第十五話 「ただひたすらに廃寺へ」
廃教室の扉が、ぎい、と鳴った。
丈は息を止めた。
早苗も、札を握ったまま固まっている。
窓際に立つ白い少女は、輪郭を薄く震わせていた。
廊下の向こうから、湿った声が近づいてくる。
『さる』
『おに』
『おまえ』
『どこ』
探している声ではない。
探すという意味を知らないものが、人の言葉の形だけを口の中で転がしている。
名を呼ばれたこと。
丈の声。
それだけを覚えた猿鬼が、旧校舎の廊下を這うように近づいていた。
扉の下の隙間に、黒いものが差し込まれる。
爪だった。
いや、爪の形をした何かだった。
細く、長く、黒い。
一本、二本、三本。
床板の上を、ざり、と撫でる。
古い木に、白い傷が走った。
早苗が、音にならない悲鳴を飲み込む。
爪はすぐには引っ込まなかった。
床を探る。
机の脚を探る。
空気の匂いを嗅ぐみたいに、ゆっくり、こちらへ伸びてくる。
「……丈くん」
「動くな」
「動かない方が危ない気がします」
「じゃあ動け」
「どっちですか」
「俺にも分からん」
爪が、古い机の脚に触れた。
次の瞬間、ぱき、と乾いた音がした。
木の脚に細いひびが入り、埃がこぼれる。
猿鬼はただ触れただけだ。
それなのに、木が傷ついた。
丈の背中に冷たい汗が流れる。
白い少女が、震えながら教室の奥を指した。
古い棚。
半分外れた壁板。
その向こうに、人ひとりがようやく抜けられるほどの隙間がある。
『そこ』
頭の奥で、諏訪子の声がした。
『抜けて。裏階段に出る』
「裏階段?」
『昔の先生たちが使ってたやつ。半分壊れてるけど、降りられる』
「半分壊れてるって何だよ」
『全部壊れてるよりいいでしょ』
「励まし方が雑」
早苗が丈を見る。
「諏訪子様ですか?」
「ああ。奥から裏階段に出ろって」
「裏階段なんてありました?」
「半分壊れてるらしい」
「壊れてるんですか」
「全部よりましだって」
「嫌なましです」
爪が、また床を掻く。
今度は近い。
机の陰に隠れている二人のすぐ手前まで来ている。
早苗の指が、札を握りしめた。
白い紙に、小さなしわが寄る。
「急げ」
丈は言った。
「はい」
早苗が先に壁板の隙間へ向かった。
白い少女が、半透明の指で壁板に触れる。
かたん、と板がわずかにずれた。
隙間がほんの少し広がる。
「ありがとうございます」
早苗は小さく頭を下げ、体を横にして隙間へ入った。
ランドセルが引っかかる。
「丈くん、荷物が」
「置いていくか?」
「駄目です。宿題が」
「今それかよ」
「普通が一番強いんです!」
「その普通、強すぎるだろ」
早苗は半泣きでランドセルを押し込み、どうにか向こう側へ抜けた。
「抜けました!」
「よし」
丈も続く。
狭い。
思ったよりずっと狭い。
肩が引っかかる。
壁板のささくれが制服に噛みつき、腕に細い痛みが走った。
「くそ、狭っ」
「丈くん、横です」
「横向いてる」
「もっと横です」
「これ以上横って何だよ」
背後で扉が大きく軋んだ。
ぎいい、と古い金具が悲鳴を上げる。
『どこ』
『おまえ』
『さる、おに』
声が近い。
もう扉一枚分の距離しかない。
早苗が向こう側から手を伸ばす。
「掴んでください」
「引っ張れ」
「はい!」
早苗が全力で引いた。
丈は壁に肩を擦りながら、ずるりと隙間を抜ける。
抜けた瞬間、廃教室の扉がさらに開いた。
見てはいけない。
分かっているのに、首が振り向きそうになる。
丈は歯を食いしばった。
見るな。
今見たら、足が止まる。
白い少女だけが、廃教室の中に残っていた。
「おい、来い」
丈が囁く。
少女は首を横に振った。
『おとを』
「音?」
少女は廊下の方を指す。
また、猿鬼の気を引くつもりなのだ。
早苗が顔を歪める。
「危ないです」
『だいじょうぶ』
少しも大丈夫そうではない声で、少女はそう言った。
次の瞬間、廃教室の中で、ぽん、と音が鳴った。
ピアノではない。
机か、椅子か。
古い木を叩いたような乾いた音。
猿鬼の気配が、そちらへずれた。
『こっち』
『どこ』
『さる、おに』
声が遠ざかる。
ほんの少しだけ。
丈は早苗の手を引いた。
「行くぞ」
「はい」
◇
裏階段は、壁の裏に隠れるように続いていた。
細い木の階段。
手すりは腐り、段の端はところどころ欠けている。
薄い窓から灰色の光が差し込み、埃が水の中の砂のように舞っていた。
下は暗い。
暗い底へ降りていくように見えた。
「本当に降りるんですか」
「降りるしかないらしい」
「安全ですか?」
『踏めば分かる』
諏訪子が言った。
「踏めば分かるって」
「最悪の安全確認ですね」
「俺もそう思う」
一段目に足を置く。
ぎし、と鳴った。
二人は同時に固まる。
上から、ざり、ざり、と床を撫でる音がした。
猿鬼が、またこちらへ戻ってきている。
「行くぞ」
「はい」
ぎし。
ぎし。
階段は一段ごとに悲鳴を上げる。
静かに逃げたいのに、旧校舎そのものが二人の居場所を告げ口しているようだった。
早苗の息が荒い。
丈の手の中で、早苗の指が汗ばんでいる。
だが、離せない。
離したら、暗い階段の途中でどちらかが消えるような気がした。
上から、また声がした。
『おまえ』
『どこ』
『おまえ』
ひたり、と冷えた気配が階段の上に乗る。
丈は早苗の手を強く引いた。
「急ぐぞ」
「はい」
「でも落ちるなよ」
「無茶言わないでください」
「落ちたら猿鬼より先に階段に負ける」
「階段に負けるのは嫌です」
「猿鬼に負けるのも嫌だろ」
「どっちも嫌です!」
最後の数段を降りる。
裏口のような扉があった。
取っ手は錆び、木枠は湿気で歪んでいる。
早苗が押す。
動かない。
引く。
動かない。
「開きません」
「どっちも駄目か」
階段の上で、床板が重く軋んだ。
猿鬼が、そこにいる。
丈は扉を睨んだ。
『蹴って』
諏訪子が言う。
「蹴れって」
早苗が目を丸くした。
「神様がですか?」
『今は上品にしてる場合じゃない』
「上品にしてる場合じゃないって」
「それはそうです」
丈は一歩下がった。
「離れろ」
「はい」
扉を蹴る。
一度目、錆びた金具が鳴る。
二度目、木枠が裂ける。
上から、湿った声が落ちてきた。
『まて』
三度目で、扉が外側へ跳ねた。
冷たい外気が流れ込む。
土。
葉。
古い木。
かすかな水の匂い。
二人は旧校舎の外へ転がるように出た。
◇
裏手は、さっきまでの校舎裏とは別の場所のようだった。
校舎の影が深い。
木々がすぐそばまで迫っている。
見慣れたはずの旧校舎の外壁が、山の一部に飲み込まれかけているように見えた。
丈は新校舎の方を見た。
遠く、人の声が聞こえる。
先生の怒鳴り声。
浩介の声。
誰かが走る足音。
そして、慎二を呼ぶ声。
新校舎の白い壁の前で、何人かの人影が動いている。
慎二たちは、そこにいる。
こちら側ではなく、ちゃんと向こう側に。
先生に怒られ、誰かに支えられ、騒がしい普通の学校へ戻っている。
丈は、そこで初めて息を吐いた。
足元から力が抜けそうになる。
「慎二たち、新校舎の方へ出たみたいだ」
「よかったです」
早苗の声も震えていた。
心底ほっとしている声だった。
けれど、次の息を吸う前に、背後の旧校舎の中から湿った声が漏れた。
『おまえ』
『どこ』
『さる、おに』
猿鬼はまだ探している。
旧校舎の奥で、床板が軋む。
何かが、壁を撫でる。
何かが、こちらの匂いを思い出そうとしている。
丈は山を見た。
もう、そこしかなかった。
「で、俺たちは山か」
「廃寺の場所、分かります?」
「分かるわけねぇだろ」
「ですよね」
道らしい道はない。
木々の間に踏み跡のようなものは見えるが、それが人の道なのか、獣の通り道なのか、ただ影がそう見せているだけなのか分からない。
丈は胸ポケットに手を当てた。
白い御守り。
中の札が熱を持っている。
山の右手へ顔を向けると、じん、と強くなる。
左へ向けると、少し弱くなる。
「こっちか」
「方位磁石みたいですね」
「仏の方位磁石」
「罰当たりな言い方です」
「今さらだろ」
『札が縁を拾ってる』
神奈子の声がした。
『正行院そのものではなく、似た縁を持つ場所へ導いているのかもしれない』
「神奈子が、似た縁を拾ってるって」
「似た縁……」
早苗は御守りを見る。
その顔には、まだ父への複雑な怒りが残っていた。
だが、今はそれを口にしなかった。
「熱い方へ進むしかないんですね」
「ああ」
『急いで。猿鬼が気づく』
諏訪子の声が硬くなる。
同時に、旧校舎の中で何かが止まった。
沈黙。
それが一番怖かった。
丈と早苗は山へ入った。
◇
山へ入ったばかりの道は、まだ学校の裏山に見えた。
湿った土。
落ち葉。
ところどころに石。
低い笹。
風が葉を揺らす音。
けれど、二人にそれを眺める余裕はなかった。
猿鬼が背後にいる。
旧校舎の裏から、こちらへ出てきた気配がある。
足音はない。
それなのに、追ってくるのが分かる。
空気が濡れる。
木々の間に、嫌な冷たさが広がる。
『おまえ』
『どこ』
『さる、おに』
声はまだ遠い。
だが、こちらへ向いている。
早苗が肩越しに振り返りそうになった。
丈は手を引く。
「見るな」
「……はい」
「走るか?」
「走ったら転びます」
「だな」
それでも、足は自然と速くなる。
早足。
半ば走るような歩き。
枝が制服に引っかかり、落ち葉が靴底で滑る。
枯葉の下に隠れた石が足裏を突く。
息が上がる。
胸が痛い。
喉がまだ、猿鬼の名を叫んだ時の痛みを覚えている。
早苗も苦しそうだった。
ランドセルが背中で跳ね、額に汗が滲む。
「丈くん」
「何だ」
「このまま、山に入って大丈夫なんですか」
「大丈夫かどうかなら、たぶん駄目だな」
「言わないでください」
「じゃあ聞くな」
「聞きたくなるんです」
「俺も聞きたい」
「誰にですか」
「神様」
『聞かれても困る』
諏訪子が即答した。
「困るって」
「神様でも困るんですね」
「らしい」
『山は味方してくれるかもしれない。でも、全部を任せられるわけじゃない。足は自分で動かして』
「足は自分で動かせって」
「それはそうです!」
背後で、枝が折れた。
ばき、と乾いた音。
早苗が肩をすくめる。
『まて』
声が近づいた。
意味を持たない、濡れた命令。
待てと言われた瞬間、足が重くなる。
丈は奥歯を噛んだ。
「待たねぇよ」
「返事になってませんか?」
「今のは独り言だ」
「独り言なら大丈夫ですか?」
「知らん」
「知らんが多いです」
「今日はそういう日だ」
息が乱れる。
足が重い。
学校は遠ざかる。
人の声は消えていく。
不安が、背中に貼りついた。
山は逃げ場ではなく、口を開けた暗いものに見えた。
自分たちはその中へ、自分の足で入っていく。
そう思うと、胸が詰まる。
けれど、しばらく進むと、少しだけ空気が変わった。
最初に気づいたのは、音だった。
落ち葉を踏む音が、さっきより柔らかい。
枝が体に触れる前に、わずかに揺れて避ける。
笹が足首を掴むように見えて、実際には道の端へ倒れていく。
早苗が息を整えながら言った。
「……さっきより、歩きやすくないですか」
「気のせいじゃないのか」
「気のせいなら、山が気を遣ってくれてます」
「どういう気のせいだよ」
丈も足元を見る。
たしかに、足を置く場所だけ、落ち葉が少し薄い。
根が張り出している場所は多いのに、つまずきそうな角度のものは少ない。
自然の山道のはずなのに、二人が通る分だけ、道ができているようだった。
背後で猿鬼の声がした。
『おまえ』
『まて』
『さる、おに』
それに応じるように、後ろの藪がざわつく。
丈たちの背後で、枝が閉じた。
ばさり、と重い音がする。
さっきまで二人が通れた隙間が、棘のある蔓に塞がれていく。
早苗が振り向きそうになって、すぐに前を向き直した。
「今の」
「ああ」
「閉じましたよね」
「閉じたな」
「私たちの後ろを」
「ああ」
二人は走るのをやめた。
歩みは速いままだが、先ほどまでのように足をもつれさせるほどではない。
息が少しずつ整っていく。
追われている。
それは変わらない。
猿鬼はまだ背後にいる。
だが、山がその間に入っている。
枝が閉じ、藪が絡み、道が消える。
自分たちを逃がすために。
そう感じた瞬間、早苗の肩から、ほんの少し力が抜けた。
「旧校舎より、息がしやすいです」
「怖いのは怖いけどな」
「はい。でも、閉じ込められている感じではありません」
丈も同じことを感じていた。
旧校舎の中では、息を吸うたびに胸の中へ黒いものが入ってきた。
嫌な考えが浮かび、声が耳に絡み、足元が自分のものではなくなるようだった。
だが、ここは違う。
怖い。
木の奥にも、石の下にも、水の音の中にも、何かがいる。
けれど、その全部が敵ではない。
山は、こちらを見ている。
見ているが、まだ拒んでいない。
◇
森は少しずつ深くなっていった。
木の幹が太くなる。
根が石を抱える。
低い祠が、苔の中から現れる。
もう何を祀っていたのかも分からない小祠。
屋根の欠けたもの。
石だけ残ったもの。
中が空っぽなのに、空っぽではないもの。
早苗は、その前で立ち止まった。
息を整え、小さく頭を下げる。
丈も倣った。
「何て言えばいいんだ」
「分かりません」
「挨拶か」
「たぶん」
「たぶんばっかだな」
「今日は仕方ありません」
二人が頭を下げると、祠の横の草がかすかに揺れた。
最初は風だと思った。
けれど、風はなかった。
草の奥に、何かがいる。
まだ姿は見えない。
ただ、こちらを見ている感触だけがある。
丈はそのまま歩き出そうとして、足を止めた。
「早苗」
「はい」
「今、何かいたか」
「……いました」
「だよな」
「でも、嫌な感じはしません」
草の奥の何かは、姿を見せなかった。
ただ、二人が進むと、近くの笹が少し倒れた。
その先へ行け。
そう言っているようだった。
山は、もうただの山ではなかった。
学校裏にある現代の雑木林ではない。
どこからか、ずっと古い姿が滲んできている。
鳥の声が消える。
虫の声も遠のく。
代わりに、木の中から音がする。
石の下から気配がする。
誰かに見られている。
けれど、その視線には悪意がなかった。
そこにあるものが、ただそこにあるまま、二人を見ている。
丈は、息を吐いた。
「怖いな」
早苗が隣を見る。
「嫌ですか?」
丈は少し黙った。
その問いを、どこかで聞いた気がした。
夜の守矢神社。
御柱の奥。
土の底から立ち上る冷たい気配。
怖い。
でも。
「嫌じゃない」
早苗は少しだけ目を丸くした。
「丈くんらしいです」
「俺らしいって何だよ」
「分かりません。でも、そう思いました」
頭の奥で、諏訪子が黙った。
神奈子も黙る。
怒っているのではない。
何かを思い出しているような沈黙だった。
『悪くないよ』
やがて、諏訪子が言った。
『怖いのに嫌じゃないって、土地からすると結構大事』
「諏訪子が、悪くないって」
早苗は少し嬉しそうにした。
「ほら」
「何がほらだ」
「丈くんは好かれてます」
「嫌われてないって話だろ」
『嫌われてない、は大事だよ』
諏訪子が笑う。
『土地は嫌いなものを通さないからね』
神奈子の声が重なる。
『この山は、あなたたちを拒んでいない。少なくとも今は』
「神奈子も、山は俺たちを拒んでないって」
「よかったです」
「よかったのか?」
「拒まれるよりは」
「そりゃそうだ」
早苗がつまずきかけた。
その瞬間、低い枝が手すりのように垂れる。
早苗は反射的に掴み、転ばずに済んだ。
「今の」
「枝だな」
「枝でした」
「礼言っとけ」
「ありがとうございます」
枝が、かさりと揺れた。
風はない。
「返事しました?」
「したな」
「枝が?」
「枝が」
「山ってすごいですね」
「雑な感想だな」
『雑だけど合ってる』
諏訪子が言った。
こんな状況なのに、少しだけ笑えた。
猿鬼は追ってきている。
廃寺の場所も分からない。
それなのに、山が深くなるにつれ、二人はむしろ落ち着きを取り戻していた。
追い詰められているはずなのに、奥へ進むほど息ができる。
森が、二人の歩幅に合わせている。
そんな気がした。
◇
やがて、山の中腹らしい場所に出た。
傾斜が少し緩み、木々の間に薄い霧が漂っている。
空は見えない。
しかし、暗いわけではなかった。
苔が湿った光を含み、木の幹が鈍く艶めいている。
そこで初めて、小さなものが姿を見せた。
木の節のような顔。
丸い影のような体。
目とも穴ともつかないものが二つ。
それは祠の横の草むらから現れ、丈たちをじっと見た。
そして、ぴょんと跳ねた。
少し先の木の根元へ移り、振り返る。
待っているようだった。
「道案内か?」
「そう見えます」
「罠かもしれないぞ」
「でも、嫌な感じはしません」
胸ポケットの札が熱を増す。
小さな影が、もう一度跳ねた。
その向こうで、木の根が少し持ち上がり、通れる隙間を示した。
さらに別の木の洞から、似たものが顔を出す。
石の陰からも、小さな影が覗く。
一つ。
二つ。
三つ。
もっと。
それらは声を出さなかった。
けれど、一斉に山の奥を向いた。
行け。
そう言っている。
「……増えたな」
「増えましたね」
「見えてるよな」
「見えてます」
「俺だけじゃなくてよかった」
「私だけじゃなくてよかったです」
二人は顔を見合わせた。
そして、同時に小さく息を吐いた。
安心していいのかは分からない。
でも、ひとりで見ているのではない。
それだけで、少しだけ心が軽くなった。
小さなものたちが、木の根を渡り、石の上を跳ね、時々こちらを振り返る。
丈と早苗は、それに導かれて進んだ。
背後では猿鬼の気配がまだある。
近づいては、山に阻まれる。
枝が絡む。
藪が閉じる。
棘のある蔓が、見えない手で引かれるように道を塞ぐ。
猿鬼が無理に進もうとすれば、山全体がゆっくりと身をよじる。
急に拒むのではない。
怒鳴りつけるのでもない。
ただ、通さない。
静かに。
確かに。
『まて』
『おまえ』
『さる、おに』
猿鬼の声が、木々に絡め取られる。
丈は、そのたびに胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
御守りの熱だけではない。
山が助けてくれている。
人ではないものが、自分たちを通している。
その事実が、怖い。
怖いのに、ありがたい。
早苗も同じらしく、時々、何もない場所へ頭を下げていた。
そこには、何も見えない。
けれど、何かがいた。
そう思えた。
◇
小さな沢を渡った。
苔むした石を踏んでも、不思議と滑らない。
早苗が最後の石で背後の声にびくつき、足を滑らせかける。
丈が腕を引いた。
「落ちるかと思いました」
「俺もだ」
「濡れずに済みました」
「そこかよ」
「大事です」
沢の向こうで、水音が少し大きくなる。
流れは細い。
けれど、その音は妙に澄んでいた。
学校の水道とも、町の側溝とも違う。
山の中に最初からあった水の音。
早苗は沢に向かって小さく頭を下げた。
丈も、何となくそれに倣う。
小さな影が、沢の向こうで待っている。
その先へ進むと、木々がさらに古くなった。
幹は太く、根は地表を這い、石を抱いている。
葉の隙間から落ちる光は少なくなり、山全体が薄い緑色の陰になった。
だが、不思議と暗くはない。
目が慣れたのではない。
山が、見えるようにしている。
そんな感覚があった。
早苗がぽつりと言う。
「丈くん」
「何だ」
「さっきより、怖くないです」
「猿鬼は追ってきてるぞ」
「はい」
「山奥だぞ」
「はい」
「道も分からない」
「はい」
「なのに?」
「なのに、です」
早苗は少し考えた。
「怖いものが、全部敵じゃないって分かると、少し息ができます」
丈は答えなかった。
でも、その言葉は分かった。
怖い。
けれど、怖いから拒むのとは違う。
怖いのに、そこにいていい気がする。
そういう場所だった。
◇
石段は、唐突に現れた。
木々の間。
根と苔に半分飲まれながら、古い石が上へ続いている。
ほとんど土に埋もれ、草が隙間から生えている。
だが、人が積んだものだと分かる。
「参道……ですか?」
「寺の?」
「たぶん」
胸ポケットの札が、じん、と強く熱を持つ。
ここだ。
丈にも分かった。
石段の前には、崩れた小祠があった。
屋根は落ち、正面の扉もない。
中には何もない。
けれど、空っぽではなかった。
早苗が頭を下げる。
丈も頭を下げる。
すると、石段脇の草が左右へ分かれた。
二人は登った。
一段。
二段。
三段。
息が上がる。
足が重い。
けれど、不思議と転ばない。
苔むしているのに滑らない。
石段そのものが、足の置き場を教えてくれているみたいだった。
背後で猿鬼の声がする。
遠くはない。
しかし、すぐそばでもない。
山が足止めしている。
今だけ。
この少しの時間だけ。
丈と早苗は登り続けた。
◇
石段の上に、朽ちた山門があった。
片方の柱は傾き、屋根の瓦は落ちている。
扁額は割れ、墨の跡は雨と苔に食われていた。
文字は読めない。
いや、もう文字として残っていなかった。
ここが何という寺だったのか。
誰を祀っていたのか。
誰が通っていたのか。
そういうものは、すべて剥がれ落ちている。
門の奥に、小さな本堂があった。
屋根の一部は落ち、縁側は傾き、柱には蔦が絡む。
苔むした石灯籠。
折れた手水鉢。
木の根に抱かれた石仏。
すべてが古く、朽ちている。
けれど、荒れているだけではない。
空気が澄んでいた。
山の奥なのに、そこだけ音が吸い込まれている。
早苗は山門の前で足を止める。
「……きれい」
「これが?」
屋根は崩れている。
草は伸び放題。
どう見ても廃寺だ。
だが、早苗は首を振った。
「朽ちてます。でも、きれいです」
丈はもう一度、寺を見た。
たしかに、整ってはいない。
新しくもない。
けれど、冷たい水で手を洗った後のような静けさがあった。
胸ポケットの札が、今までで一番強く熱を帯びる。
丈は御守りを取り出した。
「ここが、正行院か?」
早苗は山門の扁額を見る。
「違うと思います。名前が、もう……」
『名も分からなくなった寺だね』
諏訪子の声。
丈は眉を寄せた。
「正行院じゃないのか」
『違うよ』
あっさりだった。
『ここは正行院じゃない。名も由来も、人の方ではもうほとんど分からない寺』
「じゃあ、何で札が反応してんだよ」
『猿寺って言ったでしょ』
「猿寺って名前なのか?」
『名前じゃない。今のところはね』
諏訪子の声は妙に明るかった。
『ちょうどいい』
「何が」
『……そうね』
神奈子の声がした。
少し複雑そうだった。
『都合はいいわ』
「おい」
丈は思わず声に出した。
「いいのかよ。そんな適当で」
早苗が振り向く。
「丈くん?」
「この寺、正行院じゃないって。名前も由来も分からなくなった寺だって」
「はい」
「で、諏訪子がちょうどいいって。神奈子も、都合はいいって」
「都合」
早苗の表情が固まる。
「神様が言う都合って、怖いですね」
「だよな」
そこで、神奈子が静かに言った。
『その札を、早苗の額に貼って』
「は?」
丈は札を見た。
早苗も目を瞬かせる。
「今、何と?」
「札を早苗の額に貼れって」
「額?」
「ああ」
「……キョンシーみたいですね」
「俺も思った」
『ふざけていないわ』
神奈子の声が低くなる。
『ここからは早苗にもやってもらうことがある。今のままでは、私たちの声は丈にしか届かない』
「ケータイ持ってないみたいなもんか」
『例えはともかく、そうね』
諏訪子が少し笑った。
『丈は天然で回線が開きっぱなしなんだよ。神も、山のものも、妙なものも繋ぎやすい』
「フリー回線扱いすんな」
『実際そんな感じ』
「嫌すぎる」
早苗が不安そうに見る。
「何ですか?」
「俺は天然で回線開きっぱなしらしい」
「回線?」
「神様とか人ならざるものが繋ぎやすいんだと」
「丈くん、危なくないですか?」
「今さらだろ」
『早苗は逆に、そばにいることが当たり前すぎて、離れた時の通し方を持っていない』
神奈子が言った。
『だから札を媒にする』
「早苗は、神様がそばにいるのが普通すぎて、離れた時の通し方がないんだって。だから札を媒にするって」
早苗は少しだけ真面目な顔になった。
「神奈子様らしい説明です」
「貼るぞ」
「はい」
丈は札を持った。
南無阿弥陀仏。
正行院。
神社の娘の額に、寺の札。
考えれば考えるほど変だった。
「本当にいいのか?」
「今さらです」
「父ちゃんに怒るなよ」
「それは怒ります」
「怒るのかよ」
「それとこれは別です」
丈は札を早苗の額に貼った。
ぺたり。
早苗が目を閉じる。
次の瞬間、彼女の肩が震えた。
「……聞こえます」
早苗が小さく言った。
「神奈子様。諏訪子様」
『聞こえる?』
諏訪子の声。
早苗は目を開けた。
「はい」
『よし。じゃあここからは、直接話すよ』
神奈子の声も届いたらしい。
早苗の顔つきが変わった。
怯えた子供の顔ではなく。
神と同じ場所で、何かを背負おうとする顔になった。
神奈子が静かに問う。
『丈。あなたはこの寺について何を知っている?』
「何をって」
丈は廃寺を見る。
崩れた山門。
読めない扁額。
苔むした石段。
胸の中で熱を持つ札。
「何も」
丈は答えた。
「ただ、猿に関わりがある寺かもしれないって」
『そう』
神奈子が言う。
『もう人の認識のずれでは、そうなっている』
「認識のずれ?」
『正行院の札が導いた。猿寺という言葉が浮かんだ。あなたたちは、猿に関わる寺だと思ってここへ来た』
「事実じゃなくても?」
『信仰においては、事実だけが形を作るわけではないわ』
神奈子の声は落ち着いていた。
だが、重かった。
『なら、改めてこの寺を正しく祀り直す意味は薄い。むしろ、この寺をあの猿鬼に所以のある寺とみなしてしまう方が、都合がいい』
「強引な」
『私もそう思うわよ』
神奈子は嘆息した。
『でも、今は強引にでも形を作らなければならない』
諏訪子が割り込む。
『うるさいなあ。ちょっと姿が変わるだけだよ』
「ちょっとか?」
『ちょっとだよ』
「寺の由来を変えるんだろ」
『そこにあるのは変わりないんだから』
その声は軽い。
けれど、軽薄ではなかった。
名が変わる。
祀られ方が変わる。
意味がずれる。
それでも、山も石も寺も、そこにある。
早苗は額の札に触れそうになって、寸前で止めた。
「諏訪子様は、変わっても残るならいいとお考えなんですか」
『残らないよりはね』
諏訪子の声は軽かった。
神奈子が低く言う。
『残すために形を変えることと、変えられた側が納得することは別よ』
『分かってるよ』
『あなたは昔から、それを軽く言う』
『神奈子は昔から、重く言いすぎる』
二柱の声が、一瞬だけ噛み合わなかった。
丈は黙る。
早苗も黙った。
この二人には、何か考え方の違いがある。
それも、今日突然始まったものではないのだろう。
ただ、丈にはまだ、それ以上のことは分からなかった。
神奈子が短く息を吐く。
『……今は争っている場合ではないわ』
『そうだね』
諏訪子もあっさり引いた。
『あの猿鬼は、名を得たばかり。まだ固まりきってない』
「固まりきってない?」
『猿鬼って形に寄ってるけど、全部が猿鬼になったわけじゃない。だから、ここで曲げる』
「どう曲げる」
『鬼じゃなくす』
早苗が、ゆっくり言った。
「猿鬼から、猿へ」
『ただの猿じゃないよ』
諏訪子が言う。
『手を合わせる猿。災いを去らせる猿。人を山へ連れていくものじゃなく、人を災いから帰すもの』
神奈子の声が重なる。
『恐怖の名を、守りの形へ移す。奪うものではなく、去らせるものとして祀る』
丈は、朽ちた本堂を見た。
名も分からない。
由来も消えた。
人の記憶から落ちた寺。
そこへ猿鬼を入れる。
ただし、鬼としてではない。
災いを去らせる猿として。
「名づけ直すってことか」
『そう』
諏訪子が言う。
『丈が呼んだ名だから、丈が呼び直す』
神奈子が続ける。
『早苗は形を作りなさい。祝詞でも、札の言葉でもいい。神も仏も、今は境を問わない』
「問わないんですか!?」
早苗が思わず言う。
『今だけは』
神奈子の声は、少しだけ渋かった。
『理屈は後で説明するわ』
「後で説明が多いです」
『今は形を作りなさい』
その声が、鋭くなる。
『あれが来る』
森が大きくざわめいた。
枝が折れる。
藪が裂ける。
迷い、苛立ち、名を呼ぶ声に引かれ続けた猿鬼が、山門の下に現れた。
黒い体。
長い腕。
赤い目。
口が裂ける。
『さる』
『おに』
『おまえ』
猿鬼が、丈を見つけた。
嬉しそうに。
恐ろしいほど無邪気に。
『よんだ』
丈は一歩前へ出た。
早苗は額に札を貼ったまま、両手を合わせる。
本堂の奥で、見えない猿が手を合わせた気がした。
朽ちた寺の空気が、静かに張り詰める。
再び、名づけの時が来た。