現人神な幼馴染   作:全肯定逆張りおじさん

12 / 18
第十二話 「白い少女」

 第十二話 「白い少女」

 

 次の日。

 

 山の猿の話は、昨日より少しだけ大きくなっていた。

 

 誰かが大声で広めているわけではない。

 

 黒板に書かれているわけでもない。

 

 先生が注意したわけでもない。

 

 ただ、教室のあちこちで、ぽつぽつと出てくる。

 

「赤い目なんだって」

 

「腕が長いらしいぞ」

 

「いや、腕じゃなくて足じゃね?」

 

「猿なのに?」

 

「猿じゃないんだって」

 

「じゃあ何だよ」

 

「山の猿」

 

「だから何だよ」

 

 机をくっつけて給食を食べながら、男子たちがそんなことを言っていた。

 

 箸。

 

 牛乳瓶。

 

 トレー。

 

 スープの匂い。

 

 いつもの昼休み前の教室。

 

 その中に、妙な話が混ざっている。

 

 丈は、黙ってパンをかじっていた。

 

 早苗も黙っている。

 

 だが、話が聞こえていないわけではない。

 

 早苗は、さっきから牛乳瓶を持ったまま止まっている。

 

「おい」

 

 丈が小声で言う。

 

「牛乳」

 

「えっ」

 

「飲まないのか」

 

「あ、飲みます」

 

 早苗は慌てて牛乳を飲んだ。

 

 そして、むせた。

 

「けほっ、けほっ」

 

「何やってんだよ」

 

「丈くんが急に言うからです!」

 

「牛乳飲めって言っただけだろ」

 

「飲むにも準備があるんです!」

 

「牛乳に?」

 

「あります!」

 

 早苗は少しだけ頬を膨らませた。

 

 いつもの早苗だった。

 

 でも、目は少しだけ教室の後ろを気にしている。

 

 浩介たちが、また話していた。

 

「俺、じいちゃんに聞いたことあるんだよ」

 

 浩介が言う。

 

「山の猿には返事するなって」

 

「返事?」

 

 健太が首を傾げる。

 

「名前呼ばれても返事しちゃだめなんだって」

 

「猿が名前呼ぶの?」

 

「だから山の猿だって」

 

「いや説明になってねぇよ」

 

「知らねぇよ。じいちゃんが言ってたんだよ」

 

 浩介はそう言って、パンを口に突っ込んだ。

 

 祐一が真面目な顔で言う。

 

「でもさ、名前呼ぶってことは人の声出すんだろ」

 

「そうなるな」

 

「猿じゃないじゃん」

 

「だから山の猿!」

 

「だからそれ何なんだよ!」

 

 男子たちは笑った。

 

 そこで、誰かが言った。

 

「人さらうなら天狗か鬼じゃん」

 

「じゃあ、猿鬼?」

 

 早苗の手が止まった。

 

 丈も、箸を止めた。

 

 教室の音は消えていない。

 

 誰かが笑っている。

 

 誰かが牛乳をこぼして怒られている。

 

 女子たちは別の話をしている。

 

 それなのに、その言葉だけが妙に冷たかった。

 

 猿鬼。

 

 ただの思いつきの名前。

 

 けれど、音にした瞬間、何かがこちらを向いたような感じがした。

 

「その名前」

 

 早苗が言った。

 

 声は大きくない。

 

 だが、近くにいた男子たちはこちらを見た。

 

「あまり、言わない方がいいです」

 

「え?」

 

 浩介が目を丸くする。

 

「なんで?」

 

「……よくない感じがします」

 

「感じ?」

 

「はい」

 

「東風谷の感じって、だいたい当たるよな」

 

 健太が言った。

 

 それで、空気が少しだけ変わる。

 

 冗談半分だった男子たちが、ほんの少しだけ真面目な顔になった。

 

「じゃあ何て呼べばいいんだよ」

 

 浩介が聞く。

 

 早苗は困ったように考えた。

 

「……山のもの、とか」

 

「山のもの」

 

「はい」

 

「ざっくりしてんな」

 

「ざっくりしている方がいいです」

 

「何それ」

 

 浩介は首を傾げた。

 

 早苗も、うまく説明できない顔をしている。

 

 丈は小さく息を吐いた。

 

「お前のじいちゃんに聞けばいいだろ」

 

「え?」

 

「その話。浩介のじいちゃんから聞いたんだろ」

 

「あー、うん」

 

「なら、元の話を聞いた方が早い」

 

 早苗がぱっとこちらを見る。

 

「丈くん!」

 

「何だよ」

 

「それです!」

 

「それって何だよ」

 

「調べましょう!」

 

「声でかい」

 

「あっ」

 

 早苗は慌てて口を押さえる。

 

 だが、目はもう完全に調べものの顔になっていた。

 

 浩介が少し引く。

 

「東風谷、本気?」

 

「本気です」

 

「怖い話好きなの?」

 

「好きではありません」

 

 早苗は即答した。

 

「怖いです」

 

「怖いのに調べるの?」

 

「怖いから調べるんです」

 

 浩介は、しばらく早苗を見た。

 

 それから、少しだけ笑った。

 

「変なの」

 

「よく言われます!」

 

「元気に返すんだ」

 

 教室に少し笑いが戻る。

 

 丈はパンを飲み込んだ。

 

 笑いながらも、山の猿の話は消えない。

 

 むしろ、笑いに混ざった分だけ、教室の中に馴染んでしまった気がした。

 

 それが、少し嫌だった。

 

     ◇

 

 昼休み。

 

 早苗は、給食を食べ終えるとすぐに立ち上がった。

 

「丈くん、図書室です」

 

「急だな」

 

「急ぎます!」

 

「旧校舎は」

 

「まだいきません!」

 

「よし」

 

「毎回確認します?」

 

「する」

 

「……それは正しいです」

 

「自分で言うな」

 

 早苗は少ししゅんとした。

 

 だが、足取りは速い。

 

 二人で廊下を歩く。

 

 窓の外には、旧校舎が見えた。

 

 丈はそちらを見ないようにした。

 

 早苗も見ない。

 

 見れば、見たことになる。

 

 まだ浩介の祖父の話は聞いていない。

 

 けれど、もう分かり始めている。

 

 見たと言えば、向こうも見返す。

 

 呼べば、来る。

 

 名前をつければ、形になる。

 

 そういうものが、この土地にはある。

 

 図書室は静かだった。

 

 昼休みなのに、教室の騒がしさが嘘みたいだった。

 

 本棚の間に、紙と埃の匂いがある。

 

 窓から入る光も、少しだけ柔らかい。

 

 早苗は迷わず郷土資料の棚へ向かった。

 

「場所知ってるんだな」

 

「前に見ました」

 

「何を」

 

「諏訪の昔話です」

 

「好きなのか」

 

「好きですけど、今は怖いです」

 

「どっちだよ」

 

「両方です!」

 

 早苗は小声で力強く言った。

 

 本棚には、古い冊子が並んでいた。

 

『諏訪の民話』

 

『町のあゆみ』

 

『山と水の伝承』

 

『学校百年史』

 

『地域新聞縮刷版』

 

 丈は背表紙を指でなぞった。

 

「地域新聞って、こんなのあるのか」

 

「昔の新聞をまとめたものだと思います」

 

「読めんのか?」

 

「読めます!」

 

「本当かよ」

 

「たぶん!」

 

「不安だな」

 

 早苗は『地域新聞縮刷版』を引っ張ろうとして、すぐに顔をしかめた。

 

「重っ」

 

「だろうな」

 

「丈くん、お願いします」

 

「最初からそれ狙ってただろ」

 

「違います!」

 

 丈が重い冊子を机まで運ぶ。

 

 早苗はその隣に『学校百年史』を置いた。

 

 さらに、丈は『諏訪の民話』を引き抜いた。

 

「そっちも見るんですか?」

 

「新聞のあとだな」

 

「え?」

 

「先に、何があったか見た方がいいだろ」

 

「……はい」

 

 早苗は少しだけ真面目な顔になった。

 

 地域新聞縮刷版を開く。

 

 古い紙面は、文字が小さくて読みにくい。

 

 紙は少し黄色くなっていて、端が波打っていた。

 

 町の行事。

 

 交通安全。

 

 消防団の訓練。

 

 農協の知らせ。

 

 小学校の運動会。

 

 古い町の日常が、紙の上にぎっしり詰まっている。

 

 その中で、早苗の指が止まった。

 

「丈くん」

 

「見つけたか」

 

「……はい」

 

 早苗の前には、地域新聞縮刷版が開かれていた。

 

 紙面は古く、文字も小さい。

 

 だが、見出しだけははっきり読めた。

 

『北校舎より児童二名帰らず

 大雨の夕刻、学校・警察が捜索』

 

 丈は息を呑んだ。

 

「二名……」

 

「はい」

 

 早苗は指で記事を追う。

 

 見出しの下には、さらに小さな見出しがあった。

 

『一名は校舎内にて保護

 もう一名、依然として行方不明』

 

 丈は黙った。

 

 以前見た学校の記録には、一名が取り残され、翌朝見つかったとだけ書いてあった。

 

 だが、新聞には二名とある。

 

 一人は見つかった。

 

 もう一人は、見つかっていない。

 

 早苗は記事を読み上げた。

 

 昨日夕刻、本町北校舎付近にて、下校後の児童二名の所在が分からなくなった。

 学校職員、保護者、警察および消防団が夜を徹して捜索したが、雨脚強く、山側の捜索は難航した。

 本日早朝、児童一名は旧音楽準備室内にて衰弱した状態で発見、保護された。

 命に別状はない。

 なお、同時に姿を消した児童一名については、現在も行方が分かっておらず、警察は周辺住民に情報提供を呼びかけている。

 

 早苗の声が少し震えた。

 

 その下に、さらに別の日付の記事があった。

 

『不明児童、いまだ手がかりなし

 山中捜索打ち切りも検討』

 

 さらに次。

 

『北校舎事故から一月

 町内に不安、通学路見直しへ』

 

 さらに、小さな囲み記事。

 

『児童らの間に「山猿」のうわさ

 学校、流言に注意呼びかけ』

 

 丈の指が止まる。

 

「……その頃から噂になってたのか」

 

「はい」

 

 早苗は目を伏せた。

 

「一人は見つかった。でも、もう一人は見つからなかった」

 

「白い少女は」

 

 丈は言いかけて、止める。

 

 どちらなのか。

 

 見つかった子なのか。

 

 見つからなかった子なのか。

 

 それとも。

 

 その夜の怖さだけが、二人分混ざって残ったものなのか。

 

 分からない。

 

 分からないから怖かった。

 

「学校の記録には、一人のことしか書いてなかったな」

 

「はい」

 

「もう一人のことは、消えてる」

 

「……消えているというより」

 

 早苗は言葉を探す。

 

「載せなかったのかもしれません」

 

「なんで」

 

「分かりません」

 

 早苗は新聞を見つめた。

 

「でも、学校の記録には、残しにくかったのかもしれません」

 

 丈は少しだけ腹が立った。

 

 誰に対してかは分からない。

 

 学校か。

 

 町か。

 

 時間か。

 

 それとも、自分が知らなかったことにか。

 

「一人、帰ってきてないのに」

 

「はい」

 

「それで、ただの旧校舎の幽霊とか、山の猿とか言ってんのか」

 

 早苗は黙っていた。

 

 丈は、教室の笑い声を思い出す。

 

 赤い目。

 

 腕が長い。

 

 猿鬼。

 

 そうやって軽くなっていく。

 

 元は、誰かが帰ってこなかった話なのに。

 

「……ずれてんだな」

 

「はい」

 

「輪郭が」

 

「はい」

 

 早苗は小さく頷いた。

 

「元は、不幸な事故と、それを繰り返さないための話だったんです」

 

「でも、噂が別のものにしていく」

 

「はい」

 

「面白がって、足して」

 

「はい」

 

「名前までつけて」

 

 早苗は、そこで少しだけ顔をこわばらせた。

 

 丈も口を閉じた。

 

 言いかけた名前は飲み込む。

 

 その名は、まだ呼ばない方がいい。

 

 沈黙が落ちた。

 

 図書室の時計が、こち、と鳴る。

 

 丈は、手元の『諏訪の民話』へ視線を落とした。

 

「……今度は、こっちか」

 

「はい」

 

 早苗が小さく頷く。

 

「新聞に“山猿”ってありました。民話にもあるかもしれません」

 

 丈は民話の本をめくった。

 

 紙は古く、ページの端が少し波打っている。

 

 民話の題名が並ぶ。

 

 湖の龍。

 

 石に宿るもの。

 

 雨乞いの話。

 

 狐火。

 

 山姥。

 

 猿。

 

 その文字で、丈の指が止まった。

 

「……あった」

 

「何がですか?」

 

「猿」

 

 早苗が身を乗り出す。

 

 丈はページを開いた。

 

 そこには短い歌が載っていた。

 

 民謡、というより。

 

 子供に歌わせるわらべ歌のようだった。

 

 題はなかった。

 

 ただ、欄外に小さく「さるおに」とだけ書かれている。

 

 本文は、全部ひらがなだった。

 

 丈は、声に出そうとして止まった。

 

 声に出すのが、少し嫌だった。

 

「……読むか?」

 

 早苗が小さく頷く。

 

「はい。でも、小さく」

 

 丈は、できるだけ低い声で読んだ。

 

 あめこんこん やまこんこん

 きりのこみちに すずがなる

 

 ひとつ ひいのこ かさをさす

 ふたつ ふうのこ あとをゆく

 みっつ みいのこ かげふえる

 

 よっつ よるには まどしめろ

 いつつ いしには こしかけるな

 むっつ むこうの こえきくな

 

 ななつ なきごえ まねをする

 やっつ やまびこ あとをくる

 ここのつ ころべば くつがない

 

 とおのこ とおくへ いかぬよう

 あかりをみても よるなよるな

 てまねきみても よるなよるな

 

 あめのこ くれのこ

 くちをとじ

 おめめをふせて

 かずかぞえ

 

 ななしが ひとつ

 なをほしがる

 

 あめこんこん やまこんこん

 ゆきは ふたり

 かえりは ひとり

 

 読み終えてから、しばらく二人とも黙った。

 

 図書室の中は静かだった。

 

 誰かがページをめくる音だけが、遠くで聞こえる。

 

「……子供の歌か、これ」

 

 丈が言った。

 

「たぶん」

 

 早苗の声は硬かった。

 

「でも、遊ぶための歌じゃありませんね」

 

「数え歌みたいなのに、全然楽しくねぇな」

 

「はい」

 

 早苗は、歌詞の途中を見ていた。

 

「“ひとつ ひいのこ。ふたつ ふうのこ”」

 

「二人だな」

 

「はい」

 

「でも」

 

 丈は、次の行を見た。

 

「“みっつ みいのこ かげふえる”」

 

 早苗の肩が小さく震えた。

 

「三人目じゃなくて、影が増えている」

 

「ああ」

 

「二人の後ろに、何かが増えたみたいです」

 

「新聞の記事と合ってるな」

 

「はい。二人が行って、一人が帰った」

 

 早苗は最後の行を見た。

 

「“ゆきは ふたり。かえりは ひとり”」

 

「先に新聞を読んだから、余計に嫌だな」

 

「……はい」

 

 丈は少しだけ声を落とした。

 

「“ななしが、なをほしがる”」

 

 早苗は唇を結んだ。

 

「そこだけ、意味がはっきりしています」

 

「ああ」

 

「でも、一回しか出てきません」

 

「だから余計嫌だな」

 

 丈は本を閉じかけて、やめた。

 

 閉じても、歌の調子だけが耳の奥に残っていた。

 

 あめこんこん。

 

 やまこんこん。

 

 みっつ、みいのこ。

 

 かげふえる。

 

 ゆきは、ふたり。

 

 かえりは、ひとり。

 

 誰かを怖がらせるためではなく。

 

 誰かを帰すために作られた歌。

 

 そんな気がした。

 

     ◇

 

 放課後。

 

 二人は浩介の家へ向かった。

 

 というより、浩介に連れていかれた。

 

「じいちゃん、いるって!」

 

「急だな」

 

「聞きたいって言ったのそっちだろ?」

 

「言いましたけど」

 

 早苗は少し緊張していた。

 

「ご迷惑じゃないでしょうか」

 

「大丈夫だって。じいちゃん、昔話するの好きだし」

 

「ならいいけど」

 

 丈はランドセルを背負い直す。

 

 旧校舎には近づかない。

 

 今日は図書室と、人から聞く話だけ。

 

 そう決めている。

 

 それでも、山の方から視線を感じる気がした。

 

 浩介の家は、学校から少し下ったところにあった。

 

 古い家だった。

 

 庭に柿の木があり、縁側には座布団が干してある。

 

 玄関先で浩介が叫ぶ。

 

「じいちゃーん! 友達来た!」

 

「うるさいわ」

 

 中から低い声がした。

 

 出てきたのは、白髪の老人だった。

 

 背はそれほど高くないが、目が妙に鋭い。

 

 浩介に似ているような、似ていないような顔だった。

 

「友達ってのは、あんたらか」

 

「はい。東風谷早苗です」

 

「丈です」

 

「名前だけか」

 

「え」

 

「いや、いい」

 

 老人は小さく笑った。

 

 それから、早苗を見た。

 

「守矢さんとこの子か」

 

「はい」

 

「大きくなったな」

 

「えっ」

 

 早苗が戸惑う。

 

 覚えられているとは思っていなかったらしい。

 

 老人は縁側に座るように言った。

 

 麦茶が出てきた。

 

 浩介は勝手に菓子を食べている。

 

「じいちゃん、山の猿の話して」

 

「お前、また変な話を広げとるのか」

 

「俺じゃないって!」

 

「どうだか」

 

 老人は湯呑みを置いた。

 

 そして、早苗と丈を見る。

 

「あの話は、面白がるもんじゃない」

 

 早苗は背筋を伸ばした。

 

「はい」

 

「知っとるならいい」

 

「知らないので、教えてください」

 

「正直だな」

 

「はい」

 

 老人は少しだけ目を細めた。

 

「山の猿と言うが、猿ではない」

 

 その声は、図書室で読んだ文字よりも重かった。

 

「山で人の声を真似るもの。子供の名を呼ぶもの。帰り道を迷わせるもの。そういうものを、昔はまとめて山の猿と言った」

 

「さっき、図書室で歌を見ました」

 

 早苗が言う。

 

「題はありませんでした。ただ、走り書きで”さるおに”と」

 

「まだ残っておったか」

 

 老人は少しだけ驚いた顔をした。

 

「あめこんこん、やまこんこん」

 

 浩介が菓子を食べながら言った。

 

「俺も小さい頃聞いたことある」

 

「お前は菓子を食うか黙るかどっちかにしろ」

 

「えー」

 

 浩介は黙って菓子を食べた。

 

 老人は少しだけ笑った。

 

 だが、すぐに表情を戻す。

 

「元は、山に入る子を止めるための歌だ。雨の日、夕方、山際、夜。そういう場所へ行くなと教える歌だった」

 

「なぜ”さるおに”と書かれてたんでしょう」

 

 早苗が慎重に言った。

 

 老人は少しだけ悲しそうな顔をした。

 

 それまで、怖い話をしていても静かだった顔が。

 

 その言葉だけで、少し沈んだ。

 

「そのあたりは、後から強くなったものかもしれんな」

 

「後から」

 

「山の猿では、子供は面白がる。もっと怖く言えば、近づかなくなる。そう思った大人もいた」

 

「でも」

 

「そうだ」

 

 老人は頷いた。

 

「怖がらせるためにつけた形が、いつの間にか一人歩きすることもある」

 

 丈は、早苗を見る。

 

 早苗も同じことを考えていた顔だった。

 

「地域新聞で読みました」

 

 早苗が言う。

 

「昔、旧校舎で児童二人が行方不明になったって」

 

 老人の顔から、わずかに笑みが消えた。

 

 悲しそうな顔。

 

 先ほどより、もっとはっきり。

 

「読んだか」

 

「はい」

 

「そうか」

 

 老人は庭の柿の木を見た。

 

 風が吹き、葉が揺れる。

 

「あれは、わしが小さい頃の話だ」

 

「知っている子だったんですか?」

 

「一人はな」

 

 老人は静かに言った。

 

「隣の組の子だった。雨の日に、忘れ物を取りに旧校舎へ戻ったと言われとった。もう一人は、後を追いかけた」

 

「追いかけた?」

 

「止めようとしたのか、一緒に行ったのかは分からん」

 

 老人の声は、低くなった。

 

「夜になっても帰らなかった。大人たちは探した。学校も、警察も、消防団も、山の方まで」

 

「一人は見つかったんですよね」

 

「ああ」

 

「音楽準備室で」

 

「そうだ。窓の下で震えておったそうだ」

 

「もう一人は」

 

 早苗が聞く。

 

 老人は少し間を置いた。

 

「見つからなかった」

 

 風が止まった。

 

 浩介も、菓子を食べる手を止めていた。

 

「……今もですか」

 

「今もだ」

 

 老人は言った。

 

「その話は、あまりされなくなった。見つかった子のことは、旧校舎の怪談になった。見つからなかった子のことは、だんだん言われなくなった」

 

「どうして」

 

 丈が思わず聞いた。

 

 老人は少しだけ眉を寄せた。

 

「言いようがないからだ」

 

「言いよう?」

 

「誰が悪かったのか。何があったのか。山へ入ったのか。誰かが連れていったのか。分からん。分からんことは、人は長く話せない」

 

 老人は手元の湯呑みを見た。

 

「だから、形を変える」

 

「怖い話に?」

 

「そうだ」

 

 老人は頷く。

 

「旧校舎の白い子。山の猿。雨の日の窓。名前を呼ぶ声。そういうものに変えて、子供たちに近づくなと言う」

 

「でも、それで」

 

 早苗が小さく言う。

 

「元の子のことが、分からなくなる」

 

「そうだな」

 

 老人は悲しそうに笑った。

 

「それでも、忘れたかった大人もいたんだろう」

 

 早苗は何も言えなかった。

 

 丈も黙った。

 

 老人は続ける。

 

「白い子の話は、悪いものではない」

 

「見たんですか」

 

 丈が聞く。

 

 老人は首を横に振った。

 

「わしは見ていない。だが、見たという者はいた。雨の日に、旧校舎の窓に立つ白い子。帰れと言う。逃げろと言う。人を中へ呼ぶものではない」

 

 早苗の指が震えた。

 

「……私たちも、聞きました」

 

 老人は驚かなかった。

 

「そうか」

 

 それだけだった。

 

 笑わなかった。

 

 否定しなかった。

 

「なら、悪いものではない」

 

「でも、怖がっていました」

 

「だろうな」

 

「何を?」

 

 老人は山の方を見た。

 

「昔話が、話で済まなくなることを」

 

 その言葉の意味は、重かった。

 

 図書室で丈が思ったことと同じだった。

 

 輪郭がずれる。

 

 ただの事故を防ぐための話が、学校の噂で別のものになる。

 

 誰かが面白がって、足していく。

 

 猿だ。

 

 赤い目だ。

 

 腕が長い。

 

 名前を呼ぶ。

 

 返事をする。

 

 そうやって、曖昧だったものに、別の形が与えられていく。

 

「ひとつ覚えておけ」

 

 老人は丈と早苗を見た。

 

「山のものは、呼ぶな」

 

 縁側の空気が、少しだけ冷えた。

 

「名をつけるな。返事をするな。見えたと思っても、見えたと言うな」

 

 丈は喉を鳴らした。

 

「見えたと言うのも駄目なのか」

 

「駄目だ」

 

「なんで」

 

「見えたと言えば、見たことになる」

 

 老人は当たり前のように言った。

 

「見たことになれば、向こうも見返してくる」

 

 雨の日。

 

 丈は言った。

 

 いる。

 

 そして、何かがこちらを見た。

 

 背中が冷える。

 

「……手遅れかもな」

 

 丈が呟くと、早苗が睨んだ。

 

「丈くん!」

 

「悪い」

 

 老人は少しだけ笑った。

 

「まだ手遅れではない」

 

「本当ですか」

 

「呼ばなければな」

 

 その言葉が、妙に重かった。

 

 呼ばなければ。

 

 名前をつけなければ。

 

 まだ。

 

 まだ、山のものは山のもののままだ。

 

「でも、学校で噂になってます」

 

 早苗が言う。

 

「止められますか」

 

「止めるのは難しいな」

 

 老人は首を横に振った。

 

「怖い話は、止めれば止めるほど広がる」

 

「じゃあどうすれば」

 

「笑い話にしないことだ」

 

 老人は言った。

 

「面白がるな。からかうな。自慢するな。怖いなら怖いと言え」

 

 丈は少しだけ、早苗を見る。

 

 早苗は頷いていた。

 

 怖いです。

 

 昼に、そう言っていた。

 

 あれはたぶん正しかったのだ。

 

「あと」

 

 老人は浩介を見る。

 

「お前は余計なことを言うな」

 

「俺!?」

 

「お前が一番言いそうだ」

 

「ひどくね!?」

 

「日頃の行いだ」

 

 浩介が不満そうに菓子をかじる。

 

 空気が少しだけ緩んだ。

 

 それでも、山の方からの風は冷たかった。

 

     ◇

 

 帰り道。

 

 浩介の家を出ると、空は少し曇っていた。

 

 雨は降っていない。

 

 だが、山の上に低い雲がかかっている。

 

 途中で、浩介が先に分かれた。

 

「じゃあな! 変なもん見ても言うなよ!」

 

「お前が一番言うなよ」

 

「言わねぇって!」

 

「信用ないな」

 

「あるだろ!」

 

「ない」

 

「ひどい!」

 

 浩介は騒ぎながら帰っていった。

 

 その姿が見えなくなると、急に静かになった。

 

 早苗がぽつりと言う。

 

「一人は、帰ってきていないんですね」

 

「ああ」

 

「白い女の子は、どっちなんでしょう」

 

「分からない」

 

「はい」

 

「でも、どっちでも怖かったんだろ」

 

 早苗は少しだけ丈を見る。

 

 丈は前を向いたまま言った。

 

「見つかった子も、見つからなかった子も」

 

「……はい」

 

 早苗は小さく頷いた。

 

「元は、不幸な事故だったんです」

 

「それを防ぐための昔話」

 

「はい」

 

「なのに、噂は違う形にしていく」

 

「はい」

 

「輪郭がずれるって」

 

 丈は呟いた。

 

「嫌だな」

 

「……はい」

 

 守矢神社の石段が見える。

 

 鳥居の前には、諏訪子が座っていた。

 

 神奈子はその横に立っている。

 

 二柱は、最初から二人を待っていたようだった。

 

「おかえり」

 

 諏訪子が言う。

 

「ただいま戻りました」

 

 早苗が答える。

 

 丈は軽く手を上げた。

 

「聞いてきたんだね」

 

「浩介のおじいさんから」

 

「いい話だった?」

 

「怖い話でした」

 

「だろうね」

 

 諏訪子は笑った。

 

 でも、目は笑っていなかった。

 

 神奈子が口を開く。

 

「昔話は、人が危ういものから距離を取るために残した形よ」

 

「神奈子さま」

 

「けれど、形は変わる」

 

 神奈子は山を見る。

 

「恐れが薄れれば、遊びになる。遊びになれば、余計なものが足される。足されたものが、また新しい形を作る」

 

「それが、輪郭がずれるってことですか」

 

 早苗が聞く。

 

 神奈子は頷いた。

 

「そうね」

 

 諏訪子が足を揺らす。

 

「本当はね、怖がるって大事なんだよ」

 

「怖がることが?」

 

 丈が聞く。

 

「うん。怖いから近づかない。怖いから呼ばない。怖いからふざけない。そういう怖さは、人を守る」

 

 諏訪子は山の方を見た。

 

「でも、怖さが遊びになると、距離が壊れる」

 

「距離」

 

「近づきすぎるんだよ。人も、話も、名前も」

 

 神奈子が続ける。

 

「山のものは、最初から里へ来るわけではないわ」

 

「じゃあ」

 

「呼ばれれば来る。見られれば見返す。形を与えられれば、その形に寄る」

 

「寄るって」

 

「そういうものだと、自分でも思い始めるのよ」

 

 丈は黙った。

 

 神奈子の声は静かだった。

 

 けれど、どこか厳しかった。

 

「今はまだ、あれは山のものよ」

 

「まだ?」

 

「ええ」

 

 神奈子は丈を見る。

 

「あなたたちが恐れているもの。子供たちが話しているもの。昔話に残ったもの。それらが、まだ一致していない」

 

「一致したら?」

 

 諏訪子が軽く言った。

 

「来るよ」

 

 ぞっとした。

 

 軽い声なのに、妙に冷たい。

 

「今は、呼ばないこと」

 

 神奈子が言う。

 

「けれど、いつか呼ばなければならない時も来る」

 

 丈は眉をひそめる。

 

「どっちだよ」

 

「だから難しいのよ」

 

 神奈子はさらっと言った。

 

「名を呼ばなければ、届かないものがある。名を呼べば、形を与えてしまうものもある」

 

「便利じゃないな、名前」

 

「便利よ」

 

 神奈子は少し笑った。

 

「便利だから怖いの」

 

 早苗は黙って聞いていた。

 

 そして、小さく言った。

 

「白い子は、どうすればいいんですか」

 

 諏訪子の足が止まる。

 

 神奈子も少しだけ目を伏せた。

 

「あの子は、悪いものではないんです」

 

「そうね」

 

「でも、怖がっています」

 

「ええ」

 

「助けたいです」

 

 早苗の声は真っ直ぐだった。

 

 神奈子はすぐには答えなかった。

 

 諏訪子も、いつものように茶化さなかった。

 

「今は」

 

 神奈子が言う。

 

「まだ近づきすぎないこと」

 

「はい」

 

「その子が何なのか。山のものが何なのか。噂がどこまで広がっているのか。それを見なさい」

 

「見るんですか?」

 

 丈が思わず言う。

 

「見えたと言うなって言われたばっかなんだけど」

 

「見るのと、見たと叫ぶのは違うわ」

 

「ややこしいな」

 

「そうよ」

 

 神奈子は少し笑う。

 

「ややこしいのよ、こういうものは」

 

 諏訪子が付け足す。

 

「あと、丈はすぐ叫びそうだから気をつけて」

 

「叫ばねぇよ」

 

「叫ぶ」

 

「叫びますね」

 

 早苗まで言った。

 

「お前もかよ」

 

「すみません」

 

「謝るな。余計きつい」

 

 少しだけ笑いが起きる。

 

 けれど、山からの風は冷たかった。

 

 湿った木の匂い。

 

 土の匂い。

 

 それに混じって、かすかに獣の匂い。

 

 丈は振り返らなかった。

 

 振り返るな。

 

 見たと言うな。

 

 呼ぶな。

 

 浩介の祖父の声が、頭の中に残っている。

 

     ◇

 

 翌日。

 

 学校では、山の猿の話がさらに広がっていた。

 

 もう、浩介たちの周りだけではなかった。

 

 廊下。

 

 階段。

 

 水飲み場。

 

 下駄箱。

 

 あちこちで、少しずつ違う形になって話されている。

 

「夜に旧校舎の窓を叩くんだって」

 

「赤い目が十個あるらしいよ」

 

「腕が廊下の端まで伸びるって」

 

「名前を呼ぶと、同じ声で返してくるんだって」

 

「猿鬼っていうんでしょ?」

 

「違うよ、山猿鬼だよ」

 

「何それ」

 

「知らない」

 

 丈は廊下でその話を聞き、眉をひそめた。

 

 昨日より、明らかに増えている。

 

 それも、少しずつ違う形で。

 

 早苗も隣で顔をこわばらせている。

 

「……昨日、止めたよな」

 

「止めました」

 

「浩介も、言うなって言われてたよな」

 

「はい」

 

「じゃあなんで増えてんだよ」

 

「分かりません」

 

 早苗の声は少し震えていた。

 

 教室に入ると、浩介が困った顔で近づいてきた。

 

「丈、東風谷」

 

「何だよ」

 

「俺、言ってねぇからな」

 

「何を」

 

「じいちゃんに言われたこと。あと、猿鬼って名前も」

 

 浩介は真剣だった。

 

 いつものふざけた顔ではない。

 

「でも、なんか広がってんだよ」

 

「誰が言ってるんだ」

 

「知らねぇ」

 

 浩介は首を振った。

 

「昨日、俺らの近くにいたやつらも、そんなに話してないって。でも、三組とか四組まで知ってる」

 

 健太も横から来る。

 

「なんかさ、みんな聞いたことある気がするって言うんだよ」

 

「聞いたことある?」

 

「そう。前から知ってたみたいな」

 

 祐一が小さく言った。

 

「でも、昨日まではそんなに話してなかった」

 

 丈は黙った。

 

 早苗も黙っている。

 

 噂は広がっている。

 

 誰かが広めているというより。

 

 思い出されている。

 

 そんな感じだった。

 

「……気持ち悪いな」

 

 丈が言う。

 

 浩介が頷いた。

 

「だろ」

 

「お前がそう言うの珍しいな」

 

「俺だって気持ち悪いもんは気持ち悪い」

 

「怖いのか?」

 

「ちょっとな」

 

 浩介は、珍しく素直に言った。

 

 その言葉で、丈は少しだけほっとした。

 

 怖いと言えるなら、まだ大丈夫かもしれない。

 

 笑い話だけではない。

 

 少なくとも、浩介たちは。

 

 早苗もそれを感じたのか、少しだけ表情を緩めた。

 

「怖いなら、面白がらないでください」

 

「分かってるって」

 

 浩介は真面目に頷いた。

 

「でも、これどうすんの?」

 

 誰も答えられなかった。

 

 教室の外で、誰かが笑いながら言った。

 

「猿鬼だってさ!」

 

 その声が、妙に遠くまで響いた。

 

     ◇

 

 その夜。

 

 山は静かだった。

 

 旧校舎も静かだった。

 

 誰もいない。

 

 窓は黒く、廊下は闇に沈んでいる。

 

 音楽室の奥。

 

 白い少女が、膝を抱えていた。

 

 雨は降っていない。

 

 けれど、少女は窓を見ている。

 

 窓の向こう。

 

 山。

 

 黒い木々。

 

 その奥で、何かが動いた。

 

 まだ、形はない。

 

 猿のようで。

 

 人のようで。

 

 獣のようで。

 

 影のようだった。

 

 それは、ゆっくりと首を傾けた。

 

 何かを聞いている。

 

 学校の廊下。

 

 子供たちの声。

 

 赤い目。

 

 腕が長い。

 

 名前を呼ぶと返事する。

 

 旧校舎。

 

 白い子。

 

 山の猿。

 

 猿鬼。

 

 その言葉たちが、薄く薄く、山へ流れていく。

 

 影は、それを聞いていた。

 

 自分に向けられたものなのか。

 

 そうでないのか。

 

 まだ分からない。

 

 けれど。

 

 音は届く。

 

 名は、輪郭を作る。

 

 影は、喉の奥を震わせた。

 

『さ……』

 

 白い少女が、びくりと震える。

 

『……ぅ……』

 

 窓の外。

 

 山の闇の中で、赤いものが一瞬だけ灯る。

 

『……お……』

 

 まだ違う。

 

 まだ、足りない。

 

 まだ、自分ではない。

 

 けれど、それは。

 

 自分を呼ぶ音に、少しずつ近づいていた。

 

 影は、もう一度喉を震わせる。

 

『……い……』

 

 白い少女は、耳を塞いだ。

 

 小さく震えながら。

 

 誰にも届かない声で呟く。

 

『呼ばないで』

 

 山の奥で、何かが笑ったような音がした。

 

 猿のような。

 

 猿ではないような。

 

 その声は、夜の旧校舎に、ゆっくりと染み込んでいった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。