

「静かじゃな」

 

長老が答える。

 

「静かじゃな」

 

本当に静かだった。

 

川の音が聞こえる。

 

鳥の声も聞こえる。

 

杉も鳴る。

 

だが。

 

何かが足りない。

 

その夜。

 

広場。

 

誰かが木から落ちない。

 

誰かが川へ飛び込まない。

 

誰かが猪を追い掛けない。

 

誰かが怒られない。

 

静かだった。

 

フンババは酒を飲む。

 

焚火を見る。

 

そして。

 

小さく笑った。

 

「腹を空かせたら帰る」

 

誰に聞かせるでもなく。

 

そう呟く。

 

だが。

 

遠く南へ向かった少年は。

 

腹を空かせるどころか。

 

王と出会う。

 

英雄となる。

 

石板へ名を刻む。

 

そして。

 

長い年月を経て。

 

再び杉の森へ帰って来る。

 

討伐者として。

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