第一話「出会い」
春の風は、どこか匂いが違う。
まだ冷たい空気の中に、土と若葉と、水の匂いが混ざっている。
小学三年生だった丈は、その匂いが嫌いではなかった。
「ほら丈、ちゃんと持ちなさい。落としたら大変なんだから」
「わーってるって」
ぶっきらぼうに返しながら、丈は段ボール箱を抱え直した。
長野の山道。
舗装はされているが、東京育ちの丈からすれば、ほとんど山の中みたいなものだった。
父親の転勤。
それが、この諏訪への引っ越し理由だ。
「しかし、すごいところねぇ……」
母親が周囲を見回しながら呟く。
確かにそうだった。
空が広い。
やたら広い。
電線より山の方が目立つし、風の音が妙にはっきり聞こえる。
何より。
「……静かだな」
ぽつりと漏らした丈の言葉に、父親が笑った。
「都会と違って、自然が多いからな」
「熊とか出ねぇ?」
「出るかもなぁ」
「マジかよ……」
げんなりする丈を見て、両親が笑う。
そんな家族の前方。
石段が見えた。
山肌へ沿うように伸びる、古びた石段。
その上に、神社がある。
「まずはご挨拶しとかないとね。自治会長さんにも、『守矢神社には顔を出した方がいい』って言われたし」
「神社ぁ?」
丈は眉をひそめた。
別に嫌いではない。
だが、小学生男子にとって神社というのは、正月に小遣いを貰いに行く場所くらいの認識だ。
「なんか古そうだな……」
石段を見上げながら呟く。
その瞬間だった。
ぞわり、と。
妙な感覚が背筋を撫でた。
「……?」
思わず山を見る。
風。
木々。
鳥の鳴き声。
それだけ。
なのに。
まるで。
“何か”に見られているような感覚があった。
「丈? どうしたの?」
「……いや」
気のせいか。
そう思いながら、石段を登る。
だが。
登るほど、その感覚は強くなっていった。
まるで山そのものが、自分を見ているようだった。
◇
守矢神社は、古い神社だった。
だが、汚いわけではない。
むしろ妙に整っている。
掃除が行き届き、木材には丁寧に手が入っていた。
神楽殿。
拝殿。
御柱。
そして。
「でっか……」
丈は思わず呟いた。
御柱だ。
巨大な木柱が、空へ突き刺さるように立っている。
その存在感に、妙な圧迫感を覚えた。
「こんにちはー!」
母親が声をかける。
すると社務所の方から、ぱたぱたと足音が聞こえてきた。
「あ、はい! 今行きます!」
女の子の声だった。
少し高めで、よく通る声。
やがて現れたのは――
「……え?」
丈は思わず固まった。
緑色。
髪が。
陽光を受けて、若葉みたいな色をしていた。
肩くらいまで伸びた髪。
白いブラウス。
スカート。
そして。
妙に真っ直ぐな目。
「えっと……こんにちは?」
少女は少し首を傾げた。
その仕草で、ようやく丈は我に返る。
「あ、あー……うっす」
「こんにちは。この度、近くに引っ越してきまして」
母親が頭を下げる。
「あっ、そうだったんですね! えっと、少し待っててください!」
少女は慌てて社務所の奥へ引っ込んだ。
ぱたぱたぱた、と忙しない足音。
「……なんだあの髪」
丈が小声で呟く。
母親が軽く肘で小突いた。
「失礼でしょ」
「いやでも緑だぞ?」
「染めてるのかしら?」
「小学生で?」
そんな会話をしていると。
今度は神主らしき男性が現れた。
温和そうな中年男性だ。
「これはこれは、ご丁寧にどうも」
穏やかな笑み。
だがその後ろ。
さっきの少女が、半分だけ顔を出してこちらを見ていた。
じーっ、と。
やたら興味深そうに。
目が合う。
すると。
ぱっと隠れた。
「……なんなんだよ」
丈は苦笑した。
その様子を見て、神主が困ったように笑う。
「うちの娘です。東風谷早苗と言います」
「東風谷……」
珍しい名字だな。
そう思った。
「ほら早苗、ご挨拶」
「は、はいっ」
再び顔を出した少女――早苗は、ぺこりと頭を下げた。
「東風谷早苗です。よろしくお願いします」
妙にしっかりした口調だった。
同い年くらいのはずなのに、どこか大人びて見える。
「……丈」
「え?」
「俺の名前」
「あっ、はい! よろしくお願いします、丈さん!」
「さん?」
「えっ」
「いや、別にいいけど」
なんか変なやつだ。
それが第一印象だった。
だが。
その時。
また。
ぞわり、と。
背筋を撫でる感覚。
丈は反射的に振り返った。
拝殿の奥。
暗がり。
一瞬だけ。
誰かがいた気がした。
「……?」
小さい。
帽子みたいなもの。
いや。
気のせいか?
「どうしました?」
早苗が不思議そうに聞いてくる。
「いや……なんか、誰かいなかったか?」
その瞬間だった。
早苗の表情が止まった。
「……見えたんですか?」
「は?」
「え?」
今度は早苗が固まる番だった。
数秒。
沈黙。
そして。
「お父さん!!!」
「おわっ!?」
突然、早苗が父親へ飛びついた。
「見えてます!!」
「何が!?」
「神様です!!」
「はぁ!?」
丈は素っ頓狂な声を上げた。
だが早苗は真剣だった。
ものすごく真剣な顔で、丈を見ている。
「丈さん、神様見えたんですか!?」
「いや知らねぇよ! なんかいた気がしただけだって!」
「それです!!」
「どれだよ!?」
会話が噛み合わない。
だが。
早苗はどこか嬉しそうだった。
今まで見たことないくらい、目を輝かせている。
「すごいです! 初めてです!」
「いやだから何が!?」
「神様を感じられる人です!」
「お前大丈夫か!?」
思わずそう言った。
だが早苗はむしろ得意げに胸を張った。
「大丈夫です! 神様はちゃんといますから!」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
頭が痛くなってきた。
すると。
ふふっ、と。
どこからか笑い声が聞こえた気がした。
子供っぽい。
でも。
妙に古い声。
丈は再び振り返る。
だが、そこには誰もいない。
風だけが吹いていた。
◇
「ねぇ丈さん!」
「だからその“さん”やめろって」
「じゃあ丈くん!」
「変わってねぇよ……」
帰り道。
なぜか早苗がついてきていた。
神主夫妻は苦笑していたが、止めなかった。
「丈くんって、どこから来たんですか?」
「東京」
「東京! すごいですね!」
「いや別に……」
「テレビとかいっぱいあります?」
「あるけど」
「都会ですねぇ……」
「お前、テレビないの?」
「ありますよ! 薄くないですけど!」
「薄い?」
「未来では薄くなるらしいです!」
「誰情報だよ」
「神奈子様です!」
「誰?」
「神様です!」
「また神かよ……」
丈はため息をついた。
だが。
不思議と嫌ではなかった。
むしろ。
こいつと話していると退屈しない。
「丈くんは、神様信じますか?」
「んー……」
少し考える。
「別に」
「えぇっ!?」
「でもまぁ、いてもおかしくはないんじゃね?」
その瞬間。
早苗が止まった。
ぽかん、とした顔。
「……笑わないんですね」
「何が?」
「私の話」
風が吹く。
山の匂い。
春の匂い。
早苗は少しだけ俯いて、小さく笑った。
「みんな、変だって言うんです」
「まぁ変ではあるだろ」
「うぅ……」
「でも、別にいいんじゃね?」
「……え?」
「好きなんだろ? 神様」
「はい!」
即答だった。
迷いゼロ。
丈は思わず笑う。
「じゃあ別によくね?」
早苗は、しばらく黙っていた。
それから。
本当に嬉しそうに笑った。
「……はい!」
その笑顔を見た瞬間。
丈はなぜか。
少しだけ胸が苦しくなった。
◇
「で、ここが学校」
「ちっさ……」
「失礼ですね!?」
翌日。
なぜか丈は、早苗に学校を案内されていた。
引っ越してきたばかりの丈は、まだ土地勘がない。
そんな話を昨日したところ、早苗が『では案内します!』と張り切り始めたのである。
「いやでもお前、なんでそんな元気なんだよ」
「歓迎してるからです!」
「テンション高ぇなぁ……」
校門前。
山に囲まれた小学校は、東京の学校よりずっと小さかった。
校庭も狭い。
校舎も古い。
だが。
風景だけはやたら綺麗だった。
「ここ、冬になるとすごい雪降りますよ!」
「マジかぁ……」
「諏訪湖も凍ります!」
「湖って凍るのか……」
カルチャーショックだった。
そんな丈の横で、早苗はどこか嬉しそうに歩いている。
「なんか、お前さ」
「はい?」
「ずっと喋ってんな」
「えっ」
早苗が固まる。
「す、すみません……うるさかったですか……?」
「いや別に」
「……?」
「静かなよりマシ」
その瞬間。
ぱぁっ、と。
本当に効果音が聞こえそうな勢いで、早苗の顔が明るくなった。
「じゃあもっと喋ります!」
「いや限度はあるだろ」
「昨日ですね、神奈子様が――」
「また神かよ!」
勢いよくツッコむ。
すると早苗は、むぅ、と頬を膨らませた。
「本当にいるんですってば」
「はいはい」
「信じてませんね?」
「いや、いるかもしれねぇとは思ってるって」
「だったらもっと敬ってください!」
「なんでだよ」
「罰当たりますよ!」
「怖っ」
だが。
その時だった。
風が吹く。
ざぁっ、と。
校庭の木々が大きく揺れた。
同時に。
また、あの感覚。
ぞわり、と。
「……っ」
丈は反射的に振り返った。
校庭の端。
古い桜の木の下。
一瞬だけ。
誰かが立っていた。
小さい影。
帽子。
いや。
今度は。
“目”が合った。
にやり、と。
笑った気がした。
「丈くん?」
「……あそこ」
「え?」
早苗が振り返る。
だが。
もう誰もいない。
「誰かいました?」
「いや……」
気のせいか。
そう思おうとした。
だが。
耳元で。
『へぇ』
声がした。
「っ!?」
丈が飛び退く。
「ど、どうしました!?」
「今、声――」
そこで。
早苗の表情が変わった。
真剣な顔。
「……誰ですか?」
空へ向かって聞く。
返事はない。
だが。
風だけが、くすくす笑っているようだった。
「……遊ばれてますね」
「誰に?」
「神様です」
「だから誰なんだよその神様」
「諏訪子様かもしれません」
「名前増えた!?」
頭が痛くなってきた。
だが。
早苗は少し楽しそうだった。
「すごいです。諏訪子様、人見知りなんですよ?」
「神が人見知りすんなよ」
「しますよ」
「するのか……」
なんかもう、ツッコむ気力もなくなってきた。
◇
学校案内を終えたあと。
二人は神社へ戻ってきていた。
境内には、春の風が吹いている。
どこか静かで。
けれど。
ただ静かなだけではない。
見えない何かが、常に周囲を歩いているような空気。
丈はそれを感じ始めていた。
「ねぇ丈くん」
「んー?」
「怖くないんですか?」
「何が?」
「神様」
少し考える。
昨日までなら。
きっと笑っていた。
だが。
今は。
「……まぁ、ちょっとは」
「ですよね!」
早苗はなぜか安心したように笑った。
「でも、悪いもんじゃない気はする」
「……え?」
「なんつーか。変だけど」
「変……」
「でも、お前がそんな嬉しそうに話すくらいだし」
その瞬間。
早苗は固まった。
「……私、嬉しそうですか?」
「めちゃくちゃ」
「そ、そうですか……」
照れたように視線を逸らす。
その横顔を見て。
丈は少しだけ、不思議に思った。
こいつ。
本当に神様が好きなんだな。
流行りとか。
オカルトごっことか。
そういう感じじゃない。
もっと。
ずっと真剣だ。
「お前さ」
「はい?」
「なんでそんな神様好きなんだ?」
早苗は少し考えた。
そして。
「……ずっと、いたからです」
「いた?」
「はい」
風が吹く。
御柱が軋む。
山が鳴る。
「みんなには見えなくても、神様って、ずっといるんです」
静かな声だった。
「悲しい時も、嬉しい時も、怒られた時も。ずっと見ててくれるんです」
「……」
「だから、私は好きです」
その言葉は。
妙に。
胸へ残った。
◇
「早苗ー! お使い行ってきてー!」
「はーい!」
社務所から母親らしき声が飛ぶ。
すると早苗は、ぱっと立ち上がった。
「行ってきます!」
「おう」
「あ、丈くんも来ます?」
「なんで」
「案内です!」
「まだやるのかよ……」
そう言いながらも、丈はついていった。
山道。
田んぼ。
川。
東京とは全部違う。
でも。
悪くない。
「ここ、夏になると蛍出るんですよ!」
「蛍って本当にいるんだ……」
「失礼ですね!?」
「いやテレビでしか見たことねぇし」
早苗はくすくす笑った。
その笑い声が、妙に耳へ残る。
途中。
小さな祠の前を通った。
古い石。
苔。
誰も手入れしていないような場所。
だが。
丈は足を止めた。
「……なんかいる」
「え?」
早苗が振り返る。
丈は祠を見つめた。
何か。
いる。
姿は見えない。
でも。
気配だけはわかった。
「……誰かいます?」
早苗が小さく聞く。
すると。
からん。
風もないのに、鈴が鳴った。
「っ!?」
早苗が目を見開く。
「うそ……」
「な、なんだよ今の」
「返事です……」
「返事!?」
「この祠、もうずっと使われてないのに……」
早苗は、信じられないものを見る顔をしていた。
「丈くん」
「な、なんだよ」
「たぶんですけど」
「おう」
「神様に好かれてます」
「嫌だよそんなの」
即答だった。
だが。
その瞬間。
また。
どこかで笑い声がした。
今度は、少しだけ嬉しそうな声だった。
◇
夕暮れ。
帰り道。
空が赤い。
山の影が長く伸びている。
「丈くん」
「ん?」
「また来ますか?」
「神社?」
「はい」
早苗は少し不安そうだった。
たぶん。
断られると思っている。
だから丈は、なんとなく笑った。
「まぁ、暇なら」
「本当ですか!?」
「近いしな」
「じゃあ今度、御柱祭の話してあげます!」
「なんだそれ」
「すごいんですよ! 木に乗って坂を滑り降りるんです!」
「危なっ」
「毎年怪我人出ます!」
「やめろよそんな祭り!」
早苗は声を上げて笑った。
その笑顔を見て。
丈も、つられて少し笑った。
その時だった。
山の方から。
風が吹く。
ざわり。
木々が鳴る。
そして。
一瞬だけ。
丈には見えた。
山の上。
夕暮れの空を背に。
二つの影が立っている。
一人は。
小さい。
帽子を被った少女。
もう一人は。
長い髪を風に揺らす、大きな女。
二人とも。
こちらを見ていた。
「……またいた」
「え?」
早苗が振り返る。
だが。
もう誰もいない。
「丈くん?」
「……いや」
気のせい。
そう思おうとした。
けれど。
なぜか。
胸の奥だけが、妙に熱かった。
◇
守矢神社の夕方は、妙に静かだった。
いや。
正確には違う。
静かなのに、音が多い。
風。
木々。
遠くの鳥。
山の水。
町の気配。
都会では聞こえなかった音が、やけにはっきり耳へ届く。
丈は縁側へ座りながら、ぼんやり境内を眺めていた。
「……なんか変な感じだな」
「何がです?」
隣へ腰掛けながら、早苗が聞く。
いつの間にか。
この神社へ来てから、数時間が経っていた。
なのに。
不思議と帰りたいとは思わなかった。
「静かなのに、ずっとうるせぇ」
「?」
「音が多いっていうか」
「あぁ……」
早苗は、少し納得したように頷いた。
「山の音ですね」
「山の音?」
「はい。慣れると普通になりますよ」
そう言って笑う。
その横顔を見ながら、丈はなんとなく思った。
こいつ。
本当にここが好きなんだな。
神社も。
山も。
風も。
全部。
「丈くんは、前いたところ好きだったんですか?」
「東京?」
「はい」
少し考える。
「まぁ普通」
「普通?」
「別に嫌いじゃねぇけど、好きかって言われるとわかんねぇ」
「へぇ……」
早苗はどこか不思議そうだった。
「私はここ好きですよ」
「だろうな」
「空気が綺麗ですし、神様いますし」
「また神かよ」
「いますってば」
むぅ、と頬を膨らませる。
その様子が妙に子供っぽくて、丈は少し笑った。
「なんですか?」
「いや、お前さ」
「はい?」
「神様の話してる時だけ、すげぇ楽しそう」
「……そうですか?」
「うん」
早苗は少しだけ黙った。
それから、小さく笑う。
「好きなんです」
「そんなに?」
「はい」
迷いのない返事だった。
「だって、ずっと一緒でしたから」
その言い方が、妙に引っかかった。
「友達みたいな?」
「もっと近いです」
「家族?」
「うーん……」
少し考える。
そして。
「見守ってくれる人、ですかね」
その答えは。
妙に綺麗だった。
小学生らしくないくらいに。
丈は少しだけ、言葉に詰まった。
「……なんか、お前変わってんな」
「よく言われます」
「傷つかねぇの?」
「傷つきますよ?」
即答だった。
「でも、嘘は言いたくないですし」
夕陽が、早苗の横顔を赤く染める。
その時。
丈は初めて思った。
こいつ。
たぶん。
すごく不器用だ。
◇
「早苗ー、お茶出してー」
「はーい!」
社務所から母親の声が飛ぶ。
早苗は慌てて立ち上がった。
「ちょっと待っててください!」
「おう」
ぱたぱたと走っていく。
静かになる境内。
風だけが吹いていた。
丈は、なんとなく御柱を見上げた。
巨大な柱。
古い木。
見ているだけなのに、妙な威圧感がある。
「……なんなんだろな、これ」
その瞬間。
ぎしっ。
木が鳴った。
「っ?」
丈は反射的に立ち上がる。
風は吹いていない。
なのに。
御柱だけが軋んだ。
そして。
『気付いてる』
声。
女の声だった。
低く。
どこか笑っているような。
「誰だ!?」
思わず叫ぶ。
だが。
返事はない。
その代わり。
背後から。
「丈くん?」
「うおっ!?」
振り返ると、早苗が湯呑みを持ったまま立っていた。
「びっくりしました……」
「いや、今なんか――」
そこまで言って。
丈は口を閉じた。
なんて説明すればいいかわからなかった。
声が聞こえた。
なんて言ったら、普通は変なやつだと思われる。
だが。
早苗は真顔だった。
「……誰の声でした?」
「え?」
「男の人ですか? 女の人ですか?」
「女……っぽかった」
その瞬間。
早苗の顔色が変わった。
「えっ」
「な、なんだよ」
「神奈子様かもしれません」
「また神!」
「だって女の人ですし!」
「基準それなの!?」
早苗は慌てた様子で御柱を見上げる。
その姿を見て、丈は少しだけ息を呑んだ。
本気だ。
こいつ。
本気で、“いる”と思ってる。
ごっこ遊びじゃない。
冗談でもない。
たぶん。
早苗にとって神様は、空気みたいなものなのだ。
見えて。
触れて。
当たり前に存在するもの。
「……すげぇな、お前」
「え?」
「そこまで信じられるの」
すると。
早苗は少し困ったように笑った。
「信じるっていうか……いるので」
「だからそれがすげぇんだよ」
丈には、わからない。
見えるわけじゃない。
でも。
感じる。
何かいる。
それだけは、確かだった。
◇
帰宅した頃には、空はもう暗くなっていた。
「遅かったわね」
「神社いた」
「もう仲良くなったの?」
「別に」
ぶっきらぼうに答える。
だが。
母親は少し笑っていた。
「楽しそうじゃない」
「は?」
「顔」
「……別に」
自分ではわからなかった。
ただ。
不思議だった。
引っ越しなんて面倒だと思っていた。
知らない土地。
知らない学校。
知らない人間。
本来なら、嫌なことばかりのはずなのに。
なぜか。
今日は少しだけ、明日が気になっていた。
神社。
風。
山。
そして。
東風谷早苗。
変なやつ。
でも。
たぶん。
悪いやつじゃない。
風呂を終え、布団へ潜り込む。
静かな夜だった。
東京よりずっと暗い。
街灯も少ない。
だからこそ。
窓の外の月が、やけにはっきり見えた。
「……月でけぇな」
ぽつりと呟く。
その時だった。
かたん。
窓が鳴った。
「?」
風か。
そう思った。
だが。
窓の外。
一瞬だけ。
誰かがいた。
小さい影。
帽子。
にやにや笑う顔。
「っ!?」
丈が飛び起きる。
だが。
もう誰もいない。
窓の外には、夜の山だけが広がっていた。
「……なんなんだよ」
心臓がうるさい。
でも。
怖い、とは少し違った。
むしろ。
“見られている”。
そんな感覚。
そして。
どこか。
試されているような。
奇妙な感覚だった。
◇
翌朝。
「おはようございます!」
「朝から元気だな……」
家の前。
なぜか早苗がいた。
ランドセル姿。
満面の笑み。
「迎えに来ました!」
「なんで」
「同じ学校だからです!」
「距離感近ぇな……」
だが。
少しだけ嬉しそうな自分がいることに、丈は気付いてしまった。
春の朝。
山の風。
並んで歩く足音。
そして。
隣でずっと喋っている少女。
その光景を。
山のどこかから。
二柱の神が、静かに見下ろしていた。
『へぇ』
帽子の神が笑う。
『面白いの連れてきたねぇ』
長い髪の神は、黙ったまま丈を見つめていた。
その視線だけが。
妙に鋭かった。
まるで。
遥か昔の“誰か”を思い出すように。
◇
その日の夜。
丈は妙な夢を見た。
山。
巨大な湖。
風。
そして。
無数の“何か”が蠢いている。
蛇。
龍。
影。
目。
その全てが。
丈を見ていた。
『帰ってきた』
誰かが言う。
『今度こそ』
別の誰かが囁く。
『見つけた』
ざわざわ。
ざわざわ。
無数の声。
その中心。
湖の向こう側に。
一人の少女が立っていた。
白い巫女服。
風に揺れる緑の髪。
東風谷早苗。
だが。
その背後には。
巨大な“何か”がいた。
蛇。
いや。
神。
それはあまりにも巨大で。
古く。
そして。
どこか悲しそうだった。
丈が一歩踏み出した瞬間。
目が覚めた。
「……夢、か」
朝日。
鳥の声。
静かな部屋。
だが。
胸の奥だけが、妙にざわついていた。
そして。
窓の外。
山の方から。
風が吹いた。
まるで。
誰かが笑ったみたいに。