フンババ異端叙事詩 ~石板に刻まれなかった者達~ 作:ヒツジ(ラム肉
『ギルガメッシュは言った。
「我らは杉の森へ行こう」
エンキドゥはその言葉を聞き、
恐れた。』
――ウルク出土石板断片・現代語訳
恐れた。
フンババは石板を読む。
もう一度読む。
さらに読む。
「恐れたらしい」
長老が覗き込む。
「恐れたな」
沈黙。
「熊か」
「違う」
「猪か」
「違う」
「蜂か」
長い沈黙。
「可能性はある」
「あるな」
二人は頷いた。
エンキドゥは蜂が苦手だった。
本人は否定していた。
誰も信じていなかった。
石板には続きがあった。
『フンババは恐ろしい』
『その咆哮は洪水』
『その口は火』
『その息は死』
沈黙。
フンババは石板を閉じた。
「誰じゃこれ」
即答だった。
長老が笑う。
「お前らしいぞ」
「儂は火を吐かん」
「酒臭い息は吐く」
「それは仕方ない」
会議終了だった。
その日の夕方。
森の広場。
若い衆が訓練している。
槍。
投石。
木盾。
いつもの光景。
フンババも見ている。
そこへ。
交易商人が来た。
「長」
「なんじゃ」
「最近妙な噂があります」
「またエンキドゥか」
「今度は長です」
沈黙。
嫌な予感がした。
「都市では」
「うむ」
「フンババは怪物になっています」
沈黙。
「どのくらいじゃ」
商人は指を折る。
「まず身長が家三軒分」
「死ぬ」
「目から炎」
「死ぬ」
「怒ると雷」
「神ではないか」
会場が爆笑した。
商人も笑う。
だが。
少し真面目な顔になる。
「冗談ではなく」
「かなり有名です」
沈黙。
「そんなにか」
「杉の森も」
「長も」
「英雄譚で語られています」
フンババは森を見る。
杉を見る。
風を見る。
何も変わらない。
ただの森だ。
昔から。
そして今も。
だが。
都市の人々は違う。
森を知らない。
巨大な杉を知らない。
深い谷を知らない。
夜の獣の声を知らない。
だから。
怪物が住んでいることになる。
その方が分かりやすい。
夜。
焚火。
フンババは石板を読む。
『エンキドゥは恐れた』
その一文。
そこだけ。
何度も読む。
恐れた。
つまり。
知っているのだ。
杉の森を。
森の奥深さを。
守る難しさを。
そして。
フンババを。
長い沈黙。
やがて。
フンババは酒を飲んだ。
「覚えておるか」
誰もいない夜。
小さな声。
昔。
エンキドゥが迷子になった。
三日。
森を彷徨った。
泣きながら帰ってきた。
その時。
言った。
『森は広い』
『怖かった』
まだ小さかった。
あの日の少年なら。
確かに杉の森を恐れる。
敬う。
畏れる。
だから。
この石板は嘘ではない。
その頃。
ウルク。
王宮。
ギルガメッシュは笑っていた。
「杉の森だ」
「行くぞ」
目は輝いている。
偉業。
名声。
伝説。
若い王の夢だった。
だが。
その隣。
エンキドゥは笑っていなかった。
珍しく。
本当に珍しく。
黙っていた。
「どうした」
ギルガメッシュが聞く。
沈黙。
長い沈黙。
そして。
エンキドゥは言った。
「やめろ」
王が固まる。
「何だと」
「やめろ」
もう一度。
今度ははっきり。
「杉の森には行くな」
風が吹く。
遠い杉の森でも。
同じ夜風が木々を揺らしていた。