第十話「御柱祭」
朝から、町の空気が違っていた。
まだ日が高くないのに、道には人がいた。
家の前で荷物を確認する大人。
玄関先に出された長靴。
首に手拭いを巻いた男の人たち。
弁当の包みを持つ女の人たち。
いつもは静かな商店の前にも、今日は人が集まっている。
酒屋の前にはケースが積まれていた。
集会所の前では、黄色い腕章をつけた人が地図を見ていた。
遠くから、太鼓の音がする。
どん。
どん。
昨日まで、町は祭りを待っていた。
今日はもう、町そのものが動き出している。
丈は玄関を出て、しばらく立ち止まった。
「……すげぇな」
思わず呟く。
御柱祭。
諏訪大社の祭り。
けれど、そこへ向かう道のどこにも、関係のないものなんてないように見えた。
守矢神社も、ほかの神社も。
役場も。
市民会も。
商店街も。
学校の先生も。
町の人たちも。
昨日まで準備していたものが、今朝になって一斉に息をし始めた。
「丈くーん!」
坂の上から声がした。
顔を上げると、早苗が手を振っていた。
白い服。
少しだけ神社の子らしい格好。
髪が朝の風に揺れている。
隣には、早苗の父親もいた。
「おはようございます!」
「朝から元気だな」
「今日は御柱祭ですから!」
「いつも元気だろ」
「今日は特別です!」
早苗は本当に嬉しそうだった。
少し緊張もしている。
それがわかった。
「丈くん、ちゃんと眠れました?」
「まあ」
「また“まあ”です」
「便利なんだよ」
「今日くらい禁止です!」
「今日くらいって何だよ」
「御柱祭ですから!」
「全部それで通す気か」
「はい!」
胸を張る早苗。
その横で、早苗の父親が笑っていた。
「丈くん、おはよう」
「おはようございます」
「今日は人が多い。はぐれないようにね」
「はい」
「早苗も」
「はい!」
「あと、近づいてはいけない場所には近づかないこと」
父親の声が少し真面目になる。
「御柱祭は楽しい祭りだけれど、危ない祭りでもある」
「はい」
早苗が頷く。
丈も頷いた。
それは、昨日までの準備を見ていればわかる。
大人たちは浮かれていた。
でも、それ以上に真剣だった。
祭りなのに。
祭りだからこそ。
危ないのだ。
「じゃあ、行こうか」
父親が言った。
その時。
山の方から風が吹いた。
ざわり、と木々が鳴る。
道端の石の影。
家の軒下。
用水路の水面。
そこに、小さなものたちがいる気がした。
人ではない。
獣でもない。
形のはっきりしないものたち。
それらが、同じ方を向いている。
祭りの方へ。
諏訪大社の方へ。
「……」
「丈くん?」
「いや」
「また“いや”です」
「便利なんだよ」
「今日くらい禁止です」
「まだ言うか」
早苗は笑った。
でも、少しだけ同じ方を見ていた。
やっぱり、早苗にも見えている。
丈はそう思った。
◇
人が多かった。
本当に多かった。
道には幟が立っている。
法被を着た大人たち。
手拭いを巻いた若い人たち。
子供を肩車する父親。
カメラを持った人。
屋台の匂い。
焼きそば。
綿あめ。
味噌の焼ける匂い。
土の匂い。
木の匂い。
汗の匂い。
全部が混ざっていた。
「丈!」
声がした。
振り返ると、クラスの男子たちがいた。
いつもの騒がしいやつ。
その後ろに、よく屋台の話をしていたやつ。
真面目なやつ。
それから女子たち。
丈は一瞬、言葉に詰まった。
名前はわかる。
もうわかっている。
でも、まだ口に出すのが少し変な感じがした。
今さら。
そんな言い訳が頭をよぎる。
「おーい、丈!」
男子が手を振る。
「早苗ちゃんも!」
「おはようございます!」
早苗が手を振り返す。
「すげぇ人だな!」
男子が言う。
「ああ」
「お前、びびってる?」
「びびってねぇよ」
「顔がびびってるぞ!」
「お前もな」
「俺は興奮してるだけ!」
「似たようなもんだろ」
みんなが笑った。
丈も少し笑う。
その時、太鼓が鳴った。
どん。
どん。
空気が震える。
人の声が大きくなる。
遠くから木遣りが聞こえた。
「よいさー」
低い声。
揃った声。
山を呼ぶような声。
丈の胸の奥が、ざわりとした。
昨日まで聞いていた声とは違う。
練習ではない。
本番の声だ。
「始まるぞ!」
誰かが叫んだ。
人が動く。
大人たちが声をかけ合う。
綱が引かれる。
太い綱。
昨日、広場で見たものより、もっと大きく見えた。
その先に、御柱がある。
山から曳かれてきた大きな木。
ただの木ではない。
早苗がそう言っていた。
山から里へ降りてくるもの。
神様の柱になるもの。
丈は、それを見た瞬間、言葉を失った。
「……でか」
それしか言えなかった。
「でしょう!」
早苗がなぜか得意げに言う。
「お前のじゃないだろ」
「諏訪のです!」
「もっとでかい話になった」
「はい!」
早苗は目を輝かせていた。
周りの大人たちも。
子供たちも。
みんな、御柱を見ていた。
怖いくらいの熱だった。
◇
御柱が動き出す。
綱が張る。
大勢の人が声を合わせる。
「よいさー!」
地面が揺れた気がした。
本当に。
木が動く。
人が引く。
少しずつ。
けれど、確かに。
山から来た大きな木が、人の力で動いている。
丈は息を呑んだ。
機械ではない。
人だ。
何十人も。
何百人も。
声を合わせて。
足を踏ん張って。
汗を流して。
木を曳いている。
「すげぇ……」
自分でも、何度目かわからない言葉が漏れた。
「丈くん!」
早苗が言う。
「見えますか?」
「何が」
「全部です」
「全部って」
そう言いかけて。
丈は気づいた。
見えている。
人だけではない。
綱の周り。
御柱の影。
道端の石。
木の根元。
そこに、何かがいる。
小さなものたち。
形のはっきりしないものたち。
跳ねている。
揺れている。
木遣りに合わせて、楽しそうに動いている。
その奥。
山の方にも、影があった。
けれど、あの山のものとは違う。
赤い目ではない。
追ってくるものではない。
ただ、見ている。
祭りを。
人が山を呼ぶところを。
丈は、少しだけ怖くなった。
でも。
目を逸らさなかった。
「……見える」
小さく言う。
早苗が、ほっとしたように笑った。
「怖いですか?」
「怖い」
「はい」
「でも」
丈は御柱を見る。
綱を見る。
人を見る。
祭りを見る。
「嫌じゃない」
早苗が頷いた。
「はい」
太鼓が鳴る。
どん。
どん。
木遣りが響く。
「よいさー!」
人の声。
神社の気配。
山のざわめき。
町の熱。
全部が混ざっていた。
◇
木落しの場所に近づくと、空気が変わった。
人の熱が、さらに強くなる。
大人たちの顔が真剣になる。
子供たちは、決められた場所から見るように言われた。
丈たちも、少し離れた場所にいた。
早苗の父親が何度も確認する。
「ここから先へは行かないこと」
「はい」
「絶対にだよ」
「わかってます」
丈が答える。
早苗も頷く。
周りには、同級生たちもいた。
浩介。
健太。
祐一。
由香。
美咲。
名前が、頭に浮かぶ。
でも、まだ口には出ない。
いや。
出せない。
今さら急に呼ぶのも変だ。
そう思ってしまう。
「丈」
浩介が言った。
「ここからやばいぞ」
「見ればわかる」
「いや、ほんとにやばいから!」
「お前、さっきから語彙がやばいしかないな」
「やばいもんはやばい!」
健太が横で頷く。
「映像で見てもやばかったもんな」
「生はもっとだろ」
祐一が言う。
由香が少し顔をしかめる。
「怖いけど、見たいんだよね」
「わかります」
早苗が頷く。
美咲が早苗を見る。
「早苗ちゃんも怖いの?」
「怖いですよ」
「でも平気そう」
「平気ではないです」
早苗はそう言って、丈の袖を少し掴んだ。
いつもの確認ではない。
今日は、少しだけ違う。
丈は何も言わなかった。
ただ、逃げなかった。
御柱が斜面の上にある。
人が乗っている。
大人たちが叫ぶ。
木遣りが響く。
風が吹く。
山が鳴る。
そして。
御柱が落ちた。
世界が揺れた。
土煙が上がる。
歓声が爆発する。
悲鳴みたいな声。
笑い声。
太鼓。
木の軋む音。
大地を削る音。
丈の心臓が、強く鳴った。
「うわ……!」
誰かが叫ぶ。
浩介か。
健太か。
自分かもしれない。
わからなかった。
御柱が斜面を滑る。
人がしがみつく。
木が跳ねる。
土が舞う。
危ない。
怖い。
なのに、誰も目を逸らさない。
いや。
逸らせない。
丈もそうだった。
怖い。
だけど。
すごい。
言葉が、それしかない。
人が山を動かしている。
いや。
山が、人に応えている。
そんなふうに見えた。
その瞬間。
御柱の上に、何かが見えた。
小さな影ではない。
もっと大きい。
人ではない。
獣でもない。
風のようなもの。
蛇のようなもの。
木のようなもの。
笑っている。
歓声に混ざって。
神様なのか、山なのか、土地なのか。
丈にはわからなかった。
けれど。
それは、喜んでいた。
間違いなく。
喜んでいた。
「丈くん!」
早苗の声で、我に返る。
「大丈夫ですか?」
「……ああ」
「顔、すごいです」
「お前もな」
「私もですか?」
「たぶん」
早苗は少し笑った。
その目は、御柱を見ていた。
早苗にも見えている。
きっと。
土煙が晴れていく。
歓声はまだ続いている。
丈は息を吐いた。
手が震えていた。
怖さで。
興奮で。
それ以外の何かで。
◇
祭りは続いた。
御柱は里へ進む。
人が曳く。
声を合わせる。
道の両側に人が並ぶ。
屋台の匂いがする。
子供たちが走る。
大人たちが怒る。
老人たちが笑う。
役場の人が誘導する。
市民会の人が看板を持つ。
近くの神社の人たちが、白い装束で歩いている。
守矢神社の関係者も、あちこちで動いている。
早苗の父親も、何度も人と話していた。
丈はその全部を見ていた。
昨日まで見えていたものが、今日はさらに近かった。
水を配る人。
子供を止める人。
道を空ける人。
ただ笑っているように見えて、隣の老人を支えている人。
誰かが何かをしている。
誰かの声で、誰かが動く。
御柱だけが進んでいるわけではない。
人も、町も、祭りの中で動いていた。
丈は、少しだけ息苦しくなった。
嫌な息苦しさではない。
胸がいっぱいになる感じだった。
「丈、大丈夫か?」
浩介が言った。
丈はそちらを見る。
今度は。
口に出た。
「大丈夫だよ、浩介」
言ってから、自分で驚いた。
浩介が固まる。
「……え?」
「何だよ」
「今」
「何」
「俺の名前呼んだ?」
「呼んだだろ」
「呼んだよな!?」
浩介が周りを見る。
健太が目を丸くする。
「え、丈、俺は?」
今なら。
なぜか、言える気がした。
「健太」
「おお!」
健太が叫ぶ。
祐一が少し緊張した顔をする。
「俺は?」
「祐一」
「おお……」
祐一が本当に嬉しそうにする。
由香がにやっと笑う。
「私は?」
「由香」
「今ちょっと照れた?」
「照れてねぇ」
「じゃあ私は?」
「美咲」
「おおー」
美咲が拍手した。
「丈が名前呼んだ!」
「そんな大事件かよ」
「大事件だよ!」
浩介が丈の肩を叩く。
「なんだよ、覚えてんじゃん!」
「覚えてるって言ってただろ」
「でも呼ばなかったじゃん!」
「タイミング逃してたんだよ」
「何その理由!」
みんなが笑う。
早苗も笑っていた。
泣きそうなくらい嬉しそうに。
「丈くん」
「何」
「呼べましたね」
「大げさ」
「大げさじゃないです」
「ただの名前だろ」
「ただの名前じゃないです」
早苗はそう言った。
丈は何も返せなかった。
ただの名前。
そう言ったけれど。
確かに、ただの名前ではなかった。
名前を呼んだ瞬間。
みんなが、ただの同級生ではなくなった。
ちゃんと、ここにいる人になった。
浩介。
健太。
祐一。
由香。
美咲。
早苗。
この町にいる人たち。
自分の隣にいる人たち。
丈は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
御柱が進む。
人が声を上げる。
祭りはまだ続いている。
◇
夕方になる頃には、丈はくたくただった。
歩いた。
見た。
叫んだ。
笑った。
名前も呼んだ。
自分でも、今日一日で何かが変わった気がした。
御柱祭は、まだ完全には終わっていない。
けれど、丈たちは一度、守矢神社へ戻ることになった。
早苗の父親が言う。
「今日は、守矢でも少しだけ神楽をやる」
「神楽?」
丈が聞く。
「御柱祭は諏訪大社のお祭りだよ。けれど、守矢にとっても特別な日だ」
父親は穏やかに言った。
「だから、ささやかだけれどね」
早苗が、少し照れたようにこちらを見た。
「丈くん」
「ん?」
「見に来てくれますか?」
「来てるだろ」
「そうじゃなくて」
「見るよ」
丈が言うと、早苗は少し安心したように笑った。
◇
守矢神社の境内は、昼間の祭りとは違って静かだった。
けれど、静かなだけではない。
空気が張っている。
夕方の光が木々の間から差し込む。
御柱が影を落としている。
社務所にはまだ人がいる。
けれど、境内の中心は少しだけ別の場所みたいだった。
早苗は着替えていた。
巫女装束。
いつもより少し大人びて見える。
丈は、何も言えなかった。
「……何ですか」
早苗が少し不安そうに聞く。
「いや」
「また“いや”です」
「便利なんだよ」
「今日も禁止です」
「まだかよ」
「今日が終わるまでです」
早苗はそう言って、少し笑った。
けれど、すぐに表情を整える。
父親が神楽の準備をしている。
鈴。
扇。
榊。
小さな灯り。
派手ではない。
昼間の御柱祭の熱狂とは、まるで違う。
けれど。
丈は、なぜか目が離せなかった。
早苗が神楽を始める。
鈴が鳴る。
しゃん。
静かな音。
昼間の太鼓や木遣りとは違う。
けれど、深い。
風が止まる。
木々の音が消える。
早苗が舞う。
ゆっくりと。
丁寧に。
まだ子供なのに。
そこだけ、時間が少し違って見えた。
丈は息を止めた。
早苗は神様の話をする変なやつ。
朝から元気で。
傘を振り回して。
人の肩を確認と称して叩いて。
すぐ怒って。
すぐ笑う。
でも。
今の早苗は、神社の子だった。
風祝だった。
この土地と神様の間に立つ子だった。
鈴が鳴る。
しゃん。
その音に合わせて、境内の影が揺れた。
丈は、ふと視線を横に動かす。
誰かがいた。
神楽を見ている。
小さな影ではない。
はっきりとした姿。
帽子をかぶった、小柄な少女のような姿。
諏訪子。
丈は、なぜかそう思った。
そして。
その隣に、背の高い女が立っていた。
堂々としている。
腕を組み、御柱のようにまっすぐ立っている。
神奈子。
名前が、自然に浮かんだ。
「……」
丈は声を出せなかった。
今まで、声だけだった。
気配だけだった。
たまに、見えた気がしただけだった。
でも今は、見える。
はっきりと。
二柱は、早苗の神楽を見ていた。
諏訪子は、いつもの軽い顔ではなかった。
少しだけ寂しそうで。
少しだけ嬉しそうで。
それでも、目を逸らさずに見ていた。
神奈子は静かだった。
威厳がある。
けれど、その目は早苗を見守る大人の目だった。
神様。
本当に。
ここにいる。
丈の喉が鳴った。
怖い。
でも。
怖いだけではない。
ずっとここにいたのだ。
早苗には、ずっと見えていた。
神社には、ずっとこういうものがあった。
諏訪には、ずっとこういうものがいた。
丈が見えていなかっただけで。
鈴が鳴る。
しゃん。
早苗の袖が風に揺れる。
夕方の光が、神楽の場を照らす。
丈は、昼間の御柱を思い出した。
人が山を呼ぶところ。
山が人に応えるところ。
名前を呼んだ瞬間。
みんながちゃんと見えたこと。
そして今。
神様が見えている。
全部が、繋がった気がした。
諏訪大社の御柱祭。
守矢神社の神楽。
町の人たち。
同級生たち。
早苗。
神奈子。
諏訪子。
山。
湖。
風。
全部が、諏訪だった。
丈は、ようやくわかった。
好きだ。
この土地が。
この町が。
この風が。
この人たちが。
この神様たちが。
怖くても。
変でも。
面倒でも。
好きだ。
◇
神楽が終わった。
鈴の音が、境内に溶ける。
風が戻る。
木々がざわめく。
早苗がゆっくり頭を下げる。
丈はしばらく動けなかった。
早苗がこちらへ来る。
「丈くん」
「……」
「どうでした?」
いつもの声だった。
少し不安そうで。
少し期待している声。
丈は、言葉を探した。
でも、うまく出てこない。
「……すごかった」
「本当ですか?」
「ああ」
「怖くなかったですか?」
「怖かった」
「やっぱり」
「でも」
丈は境内を見る。
諏訪子と神奈子は、まだそこにいた。
早苗の後ろ。
御柱のそば。
二柱は、静かにこちらを見ている。
丈は息を吸った。
「嫌じゃない」
早苗が少し笑う。
「丈くんらしいです」
「あと」
「はい」
「俺、諏訪が好きだ」
言った。
言えた。
今度は、逃げずに。
早苗が目を丸くする。
「……」
「何か言えよ」
「い、今」
「言った」
「もう一回」
「嫌だ」
「なんでですか!」
「恥ずい」
「言ってください!」
「嫌だって」
「確認です!」
「今の流れで?」
ぽん。
早苗が丈の肩を叩く。
少し強い。
「痛って」
「あっ、すみません!」
「嬉しいと力強くなんの、変わってねぇな」
「だって」
早苗は笑っていた。
でも、目が少し潤んでいた。
「嬉しいんです」
「……そうかよ」
丈は目を逸らす。
すると。
くすっ、と声がした。
聞き覚えのある軽い声。
「やっと言ったねぇ」
丈は振り返る。
諏訪子が、そこにいた。
今度ははっきり。
見間違いではない。
「……お前」
「お前呼ばわりとは失礼だね」
「ずっと頭の中で喋ってたやつだろ」
「さあ?」
「その“さあ”で確定だろ」
諏訪子はけらけら笑った。
けれど、少しだけ目を逸らした。
「丈くん」
早苗が隣で小さく言う。
「見えてるんですか?」
「見えてる」
「諏訪子さまが?」
「ああ」
早苗の顔がぱっと明るくなる。
「本当に?」
「本当」
「神奈子さまも?」
丈は、背の高い方を見る。
神奈子は腕を組んでいた。
目が合う。
「見えているようね」
神奈子が言った。
声は落ち着いている。
でも、少しだけ満足そうだった。
「……あんたが神奈子?」
「そうよ」
「もっと怖いの想像してた」
「十分怖いでしょう?」
「自分で言うなよ」
「神だからね!」
「そこでテンション上がるのかよ」
神奈子は少し笑った。
早苗が、嬉しそうに二柱を見る。
「丈くん、神奈子さまと諏訪子さまが見えるようになったんですね」
「ああ」
「すごいです」
「すごいのか?」
「すごいです!」
早苗は本当に嬉しそうだった。
諏訪子が横から口を挟む。
「別に、見えたから偉いってわけじゃないけどね」
「お前、素直に喜ばないな」
「お前じゃなくて諏訪子さま」
「さま?」
「つける?」
「……諏訪子」
「まあ、今はそれでいいや」
諏訪子は笑った。
その笑い方は軽い。
いつもの声と同じ。
けれど。
どこか、長い時間の奥から出てきたような笑いだった。
神奈子が言う。
「丈。あなたはこの土地を受け入れた」
「そんな大げさな」
「大げさではないわ」
「俺、ただ好きって言っただけだぞ」
「それが大事なのよ」
神奈子の声は静かだった。
「神も土地も、人が向き合わなければ見えない」
「……」
「あなたは今日、諏訪をちゃんと見た。だから、諏訪もあなたを見た」
丈は何も言えなかった。
諏訪が自分を見る。
よくわからない。
でも。
今日一日を思い出すと、少しだけわかる気がした。
人を見た。
名前を呼んだ。
祭りを見た。
神楽を見た。
神を見た。
そういうことなのかもしれない。
「丈くん」
早苗が言う。
「よかったです」
「何が」
「一緒に見られて」
「……」
丈は照れくさくなって、目を逸らした。
「まあ」
「また“まあ”です」
「便利なんだよ」
「今日くらい禁止です!」
「今日もう終わるだろ」
「終わるまで禁止です!」
早苗がぷんすか怒る。
諏訪子が笑う。
神奈子も少し笑う。
御柱が、ぎし、と鳴った。
山から風が吹く。
夜になりかけた空に、祭りの余韻がまだ残っていた。
◇
帰り道。
祭りの熱は、まだ町に残っていた。
遠くで人の声がする。
屋台の明かり。
片付けをする大人たち。
疲れて眠そうな子供。
笑いながら歩く老人たち。
道には、昼間の土の匂いが残っている。
丈と早苗は、少しだけ遠回りして歩いた。
「丈くん」
「ん?」
「今日は、すごい日でしたね」
「ああ」
「御柱祭、どうでした?」
「すごかった」
「そればっかりです」
「語彙が追いつかねぇ」
「丈くんらしいです」
「便利だな、それ」
「便利です」
二人で笑う。
諏訪湖の方へ出ると、夜の水面が静かに揺れていた。
昼間の熱が嘘みたいに、湖は静かだった。
でも。
どこかでまだ、木遣りの声が響いている気がした。
よいさー。
よいさー。
丈は湖を見た。
山を見た。
町の灯りを見た。
そして、隣の早苗を見た。
「早苗」
「はい?」
「今日は、ありがとな」
「えっ」
「神楽、見せてくれて」
「……はい」
早苗は少し照れたように笑った。
「どういたしまして」
「あと」
「はい」
「諏訪子と神奈子に会えた」
「はい」
「変な神様だな」
「丈くん!?」
「でも」
丈は少し笑う。
「嫌いじゃない」
早苗も笑った。
「それ、丈くんの好きに近いですね」
「うるせぇ」
「ふふ」
湖の上を風が渡る。
その風の中に、鈴の音が混じった気がした。
しゃん。
昼間の熱。
夕方の神楽。
神様の姿。
友達の名前。
全部が、丈の中に残っている。
丈は、ここにいる。
諏訪にいる。
そのことが、今ははっきりわかった。
「……悪くないな、諏訪」
いつもの言葉が出た。
でも、すぐに違うと思った。
足りない。
もう、その言葉では足りない。
丈は、もう一度湖を見た。
そして、小さく言った。
「いや」
「丈くん?」
「好きだな、諏訪」
今度は、早苗は何も言わなかった。
ただ、隣で嬉しそうに笑った。
少しして。
ぽん、と肩を叩かれる。
「確認です」
「今の必要あったか?」
「ありました」
「そうかよ」
丈は笑った。
山から風が吹いた。
湖が揺れた。
遠くで、御柱祭の最後の声が聞こえた気がした。
よいさー。
それは、夜の諏訪に静かに溶けていった。
そして丈は。
この土地に、自分の足がちゃんとついているのを感じていた。