第十一話 「御柱の後に」
第十一話 「御柱の後に」
御柱祭が終わった。
終わってしまえば、町は案外、普通に戻る。
昨日まで道に立っていた幟は外され、広場に積まれていた木材も片付けられた。
太鼓の音も、木遣りの声も、もう聞こえない。
屋台の匂いも薄くなって、商店街の前にはいつもの朝が戻っていた。
それでも。
丈には、何かが少しだけ違って見えた。
道端の石。
用水路の水。
遠くの山。
学校へ向かう坂道。
全部、昨日までと同じはずなのに。
昨日より少し、近い。
見ていないふりをしていたものが、向こうからこちらを見返してくるような。
そんな感じがした。
「……変な感じだな」
丈が呟くと、後ろから声がした。
「何が?」
「うお」
振り返ると、諏訪子がいた。
道端の石の上に、当たり前のように座っている。
帽子をかぶり、足をぶらぶらさせながら、楽しそうにこちらを見ていた。
「朝から出るなよ」
「出るって何。お化け扱い?」
「神様扱いされたいのか?」
「それもそれで堅苦しいねぇ」
「じゃあ何なんだよ」
「諏訪子」
「そういう話じゃねぇ」
諏訪子はけらけら笑った。
笑い声は軽い。
だけど、朝の空気の中に妙に馴染んでいた。
昨日までは、声だけだった。
いや、正確には声だけではなかったかもしれない。
気配はあった。
見えていた気もする。
けれど今は違う。
はっきり見える。
そこにいる。
それが、朝から非常に困る。
「……普通に登校してるだけなんだけど」
「うん。だから見に来た」
「なんで」
「見えるようになった子が、次の日どういう顔して歩くのかなって」
「暇なのか」
「神様だからね」
「理由になるのか、それ」
「なるよ」
諏訪子は胸を張った。
その仕草は子供っぽい。
でも、足元の石の影が、ほんの少しだけ濃い。
丈はそこを見ないようにした。
見たら余計なものまで見えそうだった。
「丈くーん!」
坂の下から声がした。
いつもの声。
早苗が走ってくる。
白い帽子を押さえながら、いつものように元気よく。
「おはようございます!」
「おはよ」
「今日も眠そうですね!」
「昨日疲れたんだよ」
「御柱祭でしたから!」
「お前は元気だな」
「巫女なので!」
「便利だな、巫女」
「便利ではありません。すごいんです」
「自分で言うな」
早苗はえへん、と胸を張る。
そして、丈の隣にいる諏訪子を見て、ぱっと表情を明るくした。
「諏訪子さま、おはようございます!」
「おはよー、早苗」
「朝から何をされているんですか?」
「丈の観察」
「観察」
早苗が丈を見る。
「丈くん、観察されています」
「実況しなくていい」
「貴重です!」
「貴重にすんな」
諏訪子は石から飛び降りた。
地面に降りたはずなのに、音がしない。
そういうところが、やはり人ではない。
「昨日から見えるようになったんだし、ちょっとくらい構ってよ」
「神様ってもっと忙しいんじゃないのか」
「忙しい神もいるよ」
「お前は?」
「私は今、丈を見るのに忙しい」
「帰れ」
「ひどい」
早苗が慌てる。
「丈くん! 諏訪子さまに帰れは失礼です!」
「朝の通学路で石の上から出てくる方もどうかと思う」
「それは……」
早苗は少し考えた。
「諏訪子さまなので」
「便利だな、それ」
「便利です!」
早苗はなぜか堂々と言った。
その時。
坂の上から、風が吹いた。
朝の風にしては少し強い。
髪を揺らし、草を鳴らし、用水路の水面を細かく震わせる。
その風の中に、声が混じった。
「朝から騒がしいわね」
見上げると、神奈子がいた。
道の少し先。
まっすぐ立っている。
腕を組み、こちらを見ていた。
昨日、御柱のそばで見た時と同じ姿。
いや、昨日よりも少し近い。
朝の通学路にいるには、明らかに迫力がありすぎる。
「……あんたも来るのかよ」
「見えるようになったのだから、挨拶くらいしてもいいでしょう?」
「神様が朝の通学路で挨拶回りすんな」
「いいじゃない。神だからね!」
「それで通すのか」
神奈子は少し笑った。
口調は軽い。
けれど、立っているだけで空気が変わる。
諏訪子は道端の石みたいにそこにいる。
神奈子は御柱みたいにそこに立つ。
どちらも神様なのだと、丈は変に納得した。
「丈くん」
早苗が小さく言った。
「ちゃんと見えてますか?」
「見えてる」
「神奈子さまも?」
「ああ」
「諏訪子さまも?」
「見えてる」
「本当に?」
「何回聞くんだよ」
「確認です!」
「またか」
ぽん、と早苗が丈の肩を叩く。
少し嬉しそうだった。
いや、かなり嬉しそうだった。
「よかったです」
「何が」
「一緒に見られるので」
そう言われて、丈は言葉に詰まった。
早苗はずっと、これを見ていたのだ。
道端にいる神様。
風の中の声。
石や水の気配。
そういうものを、当たり前みたいに。
でも、当たり前じゃないことも知りながら。
ずっと見ていた。
「……まあ」
「あっ」
「何だよ」
「また“まあ”です」
「便利なんだよ」
「昨日禁止したのに」
「昨日は昨日だろ」
「今日も禁止です!」
「延長制かよ」
早苗はぷくっと頬を膨らませる。
諏訪子が笑い、神奈子も少し肩をすくめた。
「いいじゃない。丈らしくて」
「神奈子さままで!」
「早苗は細かいわね」
「細かくありません!」
「そういうところも早苗らしいわ」
神奈子の声は穏やかだった。
早苗は少し照れたように笑う。
その顔を見て、丈は思う。
早苗は、やっぱりこの二柱に育てられている。
父親や母親だけではなく。
神様たちにも。
それが、急に分かった気がした。
「で」
丈は二柱を見る。
「いつまでついてくる気だよ」
「校門くらいまで?」
諏訪子が言う。
「やめろ」
「なんで」
「目立つ」
「見えるの、丈と早苗くらいでしょ」
「そういう問題じゃねぇ」
神奈子が少し考えた。
「学校の中までは行かないわよ」
「本当か?」
「ええ。今はね」
「今は?」
「必要になれば行くわ」
「来るなよ」
「必要になれば、ね」
神奈子はさらっと言う。
丈はため息を吐いた。
朝から疲れる。
けれど。
不思議と、嫌ではなかった。
◇
教室は、御柱祭の話でまだ騒がしかった。
「木落しやばかったよな!」
「マジで死ぬかと思った!」
「お前、乗ってないだろ」
「見てるだけで死ぬかと思ったんだよ!」
「それは分かる」
浩介が机を叩きながら話している。
健太がそれに乗る。
祐一は、家で撮ったらしい写真を広げていた。
御柱。
土煙。
綱を引く大人たち。
人の波。
その端に、丈たちの姿も小さく写っている。
「ほら、ここ丈」
「顔こわ」
「うるせぇ」
「こっちは早苗ちゃんだ」
「早苗ちゃん、昨日ずっと詳しかったよね」
由香が言った。
「御柱祭の説明、先生より分かりやすかったかも」
「えっ、そうですか?」
早苗が少し照れる。
「はい! 御柱祭は諏訪大社のお祭りですけど、諏訪全体のお祭りでもありますから!」
「ほら、こういうとこ」
美咲が笑う。
「早苗ちゃんって、やっぱ神社の子って感じするよね」
「そ、そうですか?」
「うん。普段は丈くんと漫才してるけど」
「漫才じゃありません!」
「じゃあ何?」
「確認です!」
「何の?」
「いろいろです!」
「雑!」
教室に笑いが広がる。
丈は机に頬杖をつきながら、それを見ていた。
同級生たちは知らない。
昨日の夕方。
守矢神社の境内で、早苗が神楽を舞ったこと。
鈴の音がして。
風が止まって。
その向こうに、諏訪子と神奈子がいたこと。
そして、自分が。
諏訪が好きだと、口にしたこと。
思い出すと、少し顔が熱くなる。
言わなければよかったとは思わない。
でも、何度も思い出したいものでもない。
「丈」
浩介が声をかけてきた。
「昨日、お前さ」
「何」
「最後、なんかすげぇ顔してたよな」
「どんな顔だよ」
「こう」
浩介が無駄に真面目な顔をする。
全然似ていない。
「やめろ」
「いや、なんか感動してる顔」
「してねぇよ」
「してたって」
健太も頷く。
「してたな」
「健太まで言うな」
祐一が写真を指差す。
「ほら、これ」
「撮るなよ」
写真には、御柱を見ている丈が写っていた。
確かに、妙な顔をしている。
目を見開き、口を少し開けている。
感動しているようにも見える。
呆然としているようにも見える。
怖がっているようにも見える。
全部、正しい気がした。
「丈、昨日から名前呼ぶようになったよな」
浩介がにやにやする。
「何だよ」
「もう一回呼んで」
「嫌だ」
「なんで!」
「なんか嫌だ」
「照れてる!」
「照れてねぇ」
「じゃあ呼べよ!」
「うるせぇな、浩介」
「呼んだ!」
浩介が大げさに騒ぐ。
健太が笑う。
「俺は?」
「健太」
「おお」
「祐一」
「まだ聞いてない」
「ついでだ」
「ついで扱い」
由香が笑う。
「私は?」
「由香」
「美咲は?」
「美咲」
美咲が拍手した。
「丈くん、すごい」
「何がすごいんだよ」
「ちゃんと人間になってる」
「俺は前から人間だ」
教室に笑いが広がる。
その中心に、自分が少しだけいる。
そのことに、丈はまだ慣れなかった。
でも。
悪くはなかった。
「そういやさ」
浩介が、写真を片付けながら言った。
「旧校舎って、まだ壊さないのな」
空気が、ほんの少し変わった。
丈は顔を上げる。
早苗も、少しだけ動きを止めた。
「壊すって話あったっけ?」
健太が言う。
「俺、親が言ってた。古すぎるから危ないって」
祐一が答える。
「でもさ、旧校舎って出るんだろ?」
浩介が、わざと声を低くした。
「やめなよ」
由香が眉をひそめる。
「本当に出たらどうするの」
「東風谷がいるじゃん」
「私ですか!?」
早苗が慌てる。
「あと丈」
「なんで俺もだよ」
「だって前もいたし」
「好きでいたわけじゃねぇ」
教室に笑いが起きる。
早苗は困ったように笑った。
丈は、笑えなかった。
旧校舎。
雨の日。
音楽室。
黒板に書かれた「かえれ」の文字。
耳元で聞こえた「きて」という声。
そして。
最後に聞こえた、「にげて」。
あの白い少女は、笑っていなかった。
怯えていた。
震えていた。
丈たちを逃がそうとしていた。
あれで終わったとは、最初から思っていなかった。
けれど。
夏休みの間、何もなかった。
だから、少しだけ遠ざけていた。
思い出さないようにしていた。
「……」
丈は窓の外を見る。
校舎の奥。
使われていない木造の旧校舎。
昼間の光の中で、それは静かに建っている。
何も動いていない。
何も見えない。
そう思った。
その時。
二階の窓の奥で、白いものが揺れた。
「……」
丈は目を細める。
白い少女がいた。
前と同じ姿。
薄く透けた、小さな女の子。
ただし。
ほんの一瞬だけ。
以前より、はっきり見えた。
少女は、丈たちを見ていた。
いや。
見ていたように見えて、何度も山の方を気にしていた。
唇が動く。
声は聞こえない。
でも、形だけは分かった。
――来ちゃだめ。
「……早苗」
丈が小さく言う。
「はい」
「見えてるか」
「……はい」
早苗の声が、硬かった。
少女はもう一度、口を動かした。
――来ちゃだめ。
そして、窓の奥へ隠れた。
消えたのではない。
隠れた。
何かに見つからないように。
教室はまだ騒がしい。
浩介たちは旧校舎の噂で盛り上がっている。
誰も、今の少女には気づいていない。
丈と早苗だけが、黙っていた。
「……あの子」
丈が言う。
「まだ、いるんだな」
「はい」
早苗は旧校舎を見たまま答えた。
「でも、今日は前より見えました」
「良いことなのか?」
「分かりません」
早苗は小さく首を振る。
「でも」
「でも?」
「あの子、たぶん」
早苗は言葉を探していた。
珍しく、すぐに言い切らない。
「あの子が何かしようとしているんじゃありません」
「じゃあ何だよ」
「……怯えています」
丈は旧校舎を見た。
もう、窓には何もいない。
「何に」
早苗は答えなかった。
ただ、旧校舎の向こう。
山の方を見た。
◇
その日の昼休み。
旧校舎の話は、なぜか少しだけ広がっていた。
最初は、浩介が「まだ壊さないのな」と言っただけだった。
それが、健太の「昔から出るって聞いた」に変わり。
祐一の「雨の日に音がするらしい」に変わり。
最後には、どこからか妙な話まで混ざっていた。
「山の猿って知ってる?」
誰かが言った。
「猿?」
「旧校舎の裏の方で見るんだって」
「猿なんかいるの?」
「山にはいるだろ」
「いや、普通の猿じゃなくてさ」
声が少し低くなる。
こういう時、子供は妙に楽しそうになる。
「赤い目で、腕が長くて、見たやつについてくるんだって」
「うわ、怖っ」
「しかも、名前呼ばれると返事するらしい」
「何それ」
「知らね。でも幸助のおじいちゃんが言ってたって」
「幸助って誰」
「三組のやつ」
「知らねぇ」
浩介が食いついた。
「それ、旧校舎の幽霊と関係あんの?」
「知らん。でも旧校舎の方で見るって」
「山の猿かぁ」
健太が少し顔を引きつらせる。
「猿って意外と怖いよな」
「わかる。歯とかやばい」
「腕長いって言ったじゃん」
「じゃあ猿じゃなくね?」
「じゃあ何だよ」
「猿鬼とか?」
その言葉が出た瞬間。
丈は、箸を止めた。
早苗も、ぴくりと肩を揺らす。
「……今、何て言った?」
丈が聞くと、浩介がきょとんとした。
「え? 猿鬼?」
「なんでそれ」
「いや、なんとなく」
「なんとなくで変な名前つけんな」
「え、何、怒ってる?」
「怒ってねぇ」
怒っているわけではない。
ただ。
妙に嫌だった。
口にした瞬間、教室の空気が少しだけ冷えたような気がした。
気のせいかもしれない。
でも、早苗の顔も強張っている。
「そういう話」
早苗が、少し低い声で言った。
「広めない方がいいです」
教室の一部が静かになった。
「え、なんで?」
「怖い話って、広がると寄ってきます」
「何が?」
早苗は少し詰まった。
そして、正直に言った。
「分かりません」
「分かんないのかよ」
浩介が笑う。
しかし早苗は笑わなかった。
「でも、よくないです」
丈は早苗を見た。
早苗は本気だった。
浩介たちも、それに気づいたらしく、少しだけ声を落とした。
「じゃあ、やめとくか」
祐一が言った。
「なんか東風谷、本気っぽいし」
「えー」
浩介は不満そうだったが、由香が睨むと黙った。
「怖い話はいいけど、わざわざ怒らせることないでしょ」
「怒ってません!」
早苗が慌てる。
「怒ってないけど、怖い顔してた」
「えっ」
「してたしてた」
美咲も頷く。
「早苗ちゃん、怖い話苦手?」
「苦手です!」
早苗は即答した。
教室が少し笑う。
空気が戻る。
丈は、ほっとした。
けれど。
頭の中に、さっきの言葉が残っていた。
山の猿。
赤い目。
腕が長い。
名前を呼ばれると返事する。
そして。
猿鬼。
嫌な響きだった。
まだ、ただの噂だ。
誰かの祖父が言っていた昔話。
子供たちが昼休みに膨らませる怖い話。
そのはずなのに。
旧校舎の窓にいた少女の顔が、どうしても頭から離れなかった。
◇
放課後。
丈は昇降口で靴を履き替えながら、旧校舎の方を見た。
行く気はなかった。
行ってはいけない気がした。
夏休みの時も、山のものからは距離を取った。
遠ざけた。
近寄らない方がいい。
早苗も、それを分かっているはずだった。
「丈くん」
声をかけられる。
振り返ると、早苗が立っていた。
顔が少し真面目だった。
「行きませんよ」
「まだ何も言ってねぇ」
「顔が言ってました」
「そんな顔してたか?」
「してました」
「便利だな顔」
「便利です」
早苗は少しだけ笑った。
でも、すぐに旧校舎を見る。
「あの子、怯えていました」
「ああ」
「前も、私たちを逃がそうとしていました」
「ああ」
「だから、放っておきたくはありません」
「……」
「でも」
早苗は小さく息を吸った。
「今、行くのは違う気がします」
丈は少し驚いた。
早苗なら、すぐに行くと言うと思っていた。
前の時もそうだった。
怖がっていたのに、結局行った。
でも今は違う。
御柱祭を越えて、丈が神様をはっきり見えるようになって。
夏休みを越えて、山のものから離れることも覚えて。
早苗も少し変わっていた。
「珍しいな」
「何がですか」
「お前が行かないって言うの」
「私だって、何でも突っ込むわけじゃありません」
「そうか?」
「そうです!」
「前科が多い」
「うっ」
早苗は少しだけ目を逸らした。
「でも、今回は……違います」
「何が」
「旧校舎のあの子だけなら、話を聞きに行きたいです。でも」
早苗は山の方を見る。
「今は、あの子の後ろに何かいます」
「山のやつか」
「たぶん」
「たぶん?」
「まだ分かりません」
早苗は唇を結んだ。
「でも、名前を出したらいけない気がします」
丈は昼休みの言葉を思い出す。
猿鬼。
ただの冗談。
ただの怖い名前。
でも、それを口にした時の冷たさ。
「……じゃあ、どうすんだよ」
「調べます」
「調べる?」
「旧校舎の昔話とか、山の猿の話とか」
「誰に」
「まずは、みんなに聞きます。あと、幸助くんのおじいさんとか」
「幸助って三組の?」
「たぶん」
「知らないのかよ」
「これから知ります!」
「前向きだな」
早苗はこくりと頷いた。
「いきなり近づくより、ちゃんと知った方がいいです」
「……」
「名前を呼んじゃだめなら、なおさら」
丈は少しだけ早苗を見る。
早苗の顔は真剣だった。
怖がっている。
でも、逃げてはいない。
ただ、無闇に近づかない。
それは、以前より少しだけ大人になったようにも見えた。
「じゃあ」
丈はランドセルを背負い直した。
「今日は帰るか」
「はい」
「珍しく安全だ」
「珍しくって何ですか!」
「いつも危ない方行くから」
「丈くんも一緒に来るじゃないですか」
「巻き込まれてるだけだ」
「でも来ます」
「……まあ」
「あっ、また“まあ”です」
「便利なんだよ」
「便利にしないでください!」
いつものやり取り。
それで少しだけ空気が軽くなった。
二人は校門へ向かう。
旧校舎には近づかない。
ただ、一度だけ。
丈は振り返った。
二階の窓。
白い少女はいなかった。
けれど。
窓の奥に、誰かが隠れている気がした。
そして。
校舎のさらに向こう。
山の木々の影が、少しだけ濃く見えた。
◇
帰り道。
空はまだ明るかった。
夏の終わりの風が、少しだけ涼しい。
御柱祭の熱は薄れたが、諏訪の空気はまだどこか濃い。
早苗はしばらく黙って歩いていた。
丈も黙っていた。
何かを話したいような。
でも、話すと余計なものまで呼びそうな。
そんな沈黙だった。
「丈くん」
「ん?」
「見えて、どうですか」
「何が」
「神奈子さまと諏訪子さま」
「ああ」
丈は少し考える。
「うるさい」
「えっ」
「朝から出るし」
「それは……まあ」
「便利に使うな」
「丈くんの口癖です」
「返された」
早苗は少し笑う。
「でも、嫌ですか?」
丈は山を見る。
朝の諏訪子。
風の中の神奈子。
昨日の神楽。
自分が言った言葉。
諏訪が好きだ。
あれから、確かに世界は少し変わった。
怖いものも近くなった。
けれど。
「嫌ではない」
そう言うと、早苗はほっとしたように笑った。
「よかったです」
「何が」
「丈くんが嫌だったら、どうしようかと思ってました」
「何をだよ」
「私の見ていたものを」
「……」
「嬉しいんです。一緒に見られるのは」
早苗は前を向いたまま言う。
「でも、怖いものまで見せてしまったら、どうしようって」
丈は何も言わなかった。
言えなかった。
旧校舎。
白い少女。
山の猿の噂。
それらは、たぶん早苗の世界の一部だ。
神様だけではない。
綺麗なものだけではない。
怖いものも。
嫌なものも。
そこにある。
「別に」
丈は言った。
「お前のせいじゃねぇだろ」
「そうでしょうか」
「そうだろ」
「……」
「それに」
少しだけ迷ってから、丈は続けた。
「俺が見たんだろ」
早苗がこちらを見る。
「だったら、俺の分は俺のせいだ」
「……丈くんらしいですね」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「半分かよ」
早苗は笑った。
少しだけ、いつもの笑い方に戻った。
守矢神社へ続く石段が見えてくる。
その上。
鳥居の奥に、諏訪子が立っていた。
神奈子もいる。
二柱は、何も言わない。
ただ、こちらを見ていた。
丈は少しだけ眉をひそめる。
「何だよ」
諏訪子が笑う。
「何でもないよ」
「絶対何かあるだろ」
「あるけど、まだ言わない」
「嫌な言い方するな」
神奈子が静かに言った。
「今は、近づかない方がいいわ」
「旧校舎か」
「ええ」
「じゃあそう言えよ」
「言っているでしょう」
「いや、もっと早く」
「早く言っても、あなたたちは聞くかしら」
丈は黙った。
早苗も少しだけ目を逸らした。
諏訪子が笑う。
「ほらね」
「うるせぇ」
「でも」
諏訪子は山の方を見た。
「今回は、早苗が止まった。えらいえらい」
「子供扱いしないでください!」
「子供でしょ」
「うっ」
早苗は言い返せなかった。
神奈子は少しだけ笑う。
「調べるなら、気をつけなさい」
「はい」
「噂は、ただの噂では終わらないことがあるわ」
神奈子の声は静かだった。
でも、重かった。
丈は昼休みの言葉を思い出す。
山の猿。
赤い目。
腕が長い。
名前を呼ぶと返事する。
猿鬼。
「……名前か」
丈が呟く。
諏訪子がこちらを見た。
「ん?」
「いや」
「また“いや”?」
「便利なんだよ」
「便利だねぇ」
諏訪子は笑った。
だが、その目はあまり笑っていなかった。
山から風が吹く。
夕方の風。
木々がざわりと揺れる。
遠くで。
何かが鳴いた気がした。
猿のような。
でも、猿ではないような。
早苗の肩が、少しだけ震える。
丈は山を見た。
見えない。
まだ、見えない。
ただ。
旧校舎の奥で怯えていた白い少女と。
昼休みに広がり始めた山の猿の噂と。
その二つが、どこかで繋がっているような気がした。
夕方の諏訪に、風が吹く。
御柱祭の熱はもう遠い。
けれど、町の奥には。
まだ何かが残っていた。