現人神な幼馴染   作:全肯定逆張りおじさん

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第十六話 「猿寺」

第十六話 「猿寺」

 

 猿鬼は、山門の下に立っていた。

 

 朽ちた門の向こう。

 

 苔むした石段の終わり。

 

 そこに、黒いものがいる。

 

 山の奥で名もなく揺れていたものではない。

 

 旧校舎の裏で、影のように見えたものでもない。

 

 もう、形がある。

 

 背は曲がり、腕は長く垂れ、肩は鬼のように盛り上がっている。

 

 赤い目だけが、湿った闇の中でぼうっと灯っていた。

 

 その口が、ゆっくり動く。

 

『さる』

 

 濡れた声だった。

 

『おに』

 

 名を覚えたばかりの声。

 

 意味も知らず、ただ与えられた音を舌に乗せている。

 

 それでも、その音は確かに力を持っていた。

 

 猿鬼。

 

 丈が呼んだ名だ。

 

『おまえ』

 

 赤い目が、丈を見た。

 

『よんだ』

 

 嬉しそうだった。

 

 恐ろしいほど、無邪気だった。

 

 丈は一歩、前へ出た。

 

 膝は震えている。

 

 喉はまだ痛い。

 

 何度も叫び、走り、山を登ってきた体は、今すぐ座り込めと言っている。

 

 けれど、逃げなかった。

 

 逃げたら、あれはまた追ってくる。

 

 丈を追ってくる。

 

 そして、その途中で誰かを見る。

 

 誰かの影を見る。

 

 誰かの声を真似る。

 

 それだけは、もう嫌だった。

 

 隣で早苗が息を吸った。

 

 額には、正行院の札が貼られている。

 

 南無阿弥陀仏。

 

 神社の娘の額に、寺の札。

 

 おかしな光景だった。

 

 平時なら、早苗は顔を真っ赤にして抗議していただろう。

 

 神奈子も、諏訪子も、何かしら皮肉を言ったかもしれない。

 

 けれど、今は誰も笑わなかった。

 

 早苗の顔は白い。

 

 唇も少し震えている。

 

 だが、目だけは逸れていない。

 

 山門の向こうに立つ猿鬼を見ている。

 

 そのさらに奥、本堂を見ている。

 

 名も由来もなくした廃寺を、ちゃんと見ている。

 

『早苗』

 

 神奈子の声が響いた。

 

 今は早苗にも聞こえている。

 

『息を整えなさい。まず場を見るの。何が残っているか、何が欠けているか』

 

「はい」

 

 早苗は短く答えた。

 

 返事の声は震えていた。

 

 けれど、そこに怯えだけはなかった。

 

 彼女は一度、両手を下ろした。

 

 そのまま山門に向かって、ゆっくりと一礼する。

 

 次に本堂へ。

 

 そして、苔むした石灯籠へ。

 

 折れた手水鉢へ。

 

 木の根に抱かれた石仏へ。

 

 ひとつずつ、目を向ける。

 

 それは、いつもの早苗の仕草ではなかった。

 

 学校で笑い、丈の肩を叩き、「確認です」と言う時の彼女ではない。

 

 守矢の境内で神楽を舞った時の、あの静かな顔に近かった。

 

 いや、それよりもっと幼く、もっと必死で、もっと生身だった。

 

 怖い。

 

 それでも、見ている。

 

 分からないものを、分からないまま雑に扱わない。

 

 目の前の場所に、頭を下げる。

 

 それだけのことが、今は妙に重く見えた。

 

『水はないわね』

 

 神奈子が言う。

 

『手水鉢は枯れている。けれど沢の気配はある。風は通る。石も残っている』

 

『本堂は崩れてるけど、静けさはある』

 

 諏訪子の声が続く。

 

『火はない。煙もない。でも匂いは戻せる。形だけでも』

 

「分かりました」

 

 早苗は札に触れかけて、触れずに手を下ろした。

 

 額の札は淡く熱を帯びているようだった。

 

 それが神と彼女を繋いでいる。

 

 丈が天然の抜け道みたいに声を通していたのとは違い、早苗は今、無理やり細い糸を結ばれている。

 

 それでも彼女は、驚くほど早くその状態に慣れていった。

 

 巫女だからなのか。

 

 風祝だからなのか。

 

 それとも、ずっと神のそばにいる子だからなのか。

 

 丈には分からない。

 

 ただ、早苗がゆっくりと息を整えるたびに、廃寺の空気がわずかに澄んでいく気がした。

 

 猿鬼が一歩、進む。

 

 足音はしない。

 

 だが、石段の苔がじわりと濡れる。

 

『おまえ』

 

『よんだ』

 

『さる、おに』

 

 その声が近づくと、丈の胸の底に嫌なものが浮いた。

 

 逃げろ。

 

 早苗を置いて。

 

 札を捨てて。

 

 山を下りて。

 

 助かれ。

 

 言葉にしたくない考えが、泥水の泡みたいにぶくぶく上がってくる。

 

 丈は拳を握った。

 

 爪が掌に食い込む。

 

「……うるせぇ」

 

「丈くん?」

 

「こいつ、近いとろくでもないこと考える」

 

 早苗は一瞬だけ目を伏せた。

 

「私もです」

 

「何考えた」

 

「言いません」

 

「だろうな」

 

「丈くんは?」

 

「言わねぇ」

 

「ですよね」

 

 二人は、それ以上言わなかった。

 

 言えないようなことが浮かんだ。

 

 それだけで十分だった。

 

『言葉にしないで』

 

 神奈子が言った。

 

『今、余計な形を与えない方がいい』

 

「はい」

 

 早苗が答える。

 

 丈は猿鬼を見た。

 

 あれは、こちらの言葉を待っている。

 

 待つ、というほど賢くはない。

 

 ただ、丈の声に反応する。

 

 名を呼んだ者の声に寄ってくる。

 

 名づけ親。

 

 嫌な言葉だ。

 

 けれど、今はその繋がりを使うしかない。

 

『早苗、まず場を作るよ』

 

 諏訪子が言った。

 

『ここは、もう誰の寺か分からない。だからこそ、今ここで形を入れられる』

 

『ただし』

 

 神奈子の声が重なる。

 

『好き勝手に塗り替えるのではないわ。残っている静けさに、今必要な意味を置く』

 

『そこ、神奈子はこだわるよねぇ』

 

『当然よ』

 

『私は、残ればいいと思うけど』

 

『残すために形を変えることと、変えられる側が黙って呑むことは違う』

 

『だから今から聞くんでしょ。この寺にも、この山にも』

 

 二柱の声は低かった。

 

 喧嘩ではない。

 

 けれど、同じものを見ていても見方が違う。

 

 そんなずれがあった。

 

 丈には、それがいつからのものなのか分からない。

 

 ただ、ずっと前から、きっとこの二人はこういうところで噛み合ったり噛み合わなかったりしてきたのだろうと思った。

 

 早苗も同じことを感じたのか、少しだけ表情を曇らせる。

 

 けれど、今は問わない。

 

 早苗は本堂へ向き直り、静かに膝を折った。

 

「恐み恐み、申します」

 

 声が、山門の内側に落ちた。

 

 震えている。

 

 だが、澄んでいる。

 

「この山に残る寺の跡に、申します」

 

 風が止まった。

 

 木々が、息を潜める。

 

 猿鬼の赤い目が、早苗の方へわずかに動く。

 

 丈は半歩、体をずらした。

 

 自分へ視線を戻させるように。

 

 猿鬼は丈を見る。

 

『おまえ』

 

『よんだ』

 

 丈は喉の奥で息を殺した。

 

 早苗は続ける。

 

「名を失い、由来を失い、それでもここに在る場所に、申します」

 

 彼女は両手を合わせた。

 

 普段の柏手ではない。

 

 神社の作法とは少し違う。

 

 寺の前で人がするような合掌にも似ている。

 

 けれど、完全に仏式でもない。

 

 指先は揃っているが、肩の位置、背筋の伸ばし方、息の置き方が巫女のものだった。

 

 神前で育った子が、寺の札を額に貼り、無理やり二つの作法を一つの体に通している。

 

 奇妙だった。

 

 だが、不思議と崩れてはいなかった。

 

「ここに迷うものを、ここに結ぶため」

 

「ここに奪うものを、去らせるものへ変えるため」

 

「ここに祈ります」

 

 言葉は祝詞の形を取っている。

 

 しかし、早苗は途中で小さく息を挟み、額の札に手を添えた。

 

「南無阿弥陀仏」

 

 静かに唱える。

 

「南無阿弥陀仏」

 

 もう一度。

 

「南無阿弥陀仏」

 

 三度目は、少し声が低くなった。

 

 読経というには短い。

 

 仏言というには拙い。

 

 けれど、ただの真似ではなかった。

 

 神社の娘として、土地の祭りや葬儀や人の営みに触れてきた子が、教養として知っている仏の言葉を、今ここで必死に手繰り寄せている。

 

 額の札が熱を帯びる。

 

 早苗は目を閉じた。

 

 次に開いた時、彼女の瞳の奥に、風が通ったように見えた。

 

「恐み恐み、申します」

 

 祝詞へ戻る。

 

「この場に残るもの」

 

「この場に眠るもの」

 

「この場に忘れられしもの」

 

「今一度、形をお貸しください」

 

 廃寺の空気が変わり始めた。

 

 埃の匂い。

 

 苔の匂い。

 

 湿った木の匂い。

 

 その奥に、かすかに線香のような匂いが混ざる。

 

 今この場に、火などない。

 

 誰も線香など焚いていない。

 

 それでも、古い寺が昔覚えていた匂いが、ほんの少しだけ戻ってきたようだった。

 

 丈は喉を鳴らす。

 

 本堂の暗がり。

 

 そこに、一瞬、猿の姿が見えた。

 

 小さな猿。

 

 膝を折り、手を合わせている。

 

 石像なのか。

 

 影なのか。

 

 昔の誰かの記憶なのか。

 

 分からない。

 

 だが、確かにいた。

 

『見えた?』

 

 諏訪子が言う。

 

「ああ」

 

『なら、それを使う』

 

「どうやって」

 

『言葉で』

 

 神奈子の声が重なる。

 

『あなたの言葉で、形を寄せなさい。命じるのではなく、定める』

 

「命じるのと何が違うんだよ」

 

『命じれば反発する。定めれば、そこへ寄る』

 

「便利な違いだな」

 

『雑に扱えば失敗するわよ』

 

「分かってる」

 

 猿鬼が、また進んだ。

 

 山門の内側へ、黒い手が伸びる。

 

 その瞬間、左右の石灯籠がかすかに鳴った。

 

 からん、と。

 

 石が鳴ったような音。

 

 猿鬼の手が止まる。

 

 赤い目が揺れた。

 

『さる』

 

『おに』

 

『おまえ』

 

 丈は息を吸った。

 

 ここからだ。

 

 自分が呼んだものを、自分で呼び直す。

 

 できるかどうかではない。

 

 やるしかない。

 

「お前は」

 

 丈は言った。

 

 声が掠れている。

 

 だが、猿鬼は反応した。

 

 赤い目が、まっすぐ丈へ向く。

 

「お前は、人を攫う鬼じゃない」

 

『おに』

 

 猿鬼が繰り返す。

 

「違う」

 

 猿鬼の口が歪む。

 

 否定に反応したのか、赤い目が濁った。

 

『ちが』

 

『ち、が』

 

『おに』

 

『さる、おに』

 

 空気が重くなる。

 

 早苗が息を詰めた。

 

『否定だけじゃ駄目』

 

 諏訪子が言う。

 

『空いた形に、すぐ次を入れて』

 

 丈は頷く。

 

「お前は、災いを去らせる猿だ」

 

 猿鬼の動きが止まった。

 

『さる』

 

「そうだ」

 

 丈は一歩、前に出る。

 

「鬼じゃない。猿だ」

 

『さる』

 

 猿鬼の声が少し変わる。

 

 濡れた音の奥に、かすかな芯が通った気がした。

 

「人を山へ連れていく猿じゃない」

 

 丈は続ける。

 

「人を帰す猿だ」

 

 早苗が背後で唱える。

 

「南無阿弥陀仏」

 

 短く。

 

 静かに。

 

 それから祝詞へ戻る。

 

「恐み恐み、申します」

 

「この場に迷うものを、帰す道と成したまえ」

 

「この場に恐れられしものを、災いを去らせる形と成したまえ」

 

 額の札が淡く熱を帯びる。

 

 早苗は合掌した手をゆっくりと開き、胸の前で一度下ろした。

 

 そして、神前の作法のように、深く一礼する。

 

 しかし、柏手は打たない。

 

 音を立てれば、猿鬼がそこへ寄る。

 

 代わりに、彼女は指先だけを合わせ、息で祈りを置いた。

 

「南無阿弥陀仏」

 

「恐み恐み、申します」

 

「この寺の静けさに、これを納めたまえ」

 

 混ざっている。

 

 無茶苦茶だ。

 

 だが、早苗の中では筋が通っているのだろう。

 

 場所へ礼をし、神へ申したて、仏の言葉で道を開く。

 

 その全てを、自分の体を通して一つの流れにしている。

 

 丈はその姿を横目で見た。

 

 これが、風祝か。

 

 ただ神様が見える子ではない。

 

 ただ神様の話をする子ではない。

 

 神と人の間に立つ子。

 

 分からないものに、形を渡す子。

 

 今、早苗は確かにそうしていた。

 

 猿鬼が揺れる。

 

 赤い目が揺れている。

 

 長い腕が、わずかに痙攣する。

 

 黒い体の輪郭が、霧のように崩れては戻る。

 

 猿。

 

 鬼。

 

 人。

 

 影。

 

 そのどれにもなりきれないものが、丈の言葉と早苗の祈りの間で揺れていた。

 

『さる』

 

 猿鬼が言う。

 

『おに』

 

 言った瞬間、神奈子の声が鋭く入る。

 

『丈』

 

「分かってる」

 

 丈は叫びそうになるのを堪えた。

 

 大声で打ち消せば、また鬼へ寄る。

 

 ここでは、押し返すのではない。

 

 寄せる。

 

 置く。

 

 形にする。

 

「お前は猿だ」

 

 丈は、ゆっくり言った。

 

「去る寺の猿だ」

 

 山門の奥で、空気が震えた。

 

 早苗が目を見開く。

 

「去る寺……」

 

『いい』

 

 諏訪子が低く言う。

 

『そこ。そこに結んで』

 

 丈は続けた。

 

「ここは、名もなくなった寺だ」

 

 朽ちた本堂。

 

 読めない扁額。

 

 消えた由来。

 

「でも、今日から」

 

 丈は息を吸った。

 

 怖い。

 

 自分がまた、何かを呼ぼうとしている。

 

 また、取り返しのつかない形を作ろうとしている。

 

 それでも。

 

 慎二は帰った。

 

 雅人も、浩介たちも帰った。

 

 白い少女は助けてくれた。

 

 山は道を開いた。

 

 ここまで来た。

 

「今日から、ここは」

 

 丈は猿鬼を見た。

 

「災いが去る寺だ」

 

 風が吹いた。

 

 山の奥からではない。

 

 寺の内側から。

 

 古い本堂の暗がりから、冷たい風が広がった。

 

 苔が揺れる。

 

 石灯籠が鳴る。

 

 折れた手水鉢の底に溜まっていたわずかな水が、かすかに波打つ。

 

 猿鬼が、一歩後ずさった。

 

『さる』

 

 その声は、さっきより小さい。

 

『さる』

 

 早苗が祈る。

 

「南無阿弥陀仏」

 

「南無阿弥陀仏」

 

「恐み恐み、申します」

 

 彼女は声の調子を変えた。

 

 仏の言葉では低く、沈むように。

 

 祝詞では風を通すように。

 

 無理に上手く読もうとしているのではない。

 

 教えられた形を、そのままなぞっているだけでもない。

 

 今この場に必要なものを、自分の知っている作法の中から必死に取り出し、繋いでいる。

 

「この猿を、ここに結び」

 

「この猿を、災いを去らせるものとして」

 

「この寺の静けさに、納めたまえ」

 

 言葉としては、無茶苦茶だった。

 

 祝詞でもない。

 

 読経でもない。

 

 けれど、早苗の声は真剣だった。

 

 だから、場が応えた。

 

 朽ちた本堂の奥で、手を合わせる猿の影が濃くなる。

 

 最初は一つ。

 

 次に二つ。

 

 柱の陰。

 

 石仏のそば。

 

 苔むした階段の脇。

 

 小さな猿たちが、見えたり消えたりしながら手を合わせている。

 

 猿鬼が苦しそうに身を捩った。

 

 長い腕が、地面を掻く。

 

 爪が苔を裂く。

 

 赤い目が、丈を睨む。

 

 いや、見ている。

 

 睨むというほど意味があるかは分からない。

 

 ただ、丈から離れられずにいる。

 

『おまえ』

 

『よんだ』

 

「呼んだ」

 

 丈は答えた。

 

 早苗が驚いてこちらを見る。

 

 丈は猿鬼から目を逸らさない。

 

「俺が呼んだ」

 

『よんだ』

 

「だから、俺が呼び直す」

 

 猿鬼の口が開いた。

 

『さる』

 

『おに』

 

「違う」

 

 今度は、すぐに続けた。

 

「猿だ」

 

 猿鬼が震える。

 

「去る猿だ」

 

 空気がさらに変わる。

 

 去る。

 

 猿。

 

 音が重なる。

 

 ただの洒落みたいな言葉。

 

 けれど、この場では、その音が道になった。

 

 災いが去る。

 

 恐れが去る。

 

 山へ連れていかれた子供が、帰る。

 

 それを言葉が結ぶ。

 

『さる』

 

 猿鬼の声が、ひとつだけになる。

 

『さる』

 

 鬼が抜けた。

 

 まだ完全ではない。

 

 だが、声から「おに」が落ちた。

 

『早苗、今』

 

 神奈子が低く言う。

 

「はい!」

 

 早苗は額の札へ手を添えた。

 

 白い札が、淡く光ったように見える。

 

「恐み恐み、申します」

 

 早苗の声が強くなる。

 

「この寺に残るもの」

 

「この山に坐すもの」

 

「名を失いしもの」

 

「形を変え、なお在るもの」

 

「この猿を、ここにお納めください」

 

「人を奪う鬼としてではなく」

 

「災いを去らせる猿として」

 

 そこで早苗は、深く頭を下げた。

 

 ただ頭を下げるのではない。

 

 腰から折る。

 

 祈りを、体ごと地面へ置く。

 

 それから、ゆっくり顔を上げ、今度は本堂へ向かって合掌する。

 

「南無阿弥陀仏」

 

「南無阿弥陀仏」

 

「南無阿弥陀仏」

 

 読経のようで、読経ではない。

 

 けれど、その声に呼応して、本堂の奥の闇が深くなり、同時に澄んだ。

 

 闇が汚れではなく、静けさになる。

 

 猿鬼の体を覆っていた黒い影が、少しずつ剥がれていく。

 

 べり、と音を立てるわけではない。

 

 煙が水に溶けるように。

 

 煤が雨に流されるように。

 

 黒い輪郭が薄くなっていく。

 

 だが、完全には消えない。

 

 丈は、そこへ言葉を重ねる。

 

「お前は、ここに座る猿だ」

 

 早苗が唱える。

 

「この場に納めたまえ」

 

「お前は、手を合わせる猿だ」

 

「南無阿弥陀仏」

 

「お前は、人の影を取らない」

 

「恐み恐み、申します」

 

「お前は、人の声を真似て連れていかない」

 

「災いを去らせたまえ」

 

「お前は、帰り道を閉ざさない」

 

「帰る道を開きたまえ」

 

 丈の言葉と、早苗の祈りが交互に重なる。

 

 一度では足りない。

 

 猿鬼は、名を得たばかりだ。

 

 鬼として寄りかけた形は、まだ強い。

 

 だから、何度も言う。

 

 何度も祈る。

 

 何度も、猿鬼ではない形を重ねる。

 

 そのたびに、猿鬼の体が揺れる。

 

 長すぎた腕が、少しずつ折り畳まれていく。

 

 盛り上がっていた肩が沈む。

 

 赤い目の光が薄くなる。

 

 口の裂け目が小さくなる。

 

 背の曲がり方が、獲物へ飛びかかる獣のものではなく、膝を折って座るものの形へ近づいていく。

 

『さる』

 

 猿鬼が言う。

 

『さる』

 

 もう「おに」とは言わない。

 

 だが、まだ怖い。

 

 まだ、影の奥に赤いものが残っている。

 

 丈は前へ出る。

 

 早苗が一瞬だけ手を伸ばしかけたが、止めた。

 

「お前は、去る寺の猿だ」

 

 丈は低く言った。

 

「ここにいて、災いを去らせろ」

 

『さる』

 

「手を合わせろ」

 

『さる』

 

「ここに座れ」

 

 猿鬼の膝が折れた。

 

 いや、折れたのではない。

 

 座った。

 

 苔むした石の前に、ゆっくりと。

 

 長かった腕が、胸の前で持ち上がる。

 

 ぎこちない。

 

 指の数も、形も、人とも猿とも違う。

 

 それでも、両手が合わさった。

 

 合掌だった。

 

 早苗が息を呑む。

 

 神奈子も諏訪子も、何も言わない。

 

 山も黙った。

 

 合掌した猿鬼の輪郭が、ふっと小さくなる。

 

 黒い霧が抜ける。

 

 背中が縮む。

 

 赤い目が消える。

 

 長い腕が短くなり、裂けていた口が静かに閉じる。

 

 そこに、小さな猿がいた。

 

 石ではない。

 

 生き物でもない。

 

 影でもない。

 

 けれど、確かにいる。

 

 苔むした寺の前で、手を合わせて座る猿。

 

 顔は静かだった。

 

 恐ろしい顔ではない。

 

 笑ってもいない。

 

 ただ、目を伏せ、手を合わせている。

 

 早苗の祈りは、まだ終わらない。

 

「恐み恐み、申します」

 

 彼女はもう一度、深く頭を下げる。

 

「この場に納まりし猿を」

 

「災いを去らせるものとして」

 

「人を帰すものとして」

 

「この山、この寺、この地に、お納めください」

 

 それから、声を落として唱える。

 

「南無阿弥陀仏」

 

「南無阿弥陀仏」

 

「南無阿弥陀仏」

 

 最後の一声が、廃寺の中に沈んだ。

 

 風が止む。

 

 木々のざわめきも止む。

 

 沢の音だけが遠く残る。

 

 額の札が、ふっと熱を失った。

 

 早苗の肩が揺れる。

 

 膝が崩れかける。

 

 丈は慌てて支えた。

 

「おい」

 

「……大丈夫です」

 

「大丈夫なやつの声じゃないだろ」

 

「大丈夫です。ちょっと、頭がぐるぐるします」

 

「それ大丈夫じゃねぇよ」

 

 早苗は額の札を触ろうとして、手を止める。

 

「外してもいいですか」

 

『まだ駄目』

 

 神奈子が即答した。

 

「まだですか」

 

『下りるまでは貼っておきなさい』

 

「このままですか」

 

『このまま』

 

 早苗は少しだけ泣きそうな顔になる。

 

「丈くん」

 

「何だ」

 

「似合いますか」

 

「キョンシーっぽい」

 

「聞かなければよかったです」

 

 丈は小さく笑った。

 

 笑うと、喉が痛かった。

 

 でも、笑えた。

 

 山門の外に並んでいた小さな影たちは、ひとつ、またひとつと森の中へ消えていく。

 

 枝が揺れる。

 

 苔が光る。

 

 沢の音が遠くで聞こえる。

 

 猿鬼は、もういない。

 

 ただ、小さな合掌猿が、廃寺の前に座っている。

 

 丈はそれを見て、胸の奥が変に重くなるのを感じた。

 

 倒したわけではない。

 

 消したわけでもない。

 

 ここに置いた。

 

 ここに残した。

 

 それで本当にいいのかは、分からない。

 

 でも、あれはもう慎二の影を見て笑わない。

 

 雅人の声を真似て呼ばない。

 

 浩介たちの背中を追わない。

 

 そう思うと、ようやく足から力が抜けた。

 

「終わったのか」

 

 丈が聞く。

 

『まだ』

 

 諏訪子が言う。

 

『でも、越えた』

 

 神奈子が続ける。

 

『完全に消えたわけではないわ。恐れは残る。形も残る』

 

「じゃあ」

 

『祀るのよ』

 

 神奈子の声は静かだった。

 

『これからも』

 

 早苗が顔を上げる。

 

「ここを、ですか」

 

『ええ』

 

 諏訪子が軽く言う。

 

『猿寺になっちゃったからね』

 

「なっちゃったって言い方」

 

 早苗が小さく抗議する。

 

 それでも声に力はない。

 

 疲れ切っていた。

 

 丈も同じだった。

 

 膝が笑っている。

 

 肩が重い。

 

 でも、猿鬼がいた時の胸の重さは消えていた。

 

 あの嫌な考えが、もう浮かんでこない。

 

 丈は合掌猿を見る。

 

 すると、猿の口がかすかに動いた。

 

『さる』

 

 小さな声。

 

『さる』

 

 そして。

 

『……さる』

 

 それきり、猿は動かなくなった。

 

 山の奥の廃寺に、静けさが戻る。

 

 ただ、石段の下から吹き上げる風が、少しだけ涼しかった。

 

 早苗は額に札を貼ったまま、もう一度、本堂へ向かって頭を下げた。

 

 丈もそれに倣う。

 

 名もなき廃寺は、今日から少しだけ違う場所になった。

 

 誰の寺だったのかは、もう分からない。

 

 けれど今、そこには手を合わせる猿がいる。

 

 災いが去る寺の猿がいる。

 

 丈が呼んでしまった名は、早苗の祈りと山の静けさの中で、別の形へ押し込められた。

 

 それが救いなのか、ただの押しつけなのか。

 

 丈にはまだ、分からなかった。

 

 でも、小さな猿は、静かに手を合わせていた。

 

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