現人神な幼馴染   作:全肯定逆張りおじさん

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第十話「御柱祭②」

第十話「御柱祭」

 

 朝から、町の空気が違っていた。

 まだ日が高くないのに、道には人がいた。

 家の前で荷物を確認する大人。

 玄関先に出された長靴。

 首に手拭いを巻いた男の人たち。

 弁当の包みを持つ女の人たち。

 

 いつもは静かな商店の前にも、今日は人が集まっている。

 酒屋の前にはケースが積まれていた。

 集会所の前では、黄色い腕章をつけた人が地図を見ていた。

 

 遠くから、太鼓の音がする。

 どん。

 どん。

 

 昨日まで、町は祭りを待っていた。

 今日はもう、町そのものが動き出している。

 

 丈は玄関を出て、しばらく立ち止まった。

 

「……すげぇな」

 

 思わず呟く。

 御柱祭。

 

 諏訪大社の祭り。

 

 けれど、そこへ向かう道のどこにも、関係のないものなんてないように見えた。

 守矢神社も、ほかの神社も。

 役場も。

 市民会も。

 商店街も。

 学校の先生も。

 町の人たちも。

 

 昨日まで準備していたものが、今朝になって一斉に息をし始めた。

 

「丈くーん!」

 

 坂の上から声がした。

 顔を上げると、早苗が手を振っていた。

 白い服。

 少しだけ神社の子らしい格好。

 髪が朝の風に揺れている。

 隣には、早苗の父親もいた。

 

「おはようございます!」

 

「朝から元気だな」

 

「今日は御柱祭ですから!」

 

「いつも元気だろ」

 

「今日は特別です!」

 

 早苗は本当に嬉しそうだった。

 少し緊張もしている。

 それがわかった。

 

「丈くん、ちゃんと眠れました?」

 

「まあ」

 

「また“まあ”です」

 

「便利なんだよ」

 

「今日くらい禁止です!」

 

「今日くらいって何だよ」

 

「御柱祭ですから!」

 

「全部それで通す気か」

 

「はい!」

 

 胸を張る早苗。

 その横で、早苗の父親が笑っていた。

 

「丈くん、おはよう」

 

「おはようございます」

 

「今日は人が多い。はぐれないようにね」

 

「はい」

 

「早苗も」

 

「はい!」

 

「あと、近づいてはいけない場所には近づかないこと」

 

 父親の声が少し真面目になる。

 

「御柱祭は楽しい祭りだけれど、危ない祭りでもある」

 

「はい」

 

 早苗が頷く。

 丈も頷いた。

 それは、昨日までの準備を見ていればわかる。

 大人たちは浮かれていた。

 

 でも、それ以上に真剣だった。

 祭りなのに。

 祭りだからこそ。

 危ないのだ。

 

「じゃあ、行こうか」

 

 父親が言った。

 

 その時。

 山の方から風が吹いた。

 ざわり、と木々が鳴る。

 道端の石の影。

 家の軒下。

 用水路の水面。

 

 そこに、小さなものたちがいる気がした。

 人ではない。

 獣でもない。

 形のはっきりしないものたち。

 それらが、同じ方を向いている。

 祭りの方へ。

 諏訪大社の方へ。

 

「……」

 

「丈くん?」

 

「いや」

 

「また“いや”です」

 

「便利なんだよ」

 

「今日くらい禁止です」

 

「まだ言うか」

 

 早苗は笑った。

 

 でも、少しだけ同じ方を見ていた。

 やっぱり、早苗にも見えている。

 丈はそう思った。

 

     ◇

 

 人が多かった。

 本当に多かった。

 道には幟が立っている。

 法被を着た大人たち。

 手拭いを巻いた若い人たち。

 子供を肩車する父親。

 カメラを持った人。

 

 屋台の匂い。

 焼きそば。

 綿あめ。

 味噌の焼ける匂い。

 

 土の匂い。

 木の匂い。

 汗の匂い。

 

 全部が混ざっていた。

 

「丈!」

 

 声がした。

 振り返ると、クラスの男子たちがいた。

 いつもの騒がしいやつ。

 その後ろに、よく屋台の話をしていたやつ。

 真面目なやつ。

 

 それから女子たち。

 丈は一瞬、言葉に詰まった。

 

 名前はわかる。

 もうわかっている。

 でも、まだ口に出すのが少し変な感じがした。

 

 今さら。

 そんな言い訳が頭をよぎる。

 

「おーい、丈!」

 

 男子が手を振る。

 

「早苗ちゃんも!」

 

「おはようございます!」

 

 早苗が手を振り返す。

 

「すげぇ人だな!」

 

 男子が言う。

 

「ああ」

 

「お前、びびってる?」

 

「びびってねぇよ」

 

「顔がびびってるぞ!」

 

「お前もな」

 

「俺は興奮してるだけ!」

 

「似たようなもんだろ」

 

 みんなが笑った。

 丈も少し笑う。

 その時、太鼓が鳴った。

 どん。

 どん。

 

 空気が震える。

 人の声が大きくなる。

 遠くから木遣りが聞こえた。

 

「よいさー」

 

 低い声。

 揃った声。

 山を呼ぶような声。

 丈の胸の奥が、ざわりとした。

 昨日まで聞いていた声とは違う。

 練習ではない。

 本番の声だ。

 

「始まるぞ!」

 

 誰かが叫んだ。

 人が動く。

 大人たちが声をかけ合う。

 綱が引かれる。

 太い綱。

 

 昨日、広場で見たものより、もっと大きく見えた。

 その先に、御柱がある。

 山から曳かれてきた大きな木。

 

 ただの木ではない。

 早苗がそう言っていた。

 山から里へ降りてくるもの。

 神様の柱になるもの。

 丈は、それを見た瞬間、言葉を失った。

 

「……でか」

 

 それしか言えなかった。

 

「でしょう!」

 

 早苗がなぜか得意げに言う。

 

「お前のじゃないだろ」

 

「諏訪のです!」

 

「もっとでかい話になった」

 

「はい!」

 

 早苗は目を輝かせていた。

 周りの大人たちも。

 子供たちも。

 みんな、御柱を見ていた。

 怖いくらいの熱だった。

 

     ◇

 

 御柱が動き出す。

 綱が張る。

 大勢の人が声を合わせる。

 

「よいさー!」

 

 地面が揺れた気がした。

 本当に。

 木が動く。

 人が引く。

 少しずつ。

 けれど、確かに。

 山から来た大きな木が、人の力で動いている。

 

 丈は息を呑んだ。

 機械ではない。

 

 人だ。

 何十人も。

 何百人も。

 声を合わせて。

 足を踏ん張って。

 汗を流して。

 木を曳いている。

 

「すげぇ……」

 

 自分でも、何度目かわからない言葉が漏れた。

 

「丈くん!」

 

 早苗が言う。

 

「見えますか?」

 

「何が」

 

「全部です」

 

「全部って」

 

 そう言いかけて。

 丈は気づいた。

 

 見えている。

 人だけではない。

 綱の周り。

 御柱の影。

 道端の石。

 木の根元。

 そこに、何かがいる。

 

 小さなものたち。

 形のはっきりしないものたち。

 跳ねている。

 揺れている。

 木遣りに合わせて、楽しそうに動いている。

 その奥。

 山の方にも、影があった。

 

 けれど、あの山のものとは違う。

 赤い目ではない。

 追ってくるものではない。

 

 ただ、見ている。

 祭りを。

 人が山を呼ぶところを。

 丈は、少しだけ怖くなった。

 

 でも。

 目を逸らさなかった。

 

「……見える」

 

 小さく言う。

 早苗が、ほっとしたように笑った。

 

「怖いですか?」

 

「怖い」

 

「はい」

 

「でも」

 

 丈は御柱を見る。

 綱を見る。

 人を見る。

 祭りを見る。

 

「嫌じゃない」

 

 早苗が頷いた。

 

「はい」

 

 太鼓が鳴る。

 どん。

 どん。

 

 木遣りが響く。

 

「よいさー!」

 

 人の声。

 神社の気配。

 山のざわめき。

 町の熱。

 全部が混ざっていた。

 

     ◇

 

 木落しの場所に近づくと、空気が変わった。

 人の熱が、さらに強くなる。

 大人たちの顔が真剣になる。

 子供たちは、決められた場所から見るように言われた。

 

 丈たちも、少し離れた場所にいた。

 早苗の父親が何度も確認する。

 

「ここから先へは行かないこと」

 

「はい」

 

「絶対にだよ」

 

「わかってます」

 

 丈が答える。

 早苗も頷く。

 周りには、同級生たちもいた。

 

 浩介。

 健太。

 祐一。

 由香。

 美咲。

 名前が、頭に浮かぶ。

 

 でも、まだ口には出ない。

 いや。

 出せない。

 今さら急に呼ぶのも変だ。

 そう思ってしまう。

 

「丈」

 

 浩介が言った。

 

「ここからやばいぞ」

 

「見ればわかる」

 

「いや、ほんとにやばいから!」

 

「お前、さっきから語彙がやばいしかないな」

 

「やばいもんはやばい!」

 

 健太が横で頷く。

 

「映像で見てもやばかったもんな」

 

「生はもっとだろ」

 

 祐一が言う。

 

 由香が少し顔をしかめる。

 

「怖いけど、見たいんだよね」

 

「わかります」

 

 早苗が頷く。

 

 美咲が早苗を見る。

 

「早苗ちゃんも怖いの?」

 

「怖いですよ」

 

「でも平気そう」

 

「平気ではないです」

 

 早苗はそう言って、丈の袖を少し掴んだ。

 いつもの確認ではない。

 

 今日は、少しだけ違う。

 丈は何も言わなかった。

 ただ、逃げなかった。

 御柱が斜面の上にある。

 人が乗っている。

 大人たちが叫ぶ。

 木遣りが響く。

 風が吹く。

 山が鳴る。

 

 そして。

 御柱が落ちた。

 世界が揺れた。

 土煙が上がる。

 歓声が爆発する。

 悲鳴みたいな声。

 笑い声。

 太鼓。

 木の軋む音。

 大地を削る音。

 丈の心臓が、強く鳴った。

 

「うわ……!」

 

 誰かが叫ぶ。

 浩介か。

 健太か。

 自分かもしれない。

 わからなかった。

 

 御柱が斜面を滑る。

 人がしがみつく。

 木が跳ねる。

 土が舞う。

 危ない。

 怖い。

 なのに、誰も目を逸らさない。

 

 いや。

 逸らせない。

 丈もそうだった。

 

 怖い。

 だけど。

 すごい。

 言葉が、それしかない。

 人が山を動かしている。

 

 いや。

 山が、人に応えている。

 そんなふうに見えた。

 

 その瞬間。

 御柱の上に、何かが見えた。

 小さな影ではない。

 もっと大きい。

 人ではない。

 獣でもない。

 

 風のようなもの。

 蛇のようなもの。

 木のようなもの。

 笑っている。

 歓声に混ざって。

 神様なのか、山なのか、土地なのか。

 丈にはわからなかった。

 

 けれど。

 それは、喜んでいた。

 間違いなく。

 喜んでいた。

 

「丈くん!」

 

 早苗の声で、我に返る。

 

「大丈夫ですか?」

 

「……ああ」

 

「顔、すごいです」

 

「お前もな」

 

「私もですか?」

 

「たぶん」

 

 早苗は少し笑った。

 その目は、御柱を見ていた。

 早苗にも見えている。

 きっと。

 土煙が晴れていく。

 歓声はまだ続いている。

 丈は息を吐いた。

 手が震えていた。

 怖さで。

 興奮で。

 それ以外の何かで。

 

     ◇

 

 祭りは続いた。

 御柱は里へ進む。

 人が曳く。

 声を合わせる。

 道の両側に人が並ぶ。

 屋台の匂いがする。

 子供たちが走る。

 大人たちが怒る。

 老人たちが笑う。

 役場の人が誘導する。

 市民会の人が看板を持つ。

 近くの神社の人たちが、白い装束で歩いている。

 守矢神社の関係者も、あちこちで動いている。

 早苗の父親も、何度も人と話していた。

 丈はその全部を見ていた。

 

 昨日まで見えていたものが、今日はさらに近かった。

 水を配る人。

 子供を止める人。

 道を空ける人。

 ただ笑っているように見えて、隣の老人を支えている人。

 

 誰かが何かをしている。

 誰かの声で、誰かが動く。

 御柱だけが進んでいるわけではない。

 人も、町も、祭りの中で動いていた。

 丈は、少しだけ息苦しくなった。

 嫌な息苦しさではない。

 胸がいっぱいになる感じだった。

 

「丈、大丈夫か?」

 

 浩介が言った。

 

 丈はそちらを見る。

 今度は。

 口に出た。

 

「大丈夫だよ、浩介」

 

 言ってから、自分で驚いた。

 浩介が固まる。

 

「……え?」

 

「何だよ」

 

「今」

 

「何」

 

「俺の名前呼んだ?」

 

「呼んだだろ」

 

「呼んだよな!?」

 

 浩介が周りを見る。

 健太が目を丸くする。

 

「え、丈、俺は?」

 

 今なら。

 なぜか、言える気がした。

 

「健太」

 

「おお!」

 

 健太が叫ぶ。

 祐一が少し緊張した顔をする。

 

「俺は?」

 

「祐一」

 

「おお……」

 

 祐一が本当に嬉しそうにする。

 由香がにやっと笑う。

 

「私は?」

 

「由香」

 

「今ちょっと照れた?」

 

「照れてねぇ」

 

「じゃあ私は?」

 

「美咲」

 

「おおー」

 

 美咲が拍手した。

 

「丈が名前呼んだ!」

 

「そんな大事件かよ」

 

「大事件だよ!」

 

 浩介が丈の肩を叩く。

 

「なんだよ、覚えてんじゃん!」

 

「覚えてるって言ってただろ」

 

「でも呼ばなかったじゃん!」

 

「タイミング逃してたんだよ」

 

「何その理由!」

 

 みんなが笑う。

 早苗も笑っていた。

 泣きそうなくらい嬉しそうに。

 

「丈くん」

 

「何」

 

「呼べましたね」

 

「大げさ」

 

「大げさじゃないです」

 

「ただの名前だろ」

 

「ただの名前じゃないです」

 

 早苗はそう言った。

 丈は何も返せなかった。

 

 ただの名前。

 そう言ったけれど。

 確かに、ただの名前ではなかった。

 名前を呼んだ瞬間。

 みんなが、ただの同級生ではなくなった。

 ちゃんと、ここにいる人になった。

 浩介。

 健太。

 祐一。

 由香。

 美咲。

 早苗。

 この町にいる人たち。

 自分の隣にいる人たち。

 丈は、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

 御柱が進む。

 人が声を上げる。

 祭りはまだ続いている。

 

     ◇

 

 夕方になる頃には、丈はくたくただった。

 歩いた。

 見た。

 叫んだ。

 笑った。

 名前も呼んだ。

 

 自分でも、今日一日で何かが変わった気がした。

 御柱祭は、まだ完全には終わっていない。

 けれど、丈たちは一度、守矢神社へ戻ることになった。

 早苗の父親が言う。

 

「今日は、守矢でも少しだけ神楽をやる」

 

「神楽?」

 

 丈が聞く。

 

「御柱祭は諏訪大社のお祭りだよ。けれど、守矢にとっても特別な日だ」

 

 父親は穏やかに言った。

 

「だから、ささやかだけれどね」

 

 早苗が、少し照れたようにこちらを見た。

 

「丈くん」

 

「ん?」

 

「見に来てくれますか?」

 

「来てるだろ」

 

「そうじゃなくて」

 

「見るよ」

 

 丈が言うと、早苗は少し安心したように笑った。

 

     ◇

 

 守矢神社の境内は、昼間の祭りとは違って静かだった。

 けれど、静かなだけではない。

 

 空気が張っている。

 夕方の光が木々の間から差し込む。

 御柱が影を落としている。

 社務所にはまだ人がいる。

 けれど、境内の中心は少しだけ別の場所みたいだった。

 

 早苗は着替えていた。

 巫女装束。

 いつもより少し大人びて見える。

 丈は、何も言えなかった。

 

「……何ですか」

 

 早苗が少し不安そうに聞く。

 

「いや」

 

「また“いや”です」

 

「便利なんだよ」

 

「今日も禁止です」

 

「まだかよ」

 

「今日が終わるまでです」

 

 早苗はそう言って、少し笑った。

 けれど、すぐに表情を整える。

 父親が神楽の準備をしている。

 

 鈴。

 扇。

 榊。

 小さな灯り。

 派手ではない。

 

 昼間の御柱祭の熱狂とは、まるで違う。

 けれど。

 丈は、なぜか目が離せなかった。

 

 早苗が神楽を始める。

 鈴が鳴る。

 しゃん。

 

 静かな音。

 昼間の太鼓や木遣りとは違う。

 

 けれど、深い。

 風が止まる。

 

 木々の音が消える。

 早苗が舞う。

 

 ゆっくりと。

 丁寧に。

 

 まだ子供なのに。

 そこだけ、時間が少し違って見えた。

 

 丈は息を止めた。

 早苗は神様の話をする変なやつ。

 

 朝から元気で。

 傘を振り回して。

 

 人の肩を確認と称して叩いて。

 すぐ怒って。

 すぐ笑う。

 

 でも。

 今の早苗は、神社の子だった。

 風祝だった。

 この土地と神様の間に立つ子だった。

 

 鈴が鳴る。

 しゃん。

 

 その音に合わせて、境内の影が揺れた。

 丈は、ふと視線を横に動かす。

 

 誰かがいた。

 

 神楽を見ている。

 小さな影ではない。

 はっきりとした姿。

 帽子をかぶった、小柄な少女のような姿。

 

 諏訪子。

 

 丈は、なぜかそう思った。

 そして。

 その隣に、背の高い女が立っていた。

 堂々としている。

 腕を組み、御柱のようにまっすぐ立っている。

 

 神奈子。

 

 名前が、自然に浮かんだ。

 

「……」

 

 丈は声を出せなかった。

 今まで、声だけだった。

 気配だけだった。

 たまに、見えた気がしただけだった。

 

 でも今は、見える。

 はっきりと。

 

 二柱は、早苗の神楽を見ていた。

 諏訪子は、いつもの軽い顔ではなかった。

 少しだけ寂しそうで。

 少しだけ嬉しそうで。

 それでも、目を逸らさずに見ていた。

 

 神奈子は静かだった。

 威厳がある。

 けれど、その目は早苗を見守る大人の目だった。

 

 神様。

 本当に。

 ここにいる。

 丈の喉が鳴った。

 

 怖い。

 でも。

 怖いだけではない。

 ずっとここにいたのだ。

 

 早苗には、ずっと見えていた。

 神社には、ずっとこういうものがあった。

 諏訪には、ずっとこういうものがいた。

 丈が見えていなかっただけで。

 

 鈴が鳴る。

 しゃん。

 

 早苗の袖が風に揺れる。

 夕方の光が、神楽の場を照らす。

 

 丈は、昼間の御柱を思い出した。

 人が山を呼ぶところ。

 山が人に応えるところ。

 名前を呼んだ瞬間。

 みんながちゃんと見えたこと。

 

 そして今。

 神様が見えている。

 全部が、繋がった気がした。

 諏訪大社の御柱祭。

 守矢神社の神楽。

 

 町の人たち。

 同級生たち。

 早苗。

 神奈子。

 諏訪子。

 

 山。

 湖。

 風。

 

 全部が、諏訪だった。

 

 丈は、ようやくわかった。

 好きだ。

 

 この土地が。

 この町が。

 この風が。

 この人たちが。

 この神様たちが。

 

 怖くても。

 変でも。

 面倒でも。

 好きだ。

 

     ◇

 

 神楽が終わった。

 鈴の音が、境内に溶ける。

 

 風が戻る。

 木々がざわめく。

 

 早苗がゆっくり頭を下げる。

 丈はしばらく動けなかった。

 早苗がこちらへ来る。

 

「丈くん」

 

「……」

 

「どうでした?」

 

 いつもの声だった。

 少し不安そうで。

 少し期待している声。

 丈は、言葉を探した。

 でも、うまく出てこない。

 

「……すごかった」

 

「本当ですか?」

 

「ああ」

 

「怖くなかったですか?」

 

「怖かった」

 

「やっぱり」

 

「でも」

 

 丈は境内を見る。

 諏訪子と神奈子は、まだそこにいた。

 早苗の後ろ。

 御柱のそば。

 二柱は、静かにこちらを見ている。

 丈は息を吸った。

 

「嫌じゃない」

 

 早苗が少し笑う。

 

「丈くんらしいです」

 

「あと」

 

「はい」

 

「俺、諏訪が好きだ」

 

 言った。

 言えた。

 

 今度は、逃げずに。

 早苗が目を丸くする。

 

「……」

 

「何か言えよ」

 

「い、今」

 

「言った」

 

「もう一回」

 

「嫌だ」

 

「なんでですか!」

 

「恥ずい」

 

「言ってください!」

 

「嫌だって」

 

「確認です!」

 

「今の流れで?」

 

 ぽん。

 

 早苗が丈の肩を叩く。

 

 少し強い。

 

「痛って」

 

「あっ、すみません!」

 

「嬉しいと力強くなんの、変わってねぇな」

 

「だって」

 

 早苗は笑っていた。

 でも、目が少し潤んでいた。

 

「嬉しいんです」

 

「……そうかよ」

 

 丈は目を逸らす。

 

 すると。

 くすっ、と声がした。

 聞き覚えのある軽い声。

 

「やっと言ったねぇ」

 

 丈は振り返る。

 諏訪子が、そこにいた。

 今度ははっきり。

 見間違いではない。

 

「……お前」

 

「お前呼ばわりとは失礼だね」

 

「ずっと頭の中で喋ってたやつだろ」

 

「さあ?」

 

「その“さあ”で確定だろ」

 

 諏訪子はけらけら笑った。

 けれど、少しだけ目を逸らした。

 

「丈くん」

 

 早苗が隣で小さく言う。

 

「見えてるんですか?」

 

「見えてる」

 

「諏訪子さまが?」

 

「ああ」

 

 早苗の顔がぱっと明るくなる。

 

「本当に?」

 

「本当」

 

「神奈子さまも?」

 

 丈は、背の高い方を見る。

 神奈子は腕を組んでいた。

 目が合う。

 

「見えているようね」

 

 神奈子が言った。

 声は落ち着いている。

 でも、少しだけ満足そうだった。

 

「……あんたが神奈子?」

 

「そうよ」

 

「もっと怖いの想像してた」

 

「十分怖いでしょう?」

 

「自分で言うなよ」

 

「神だからね!」

 

「そこでテンション上がるのかよ」

 

 神奈子は少し笑った。

 早苗が、嬉しそうに二柱を見る。

 

「丈くん、神奈子さまと諏訪子さまが見えるようになったんですね」

 

「ああ」

 

「すごいです」

 

「すごいのか?」

 

「すごいです!」

 

 早苗は本当に嬉しそうだった。

 諏訪子が横から口を挟む。

 

「別に、見えたから偉いってわけじゃないけどね」

 

「お前、素直に喜ばないな」

 

「お前じゃなくて諏訪子さま」

 

「さま?」

 

「つける?」

 

「……諏訪子」

 

「まあ、今はそれでいいや」

 

 諏訪子は笑った。

 その笑い方は軽い。

 いつもの声と同じ。

 

 けれど。

 どこか、長い時間の奥から出てきたような笑いだった。

 

 神奈子が言う。

 

「丈。あなたはこの土地を受け入れた」

 

「そんな大げさな」

 

「大げさではないわ」

 

「俺、ただ好きって言っただけだぞ」

 

「それが大事なのよ」

 

 神奈子の声は静かだった。

 

「神も土地も、人が向き合わなければ見えない」

 

「……」

 

「あなたは今日、諏訪をちゃんと見た。だから、諏訪もあなたを見た」

 

 丈は何も言えなかった。

 諏訪が自分を見る。

 よくわからない。

 

 でも。

 今日一日を思い出すと、少しだけわかる気がした。

 

 人を見た。

 名前を呼んだ。

 祭りを見た。

 神楽を見た。

 神を見た。

 そういうことなのかもしれない。

 

「丈くん」

 

 早苗が言う。

 

「よかったです」

 

「何が」

 

「一緒に見られて」

 

「……」

 

 丈は照れくさくなって、目を逸らした。

 

「まあ」

 

「また“まあ”です」

 

「便利なんだよ」

 

「今日くらい禁止です!」

 

「今日もう終わるだろ」

 

「終わるまで禁止です!」

 

 早苗がぷんすか怒る。

 諏訪子が笑う。

 神奈子も少し笑う。

 御柱が、ぎし、と鳴った。

 

 山から風が吹く。

 夜になりかけた空に、祭りの余韻がまだ残っていた。

 

     ◇

 

 帰り道。

 祭りの熱は、まだ町に残っていた。

 遠くで人の声がする。

 屋台の明かり。

 片付けをする大人たち。

 疲れて眠そうな子供。

 笑いながら歩く老人たち。

 道には、昼間の土の匂いが残っている。

 丈と早苗は、少しだけ遠回りして歩いた。

 

「丈くん」

 

「ん?」

 

「今日は、すごい日でしたね」

 

「ああ」

 

「御柱祭、どうでした?」

 

「すごかった」

 

「そればっかりです」

 

「語彙が追いつかねぇ」

 

「丈くんらしいです」

 

「便利だな、それ」

 

「便利です」

 

 二人で笑う。

 諏訪湖の方へ出ると、夜の水面が静かに揺れていた。

 昼間の熱が嘘みたいに、湖は静かだった。

 

 でも。

 どこかでまだ、木遣りの声が響いている気がした。

 よいさー。

 よいさー。

 

 丈は湖を見た。

 山を見た。

 町の灯りを見た。

 

 そして、隣の早苗を見た。

 

「早苗」

 

「はい?」

 

「今日は、ありがとな」

 

「えっ」

 

「神楽、見せてくれて」

 

「……はい」

 

 早苗は少し照れたように笑った。

 

「どういたしまして」

 

「あと」

 

「はい」

 

「諏訪子と神奈子に会えた」

 

「はい」

 

「変な神様だな」

 

「丈くん!?」

 

「でも」

 

 丈は少し笑う。

 

「嫌いじゃない」

 

 早苗も笑った。

 

「それ、丈くんの好きに近いですね」

 

「うるせぇ」

 

「ふふ」

 

 湖の上を風が渡る。

 その風の中に、鈴の音が混じった気がした。

 しゃん。

 

 昼間の熱。

 夕方の神楽。

 神様の姿。

 友達の名前。

 全部が、丈の中に残っている。

 丈は、ここにいる。

 

 諏訪にいる。

 そのことが、今ははっきりわかった。

 

「……悪くないな、諏訪」

 

 いつもの言葉が出た。

 でも、すぐに違うと思った。

 足りない。

 もう、その言葉では足りない。

 丈は、もう一度湖を見た。

 そして、小さく言った。

 

「いや」

 

「丈くん?」

 

「好きだな、諏訪」

 

 今度は、早苗は何も言わなかった。

 ただ、隣で嬉しそうに笑った。

 少しして。

 

 ぽん、と肩を叩かれる。

 

「確認です」

 

「今の必要あったか?」

 

「ありました」

 

「そうかよ」

 

 丈は笑った。

 

 山から風が吹いた。

 湖が揺れた。

 

 遠くで、御柱祭の最後の声が聞こえた気がした。

 よいさー。

 

 それは、夜の諏訪に静かに溶けていった。

 

 そして丈は。

 この土地に、自分の足がちゃんとついているのを感じていた。

 

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