現人神な幼馴染   作:全肯定逆張りおじさん

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第十四話 「猿鬼」

  第十四話 「猿鬼」

 

 霧の奥に、黒いものが立っていた。

 

 それは、さっきまで形を持っていなかった。

 

 猿のようにも見えた。

 

 人のようにも見えた。

 

 枝の影が重なっただけにも見えた。

 

 目を凝らせば輪郭が逃げ、目を逸らせば別の姿になっていた。

 

 けれど、今は違う。

 

 名前を呼ばれた。

 

 その瞬間から、曖昧だったものが、少しずつ一つの形へ寄っていく。

 

 背は曲がっていた。

 

 猿のように。

 

 肩は盛り上がっていた。

 

 鬼のように。

 

 腕は異様に長く、膝よりも下まで垂れている。

 

 頭は、人の頭に似ていた。

 

 けれど、据わり方がおかしい。

 

 粘土で作った人形の頭を、あとから無理やり猿の体に押し込んだみたいだった。

 

 霧の中に、赤いものが二つ浮かぶ。

 

 目。

 

 たぶん、目。

 

 そう呼んでいいのか分からない。

 

 ただ、その赤いものがこちらを向いた時、丈は全身を掴まれたように動けなくなった。

 

 黒い口が、ゆっくり開く。

 

『さる』

 

 濡れた声だった。

 

 水を吸った紙を破るような。

 

 子供が、初めて覚えた言葉を、意味も分からず口に乗せるような。

 

 だが、その声は子供ではない。

 

 人の声ですらない。

 

『おに』

 

 早苗が息を呑んだ。

 

 慎二は、雅人にしがみついたまま泣いていた。

 

 その足元には影がある。

 

 さっきまで山の方に残っていた影。

 

 丈が呼んでしまった名に、山のものが反応した瞬間、慎二の足元へ戻った影。

 

 細く震えているけれど、そこにある。

 

 だから、助かった。

 

 そう思いたかった。

 

 しかし。

 

『さる、おに』

 

 黒いものは、まだそこにいる。

 

 もう山のものではない。

 

 名前を与えられたものとして、そこに立っている。

 

『お……ま、え』

 

 音が歪む。

 

 人の言葉に似ている。

 

 けれど、言葉になりきれない。

 

 意味の器に入る前に、底から漏れていくような声。

 

『よ……よん、だ』

 

 丈の喉が、ひりついた。

 

 さっき叫んだせいだ。

 

 去れ。

 

 猿鬼。

 

 叫んだ。

 

 呼んだ。

 

 呼んでしまった。

 

 それで慎二は戻った。

 

 その代わりに、あれは生まれた。

 

 猿鬼が、一歩近づく。

 

 足音はなかった。

 

 土も鳴らない。

 

 だが、確かに距離が縮まった。

 

 黒い体が、霧から少しだけこちらへ出る。

 

 空気が湿る。

 

 冷たい泥の匂いがした。

 

「丈くん」

 

 早苗の声が震えている。

 

「下がってください」

 

「お前こそ」

 

「今、言い合ってる場合じゃありません」

 

「分かってる」

 

「分かってない顔です」

 

「顔見るな」

 

「見ます」

 

 形だけなら、いつもの会話だった。

 

 けれど、早苗の手は震えている。

 

 丈の膝も笑っている。

 

 袖を掴む早苗の指に、力が入りすぎていた。

 

 ぽんと叩く余裕はない。

 

 確認する余裕すらない。

 

 ただ、離したらどちらかがどこかへ行ってしまうように、早苗は袖を掴んでいた。

 

 猿鬼の口が、また動く。

 

『おまえ』

 

『よんだ』

 

『さる』

 

『おに』

 

 音の切れ端が、湿った空気に落ちるように響いた。

 

 丈は息を吸った。

 

 肺の奥まで土の匂いが入る。

 

 その時、頭の奥で声がした。

 

『逃げて』

 

 諏訪子だった。

 

 いつもの軽い調子ではない。

 

 祭りの日に聞いた、あのからかう声でもない。

 

 もっと低く、硬い。

 

『今は相手にしちゃだめ』

 

 神奈子の声も重なる。

 

『子供たちを離しなさい。あれはもう、あなたの声に結びついている』

 

「結びつくって何だよ」

 

 丈は小さく吐き捨てる。

 

 神奈子は答えなかった。

 

 ただ、急げという圧だけが頭の奥に残る。

 

 猿鬼の赤い目が、ふと動いた。

 

 丈ではない。

 

 早苗でもない。

 

 慎二の足元。

 

 そこにある影を見ていた。

 

 慎二はそれに気づき、自分の足を引っ込める。

 

 影は一緒についてくる。

 

 ちゃんと。

 

 それでも、慎二は泣きそうな顔で首を振った。

 

「やだ……」

 

 猿鬼は、慎二の足元をじっと見た。

 

 さっきまで影がなかった場所。

 

 戻ったばかりの場所。

 

 そこを眺める。

 

 まるで、置いておいた玩具が取り返されたことに、ようやく気づいた子供のように。

 

 次に、猿鬼は慎二を見た。

 

 口が裂ける。

 

 にんまりと。

 

 歯があったのか、ただの黒い裂け目だったのかは分からない。

 

 だが、笑った。

 

 その笑みに、慎二が短く悲鳴を上げた。

 

「ひっ」

 

 雅人が慎二を抱え込む。

 

「見るな! 見るなって!」

 

「やだ、やだ、雅人」

 

「大丈夫、大丈夫だから!」

 

 雅人の声も震えている。

 

 大丈夫という言葉が、少しも大丈夫ではなかった。

 

 浩介が、二人の前に出ようとして足を止める。

 

 膝が震えていた。

 

 それでも、逃げなかった。

 

「浩介!」

 

 丈は叫んだ。

 

「あ?」

 

「慎二と雅人を連れてけ!」

 

「お前は!?」

 

「いいから!」

 

「よくねぇだろ!」

 

「いいから行け!」

 

 浩介は口を開いた。

 

 怒鳴り返そうとして、猿鬼の赤い目を見てしまったのだろう。

 

 言葉が止まった。

 

 それから、彼は唇を噛み、慎二の腕を掴んだ。

 

「健太! 祐一! 手伝え!」

 

「お、おう!」

 

「うん!」

 

 三人が慎二と雅人を支える。

 

 慎二は立とうとして、足をもつれさせた。

 

「影……」

 

「ある! あるって!」

 

 浩介が怒鳴る。

 

「見んな! あるから!」

 

「でも」

 

「ある! 俺が見る! だからお前は歩け!」

 

 慎二は泣きながら頷いた。

 

 雅人はずっと謝っている。

 

「ごめん、ごめん慎二」

 

「もういいって」

 

「俺が行こうって言ったから」

 

「もういいって!」

 

「でも」

 

「今それ言うと、また泣く!」

 

 慎二の声が裏返る。

 

 雅人は黙った。

 

 泣きながら、慎二の肩を支えた。

 

「早苗」

 

 丈は横目で言った。

 

「お前も行け」

 

「嫌です」

 

「即答すんな」

 

「嫌です」

 

「お前な」

 

「行きません」

 

 早苗は丈の袖を掴んだままだった。

 

「逃げろって言ってんだよ」

 

「丈くんが逃げるなら逃げます」

 

「俺は」

 

「丈くんが残るなら、私も残ります」

 

「邪魔だって言ったら?」

 

「嘘です」

 

「なんで分かる」

 

「丈くん、そういう嘘をつく時、顔が下手です」

 

「顔見るな」

 

「見ます」

 

 言い切る早苗の顔は、真っ青だった。

 

 怖いのだ。

 

 当然だ。

 

 声も震えている。

 

 足も震えている。

 

 でも、行かない。

 

 丈は舌打ちした。

 

「勝手にしろ」

 

「はい」

 

「死ぬなよ」

 

「丈くんもです」

 

「この状況で言うな」

 

「怖いので!」

 

「正直だな!」

 

 猿鬼が、慎二たちの方へ向き直ろうとした。

 

 丈の背中が冷える。

 

 あれは、慎二の影を意識している。

 

 戻ったばかりの影を、まだ見ている。

 

 もう一度奪おうとしているのか。

 

 ただ気になっているだけなのか。

 

 そんな区別はどうでもよかった。

 

 見せてはいけない。

 

 触れさせてはいけない。

 

 丈は一歩前に出た。

 

「こっちだ」

 

 猿鬼の赤い目が、わずかに動く。

 

 丈は喉の痛みを無視して、今度ははっきりと言った。

 

「こっちだ、猿鬼!」

 

 名を呼ぶ。

 

 その瞬間、猿鬼の動きが止まった。

 

『さる、おに』

 

 声が震える。

 

 喜んだようにも聞こえた。

 

 反応した。

 

 自分の名前が呼ばれたことに。

 

『こっち』

 

『おまえ』

 

『よんだ』

 

 赤い目が、完全に丈へ向く。

 

 慎二ではない。

 

 雅人でもない。

 

 浩介たちでもない。

 

 丈へ。

 

 猿鬼が、まっすぐ近づいてくる。

 

「浩介! 新校舎へ行け!」

 

「分かった!」

 

「振り向くな!」

 

「振り向かねぇよ!」

 

「絶対だぞ!」

 

「うるせぇ! 分かってる!」

 

 浩介たちは慎二と雅人を抱えるようにして、新校舎の方へ走り出した。

 

 丈は逆へ走った。

 

 早苗の手を掴んで。

 

 旧校舎の方へ。

 

「丈くん、そっちは!」

 

「分かってる!」

 

「旧校舎です!」

 

「分かってるって!」

 

「分かってて行くんですか!?」

 

「他に行けるか!」

 

 背後から、猿鬼の声が近づく。

 

『おまえ』

 

『よんだ』

 

『さる』

 

『おに』

 

『おまえ』

 

 足音はない。

 

 なのに、迫ってくるのが分かる。

 

 霧を引きずるように、黒い気配が背中へ貼りつく。

 

 丈は旧校舎の扉へ飛び込んだ。

 

 古い扉が、ぎい、と悲鳴を上げる。

 

 早苗を押し込むように中へ入れ、丈も続く。

 

 中は暗かった。

 

 夕方の光は窓から薄く入っているだけで、廊下の奥は黒い。

 

 床板が軋む。

 

 埃の匂い。

 

 古い木の匂い。

 

 雨も降っていないのに、湿った空気。

 

「閉めます!」

 

 早苗が扉に手をかける。

 

「閉めるな!」

 

「えっ」

 

「挟まれたら終わる!」

 

「それもそうですね!」

 

「納得早いな!」

 

 二人は廊下を走った。

 

 旧校舎の中は、以前より広く感じた。

 

 廊下が長い。

 

 教室の扉がいくつも並ぶ。

 

 窓の外には、さっきまでいた校舎裏が見えるはずだった。

 

 けれど、白く曇っていて何も見えない。

 

「どこへ行きますか!」

 

「知らん!」

 

「また知らない!」

 

「逃げてるだけだ!」

 

「本当に正直ですね!」

 

 背後で、扉が鳴った。

 

 ぎい。

 

 猿鬼が入ってきた。

 

 丈は振り向かなかった。

 

 振り向かなくても分かる。

 

 入ってきた。

 

 旧校舎の中へ。

 

『さる』

 

『おに』

 

 声が廊下に反響する。

 

 近い。

 

 遠い。

 

 左右から聞こえる。

 

 上からも聞こえる。

 

『おまえ』

 

『まて』

 

 早苗の息が詰まった。

 

「待ちません!」

 

 小さく言ってから、早苗は自分で口を押さえた。

 

「返事したかもしれません!」

 

「今のは違うだろ!」

 

「違いますか!?」

 

「知らん!」

 

「知らないのに断言しないでください!」

 

 丈は手近な教室の扉を開けた。

 

 鍵はかかっていない。

 

 中へ飛び込む。

 

 机と椅子が積み上げられていた。

 

 埃だらけの黒板。

 

 割れたチョーク。

 

 隅に倒れた掃除用具。

 

 壁には、古い掲示物の跡だけが四角く残っている。

 

「隠れるぞ」

 

「はい」

 

 二人は積み上がった机の陰にしゃがみ込んだ。

 

 息を殺す。

 

 心臓がうるさい。

 

 床の埃が鼻に入って、くしゃみが出そうになる。

 

 早苗が必死に鼻を押さえていた。

 

 丈は思わず睨む。

 

 早苗は涙目で首を振る。

 

 出ません。

 

 たぶん。

 

 そういう顔だった。

 

 廊下で、何かが動く。

 

 足音はない。

 

 でも、床板が湿ったように鳴った。

 

 ぎ。

 

 ぎ。

 

 猿鬼の声がする。

 

『おまえ』

 

『どこ』

 

『ど……こ』

 

 人の言葉に似ている。

 

 でも、思考がない。

 

 ただ、どこかで拾った音を、口の中で溶かしている。

 

『どこ、どこ、どこ』

 

『はい』

 

『まて』

 

『かえ……かえ……』

 

 早苗の肩が震える。

 

 その声の中に、慎二の声が混ざった。

 

 雅人の声も混ざった。

 

 先生の声も。

 

 そして、自分たちの声も。

 

 声だけを奪って、意味を捨てたものが、廊下を這っている。

 

 教室の扉が、少しだけ開いた。

 

 ぎい。

 

 早苗の手が、丈の袖を握り潰す。

 

 黒い指のようなものが、扉の隙間から入ってきた。

 

 長い。

 

 細い。

 

 人の指ではない。

 

 机の端を撫でる。

 

 黒板を撫でる。

 

 床を撫でる。

 

 そのたびに、埃が湿ったように黒ずむ。

 

 丈は息を止めた。

 

 早苗も動かない。

 

 黒い指が、積み上げられた机の方へ伸びる。

 

 あと少し。

 

 あと少しで、見つかる。

 

 その時。

 

 廊下の奥で、ピアノの音が鳴った。

 

 ぽん。

 

 乾いた音。

 

 古い音。

 

 旧音楽室の方からだった。

 

 黒い指が止まる。

 

 猿鬼の声が途切れる。

 

 ぽん。

 

 もう一度。

 

 か細い音。

 

 悲しい音。

 

『……こっち』

 

 小さな声がした。

 

 白い少女の声だった。

 

 猿鬼の気配が、廊下の奥へ動く。

 

『こっち』

 

『こっち』

 

『どこ』

 

『さる、おに』

 

 声が遠ざかる。

 

 丈はまだ動けなかった。

 

 早苗も、目を見開いたまま固まっている。

 

 しばらくしてから、教室の奥の窓が、かた、と鳴った。

 

 白い少女が立っていた。

 

 窓の内側ではない。

 

 教室の中。

 

 夕方の光に透けるように、そこにいた。

 

 以前より薄い。

 

 けれど、確かにいる。

 

 少女は廊下の方を見てから、丈たちへ向き直った。

 

『いま』

 

 声は小さい。

 

『いって』

 

 丈は息を吸った。

 

「助けてくれたのか」

 

 少女は答えない。

 

 ただ、少しだけ頷いたように見えた。

 

 早苗が震える声で言う。

 

「ありがとうございます」

 

 少女は、早苗を見る。

 

 それから、丈を見る。

 

 その顔はぼやけている。

 

 表情は分からない。

 

 でも、泣きそうだった。

 

『よばないで』

 

 それだけ言うと、少女は廊下の反対側を指差した。

 

 廃教室の並ぶ方。

 

 丈は頷く。

 

「行くぞ」

 

「はい」

 

 二人は教室を出た。

 

 廊下の奥から、かすかにピアノの音が続いている。

 

 猿鬼はそちらへ向かっているらしい。

 

 長くは持たない。

 

 二人はできるだけ足音を殺して走った。

 

     ◇

 

 新校舎の方では、浩介たちがようやく校庭に出ていた。

 

 慎二は何度も転びかけ、そのたびに雅人と浩介が支えた。

 

 健太が先に走って、先生を呼びに行く。

 

 祐一はずっと耳を塞いでいた。

 

 それでも、慎二のランドセルだけは離さなかった。

 

「先生!」

 

 健太の声が校庭に響く。

 

「先生、来て!」

 

 新校舎の玄関から、担任が顔を出す。

 

「何をしてる! 旧校舎へ行くなと言っただろ!」

 

 その怒鳴り声に、浩介は泣きそうになった。

 

 怒鳴り声が怖いのではない。

 

 普通だったからだ。

 

 ちゃんと足音があった。

 

 ちゃんと影があった。

 

 ちゃんと怒っていた。

 

 本物だった。

 

「慎二が!」

 

 浩介は叫んだ。

 

「慎二が具合悪い!」

 

「何?」

 

「早く!」

 

 先生が走ってくる。

 

 慎二はその場に座り込んだ。

 

 雅人も崩れるように膝をつく。

 

「慎二!」

 

 先生が慎二の肩を掴む。

 

「大丈夫か!」

 

「……はい」

 

 慎二は震えていた。

 

 でも、返事をした。

 

 本物の先生に。

 

 自分の声で。

 

 浩介は、慎二の足元を見た。

 

 影がある。

 

 ちゃんとある。

 

 それを見て、息が抜けた。

 

「丈と東風谷は?」

 

 先生が言った。

 

 浩介は旧校舎の方を見そうになって、慌てて目を伏せた。

 

「……旧校舎の方に」

 

「何だと!」

 

「でも」

 

 浩介は震える声で言った。

 

「今、行っちゃだめです」

 

「何を言ってる!」

 

「だめなんです!」

 

 先生は意味が分からないという顔をした。

 

 当然だ。

 

 分かるはずがない。

 

 しかし、慎二が先生の袖を掴んだ。

 

「先生」

 

「何だ」

 

「行かないで」

 

 慎二は、影のある足元を両手で押さえていた。

 

「また、声がするから」

 

 先生は黙った。

 

 何も分からない。

 

 けれど、子供たちの顔が普通ではないことだけは分かったらしい。

 

 先生は振り返り、新校舎へ向かって叫んだ。

 

「誰か来てくれ! 救急車を呼べ!」

 

 その声は、普通の学校へ飛んでいった。

 

 丈と早苗の姿は、もう旧校舎の中に消えていた。

 

     ◇

 

 廃教室は、旧校舎の一番奥にあった。

 

 扉の札は外れかけていて、何の教室だったのか分からない。

 

 中には、使われなくなった机が端に寄せられていた。

 

 壁には、破れた掲示物。

 

 窓際には、ひびの入った花瓶。

 

 黒板には、消え残った白い跡がある。

 

 文字だったのか、図だったのか、もう分からない。

 

 丈は扉をそっと閉めた。

 

 今度は音を立てないように。

 

 二人は壁際にしゃがみ込む。

 

 猿鬼の声は、すぐ近くにはない。

 

 少しだけ、間ができた。

 

 早苗は胸を押さえながら、荒い息を整えている。

 

 丈も壁に背を預けた。

 

「……死ぬかと思った」

 

「まだ死んでません」

 

「知ってる」

 

「まだ、です」

 

「それ言うな」

 

 早苗は小さく頷いた。

 

 窓際に、白い少女がまた現れた。

 

 音もなく。

 

 風もなく。

 

 そこにいた。

 

 早苗が姿勢を正す。

 

「助けてくれて、ありがとうございました」

 

 丈も頭を下げた。

 

「助かった」

 

 少女は、首を横に振る。

 

 助けたというより、放っておけなかった。

 

 そんなふうに見えた。

 

「お前、大丈夫なのか」

 

 丈が聞く。

 

 少女は答えない。

 

 ただ、廊下の方を見た。

 

 遠くで、猿鬼の声がする。

 

『どこ』

 

『おまえ』

 

『よんだ』

 

『さる、おに』

 

 少女の肩が震えた。

 

 丈は歯を食いしばる。

 

「悪い」

 

 少女が丈を見る。

 

「俺が呼んだ」

 

 早苗が何か言いかけたが、止まった。

 

 少女はしばらく丈を見ていた。

 

 それから、ゆっくり首を振った。

 

『かえした』

 

「え?」

 

『あのこ』

 

 慎二のことだ。

 

 丈は黙った。

 

 少女は続けない。

 

 言葉が少ない。

 

 生きている者の会話とは違う。

 

 けれど、それだけで十分だった。

 

 責めてはいない。

 

 たぶん。

 

 けれど、終わってもいない。

 

 早苗が膝の上で手を握る。

 

「このまま、どうしましょう」

 

「外に出たらいる」

 

「中にいても見つかります」

 

「詰んでないか」

 

「詰んでますね」

 

「認めるなよ」

 

「でも」

 

 早苗は少しだけ顔を上げる。

 

「神奈子さまと諏訪子さまの声は聞こえました。完全に切れているわけではありません」

 

「ああ」

 

「今も聞こえますか?」

 

 丈は耳を澄ます。

 

 いや。

 

 耳ではない。

 

 頭の奥。

 

 そこに意識を向ける。

 

『聞こえてるよ』

 

 諏訪子の声がした。

 

『まあ、あんまり大声は出さないでね。今のあれ、音にも寄るから』

 

 丈は顔をしかめた。

 

「聞こえてる」

 

「諏訪子様ですか? 神奈子様ですか?」

 

「諏訪子。大声出すなって」

 

「それ、今さらじゃないですか?」

 

「言っていいのか、それ」

 

『いいよ。事実だし』

 

 諏訪子があっさり言う。

 

 丈は思わず少しだけ笑った。

 

「事実だって」

 

「諏訪子様、こういう時でも諏訪子様ですね」

 

『褒めてる?』

 

「褒めてるのか?」

 

 丈が聞くと、早苗は一瞬考えた。

 

「半分くらいです」

 

「半分だって」

 

『じゃあ半分受け取っとく』

 

 諏訪子の声は、いつもの軽さを少しだけ取り戻していた。

 

 けれど、奥の方には緊張が残っている。

 

 神奈子は黙っていた。

 

「神奈子は?」

 

 丈が小さく言う。

 

『聞こえているわ』

 

 神奈子の声がした。

 

 静かだった。

 

『まず呼吸を整えなさい。二人とも、焦りすぎている』

 

「焦らない方が無理だろ」

 

『無理でもやるの。息が乱れると判断も乱れる』

 

「だそうだ」

 

 丈が早苗に伝える。

 

「神奈子様ですか?」

 

「ああ。息を整えろって」

 

「それは、正しいです」

 

「正しいけど腹立つな」

 

「神奈子様に怒られますよ」

 

『怒ってはいないわ』

 

 神奈子が言う。

 

『怒るのは後にする』

 

「後で怒るって」

 

「やっぱり怒るんじゃないですか!」

 

 早苗が小声で叫びかけ、慌てて両手で口を塞ぐ。

 

 廊下の向こうで、床板がぎし、と鳴った。

 

 二人は固まる。

 

 しばらく待つ。

 

 猿鬼の声は、遠い。

 

『どこ』

 

『どこ、どこ』

 

『おまえ』

 

『さる、おに』

 

 まだ近くにはいない。

 

 早苗が、そっと息を吐いた。

 

「……今のは、私が悪かったです」

 

「まあ、神奈子も悪い」

 

『なぜ私なの』

 

「後で怒るって言ったから」

 

『怒るわよ』

 

「ほら」

 

 早苗は小さく笑いそうになり、すぐに顔を引き締めた。

 

 怖い。

 

 怖いのに、少しだけ気が抜けた。

 

 気が抜けるというより、息が戻った。

 

 白い少女は、二人の会話を不思議そうに見ている。

 

 丈は少女に向かって小さく言った。

 

「悪い。こいつ、いつもこんな感じだ」

 

「丈くん?」

 

「早苗じゃない。諏訪子」

 

「あ、そっちですか」

 

『そっちって何さ』

 

「そっちって何だって」

 

「えっと、尊敬しています」

 

『今考えたでしょ』

 

「今考えたって」

 

「伝えないでください!」

 

 早苗が慌てる。

 

 丈は、こんな状況なのに少し笑ってしまった。

 

 笑った瞬間、喉が痛んだ。

 

「痛っ」

 

「大丈夫ですか?」

 

「叫びすぎた」

 

「丈くん、叫びますからね」

 

「叫ばないと聞こえねぇだろ」

 

「聞こえすぎて困ってるんです」

 

「誰が」

 

「猿鬼が」

 

 その言葉で、また空気が少し冷える。

 

 遠くで、猿鬼の声がした。

 

『さる』

 

『おに』

 

『こっち』

 

『どこ』

 

 早苗は膝を抱えた。

 

「名前を呼ぶって、本当に怖いですね」

 

「今さらだな」

 

「今さらです」

 

「呼ばなきゃ慎二は帰れなかった」

 

「はい」

 

「でも、呼んだから、あれはこっちに来た」

 

「はい」

 

「どうすりゃよかったんだろうな」

 

 早苗は少し黙った。

 

 それから、小さく言う。

 

「たぶん、どっちを選んでも怖かったんです」

 

「便利な答えだな」

 

「便利ですけど、本当です」

 

『早苗の言う通り』

 

 諏訪子が言った。

 

『あの場で名を呼ばなきゃ、慎二は帰れなかった。呼んだから、あれは形を持った。どっちも本当』

 

 丈は床を見る。

 

 埃の上に、自分の靴の跡がある。

 

 早苗の足跡も。

 

 白い少女の足跡はない。

 

「諏訪子が、早苗の言う通りだって」

 

「珍しいですね」

 

『珍しくないよ?』

 

「珍しくないって」

 

「そういうことにしておきます」

 

『早苗、意外と辛辣じゃない?』

 

「辛辣だって」

 

「諏訪子様にだけです」

 

『え、私にだけ?』

 

 丈は、喉の痛みを忘れかけた。

 

 怖さから逃げている。

 

 それは分かっている。

 

 でも、今は少しだけ、その逃げ場が必要だった。

 

 早苗も、たぶん同じだった。

 

 膝を抱えたまま、少しだけ呼吸が落ち着いている。

 

 白い少女も、窓辺に立ったまま、猿鬼の声が遠い方を見ている。

 

 その横顔は、相変わらずぼやけている。

 

 けれど、先ほどより震えは小さかった。

 

「なあ」

 

 丈は少女に聞いた。

 

「あいつ、前も旧校舎の中に来たのか」

 

 少女は、少しだけ首を横に振る。

 

『まえは』

 

 声がかすれる。

 

『そと』

 

「外?」

 

『うしろ』

 

 旧校舎の裏。

 

 山との境。

 

 そこにいたということか。

 

『でも』

 

 少女は、廊下の方を見る。

 

『いまは、はいった』

 

 丈は黙った。

 

 自分が呼んだ。

 

 そして、自分を追って旧校舎に入った。

 

 つまり、以前より近い。

 

 早苗が小さく言う。

 

「境目が、壊れたんでしょうか」

 

『完全には壊れていないわ』

 

 神奈子が言った。

 

 丈はそれを早苗に伝える。

 

「完全には壊れてないって」

 

「では、まだ戻せるんですね」

 

『戻すというより、別の形へ寄せる必要がある』

 

「別の形?」

 

 丈は聞き返した。

 

 神奈子はそこで黙った。

 

 諏訪子も黙る。

 

「おい」

 

『まだ分からない』

 

 神奈子の声は硬かった。

 

『手がかりが足りない』

 

「神様なのに?」

 

『神だから何でも分かるわけではないわ』

 

「便利じゃねぇな」

 

『便利なら、あなたたちは今ここで隠れていない』

 

「正論」

 

 早苗が首を傾げる。

 

「神奈子様、何と?」

 

「神様も便利じゃないって」

 

「神奈子様らしいです」

 

『それ、褒めてるの?』

 

「褒めてるのか?」

 

 早苗はまた少し考えた。

 

「七割くらいです」

 

「七割だって」

 

『さっきより多いからいいわ』

 

 神奈子の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。

 

 それでも、焦りは消えていない。

 

 遠くで、また猿鬼の声。

 

『どこ』

 

『おまえ』

 

『まて』

 

『さる、おに』

 

 廊下を這うように近づいたり、遠ざかったりする。

 

 ピアノの音はもう止まっている。

 

 長くは隠れていられない。

 

 丈は息を吐いた。

 

「このまま、どうする」

 

「逃げるしかありません」

 

「どこへ」

 

「……分かりません」

 

「神奈子、諏訪子」

 

『考えてる』

 

 諏訪子が言った。

 

『考えてるけど、あの名前に引っ張られすぎてる。猿鬼って呼んだせいで、あれは鬼の形に寄ってる』

 

「俺のせいか」

 

『丈のせいだけじゃない』

 

 諏訪子の声が少しだけ強くなる。

 

『噂も、怖がり方も、昔話の混ざり方も、全部乗ってる。丈は最後のひと押しをしただけ』

 

「ひと押しで崖から落としたら、結局落としたやつのせいだろ」

 

『ま、そういう言い方もできるね』

 

「否定しろよ」

 

『嘘は言わない』

 

 丈は苦笑した。

 

 責められていない。

 

 でも、慰めてもくれない。

 

 それが、諏訪子らしい気がした。

 

 早苗がじっと見ている。

 

「何て言ってます?」

 

「俺だけのせいじゃないけど、俺のせいもあるって」

 

「……諏訪子様らしいです」

 

「そうだな」

 

「私は、丈くんだけのせいじゃないと思います」

 

「知ってる」

 

「でも、丈くんの分はあります」

 

「それも知ってる」

 

「じゃあ、逃げきってから考えましょう」

 

「逃げきれるか?」

 

「逃げきります」

 

「根拠は」

 

「ありません」

 

「強いな」

 

「巫女なので」

 

「便利だな、巫女」

 

「便利です」

 

 早苗は、少しだけ笑った。

 

 すぐに表情を引き締める。

 

 それでも、その笑いで二人の呼吸は少し整った。

 

 その時。

 

 丈の胸ポケットが熱くなった。

 

「熱っ」

 

 思わず胸を押さえる。

 

 早苗が反応した。

 

「丈くん?」

 

「お守り」

 

「お守り?」

 

「お前の父ちゃんにもらったやつ」

 

 丈は胸ポケットから、白い御守りを取り出した。

 

 夏の日。

 

 守矢神社に泊まりに行った時にも持っていたもの。

 

 あの時も、山のものは遠ざかった。

 

 御柱の奥の気配に触れた夜も、この白い布は枕元にあった。

 

 普通の御守りだと思っていた。

 

 早苗の父親が、念のために持たせてくれたもの。

 

 丈はそれを手のひらに乗せる。

 

 熱い。

 

 布越しに、中で何かが脈打つようだった。

 

「これ、今まで何だったんだ」

 

「守矢の御守りでは?」

 

「だよな」

 

「少なくとも、そういう顔でお父さんは渡したはずです」

 

「そういう顔って何だよ」

 

「父親っぽい顔です」

 

「ざっくりしてるな」

 

 頭の奥で諏訪子が言った。

 

『ああ、あの時の白いやつ?』

 

「諏訪子、これ知ってるのか」

 

『見たことはあるよ。中身までは知らない』

 

「神様なのに?」

 

『人が包んだものを勝手に覗く趣味はないねぇ』

 

「意外と礼儀あるんだな」

 

『意外って何さ』

 

 丈は早苗に伝える。

 

「諏訪子、中身は知らないって」

 

「神様でも知らないんですか?」

 

「人が包んだものを勝手に覗かないって」

 

「……諏訪子様、そこはちゃんとしてるんですね」

 

『早苗、さっきから私への評価ひどくない?』

 

「評価ひどいって」

 

「そんなことありません。尊敬しています」

 

『また今考えたでしょ』

 

「また今考えたって」

 

「丈くん、逐一伝えないでください!」

 

 丈は、少しだけ笑った。

 

 御守りは熱いまま。

 

 遠くで猿鬼の声。

 

 それでも、この小さな会話が、恐怖で固まった体を少しだけほぐしてくれる。

 

 早苗も御守りをじっと見つめていた。

 

 罰当たりだと言う前の顔をしている。

 

 丈はそれに気づいた。

 

「中、気になるだろ」

 

 早苗はびくっとする。

 

「気になりません」

 

「嘘つけ」

 

「気になりますけど、気になりません」

 

「どっちだよ」

 

「気になるけど、開けたくはないんです」

 

「罰当たりだから?」

 

「はい」

 

「でも非常時だぞ」

 

「非常時ですけど!」

 

 早苗は御守りから目を逸らし、すぐ戻した。

 

「中身を勝手に見るのは、駄目です」

 

「でも、これ熱いんだぞ」

 

「熱いのは、たぶん中身が何かしているからで」

 

「だから見るんだろ」

 

「理屈はそうですけど!」

 

『開けたら?』

 

 諏訪子が軽く言った。

 

 丈は目を瞬かせた。

 

「諏訪子が開けろって」

 

「えっ」

 

「いいのか?」

 

『非常時でしょ。あと、私も気になる』

 

「本音出たぞ」

 

『出してないよ』

 

「出てた」

 

 早苗が御守りを見つめたまま、恐る恐る聞く。

 

「諏訪子様、本当にいいって?」

 

「ああ。非常時だし、自分も気になるって」

 

「後半は聞かなかったことにします」

 

『聞いてるじゃん』

 

 神奈子の声がした。

 

『……本来は勧めないわ』

 

 丈は少し姿勢を正した。

 

「神奈子は勧めないって」

 

「ですよね!」

 

 早苗が少し安心した顔をする。

 

『けれど、今は手がかりがない。熱を持っているなら、何かしら反応している』

 

「でも見るのか?」

 

『見るしかないわね』

 

「見るしかないって」

 

 早苗は天を仰いだ。

 

「神奈子様まで……」

 

『責任は後で私が聞くわ』

 

「責任聞くって言ってる」

 

「それ、怒るやつです!」

 

「だな」

 

「どうしてそんな落ち着いてるんですか!」

 

「怖すぎて逆に落ち着いてきた」

 

「それは落ち着いてないです!」

 

 丈は御守りの紐に指をかけた。

 

 早苗が両手を合わせる。

 

「すみません、すみません、本当にすみません」

 

「誰に謝ってんだ」

 

「全部にです!」

 

「範囲広いな」

 

「神奈子様、諏訪子様、お父さん、御守り、その他関係各所です!」

 

「関係各所」

 

『早苗、律儀だねぇ』

 

「律儀だって」

 

「こういう時だけ褒めないでください!」

 

 丈は御守りの口を開いた。

 

 中から、小さく折られた札が出てくる。

 

 早苗が息を呑む。

 

 白い少女も、じっとそれを見ていた。

 

 丈は札を開いた。

 

 そこに書かれていたのは、守矢の名ではなかった。

 

 神社の札でもない。

 

 墨で、はっきりと。

 

 南無阿弥陀仏。

 

 その横に、小さく正行院の文字。

 

 空気が止まった。

 

 まず、諏訪子が黙った。

 

 軽い声もない。

 

 笑いもない。

 

 ただ、頭の奥がすっと冷えるような沈黙。

 

 早苗も固まっていた。

 

 完全に固まっていた。

 

 猿鬼よりも、幽霊よりも、よほど信じられないものを見た顔だった。

 

 神奈子も黙っている。

 

 その沈黙が、一番怖かった。

 

「……おい」

 

 丈は小声で言う。

 

「神様二人が黙ったんだけど」

 

 早苗の顔が、さらに青くなる。

 

「それ、よくないやつでは?」

 

「たぶん」

 

 しばらくして、諏訪子がぽつりと言った。

 

『……ま、まあ』

 

 いつもの軽さを作ろうとしている。

 

 でも、作りきれていない。

 

『ご利益、あるかもねぇ』

 

 笑っているような声。

 

 けれど、奥に少しだけ沈んだものがあった。

 

 今の自分では足りないかもしれない。

 

 だから寺の札。

 

 そんなふうに受け取ってしまったような、薄い諦め。

 

 丈は、どう言っていいか分からなくなった。

 

「諏訪子が、ご利益あるかもって」

 

 早苗は口をぱくぱくさせる。

 

「それ、どういう声でした?」

 

「……ちょっと落ち込んでる」

 

「諏訪子様が?」

 

「ああ」

 

 次に、神奈子の声がした。

 

『……そう』

 

 それだけだった。

 

 短い。

 

 ものすごく短い。

 

 だが、丈には分かった。

 

 本気で落ち込んでいる。

 

 いつもの大きさがない。

 

 信仰を集め、守矢を背負い、堂々としているはずの神の声が、今だけ妙に小さい。

 

「神奈子は?」

 

 早苗が恐る恐る聞く。

 

「……そう、だって」

 

「それだけですか?」

 

「それだけ」

 

「声は?」

 

「かなり落ち込んでる」

 

 早苗は頭を抱えた。

 

「お父さん!?」

 

 声が裏返った。

 

「神社の神主がお札!?」

 

 丈は札と早苗を見比べる。

 

「いや、お守りだろ」

 

「中身がお寺です!」

 

「まあ、そうだな」

 

「どういうことですか!」

 

「俺に聞くなよ」

 

「謀反!?」

 

「誰に対してだよ」

 

「羊頭狗肉!」

 

「言いたいだけだろ!」

 

「だって! 神社のお守りって言ったんですよ!? 守矢ですよ!? それなのに中から南無阿弥陀仏って、もう看板に偽りありどころでは!」

 

「声でかい」

 

「しかも正行院! お寺! 完全にお寺! 神奈子さま、諏訪子さまにどう説明すればいいんですか!」

 

「もう聞いてる」

 

「だから困ってるんです!」

 

 早苗は札を指差して、次に自分の頭を押さえる。

 

「お父さん、何を考えてるんですか! 神社の娘としてどう反応すれば正解なんですか! いや、丈くんに渡したものですけど! でも守矢の関係者として!」

 

「あーあ」

 

 丈は廊下の方を見た。

 

 遠くの声が、止まった。

 

 早苗も、ぴたりと止まる。

 

『……おまえ』

 

 猿鬼の声。

 

 反応した。

 

「す、すみません」

 

「いや、気持ちは分かる」

 

「分かりますか」

 

「分かるけど、声でかい」

 

「お父さんが悪いです!」

 

「それはそうかもな」

 

 その時、頭の奥で諏訪子の声が弾けた。

 

『猿寺……そうか!』

 

 さっきの落ち込みを、無理やり振り切ったような声だった。

 

 丈は顔を上げる。

 

「猿寺?」

 

 早苗も札を握ったまま固まる。

 

「猿寺……?」

 

 神奈子の声が続いた。

 

『……そういうこと?』

 

 落ち込んだ響きはまだ残っていた。

 

 それでも、声に芯が戻ってくる。

 

『やり方が強引だわ、諏訪子』

 

『言ってる場合じゃないでしょ』

 

 諏訪子の声は切羽詰まっている。

 

『いい? 二人とも、山を目指すんだ』

 

「山?」

 

 丈と早苗の声が重なった。

 

 廊下の向こうで、床板が軋む。

 

 猿鬼が近づいている。

 

『目指すのはただ一つ』

 

 諏訪子が言う。

 

『山の中の廃寺を目指すんだ』

 

 廊下の奥から、猿鬼の声がした。

 

『さる』

 

『おに』

 

『おまえ』

 

『どこ』

 

 白い少女が、怯えたように窓際へ下がる。

 

 早苗は札を握りしめ、丈は御守りを胸ポケットへ戻した。

 

 熱は、まだ残っている。

 

 山の中の廃寺。

 

 正行院の札。

 

 猿寺。

 

 猿鬼。

 

 全部が繋がりかけている。

 

 けれど、考えている時間はなかった。

 

 廃教室の扉が、ぎい、と鳴った。

 

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