第十三話 「呼んではいけないもの」
次の日。
朝の学校は、いつも通り騒がしかった。
下駄箱の前では誰かが上履きを忘れて騒ぎ、廊下では男子が走って先生に叱られ、教室の方からは笑い声が漏れてくる。
いつもの朝。
いつもの学校。
なのに、その中に、少しずつ別のものが混ざっていた。
「猿鬼ってさ」
下駄箱の向こうで、誰かが言った。
「旧校舎に出るんだって」
「名前呼ぶんだろ?」
「返事したら終わりらしいよ」
「でも、返事しなきゃいいんじゃね?」
「余裕じゃん」
余裕。
その軽い一言で、丈は靴を履き替える手を止めた。
隣で、早苗も黙っている。
今日は「おはようございます、丈くん!」という声がない。
白い指が、上履きのかかとを押さえたまま固まっていた。
「……寝不足か」
丈が言うと、早苗は少しだけ遅れて首を振った。
「違います」
「じゃあ何だよ」
「廊下が、嫌です」
「廊下?」
「はい」
早苗は顔を上げた。
廊下では、誰かが笑っている。
誰かが走っている。
誰かが「猿鬼」と言う。
それが、消しゴムを貸すとか、給食が何かとか、昨日のテレビがどうとか、そういう話と同じ高さで飛び交っている。
「普通の場所に混ざってる方が、嫌です」
「……分かる」
「分かりますか」
「分かりたくねぇけどな」
二人は廊下を歩いた。
窓の外は見ない。
校庭の向こうには旧校舎がある。
見なくても、ある。
むしろ、見ないようにしているからこそ、そこにあることが分かった。
◇
「俺じゃねぇって」
教室に入るなり、浩介が言った。
鞄を机に置く前だった。
顔が怒っている。
でも、いつもの怒り方ではない。
「何が」
「噂」
浩介は机の横に立ったまま、声を落とした。
「俺、昨日じいちゃんに言われたこと、誰にも言ってねぇからな」
「本当に?」
早苗が聞くと、浩介はむっとした。
「本当だって。俺だって、あれはちょっと嫌なんだよ」
「浩介が嫌がるの珍しいな」
「俺だって嫌なもんは嫌だよ」
健太も横から入ってくる。
「でも広がってるんだよな。なんか知らないけど」
「誰が言ったんだ」
「知らない」
祐一が首を振った。
「三組も知ってた。四組も知ってた。しかも、ちょっとずつ違う」
「違う?」
「赤い目が十個あるとか」
「十個?」
「腕が廊下の端まで伸びるとか」
「長すぎだろ」
「あと、旧校舎のピアノを弾くとか」
早苗の手が止まった。
丈も黙った。
ピアノ。
旧校舎。
白い少女。
雨の日。
山のもの。
別々だったはずのものが、一つの話に混ざっていく。
紙の上に水を垂らしたみたいに、輪郭が滲んでいた。
「それ、混ざってます」
早苗が言った。
「何が?」
「白い子の話と、山のものの話が」
「やっぱり?」
浩介は心底嫌そうな顔をした。
「俺も、それ気持ち悪いと思ってた」
「気持ち悪い?」
「俺が聞いた話と違うんだよ。じいちゃんが言ってたのは、近づくなって話だった。怖がれっていうか、ふざけるなっていうか」
「今は?」
丈が聞く。
「見に行こうぜって話になってる」
その言葉で、教室の空気が少しだけ冷えた。
怖さが、足を止めるものではなくなっている。
怖いから近づかないのではなく、怖いから近づきたくなる。
それが、嫌だった。
「なあ」
教室の後ろから声がした。
雅人だった。
机に腰を預けて、面白そうに笑っている。
「今日、旧校舎の裏行かね?」
浩介の顔が変わった。
「やめとけって」
「見るだけだよ」
「だから見るなって話してただろ」
「何、浩介ビビってんの?」
周りで小さな笑いが起こった。
浩介は顔を赤くした。
けれど、逃げなかった。
「ビビってるよ」
その一言で、教室が一瞬静かになる。
「悪いかよ。俺、これ嫌なんだよ」
声は震えていた。
それでも、ちゃんと出ていた。
早苗が少しだけ息を吐く。
丈も、浩介を見る目を変えた。
だが、雅人は肩をすくめる。
「じゃあ、来なくていいよ」
「おい」
「旧校舎の裏だけだって。中には入らねぇし」
雅人の隣にいた慎二が、不安そうに笑った。
「ほんとに行くの?」
「行くって」
「怒られない?」
「裏だけなら平気だろ」
裏だけ。
その言葉が、丈の胸に引っかかった。
旧校舎の裏。
校舎と山の境目。
学校でもあり、山でもある場所。
丈は立ち上がりかけた。
机の下で、早苗が袖を掴む。
「丈くん」
「分かってる」
「怒ったら、たぶん駄目です」
「分かってるって」
「顔が分かってません」
「顔見るな」
「見ます」
早苗の目は真面目だった。
丈は息を吐いて、座り直す。
けれど、胸の奥では、まだ何かがざらついていた。
◇
授業中。
先生の声が遠かった。
黒板には分数が書かれている。
通分。
約分。
分母。
どれも音だけで、意味にならない。
丈は窓の外を見ないようにしていた。
見れば、旧校舎がある。
ただそれだけなのに、見てはいけない気がした。
早苗もノートを見つめている。
鉛筆の先が、時々かすかに震えた。
こつん。
机の端に、小さな紙が当たる。
早苗からだった。
『放課後、確認しましょう』
丈は眉を寄せる。
確認。
早苗らしい言葉だ。
紙の端に書く。
『旧校舎には入らない』
すぐに返ってきた。
『入りません』
少し間が空いて。
『でも、誰かが入る前に止めます』
丈は紙を見つめた。
それから、短く書いた。
『分かった』
紙を戻す。
早苗はそれを読んで、小さく頷いた。
その時。
廊下の方で、誰かが笑った。
「猿鬼」
小さな声だった。
なのに、やけにはっきり聞こえた。
チョークが黒板を叩く音。
誰かが椅子を引く音。
先生の声。
それらの下に、かすかな鈴の音が混ざった気がした。
ちりん。
気のせいだ。
そう思った瞬間、早苗がこちらを見た。
彼女も聞いた顔をしていた。
◇
放課後。
空は曇っていた。
雨は降っていない。
けれど、空気だけが湿っている。
山の上には、低い雲が重たくかかっていた。
掃除が終わると、浩介が廊下を走ってきた。
「丈! 東風谷!」
「廊下走るな」
「今それ!?」
「で、何だよ」
「雅人たち、もう行った」
浩介は息を切らしている。
「慎二も?」
「一緒」
早苗の顔が強張った。
「止めたんですか」
「止めたよ!」
浩介は悔しそうに言う。
「止めたけど、笑って行ったんだよ。俺がビビってるだけだって」
「……分かった」
丈はランドセルを背負う。
健太と祐一も近づいてきた。
「俺たちも行く」
「来んな」
「なんでだよ」
「人数増えると面倒だろ」
「でも」
早苗が首を振った。
「旧校舎の近くまでは来てもいいです。でも、裏には来ないでください」
「裏って、そんなにまずいの?」
「はい」
早苗は即答した。
「たぶん、そこが境目です」
「境目?」
「学校と、山の」
健太は口を閉じた。
祐一が小さく聞く。
「ほんとに怖いやつ?」
「はい」
早苗の声は震えていた。
「本当に怖いです」
それで、誰も笑わなくなった。
◇
旧校舎は、曇り空の下で黒く沈んでいた。
窓ガラスは白く濁り、中は見えない。
見えないのに、そこに誰かがいる気がする。
「中には入らない」
丈が言った。
「分かってる」
浩介が頷く。
「お前らはここまで」
「え」
「ここで待ってろ」
「でも」
「待ってろ」
少し強く言うと、浩介は唇を噛んだ。
それでも、頷いた。
「……分かった」
丈と早苗だけで旧校舎の横を進む。
壁には古い蔦が絡んでいる。
足元の落ち葉は、なぜか湿っていた。
踏むと、ぐしゃりと嫌な音がする。
「……濡れてるな」
丈が言う。
「はい」
「雨、降ってねぇよな」
「降ってません」
「でも」
早苗が何か言いかける。
「言うな」
「……はい」
言葉にすると、何かが定まる気がした。
二階。
音楽室の窓。
白いものが揺れた。
丈は見てしまった。
早苗も見ていた。
白い少女が、ガラスの内側に立っている。
両手を窓に押し当て、必死に首を振っていた。
口が動く。
声はない。
けれど、分かる。
『だめ』
もう一度。
『だめ』
少女は耳を塞いだ。
その瞬間。
ちりん。
鈴のような音が、旧校舎の裏からした。
細く。
濡れた糸を弾いたように。
ちりん。
丈の背中が冷えた。
「……今の」
早苗が囁く。
「聞こえた」
「丈くん」
「言うな」
「はい」
言わなくても、二人とも同じものを思い出していた。
古い紙。
ひらがなの歌。
雨。
山。
霧。
鈴。
丈は奥歯を噛む。
「行くぞ」
「はい」
◇
旧校舎の裏は、狭いはずだった。
古い倉庫。
木。
フェンス。
その向こうに山。
ただ、それだけの場所だったはずだ。
けれど。
そこには道があった。
細い土の道。
白い霧の中へ、すっと伸びている。
両側の木が、まるで人を通すために並んでいるように見えた。
「……こんな道、あったか」
「ありません」
早苗は即答した。
声が硬い。
足元には靴跡がある。
二人分。
ひとつは大きめ。
もうひとつは少し小さい。
その後ろに、別の跡。
足跡ではない。
長い指で土を撫でたような、浅い線。
丈は何も言わなかった。
早苗も言わない。
ただ、二人とも見ていた。
ひとつ。
ふたつ。
その後ろ。
増えている。
「……行こう」
「はい」
二人は足跡を追った。
◇
土が柔らかかった。
踏むたびに、靴底が沈む。
雨は降っていないのに、道だけが雨を吸ったように濡れている。
振り返りたい。
振り返れば、旧校舎がすぐ後ろにあるはずだった。
でも、できない。
校庭の声が聞こえない。
浩介たちの声も、先生の声も、遠ざかっていた。
ざわ。
木々が鳴る。
ちりん。
鈴が鳴る。
早苗の肩が、そのたびに小さく震えた。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃないです」
「だろうな」
「でも行きます」
「知ってる」
「なら聞かないでください」
「確認だよ」
早苗が少しだけこちらを見る。
「私のです」
「借りた」
「勝手に借りないでください」
ほんの少しだけ、いつものやり取りになった。
だが、すぐに消える。
前方から声がした。
「おーい!」
雅人の声だった。
近いようで、遠い。
丈は返事をしかけた。
早苗が腕を掴む。
「待ってください」
「雅人だろ」
「本当に?」
丈は口を閉じる。
声はまたした。
「おーい、慎二!」
雅人の声。
そのすぐあと、違う方角から慎二の声。
「こっちだよ!」
丈の背筋が冷えた。
「分かれてるのか」
「たぶん」
「まずいだろ」
「はい」
「返事は」
「……しない方がいいです」
早苗の声が震えていた。
叫びたい。
でも、声を出すこと自体が罠に思える。
こんな場所では、声も道も信用できない。
二人は進んだ。
木々の間に、折れた枝が落ちていた。
傘の骨みたいに広がっている。
丈はそれを見て、すぐ目を逸らす。
「丈くん」
「見た」
「はい」
「言うな」
「はい」
折れた枝。
濡れた道。
二人分の足跡。
その後ろにある、三つ目の跡。
歌は、誰も歌っていない。
けれど、足元から迫ってくる。
◇
雅人は、木の間に立っていた。
顔が青い。
いつもの笑いは跡形もない。
「丈!」
駆け寄ろうとする雅人を、丈は手で制した。
「動くな!」
雅人がびくりと止まる。
「慎二は」
「分かんない」
「一緒だったんだろ」
「さっきまでいた。ほんとにいたんだよ。俺の後ろ歩いてて」
早苗が小さく聞く。
「後ろ?」
「うん」
早苗は黙った。
丈にも分かった。
後ろ。
二人目。
その後ろ。
「それで?」
「先生の声がした」
「先生?」
「忘れ物だって。戻れって」
雅人の喉が鳴った。
「慎二が、返事した」
早苗の顔から血の気が引いた。
「何て」
「……はいって」
その瞬間。
木々の奥から声がした。
「はい」
慎二の声だった。
近い。
だが、姿は見えない。
雅人が振り向きかける。
丈は腕を掴んだ。
「見るな」
「でも」
「見るな」
また声。
「はい」
今度は、雅人の声。
雅人本人が目を見開く。
「俺じゃない」
「分かってる」
「俺、言ってない」
「分かってるって」
さらに声。
「はい」
早苗の声だった。
早苗が口元を押さえる。
自分の声なのに、自分の声ではない。
空っぽの器に、声だけ流し込んだような音。
丈の胃が縮んだ。
「……聞くな」
丈は低く言った。
「二人とも、聞くな」
慎二の声が続く。
「こっちだよ」
「帰れるよ」
「早く」
声だけは慎二だった。
けれど、中身がない。
ただ人の声の形をまねている。
それだけ。
「慎二!」
丈が叫ぶ。
今度は早苗も止めなかった。
霧の奥で影が動いた。
慎二がいた。
背中を向け、ゆっくり歩いている。
その少し斜め後ろ。
黒いものが、増えていた。
猿のようにも見える。
人のようにも見える。
枝の影にも見える。
見るたび、形が違った。
慎二の影ではない。
雅人の影でもない。
三つ目だった。
早苗が息を吸う。
何も言わない。
丈も言わない。
言えば、あれが近づく気がした。
「慎二」
丈は慎重に呼んだ。
「止まれ」
慎二の足が止まる。
黒いものも止まる。
ゆっくりと、こちらを向いた。
顔はない。
ただ、赤いものがある。
二つだったか。
もっとあったか。
見ているうちに数が変わりそうで、丈は目を細めた。
雅人が震える声で言う。
「俺たち、帰れるよな?」
丈は答えようとした。
大丈夫だ。
帰れる。
そう言うはずだった。
その前に、背後から雅人と同じ声がした。
「帰れるよ」
雅人が振り向きかける。
丈は反射的に彼の頭を押さえた。
「振り向くな!」
すぐ後ろで何かが笑った。
猿のようで。
子供のようで。
泣いているような笑いだった。
早苗が震える声で言う。
「丈くん」
「何だ」
「これ」
「言うな」
「……はい」
言わなくても分かる。
胸の奥で、勝手に言葉が並ぶ。
帰り。
ひとり。
誰も歌っていない。
けれど、歌はそこにある。
慎二の背中に。
雅人の震える声に。
鈴の音に。
濡れた土に。
◇
霧の奥から、先生の声がした。
「慎二くん」
優しい声。
「はいって言いなさい」
慎二の口が動く。
「は」
丈は叫んだ。
「言うな!」
慎二の肩が跳ねた。
黒い影が歪む。
木々が一斉にざわめく。
土の匂いが濃くなる。
早苗が一歩前に出た。
「慎二くん」
震えている。
でも、真っ直ぐだった。
「それ、先生じゃありません」
慎二はぼんやり振り向いた。
「でも」
「返事をしないでください」
「でも、先生が」
「先生じゃありません」
早苗の声が強くなる。
「帰るなら、こっちです」
慎二が迷った。
その背後で、黒いものが揺れる。
長い腕のようなものが、慎二の肩へ伸びる。
丈は走った。
「慎二!」
土が滑る。
足が沈む。
それでも走る。
慎二の手首を掴んだ。
冷たい。
氷みたいだった。
「戻れ!」
慎二の体が震える。
黒いものが丈を見た。
見た。
いや。
見返した。
その瞬間、丈の喉が詰まった。
息が浅くなる。
頭の奥で、ばらばらの言葉が転がった。
あめ。
やま。
すず。
かげ。
ななし。
かえり。
ひとり。
それらが歌の形になろうとする。
丈は奥歯を噛んだ。
「知るか」
声が漏れた。
「そんなの、知るかよ」
慎二を引く。
重い。
慎二は小柄なのに、ひどく重かった。
まるで、山の向こうから引かれている。
早苗が反対の手を掴む。
「慎二くん、こっち!」
雅人が震えながら近づく。
「慎二!」
「来るな!」
丈が怒鳴る。
雅人は止まった。
「そこで待ってろ!」
「でも!」
「待ってろ!」
雅人は泣きそうな顔で頷く。
その時、背後から別の声がした。
「雅人」
雅人の母親の声だった。
「迎えに来たよ」
雅人の体が固まる。
「母ちゃん……?」
「違います!」
早苗が叫んだ。
「聞かないで!」
雅人は耳を塞いだ。
震えながら、ちゃんと塞いだ。
唇が震える。
「怖い」
その言葉がこぼれた瞬間、霧が少しだけ薄くなった。
遠くから、校庭の声が戻る。
「丈ー!」
浩介の声。
小さい。
でも、本物だ。
「こっちだ!」
丈は叫んだ。
今度は迷わなかった。
これは帰るための声だ。
慎二を引く。
早苗も引く。
雅人は耳を塞いだまま後ずさる。
黒いものが追ってくる。
足音はない。
けれど、近い。
鈴が鳴る。
ちりん。
ちりん。
歌は終わっていない。
帰り道の途中だ。
◇
走る。
道は細い。
さっき通ったはずなのに、違う道に見える。
折れた枝。
濡れた土。
白い霧。
鈴の音。
すべてが近い。
慎二が足をもつれさせた。
「転ぶな!」
「無理……」
「無理でも走れ!」
「丈くん!」
早苗が叫ぶ。
前方に石があった。
苔むした平たい石。
ちょうど腰を下ろせそうな高さ。
慎二がふらりとそちらへ寄る。
「休ませて」
慎二が呟く。
「ちょっとだけ」
丈はぞっとした。
その石が、妙に優しく見えた。
座れ。
休め。
もう歩かなくていい。
そう言っているようだった。
「駄目だ!」
丈は慎二を引っ張った。
「座るな!」
早苗も息を切らしながら言う。
「そこ、駄目です!」
「なんで」
「分かりません!」
「分からないのに!?」
「分かりませんけど駄目です!」
「お前ら、めちゃくちゃだよ!」
雅人が泣きながら言う。
「そうだよ!」
丈も怒鳴った。
「めちゃくちゃなんだよ、今!」
石の横を通り過ぎる。
背後で、こつん、と何かが腰を下ろす音がした。
誰も振り向かなかった。
振り向けなかった。
前方に旧校舎の壁が見える。
校庭の声も戻ってきた。
浩介が叫んでいる。
「こっち! こっちだ!」
祐一の声も聞こえた。
「先生呼んだ方がいい!?」
「呼ぶな!」
浩介が叫ぶ。
「いや先生は呼んでいいのか!?」
「分かんねぇ!」
そのやり取りが馬鹿みたいで、普通で、泣きたくなるくらい本物だった。
「浩介!」
丈が叫ぶ。
「そこから動くな!」
「動かねぇよ!」
「耳塞げ!」
「もう塞いでる!」
「早ぇな!」
「怖ぇんだよ!」
浩介の声は震えていた。
でも、そこにいた。
ちゃんと、こちら側に。
湿った道の終わりが見える。
フェンスの切れ目。
そこを越えれば、学校だ。
背後で、空気が冷たくなる。
慎二の体が、ぐっと後ろへ引かれた。
「うわっ!」
丈の手が滑りそうになる。
早苗が悲鳴を上げる。
「丈くん!」
「離すな!」
「離しません!」
黒いものが、もうすぐ後ろにいる。
名のないもの。
呼んではいけないもの。
でも、呼ばなければ止められないもの。
丈の口が勝手に動きそうになる。
早苗がそれに気づいた。
「丈くん」
声が震えている。
「まだ」
「分かってる」
「まだ、呼ばないでください」
「分かってる!」
慎二の手が冷たくなっていく。
指先の感覚が薄い。
ここにいるのに、消えかけている。
早苗が、慎二の腕を抱えるようにして叫んだ。
「帰ります!」
その声は、ほとんど悲鳴だった。
「慎二くん、帰りますよ!」
慎二の目が少しだけ動く。
「……帰る」
「はい!」
「帰る」
「そうです!」
「俺、帰る」
その言葉で、慎二の体に重さが戻った。
こちら側に落ちてくる重さだった。
丈は思いきり引いた。
「帰れ!」
慎二の体が前に倒れ込む。
雅人が泣きながら支える。
三人まとめて、湿った道の外へ転がり出た。
旧校舎の裏。
見慣れた地面。
濡れていない土。
割れたフェンス。
古い倉庫。
浩介たちの声。
帰ってきた。
そう思った。
雅人が慎二にしがみついて泣く。
「慎二!」
「雅人……」
「帰った……帰ったよな!?」
浩介が駆け寄ろうとして、寸前で止まった。
「大丈夫か!?」
「たぶん!」
「たぶんって何だよ!」
健太も祐一も泣きそうな顔をしている。
早苗は地面に膝をつき、肩で息をしていた。
丈も手をつく。
腕が震えていた。
慎二の手は、もう氷ではなかった。
温かい。
ちゃんと、ここにいる。
「……帰れた」
雅人が呟いた。
「帰れたんだよな」
丈は頷こうとした。
その時。
早苗が、慎二の足元を見た。
動きが止まる。
「……丈くん」
「あ?」
「だめです」
声が、ひどく小さかった。
丈は顔を上げる。
早苗は慎二の足元を見ていた。
「慎二くんは」
そこで、言葉が切れる。
丈も見た。
慎二はそこにいる。
校舎裏に倒れて、雅人に抱えられて泣いている。
なのに。
影がない。
夕方だ。
曇っていても、薄い光はある。
雅人の影はある。
浩介の影もある。
早苗の影も。
丈の影も。
慎二の足元だけ、空っぽだった。
丈は息を止めた。
ゆっくりと、山の方を見る。
湿った道の奥。
霧の中。
少し離れた場所に、子供の影が残っている。
慎二と同じ形の影。
山の方を向いたまま、地面に縫い止められていた。
「……嘘だろ」
丈の声がかすれた。
慎二が、自分の足元を見る。
「え」
雅人も見る。
「何で」
浩介が後ずさる。
「何で影が……」
早苗の顔は真っ白だった。
「まだ」
彼女は震える声で言う。
「まだ、帰ってません」
湿った道の奥で、何かが笑った。
猿のような。
子供のような。
泣き声のような笑い。
山のものが、こちらへ近づいてくる。
名のないまま。
形のないまま。
そこに残った慎二の影へ向かって。
「逃げろ!」
浩介が叫んだ。
誰も動けなかった。
逃げれば、慎二の影を置いていく。
残れば、あれが追いつく。
慎二は泣きながら首を振った。
「やだ」
「慎二」
「やだ、俺、帰ったんだろ」
雅人が慎二を抱えたまま震える。
「帰ったよ! 帰っただろ!」
早苗は唇を噛んだ。
何も言えない。
丈は山の方を見た。
黒いものが近づく。
霧の中で赤いものが揺れる。
慎二の影のすぐ後ろ。
もう、そこまで来ている。
その時。
丈の頭に、別の景色が浮かんだ。
雨。
旧校舎。
音楽室。
白い少女。
置いていかれる。
帰れない。
誰かが、夕方の中で泣いている。
見つかった子。
見つからなかった子。
帰ったはずなのに、帰りきれなかったもの。
ふたりで行って。
帰りは。
「ふざけんな」
丈は立ち上がった。
「丈くん」
早苗が言う。
「だめです。今、何かすると」
「じゃあどうすんだよ」
「分かりません」
「だろうな」
丈は一歩前に出た。
湿った道の端。
山との境。
そこに立つ。
足元の土が、急に冷たくなった。
山のものが迫る。
慎二の影へ、長い腕のようなものが伸びる。
丈は喉を開いた。
「帰れ!」
声が空気を叩いた。
浩介たちがびくりとする。
早苗も息を呑む。
だが、山のものは止まらない。
代わりに、道の脇にあった小さな祠が、ぎし、と鳴った。
古い木に、細い傷が走る。
山のものが笑う。
口があるのかも分からないのに、笑ったのが分かった。
「消えろ!」
丈は叫んだ。
木々が揺れる。
霧が裂ける。
けれど、黒いものはさらに近づく。
道の横の幹に、ざくりと傷が入った。
見えない爪で抉られたように、木の皮が剥がれる。
「いなくなれ!」
三度目の声。
喉が焼ける。
しかし、今度は足元の石が割れた。
ぱきん、と乾いた音がする。
祠。
木。
石。
丈の言葉は、山のものに届いている。
届いているのに、当たっていない。
「丈くん、だめです!」
早苗が叫んだ。
「なんで効かねぇんだよ!」
「違います!」
早苗は震えていた。
「効いてないんじゃない!」
その瞬間。
頭の奥で、ざ、と音がした。
砂を踏むような音。
途切れていたものが、急につながる。
諏訪子の声だった。
『対象をそらしてる』
いつもの軽さがない。
次に、神奈子の声。
『自分ではないと分かるだけの力を持っているのよ』
丈は目を見開いた。
「何だよ、それ」
『名がないから受けない』
諏訪子の声が鋭い。
『でも、ただの名なしじゃない。自分に向けられたものを、外せる』
神奈子が続ける。
『あなたの言葉は届いている。でも、あれは受けない。周囲の弱いものへ流している』
丈は傷ついた祠を見た。
裂けた木を見た。
割れた石を見た。
自分の言葉で。
自分の声で。
別のものが傷ついていた。
「じゃあ、どうすればいい」
丈の声は震えていた。
山のものは慎二の影へ手を伸ばしている。
あと少し。
触れる。
触れたら、慎二は本当に帰れなくなる。
神奈子の声が硬く響く。
『名を呼べば、届く』
早苗が叫んだ。
「だめです!」
丈が振り返る。
早苗は泣きそうな顔だった。
「それを呼んだら、本当にそうなります!」
「分かってる」
「分かってるなら!」
「でも!」
丈は慎二を見る。
影のない慎二。
泣いている雅人。
耳を塞いで震える浩介たち。
窓の中の白い少女。
そして。
山に残った影。
「このままだと、帰らねぇやつが出るだろ!」
早苗は言葉を失った。
丈は山のものへ向き直る。
喉が痛い。
足が震える。
怖い。
それでも、逃げない。
名を呼ぶな。
名前をつけるな。
見えたと言うな。
全部、分かっている。
分かっているのに。
呼ばなければ、届かない。
丈は息を吸った。
山のものの手が、慎二の影へ触れようとする。
その瞬間。
丈は叫んだ。
「去れ!」
霧が止まった。
木々が止まった。
鈴の音が、途切れた。
丈は、その名を口にした。
「猿鬼!」
世界が、一拍遅れた。
山のものが止まる。
初めて。
本当に。
止まった。
赤いものが、丈を見る。
慎二の影が、びくりと震えた。
地面から剥がれる。
ふわりと浮く。
そして、一直線に慎二の足元へ戻った。
慎二の体が重く倒れる。
「うっ……!」
「慎二!」
雅人が抱きしめる。
慎二の足元に、影がある。
小さく震えているけれど。
ちゃんと、ある。
早苗が息を吐いた。
「……帰った」
誰かが泣いた。
浩介かもしれない。
雅人かもしれない。
慎二かもしれない。
丈は膝から崩れそうになった。
でも、立っていた。
湿った道の奥。
山のものは、もう山のものではなかった。
輪郭が定まり始めていた。
猿のような背。
鬼のように歪んだ肩。
長い腕。
赤い目。
そして、口。
口が、ゆっくり動いた。
『さる』
声は幼かった。
意味を知らない子供みたいだった。
『おに』
早苗の顔が歪む。
諏訪子の声が、頭の奥で低く響いた。
『……呼んじゃったね』
神奈子は何も言わなかった。
白い少女が、旧校舎の窓の中で震えている。
歌は終わった。
行きは、ふたり。
帰りは、ひとり。
その結末だけは、避けられた。
けれど。
山の奥で、生まれたばかりの名前が、ゆっくりとこちらへ歩き出す。
『さる』
『おに』
『さる、おに』
丈は、喉の痛みを押さえながら、立ち尽くした。
自分が呼んだものが。
初めて、自分の名前を覚えるところを。
ただ、見ていた。