現人神な幼馴染   作:全肯定逆張りおじさん

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第十三話 「呼んではいけないもの」

第十三話 「呼んではいけないもの」

 

 次の日。

 

 朝の学校は、いつも通り騒がしかった。

 

 下駄箱の前では誰かが上履きを忘れて騒ぎ、廊下では男子が走って先生に叱られ、教室の方からは笑い声が漏れてくる。

 

 いつもの朝。

 

 いつもの学校。

 

 なのに、その中に、少しずつ別のものが混ざっていた。

 

「猿鬼ってさ」

 

 下駄箱の向こうで、誰かが言った。

 

「旧校舎に出るんだって」

 

「名前呼ぶんだろ?」

 

「返事したら終わりらしいよ」

 

「でも、返事しなきゃいいんじゃね?」

 

「余裕じゃん」

 

 余裕。

 

 その軽い一言で、丈は靴を履き替える手を止めた。

 

 隣で、早苗も黙っている。

 

 今日は「おはようございます、丈くん!」という声がない。

 

 白い指が、上履きのかかとを押さえたまま固まっていた。

 

「……寝不足か」

 

 丈が言うと、早苗は少しだけ遅れて首を振った。

 

「違います」

 

「じゃあ何だよ」

 

「廊下が、嫌です」

 

「廊下?」

 

「はい」

 

 早苗は顔を上げた。

 

 廊下では、誰かが笑っている。

 

 誰かが走っている。

 

 誰かが「猿鬼」と言う。

 

 それが、消しゴムを貸すとか、給食が何かとか、昨日のテレビがどうとか、そういう話と同じ高さで飛び交っている。

 

「普通の場所に混ざってる方が、嫌です」

 

「……分かる」

 

「分かりますか」

 

「分かりたくねぇけどな」

 

 二人は廊下を歩いた。

 

 窓の外は見ない。

 

 校庭の向こうには旧校舎がある。

 

 見なくても、ある。

 

 むしろ、見ないようにしているからこそ、そこにあることが分かった。

 

     ◇

 

「俺じゃねぇって」

 

 教室に入るなり、浩介が言った。

 

 鞄を机に置く前だった。

 

 顔が怒っている。

 

 でも、いつもの怒り方ではない。

 

「何が」

 

「噂」

 

 浩介は机の横に立ったまま、声を落とした。

 

「俺、昨日じいちゃんに言われたこと、誰にも言ってねぇからな」

 

「本当に?」

 

 早苗が聞くと、浩介はむっとした。

 

「本当だって。俺だって、あれはちょっと嫌なんだよ」

 

「浩介が嫌がるの珍しいな」

 

「俺だって嫌なもんは嫌だよ」

 

 健太も横から入ってくる。

 

「でも広がってるんだよな。なんか知らないけど」

 

「誰が言ったんだ」

 

「知らない」

 

 祐一が首を振った。

 

「三組も知ってた。四組も知ってた。しかも、ちょっとずつ違う」

 

「違う?」

 

「赤い目が十個あるとか」

 

「十個?」

 

「腕が廊下の端まで伸びるとか」

 

「長すぎだろ」

 

「あと、旧校舎のピアノを弾くとか」

 

 早苗の手が止まった。

 

 丈も黙った。

 

 ピアノ。

 

 旧校舎。

 

 白い少女。

 

 雨の日。

 

 山のもの。

 

 別々だったはずのものが、一つの話に混ざっていく。

 

 紙の上に水を垂らしたみたいに、輪郭が滲んでいた。

 

「それ、混ざってます」

 

 早苗が言った。

 

「何が?」

 

「白い子の話と、山のものの話が」

 

「やっぱり?」

 

 浩介は心底嫌そうな顔をした。

 

「俺も、それ気持ち悪いと思ってた」

 

「気持ち悪い?」

 

「俺が聞いた話と違うんだよ。じいちゃんが言ってたのは、近づくなって話だった。怖がれっていうか、ふざけるなっていうか」

 

「今は?」

 

 丈が聞く。

 

「見に行こうぜって話になってる」

 

 その言葉で、教室の空気が少しだけ冷えた。

 

 怖さが、足を止めるものではなくなっている。

 

 怖いから近づかないのではなく、怖いから近づきたくなる。

 

 それが、嫌だった。

 

「なあ」

 

 教室の後ろから声がした。

 

 雅人だった。

 

 机に腰を預けて、面白そうに笑っている。

 

「今日、旧校舎の裏行かね?」

 

 浩介の顔が変わった。

 

「やめとけって」

 

「見るだけだよ」

 

「だから見るなって話してただろ」

 

「何、浩介ビビってんの?」

 

 周りで小さな笑いが起こった。

 

 浩介は顔を赤くした。

 

 けれど、逃げなかった。

 

「ビビってるよ」

 

 その一言で、教室が一瞬静かになる。

 

「悪いかよ。俺、これ嫌なんだよ」

 

 声は震えていた。

 

 それでも、ちゃんと出ていた。

 

 早苗が少しだけ息を吐く。

 

 丈も、浩介を見る目を変えた。

 

 だが、雅人は肩をすくめる。

 

「じゃあ、来なくていいよ」

 

「おい」

 

「旧校舎の裏だけだって。中には入らねぇし」

 

 雅人の隣にいた慎二が、不安そうに笑った。

 

「ほんとに行くの?」

 

「行くって」

 

「怒られない?」

 

「裏だけなら平気だろ」

 

 裏だけ。

 

 その言葉が、丈の胸に引っかかった。

 

 旧校舎の裏。

 

 校舎と山の境目。

 

 学校でもあり、山でもある場所。

 

 丈は立ち上がりかけた。

 

 机の下で、早苗が袖を掴む。

 

「丈くん」

 

「分かってる」

 

「怒ったら、たぶん駄目です」

 

「分かってるって」

 

「顔が分かってません」

 

「顔見るな」

 

「見ます」

 

 早苗の目は真面目だった。

 

 丈は息を吐いて、座り直す。

 

 けれど、胸の奥では、まだ何かがざらついていた。

 

     ◇

 

 授業中。

 

 先生の声が遠かった。

 

 黒板には分数が書かれている。

 

 通分。

 

 約分。

 

 分母。

 

 どれも音だけで、意味にならない。

 

 丈は窓の外を見ないようにしていた。

 

 見れば、旧校舎がある。

 

 ただそれだけなのに、見てはいけない気がした。

 

 早苗もノートを見つめている。

 

 鉛筆の先が、時々かすかに震えた。

 

 こつん。

 

 机の端に、小さな紙が当たる。

 

 早苗からだった。

 

『放課後、確認しましょう』

 

 丈は眉を寄せる。

 

 確認。

 

 早苗らしい言葉だ。

 

 紙の端に書く。

 

『旧校舎には入らない』

 

 すぐに返ってきた。

 

『入りません』

 

 少し間が空いて。

 

『でも、誰かが入る前に止めます』

 

 丈は紙を見つめた。

 

 それから、短く書いた。

 

『分かった』

 

 紙を戻す。

 

 早苗はそれを読んで、小さく頷いた。

 

 その時。

 

 廊下の方で、誰かが笑った。

 

「猿鬼」

 

 小さな声だった。

 

 なのに、やけにはっきり聞こえた。

 

 チョークが黒板を叩く音。

 

 誰かが椅子を引く音。

 

 先生の声。

 

 それらの下に、かすかな鈴の音が混ざった気がした。

 

 ちりん。

 

 気のせいだ。

 

 そう思った瞬間、早苗がこちらを見た。

 

 彼女も聞いた顔をしていた。

 

     ◇

 

 放課後。

 

 空は曇っていた。

 

 雨は降っていない。

 

 けれど、空気だけが湿っている。

 

 山の上には、低い雲が重たくかかっていた。

 

 掃除が終わると、浩介が廊下を走ってきた。

 

「丈! 東風谷!」

 

「廊下走るな」

 

「今それ!?」

 

「で、何だよ」

 

「雅人たち、もう行った」

 

 浩介は息を切らしている。

 

「慎二も?」

 

「一緒」

 

 早苗の顔が強張った。

 

「止めたんですか」

 

「止めたよ!」

 

 浩介は悔しそうに言う。

 

「止めたけど、笑って行ったんだよ。俺がビビってるだけだって」

 

「……分かった」

 

 丈はランドセルを背負う。

 

 健太と祐一も近づいてきた。

 

「俺たちも行く」

 

「来んな」

 

「なんでだよ」

 

「人数増えると面倒だろ」

 

「でも」

 

 早苗が首を振った。

 

「旧校舎の近くまでは来てもいいです。でも、裏には来ないでください」

 

「裏って、そんなにまずいの?」

 

「はい」

 

 早苗は即答した。

 

「たぶん、そこが境目です」

 

「境目?」

 

「学校と、山の」

 

 健太は口を閉じた。

 

 祐一が小さく聞く。

 

「ほんとに怖いやつ?」

 

「はい」

 

 早苗の声は震えていた。

 

「本当に怖いです」

 

 それで、誰も笑わなくなった。

 

     ◇

 

 旧校舎は、曇り空の下で黒く沈んでいた。

 

 窓ガラスは白く濁り、中は見えない。

 

 見えないのに、そこに誰かがいる気がする。

 

「中には入らない」

 

 丈が言った。

 

「分かってる」

 

 浩介が頷く。

 

「お前らはここまで」

 

「え」

 

「ここで待ってろ」

 

「でも」

 

「待ってろ」

 

 少し強く言うと、浩介は唇を噛んだ。

 

 それでも、頷いた。

 

「……分かった」

 

 丈と早苗だけで旧校舎の横を進む。

 

 壁には古い蔦が絡んでいる。

 

 足元の落ち葉は、なぜか湿っていた。

 

 踏むと、ぐしゃりと嫌な音がする。

 

「……濡れてるな」

 

 丈が言う。

 

「はい」

 

「雨、降ってねぇよな」

 

「降ってません」

 

「でも」

 

 早苗が何か言いかける。

 

「言うな」

 

「……はい」

 

 言葉にすると、何かが定まる気がした。

 

 二階。

 

 音楽室の窓。

 

 白いものが揺れた。

 

 丈は見てしまった。

 

 早苗も見ていた。

 

 白い少女が、ガラスの内側に立っている。

 

 両手を窓に押し当て、必死に首を振っていた。

 

 口が動く。

 

 声はない。

 

 けれど、分かる。

 

『だめ』

 

 もう一度。

 

『だめ』

 

 少女は耳を塞いだ。

 

 その瞬間。

 

 ちりん。

 

 鈴のような音が、旧校舎の裏からした。

 

 細く。

 

 濡れた糸を弾いたように。

 

 ちりん。

 

 丈の背中が冷えた。

 

「……今の」

 

 早苗が囁く。

 

「聞こえた」

 

「丈くん」

 

「言うな」

 

「はい」

 

 言わなくても、二人とも同じものを思い出していた。

 

 古い紙。

 

 ひらがなの歌。

 

 雨。

 

 山。

 

 霧。

 

 鈴。

 

 丈は奥歯を噛む。

 

「行くぞ」

 

「はい」

 

     ◇

 

 旧校舎の裏は、狭いはずだった。

 

 古い倉庫。

 

 木。

 

 フェンス。

 

 その向こうに山。

 

 ただ、それだけの場所だったはずだ。

 

 けれど。

 

 そこには道があった。

 

 細い土の道。

 

 白い霧の中へ、すっと伸びている。

 

 両側の木が、まるで人を通すために並んでいるように見えた。

 

「……こんな道、あったか」

 

「ありません」

 

 早苗は即答した。

 

 声が硬い。

 

 足元には靴跡がある。

 

 二人分。

 

 ひとつは大きめ。

 

 もうひとつは少し小さい。

 

 その後ろに、別の跡。

 

 足跡ではない。

 

 長い指で土を撫でたような、浅い線。

 

 丈は何も言わなかった。

 

 早苗も言わない。

 

 ただ、二人とも見ていた。

 

 ひとつ。

 

 ふたつ。

 

 その後ろ。

 

 増えている。

 

「……行こう」

 

「はい」

 

 二人は足跡を追った。

 

     ◇

 

 土が柔らかかった。

 

 踏むたびに、靴底が沈む。

 

 雨は降っていないのに、道だけが雨を吸ったように濡れている。

 

 振り返りたい。

 

 振り返れば、旧校舎がすぐ後ろにあるはずだった。

 

 でも、できない。

 

 校庭の声が聞こえない。

 

 浩介たちの声も、先生の声も、遠ざかっていた。

 

 ざわ。

 

 木々が鳴る。

 

 ちりん。

 

 鈴が鳴る。

 

 早苗の肩が、そのたびに小さく震えた。

 

「大丈夫か」

 

「大丈夫じゃないです」

 

「だろうな」

 

「でも行きます」

 

「知ってる」

 

「なら聞かないでください」

 

「確認だよ」

 

 早苗が少しだけこちらを見る。

 

「私のです」

 

「借りた」

 

「勝手に借りないでください」

 

 ほんの少しだけ、いつものやり取りになった。

 

 だが、すぐに消える。

 

 前方から声がした。

 

「おーい!」

 

 雅人の声だった。

 

 近いようで、遠い。

 

 丈は返事をしかけた。

 

 早苗が腕を掴む。

 

「待ってください」

 

「雅人だろ」

 

「本当に?」

 

 丈は口を閉じる。

 

 声はまたした。

 

「おーい、慎二!」

 

 雅人の声。

 

 そのすぐあと、違う方角から慎二の声。

 

「こっちだよ!」

 

 丈の背筋が冷えた。

 

「分かれてるのか」

 

「たぶん」

 

「まずいだろ」

 

「はい」

 

「返事は」

 

「……しない方がいいです」

 

 早苗の声が震えていた。

 

 叫びたい。

 

 でも、声を出すこと自体が罠に思える。

 

 こんな場所では、声も道も信用できない。

 

 二人は進んだ。

 

 木々の間に、折れた枝が落ちていた。

 

 傘の骨みたいに広がっている。

 

 丈はそれを見て、すぐ目を逸らす。

 

「丈くん」

 

「見た」

 

「はい」

 

「言うな」

 

「はい」

 

 折れた枝。

 

 濡れた道。

 

 二人分の足跡。

 

 その後ろにある、三つ目の跡。

 

 歌は、誰も歌っていない。

 

 けれど、足元から迫ってくる。

 

     ◇

 

 雅人は、木の間に立っていた。

 

 顔が青い。

 

 いつもの笑いは跡形もない。

 

「丈!」

 

 駆け寄ろうとする雅人を、丈は手で制した。

 

「動くな!」

 

 雅人がびくりと止まる。

 

「慎二は」

 

「分かんない」

 

「一緒だったんだろ」

 

「さっきまでいた。ほんとにいたんだよ。俺の後ろ歩いてて」

 

 早苗が小さく聞く。

 

「後ろ?」

 

「うん」

 

 早苗は黙った。

 

 丈にも分かった。

 

 後ろ。

 

 二人目。

 

 その後ろ。

 

「それで?」

 

「先生の声がした」

 

「先生?」

 

「忘れ物だって。戻れって」

 

 雅人の喉が鳴った。

 

「慎二が、返事した」

 

 早苗の顔から血の気が引いた。

 

「何て」

 

「……はいって」

 

 その瞬間。

 

 木々の奥から声がした。

 

「はい」

 

 慎二の声だった。

 

 近い。

 

 だが、姿は見えない。

 

 雅人が振り向きかける。

 

 丈は腕を掴んだ。

 

「見るな」

 

「でも」

 

「見るな」

 

 また声。

 

「はい」

 

 今度は、雅人の声。

 

 雅人本人が目を見開く。

 

「俺じゃない」

 

「分かってる」

 

「俺、言ってない」

 

「分かってるって」

 

 さらに声。

 

「はい」

 

 早苗の声だった。

 

 早苗が口元を押さえる。

 

 自分の声なのに、自分の声ではない。

 

 空っぽの器に、声だけ流し込んだような音。

 

 丈の胃が縮んだ。

 

「……聞くな」

 

 丈は低く言った。

 

「二人とも、聞くな」

 

 慎二の声が続く。

 

「こっちだよ」

 

「帰れるよ」

 

「早く」

 

 声だけは慎二だった。

 

 けれど、中身がない。

 

 ただ人の声の形をまねている。

 

 それだけ。

 

「慎二!」

 

 丈が叫ぶ。

 

 今度は早苗も止めなかった。

 

 霧の奥で影が動いた。

 

 慎二がいた。

 

 背中を向け、ゆっくり歩いている。

 

 その少し斜め後ろ。

 

 黒いものが、増えていた。

 

 猿のようにも見える。

 

 人のようにも見える。

 

 枝の影にも見える。

 

 見るたび、形が違った。

 

 慎二の影ではない。

 

 雅人の影でもない。

 

 三つ目だった。

 

 早苗が息を吸う。

 

 何も言わない。

 

 丈も言わない。

 

 言えば、あれが近づく気がした。

 

「慎二」

 

 丈は慎重に呼んだ。

 

「止まれ」

 

 慎二の足が止まる。

 

 黒いものも止まる。

 

 ゆっくりと、こちらを向いた。

 

 顔はない。

 

 ただ、赤いものがある。

 

 二つだったか。

 

 もっとあったか。

 

 見ているうちに数が変わりそうで、丈は目を細めた。

 

 雅人が震える声で言う。

 

「俺たち、帰れるよな?」

 

 丈は答えようとした。

 

 大丈夫だ。

 

 帰れる。

 

 そう言うはずだった。

 

 その前に、背後から雅人と同じ声がした。

 

「帰れるよ」

 

 雅人が振り向きかける。

 

 丈は反射的に彼の頭を押さえた。

 

「振り向くな!」

 

 すぐ後ろで何かが笑った。

 

 猿のようで。

 

 子供のようで。

 

 泣いているような笑いだった。

 

 早苗が震える声で言う。

 

「丈くん」

 

「何だ」

 

「これ」

 

「言うな」

 

「……はい」

 

 言わなくても分かる。

 

 胸の奥で、勝手に言葉が並ぶ。

 

 帰り。

 

 ひとり。

 

 誰も歌っていない。

 

 けれど、歌はそこにある。

 

 慎二の背中に。

 

 雅人の震える声に。

 

 鈴の音に。

 

 濡れた土に。

 

     ◇

 

 霧の奥から、先生の声がした。

 

「慎二くん」

 

 優しい声。

 

「はいって言いなさい」

 

 慎二の口が動く。

 

「は」

 

 丈は叫んだ。

 

「言うな!」

 

 慎二の肩が跳ねた。

 

 黒い影が歪む。

 

 木々が一斉にざわめく。

 

 土の匂いが濃くなる。

 

 早苗が一歩前に出た。

 

「慎二くん」

 

 震えている。

 

 でも、真っ直ぐだった。

 

「それ、先生じゃありません」

 

 慎二はぼんやり振り向いた。

 

「でも」

 

「返事をしないでください」

 

「でも、先生が」

 

「先生じゃありません」

 

 早苗の声が強くなる。

 

「帰るなら、こっちです」

 

 慎二が迷った。

 

 その背後で、黒いものが揺れる。

 

 長い腕のようなものが、慎二の肩へ伸びる。

 

 丈は走った。

 

「慎二!」

 

 土が滑る。

 

 足が沈む。

 

 それでも走る。

 

 慎二の手首を掴んだ。

 

 冷たい。

 

 氷みたいだった。

 

「戻れ!」

 

 慎二の体が震える。

 

 黒いものが丈を見た。

 

 見た。

 

 いや。

 

 見返した。

 

 その瞬間、丈の喉が詰まった。

 

 息が浅くなる。

 

 頭の奥で、ばらばらの言葉が転がった。

 

 あめ。

 

 やま。

 

 すず。

 

 かげ。

 

 ななし。

 

 かえり。

 

 ひとり。

 

 それらが歌の形になろうとする。

 

 丈は奥歯を噛んだ。

 

「知るか」

 

 声が漏れた。

 

「そんなの、知るかよ」

 

 慎二を引く。

 

 重い。

 

 慎二は小柄なのに、ひどく重かった。

 

 まるで、山の向こうから引かれている。

 

 早苗が反対の手を掴む。

 

「慎二くん、こっち!」

 

 雅人が震えながら近づく。

 

「慎二!」

 

「来るな!」

 

 丈が怒鳴る。

 

 雅人は止まった。

 

「そこで待ってろ!」

 

「でも!」

 

「待ってろ!」

 

 雅人は泣きそうな顔で頷く。

 

 その時、背後から別の声がした。

 

「雅人」

 

 雅人の母親の声だった。

 

「迎えに来たよ」

 

 雅人の体が固まる。

 

「母ちゃん……?」

 

「違います!」

 

 早苗が叫んだ。

 

「聞かないで!」

 

 雅人は耳を塞いだ。

 

 震えながら、ちゃんと塞いだ。

 

 唇が震える。

 

「怖い」

 

 その言葉がこぼれた瞬間、霧が少しだけ薄くなった。

 

 遠くから、校庭の声が戻る。

 

「丈ー!」

 

 浩介の声。

 

 小さい。

 

 でも、本物だ。

 

「こっちだ!」

 

 丈は叫んだ。

 

 今度は迷わなかった。

 

 これは帰るための声だ。

 

 慎二を引く。

 

 早苗も引く。

 

 雅人は耳を塞いだまま後ずさる。

 

 黒いものが追ってくる。

 

 足音はない。

 

 けれど、近い。

 

 鈴が鳴る。

 

 ちりん。

 

 ちりん。

 

 歌は終わっていない。

 

 帰り道の途中だ。

 

     ◇

 

 走る。

 

 道は細い。

 

 さっき通ったはずなのに、違う道に見える。

 

 折れた枝。

 

 濡れた土。

 

 白い霧。

 

 鈴の音。

 

 すべてが近い。

 

 慎二が足をもつれさせた。

 

「転ぶな!」

 

「無理……」

 

「無理でも走れ!」

 

「丈くん!」

 

 早苗が叫ぶ。

 

 前方に石があった。

 

 苔むした平たい石。

 

 ちょうど腰を下ろせそうな高さ。

 

 慎二がふらりとそちらへ寄る。

 

「休ませて」

 

 慎二が呟く。

 

「ちょっとだけ」

 

 丈はぞっとした。

 

 その石が、妙に優しく見えた。

 

 座れ。

 

 休め。

 

 もう歩かなくていい。

 

 そう言っているようだった。

 

「駄目だ!」

 

 丈は慎二を引っ張った。

 

「座るな!」

 

 早苗も息を切らしながら言う。

 

「そこ、駄目です!」

 

「なんで」

 

「分かりません!」

 

「分からないのに!?」

 

「分かりませんけど駄目です!」

 

「お前ら、めちゃくちゃだよ!」

 

 雅人が泣きながら言う。

 

「そうだよ!」

 

 丈も怒鳴った。

 

「めちゃくちゃなんだよ、今!」

 

 石の横を通り過ぎる。

 

 背後で、こつん、と何かが腰を下ろす音がした。

 

 誰も振り向かなかった。

 

 振り向けなかった。

 

 前方に旧校舎の壁が見える。

 

 校庭の声も戻ってきた。

 

 浩介が叫んでいる。

 

「こっち! こっちだ!」

 

 祐一の声も聞こえた。

 

「先生呼んだ方がいい!?」

 

「呼ぶな!」

 

 浩介が叫ぶ。

 

「いや先生は呼んでいいのか!?」

 

「分かんねぇ!」

 

 そのやり取りが馬鹿みたいで、普通で、泣きたくなるくらい本物だった。

 

「浩介!」

 

 丈が叫ぶ。

 

「そこから動くな!」

 

「動かねぇよ!」

 

「耳塞げ!」

 

「もう塞いでる!」

 

「早ぇな!」

 

「怖ぇんだよ!」

 

 浩介の声は震えていた。

 

 でも、そこにいた。

 

 ちゃんと、こちら側に。

 

 湿った道の終わりが見える。

 

 フェンスの切れ目。

 

 そこを越えれば、学校だ。

 

 背後で、空気が冷たくなる。

 

 慎二の体が、ぐっと後ろへ引かれた。

 

「うわっ!」

 

 丈の手が滑りそうになる。

 

 早苗が悲鳴を上げる。

 

「丈くん!」

 

「離すな!」

 

「離しません!」

 

 黒いものが、もうすぐ後ろにいる。

 

 名のないもの。

 

 呼んではいけないもの。

 

 でも、呼ばなければ止められないもの。

 

 丈の口が勝手に動きそうになる。

 

 早苗がそれに気づいた。

 

「丈くん」

 

 声が震えている。

 

「まだ」

 

「分かってる」

 

「まだ、呼ばないでください」

 

「分かってる!」

 

 慎二の手が冷たくなっていく。

 

 指先の感覚が薄い。

 

 ここにいるのに、消えかけている。

 

 早苗が、慎二の腕を抱えるようにして叫んだ。

 

「帰ります!」

 

 その声は、ほとんど悲鳴だった。

 

「慎二くん、帰りますよ!」

 

 慎二の目が少しだけ動く。

 

「……帰る」

 

「はい!」

 

「帰る」

 

「そうです!」

 

「俺、帰る」

 

 その言葉で、慎二の体に重さが戻った。

 

 こちら側に落ちてくる重さだった。

 

 丈は思いきり引いた。

 

「帰れ!」

 

 慎二の体が前に倒れ込む。

 

 雅人が泣きながら支える。

 

 三人まとめて、湿った道の外へ転がり出た。

 

 旧校舎の裏。

 

 見慣れた地面。

 

 濡れていない土。

 

 割れたフェンス。

 

 古い倉庫。

 

 浩介たちの声。

 

 帰ってきた。

 

 そう思った。

 

 雅人が慎二にしがみついて泣く。

 

「慎二!」

 

「雅人……」

 

「帰った……帰ったよな!?」

 

 浩介が駆け寄ろうとして、寸前で止まった。

 

「大丈夫か!?」

 

「たぶん!」

 

「たぶんって何だよ!」

 

 健太も祐一も泣きそうな顔をしている。

 

 早苗は地面に膝をつき、肩で息をしていた。

 

 丈も手をつく。

 

 腕が震えていた。

 

 慎二の手は、もう氷ではなかった。

 

 温かい。

 

 ちゃんと、ここにいる。

 

「……帰れた」

 

 雅人が呟いた。

 

「帰れたんだよな」

 

 丈は頷こうとした。

 

 その時。

 

 早苗が、慎二の足元を見た。

 

 動きが止まる。

 

「……丈くん」

 

「あ?」

 

「だめです」

 

 声が、ひどく小さかった。

 

 丈は顔を上げる。

 

 早苗は慎二の足元を見ていた。

 

「慎二くんは」

 

 そこで、言葉が切れる。

 

 丈も見た。

 

 慎二はそこにいる。

 

 校舎裏に倒れて、雅人に抱えられて泣いている。

 

 なのに。

 

 影がない。

 

 夕方だ。

 

 曇っていても、薄い光はある。

 

 雅人の影はある。

 

 浩介の影もある。

 

 早苗の影も。

 

 丈の影も。

 

 慎二の足元だけ、空っぽだった。

 

 丈は息を止めた。

 

 ゆっくりと、山の方を見る。

 

 湿った道の奥。

 

 霧の中。

 

 少し離れた場所に、子供の影が残っている。

 

 慎二と同じ形の影。

 

 山の方を向いたまま、地面に縫い止められていた。

 

「……嘘だろ」

 

 丈の声がかすれた。

 

 慎二が、自分の足元を見る。

 

「え」

 

 雅人も見る。

 

「何で」

 

 浩介が後ずさる。

 

「何で影が……」

 

 早苗の顔は真っ白だった。

 

「まだ」

 

 彼女は震える声で言う。

 

「まだ、帰ってません」

 

 湿った道の奥で、何かが笑った。

 

 猿のような。

 

 子供のような。

 

 泣き声のような笑い。

 

 山のものが、こちらへ近づいてくる。

 

 名のないまま。

 

 形のないまま。

 

 そこに残った慎二の影へ向かって。

 

「逃げろ!」

 

 浩介が叫んだ。

 

 誰も動けなかった。

 

 逃げれば、慎二の影を置いていく。

 

 残れば、あれが追いつく。

 

 慎二は泣きながら首を振った。

 

「やだ」

 

「慎二」

 

「やだ、俺、帰ったんだろ」

 

 雅人が慎二を抱えたまま震える。

 

「帰ったよ! 帰っただろ!」

 

 早苗は唇を噛んだ。

 

 何も言えない。

 

 丈は山の方を見た。

 

 黒いものが近づく。

 

 霧の中で赤いものが揺れる。

 

 慎二の影のすぐ後ろ。

 

 もう、そこまで来ている。

 

 その時。

 

 丈の頭に、別の景色が浮かんだ。

 

 雨。

 

 旧校舎。

 

 音楽室。

 

 白い少女。

 

 置いていかれる。

 

 帰れない。

 

 誰かが、夕方の中で泣いている。

 

 見つかった子。

 

 見つからなかった子。

 

 帰ったはずなのに、帰りきれなかったもの。

 

 ふたりで行って。

 

 帰りは。

 

「ふざけんな」

 

 丈は立ち上がった。

 

「丈くん」

 

 早苗が言う。

 

「だめです。今、何かすると」

 

「じゃあどうすんだよ」

 

「分かりません」

 

「だろうな」

 

 丈は一歩前に出た。

 

 湿った道の端。

 

 山との境。

 

 そこに立つ。

 

 足元の土が、急に冷たくなった。

 

 山のものが迫る。

 

 慎二の影へ、長い腕のようなものが伸びる。

 

 丈は喉を開いた。

 

「帰れ!」

 

 声が空気を叩いた。

 

 浩介たちがびくりとする。

 

 早苗も息を呑む。

 

 だが、山のものは止まらない。

 

 代わりに、道の脇にあった小さな祠が、ぎし、と鳴った。

 

 古い木に、細い傷が走る。

 

 山のものが笑う。

 

 口があるのかも分からないのに、笑ったのが分かった。

 

「消えろ!」

 

 丈は叫んだ。

 

 木々が揺れる。

 

 霧が裂ける。

 

 けれど、黒いものはさらに近づく。

 

 道の横の幹に、ざくりと傷が入った。

 

 見えない爪で抉られたように、木の皮が剥がれる。

 

「いなくなれ!」

 

 三度目の声。

 

 喉が焼ける。

 

 しかし、今度は足元の石が割れた。

 

 ぱきん、と乾いた音がする。

 

 祠。

 

 木。

 

 石。

 

 丈の言葉は、山のものに届いている。

 

 届いているのに、当たっていない。

 

「丈くん、だめです!」

 

 早苗が叫んだ。

 

「なんで効かねぇんだよ!」

 

「違います!」

 

 早苗は震えていた。

 

「効いてないんじゃない!」

 

 その瞬間。

 

 頭の奥で、ざ、と音がした。

 

 砂を踏むような音。

 

 途切れていたものが、急につながる。

 

 諏訪子の声だった。

 

『対象をそらしてる』

 

 いつもの軽さがない。

 

 次に、神奈子の声。

 

『自分ではないと分かるだけの力を持っているのよ』

 

 丈は目を見開いた。

 

「何だよ、それ」

 

『名がないから受けない』

 

 諏訪子の声が鋭い。

 

『でも、ただの名なしじゃない。自分に向けられたものを、外せる』

 

 神奈子が続ける。

 

『あなたの言葉は届いている。でも、あれは受けない。周囲の弱いものへ流している』

 

 丈は傷ついた祠を見た。

 

 裂けた木を見た。

 

 割れた石を見た。

 

 自分の言葉で。

 

 自分の声で。

 

 別のものが傷ついていた。

 

「じゃあ、どうすればいい」

 

 丈の声は震えていた。

 

 山のものは慎二の影へ手を伸ばしている。

 

 あと少し。

 

 触れる。

 

 触れたら、慎二は本当に帰れなくなる。

 

 神奈子の声が硬く響く。

 

『名を呼べば、届く』

 

 早苗が叫んだ。

 

「だめです!」

 

 丈が振り返る。

 

 早苗は泣きそうな顔だった。

 

「それを呼んだら、本当にそうなります!」

 

「分かってる」

 

「分かってるなら!」

 

「でも!」

 

 丈は慎二を見る。

 

 影のない慎二。

 

 泣いている雅人。

 

 耳を塞いで震える浩介たち。

 

 窓の中の白い少女。

 

 そして。

 

 山に残った影。

 

「このままだと、帰らねぇやつが出るだろ!」

 

 早苗は言葉を失った。

 

 丈は山のものへ向き直る。

 

 喉が痛い。

 

 足が震える。

 

 怖い。

 

 それでも、逃げない。

 

 名を呼ぶな。

 

 名前をつけるな。

 

 見えたと言うな。

 

 全部、分かっている。

 

 分かっているのに。

 

 呼ばなければ、届かない。

 

 丈は息を吸った。

 

 山のものの手が、慎二の影へ触れようとする。

 

 その瞬間。

 

 丈は叫んだ。

 

「去れ!」

 

 霧が止まった。

 

 木々が止まった。

 

 鈴の音が、途切れた。

 

 丈は、その名を口にした。

 

「猿鬼!」

 

 世界が、一拍遅れた。

 

 山のものが止まる。

 

 初めて。

 

 本当に。

 

 止まった。

 

 赤いものが、丈を見る。

 

 慎二の影が、びくりと震えた。

 

 地面から剥がれる。

 

 ふわりと浮く。

 

 そして、一直線に慎二の足元へ戻った。

 

 慎二の体が重く倒れる。

 

「うっ……!」

 

「慎二!」

 

 雅人が抱きしめる。

 

 慎二の足元に、影がある。

 

 小さく震えているけれど。

 

 ちゃんと、ある。

 

 早苗が息を吐いた。

 

「……帰った」

 

 誰かが泣いた。

 

 浩介かもしれない。

 

 雅人かもしれない。

 

 慎二かもしれない。

 

 丈は膝から崩れそうになった。

 

 でも、立っていた。

 

 湿った道の奥。

 

 山のものは、もう山のものではなかった。

 

 輪郭が定まり始めていた。

 

 猿のような背。

 

 鬼のように歪んだ肩。

 

 長い腕。

 

 赤い目。

 

 そして、口。

 

 口が、ゆっくり動いた。

 

『さる』

 

 声は幼かった。

 

 意味を知らない子供みたいだった。

 

『おに』

 

 早苗の顔が歪む。

 

 諏訪子の声が、頭の奥で低く響いた。

 

『……呼んじゃったね』

 

 神奈子は何も言わなかった。

 

 白い少女が、旧校舎の窓の中で震えている。

 

 歌は終わった。

 

 行きは、ふたり。

 

 帰りは、ひとり。

 

 その結末だけは、避けられた。

 

 けれど。

 

 山の奥で、生まれたばかりの名前が、ゆっくりとこちらへ歩き出す。

 

『さる』

 

『おに』

 

『さる、おに』

 

 丈は、喉の痛みを押さえながら、立ち尽くした。

 

 自分が呼んだものが。

 

 初めて、自分の名前を覚えるところを。

 

 ただ、見ていた。

 

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