第十七話 「蛇の夢」
山を下りる頃には、空はすっかり暮れかけていた。
木々の間に残る光は、赤でも青でもなく、薄い灰色に沈んでいた。山の奥にいる間、時間の感覚はひどく曖昧だった。どれだけ歩いたのか。どれだけ祈っていたのか。丈には分からない。
ただ、足は重かった。
喉も痛い。
制服は汚れ、腕には壁板で擦った細い傷が残っている。靴の底には山の土がべったりつき、歩くたびに湿った葉が潰れた。
隣の早苗も、いつもの元気はなかった。
額には、まだ正行院の札が貼られている。
南無阿弥陀仏。
神社の娘の額に、寺の札。
山の薄闇の中で、その白さはやけに目立っていた。
「……早苗」
「はい」
「それ、まだ貼っとくのか」
「神奈子様が、下りるまでは駄目だと」
「見た目がすげぇぞ」
「言わないでください」
「キョンシー」
「言わないでくださいって言いました!」
声に力はない。
それでも、少しだけいつもの調子が戻っていた。
石段を下り、沢を渡り、木霊のような小さな影たちに見送られながら、二人は山を下りた。
不思議なことに、帰り道は迷わなかった。
行きは、山が奥へ奥へと姿を変えていった。木は太くなり、祠は増え、学校裏の雑木林が知らない古い山へ変わっていった。
けれど帰りは、その逆だった。
太かった幹は、だんだん普通の木に戻る。
苔むした祠は、木の陰へ沈む。
石の下にあった気配も、少しずつ遠のいていく。
追い出されているのではない。
帰してもらっている。
丈には、そう感じられた。
山のふちが見えた。
旧校舎の裏手。
そこに、人影がいくつもあった。
先生たち。
大人たち。
懐中電灯を持った人。
携帯電話を握っている人。
誰かが叫ぶ。
「いたぞ!」
その声を聞いた瞬間、早苗の足が止まりかけた。
丈も、胸の奥から何かが抜けるような気がした。
普通の声だった。
人間の声だった。
心配して、怒って、慌てている声。
それが、こんなにもありがたいものだとは思わなかった。
「丈!」
浩介が走ってきた。
その後ろから健太と祐一も来る。
慎二と雅人は、大人のそばにいた。
二人とも泣いていた。
いや、泣き疲れている顔だった。
慎二の足元には影がある。
ちゃんとある。
夕方の薄い光の中で、少しぼやけてはいるが、確かに足元についている。
丈は、それを見てようやく息を吐いた。
「……よかった」
思わず漏れた。
浩介が目の前で止まる。
顔はぐしゃぐしゃだった。
「お前ら、どこ行ってたんだよ!」
「山」
「分かるわ! 見りゃ分かる!」
「じゃあ聞くなよ」
「そういうことじゃねぇだろ!」
浩介は怒鳴った。
それから、いきなり黙った。
丈の肩を掴む。
力が強い。
「帰ってきたんだな」
「ああ」
「東風谷も」
「はい」
早苗が小さく頷く。
額の札が揺れた。
浩介はそれを見た。
見て、固まった。
「……東風谷」
「はい」
「何それ」
「聞かないでください」
「いや聞くだろ」
「聞かないでください」
健太が震える声で言う。
「お札?」
祐一がぼそっと続ける。
「映画で見たことある」
「違います!」
「何が?」
「いろいろです!」
早苗が少しだけ元気に怒った。
その声を聞いて、慎二が泣きながら笑った。
笑ったというより、泣き顔が少し崩れた。
「東風谷、変なの」
「慎二くんに言われたくありません!」
「俺、今日ずっと変だったし」
「それは……」
早苗は言葉に詰まった。
慎二は足元を見る。
影がある。
それを見て、また泣きそうになる。
「帰ったんだよな」
慎二が言った。
「俺、帰ったんだよな」
「ああ」
丈は答えた。
「帰った」
慎二は泣いた。
今度は、怖くて泣いたのではなかった。
たぶん。
雅人も隣で泣いている。
「ごめん」
「もういいって」
「ごめん」
「もういいってば」
慎二はそう言いながら、雅人の袖を掴んでいた。
浩介が鼻をすすった。
「お前らも謝れよ」
「何を」
「心配させた」
「お前に?」
「俺にも! 先生にも! みんなにも!」
その時、先生が来た。
顔が怖かった。
本気で怖い顔だった。
猿鬼とは違う。
正しい意味で、怖い顔だった。
「お前たち」
低い声。
丈と早苗は同時に背筋を伸ばした。
「はい」
「どこへ行っていた」
「山です」
丈が答える。
先生の眉がさらに寄った。
「なぜ山へ行った」
「……その」
言えない。
言えるわけがない。
猿鬼を祀り直しに行きました。
名もなき廃寺に行きました。
早苗の額に寺の札を貼って、神仏を混ぜて猿を祀ってきました。
そんなことを言えるわけがない。
早苗も同じことを考えたのか、額の札をそっと押さえた。
先生はその札を見る。
しばらく見た。
それから、ものすごく疲れた顔になった。
「……それは何だ」
「お守りです」
早苗が小さく答える。
「額に貼るものか」
「今日は貼るものです」
「今日は?」
「はい」
先生は目を閉じた。
怒鳴る前に、怒りを整理している顔だった。
そして、ゆっくり言った。
「全員、後で話を聞く」
「はい」
「まず、けがを見せろ」
「はい」
「それから、保護者に連絡する」
「はい」
「そして」
先生は丈と早苗を見た。
「こっぴどく叱る」
丈は頷いた。
「はい」
早苗も頷いた。
「はい」
その叱責は、山のものよりよほど人間的だった。
だから、少しだけ安心した。
◇
予告通り、こっぴどく叱られた。
旧校舎へ入ったこと。
山へ入ったこと。
先生の目の届かない場所へ行ったこと。
危ないことをしたこと。
何度も何度も言われた。
丈は黙って聞いた。
早苗も黙って聞いた。
浩介たちも叱られた。
雅人は特に叱られた。
慎二は保健室で休まされたが、それでも先生に「もう二度と行くな」と言われ、泣きながら頷いていた。
その後、子供たちは少しだけからかった。
主に早苗の額の札について。
「東風谷、ほんとにキョンシーじゃん」
「違います!」
「ぴょんぴょん跳ねる?」
「跳ねません!」
「でもお札貼ってるし」
「これは事情があるんです!」
「事情って何?」
「聞かないでください!」
早苗は顔を真っ赤にして怒った。
怒る元気が戻ってきたことに、丈は少し安心した。
浩介が丈の横に来る。
「なあ」
「何だ」
「終わったのか」
丈はすぐには答えなかった。
校庭の向こう。
旧校舎。
その奥の山。
そこを見て、ゆっくり言う。
「たぶん」
「たぶんかよ」
「たぶんだ」
「怖ぇな」
「ああ」
「でも、慎二は帰った」
「ああ」
「じゃあ、いいか」
「いいのか?」
「よくねぇけど、今日はそれでいい」
浩介はそう言った。
それから、少しだけ笑った。
「お前、明日学校来るよな」
「行くよ」
「東風谷も?」
「行きます!」
少し離れたところで早苗が即答した。
額に札を貼ったまま。
浩介はそれを見て、口元を押さえた。
「ごめん。やっぱちょっと面白い」
「浩介くん!」
早苗が怒る。
丈は笑った。
喉が痛かった。
でも、笑えた。
◇
その後、丈と早苗は守矢神社にいた。
社務所の中。
早苗の父は、娘の額に貼られた札を見て、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……貼ったんだね」
「お父さん!」
早苗の声が社務所に響いた。
「どういうことですか!」
「うん」
「うん、じゃありません!」
「まず座ろうか」
「座っています!」
「そうだね」
父は穏やかだった。
穏やかすぎた。
それが余計に早苗の火に油を注いでいた。
早苗は両手を膝に置きながら、怒りで震えている。
額にはまだ札が貼られている。
丈は横で正座していた。
足が痛い。
山を歩いた後の正座は、かなりきつい。
だが、それを言える空気ではなかった。
「神社のお守りですよね?」
早苗が詰め寄る。
「そうだね」
「守矢ですよね?」
「うん」
「中から南無阿弥陀仏って書いたお札が出てきました」
「うん」
「うん?」
「入れたね」
「入れたね、じゃありません!」
早苗は額の札を指差した。
「これですよ! 神社の娘の額に貼られてるんですよ!」
「よく似合っているよ」
「褒めないでください!」
父は少し困ったように笑った。
その笑いに悪気はない。
だからこそ、早苗は余計に怒りの持っていき場を失っているようだった。
「羊頭狗肉です!」
「それは、少し違うかな」
「違いません! 神社のお守りと言って渡したものの中身が、お寺のお札! これはもう、実質的に羊頭狗肉です!」
「実質的に」
「実質的にです!」
「でも、役に立った?」
「立ちました!」
「なら、よかった」
「よくありません!」
早苗は机に手をついた。
「役に立ったからこそ問題なんです! 神社の立場として!」
「早苗、声」
「声も大きくなります!」
丈の頭の奥で、諏訪子がぼそっと言った。
『怒ってるねぇ』
神奈子は黙っている。
黙っているが、圧がある。
札の一件について、まだ納得しきっていない圧だ。
父は、ようやく少し真面目な顔になった。
「理由を話すよ」
「お願いします」
「半分は思いつきだった」
「お父さん!」
「気休めとも言うね」
「気休め!?」
早苗の声が裏返った。
丈は横で少しだけ体を引いた。
この勢いの早苗は、猿鬼とは別方向に怖い。
父はゆっくり続ける。
「僕には、神奈子様や諏訪子様の姿は見えない。声も聞こえない」
その言葉に、早苗の表情が少し変わった。
怒りの中に、別の色が混ざる。
「だけど、神主として、信仰を持つ者として、困っている人の手助けはしたい」
父は丈を見る。
「丈くんが、何かに困っているのは分かった」
丈は黙った。
「でも、守矢には、猿を退ける特別なお守りがあるわけではないからね」
父は苦笑した。
「猿にちなんだ縁も、少なくとも僕の知る限りではない」
「それで、お寺ですか」
早苗が言う。
「そう。正行院のことを思い出した」
その名が出た瞬間、丈の頭の奥で諏訪子が小さく反応した。
『ああ、やっぱり』
父は続ける。
「昔、少し調べたことがあるんだ。正行院は、猿寺と呼ばれることがある」
「猿寺?」
丈が聞いた。
父は頷く。
「詳しい由来は、話によって少し違う。ただ、災難から救われた猿の話が残っている。合掌する猿。災いを去る、という語呂にも結びついてね」
諏訪子の声が重なる。
『円誉上人の話だよ』
丈は顔を上げた。
父には聞こえていない。
諏訪子は、丈へだけ話している。
『危ういところを救われた猿が、手を合わせる。猿が去る。災いが去る。そういう話が、人の中で重なって、正行院は猿寺と呼ばれた』
丈は、山の廃寺で見た合掌猿を思い出した。
小さな猿。
手を合わせて、目を伏せていた。
『あの札を見たから、思い出したんだ』
諏訪子が言う。
『猿鬼を、その由来へ寄せられるかもしれないって』
「それで、山の寺へ?」
丈が小さく言う。
早苗がこちらを見る。
「諏訪子様ですか?」
「ああ」
丈は頷いた。
「正行院が猿寺って呼ばれる由来を思い出したって。だから、猿鬼をそっちへ寄せられるかもしれないと思ったんだと」
早苗は父を見た。
「お父さん」
「うん」
「気休めが、かなり大事な手がかりでした」
「そうか」
父は静かに頷いた。
少しだけ安心したような顔だった。
けれど、早苗はまだ終わらない。
「ですが!」
「はい」
「それとこれとは別です!」
「そうだね」
「神社のお守りにお寺のお札を入れるなら、せめて一言ください!」
「一言あったら持っていった?」
「……持っていきました!」
「なら、次からは言うよ」
「次があったら困ります!」
父はまた困ったように笑う。
けれど、次の言葉は真面目だった。
「神様に失礼だったかもしれないね」
頭の奥で、諏訪子が少し黙った。
神奈子も、そこでようやく小さく息を吐いた。
父には聞こえていない。
見えてもいない。
けれど、その言葉は届いたようだった。
「でも、何もしないよりはいいと思った」
父は言う。
「困っている子供に、何か持たせたかった。それが、たとえ気休めでも」
早苗は俯いた。
怒っていた顔が、少しだけ揺れる。
「……役に立ちました」
「そうか」
「でも」
早苗は顔を上げる。
「諏訪子様も神奈子様も、ショックを受けてますので、フォローはしてください!」
父は一瞬だけ目を丸くした。
それから、真面目に頷いた。
「それは、そうだ」
「そうです!」
「礼儀は大事だからね」
父は居住まいを正した。
そして、拝殿の方へ深く頭を下げる。
「神奈子様。諏訪子様。失礼をいたしました」
早苗も背筋を伸ばす。
丈も慌てて頭を下げた。
父は続けた。
「ただ、困っている子を助けたいという気持ちからでした。どうか、お許しください」
頭の奥で、諏訪子がぽつりと言う。
『まあ、いいよ』
神奈子も、少し間を置いて言った。
『……理由は分かったわ』
早苗は父を見る。
「諏訪子様は、まあいいよ、だそうです。神奈子様は、理由は分かったわ、だそうです」
「そうか」
父はほっとしたように息を吐いた。
「よかった」
「まだ完全に許されたかは分かりません」
「そこは、これからの態度だね」
「お父さん、妙に落ち着いてますね」
「内心は結構たじろいでいるよ」
「でしょうね!」
早苗は怒っているのに、どこか安心したようだった。
丈はそれを横で見ていて、少しだけ分かった。
父は見えない。
聞こえない。
でも、信じている。
見えるから信じるのではない。
聞こえるから従うのでもない。
信仰を持つ者として、見えないまま礼を尽くす。
それもまた、守矢の神主なのだろう。
◇
罰とお礼を兼ねて、丈と早苗は本殿の奥の掃除をした。
危ないことをした罰。
そして、神様と山のものに世話になったお礼。
そう父が言った。
早苗はようやく額の札を外したが、しばらく不満そうにそれを見ていた。
「お父さん、ほんとに……」
「まだ言ってる」
「言います。これは言います」
「まあ、言うよな」
箒で床を掃く。
普段は入らない奥の場所だった。
木の床は古く、少し冷たい。
埃の匂い。
しめ縄の匂い。
紙垂の白さ。
拭き清められた場所特有の、乾いた静けさ。
山の廃寺とは違う。
こちらは、人の手が今も入っている場所だ。
掃かれ、拭かれ、祀られ続けている場所。
早苗は丁寧に雑巾を絞り、床を拭いていく。
丈は箒を動かしながら、ふと山の廃寺を思い出した。
苔むした石灯籠。
崩れた山門。
名も読めない扁額。
そこに座った小さな合掌猿。
あの場所は、これからどうなるのだろう。
誰かが掃くのか。
誰かが祀るのか。
それとも、また山に沈むのか。
「丈くん」
「何だ」
「手が止まってます」
「悪い」
「考え事ですか」
「ああ」
「猿寺のこと?」
「たぶん」
「たぶん」
「今日はたぶんでいいだろ」
「そうですね」
そんなことを言いながらも、二人は黙々と掃除した。
体は疲れていた。
けれど、手を動かしていると、少しずつ日常へ戻っていく感じがした。
雑巾を洗う。
箒を立てかける。
水を替える。
床の埃を取る。
普通のこと。
今日、何度も失いかけた普通のこと。
掃除が終わる頃には、外はもう暗くなっていた。
二人は拝殿の奥に座る。
早苗は膝の上に手を置き、少しだけ背筋を伸ばした。
「聞いてもいいですか」
早苗が言う。
『いいよ』
諏訪子の声。
神奈子も静かに応じる。
『ええ』
「どうして、山を目指させたんですか」
早苗はまっすぐ訊いた。
「正行院のお札があったから、というのは分かりました。でも、あの廃寺は正行院ではありませんでした」
『正行院そのものを目指したわけじゃない』
諏訪子が言った。
『あの札を見た時、猿寺の由来を思い出した。合掌する猿。災いが去る猿。猿鬼をそちらへ寄せる道があると思った』
神奈子が続ける。
『学校や町では無理だったわ。あそこには噂も恐怖も、子供たちの声も多すぎる。猿鬼を鬼の形へ戻すものばかりだった』
「だから山ですか」
『山には古いものが残っている』
諏訪子の声は静かだった。
『名を失った寺も、忘れられた祠も、形を変えながら残っている。そういう場所なら、猿鬼を別の形へ寄せられる』
「でも、あの寺は正行院じゃなかった」
丈が言う。
『うん』
諏訪子はあっさり答えた。
『でも、丈たちは猿に関わる寺かもしれないと思ってあそこへ来た。正行院の札に導かれてね』
神奈子が言葉を継ぐ。
『人の認識のずれが生まれた。正行院ではない名もなき寺が、猿に由来する寺として見られた。そのずれを使ったの』
「強引ですよね」
早苗が言う。
『強引よ』
神奈子は否定しなかった。
『けれど、猿鬼は名を得たばかりだった。まだ形が固まりきっていない。あの場でしか、向きを変えられなかった』
『倒したんじゃない』
諏訪子が言う。
『祀ったんだよ。鬼じゃなくて、猿として』
「猿鬼は、どうなったんですか」
早苗が聞く。
『猿鬼ではなくなった』
神奈子が答える。
『完全に消えたわけではない。恐れも、噂も、山のものの名残もある。でも、今は寺に納まっている』
『あの寺も猿寺になった』
諏訪子が言った。
少しだけ、遠くを見るような声だった。
『ただ、またいつの日か山のものになるだろうね』
「え」
早苗が顔を上げる。
『でも、それは仕方がない』
諏訪子は続ける。
『形あるものは変わる。名前も、祀られ方も、思われ方も。けれど、そこに残る。土地も、思いも、少しずつ積もってね』
神奈子は黙った。
いつものようにすぐ言葉を返さない。
丈は、ちらりと拝殿の奥を見る。
神奈子の姿は見えない。
けれど、沈黙がある。
それは怒りではなかった。
ただ、簡単には頷けない沈黙だった。
形が変わっても残る。
その言葉は、諏訪子にとっては当然のことなのかもしれない。
けれど、神奈子にとっては、どこか引っかかるものがあるのだろう。
早苗も何かを感じたのか、口を開きかけて、やめた。
神奈子が静かに言った。
『丈、あなた、今日は泊まっていくんでしょう』
「え」
『早苗も、今日は十分すぎるほど疲れているはずよ。休むといいわ』
「でも」
『話はまた明日でもできる』
その声は、穏やかだった。
だが、奥に固いものがあった。
これ以上は、子供たちに聞かせる話ではない。
そう言われている気がした。
諏訪子も何も言わなかった。
早苗は少しだけ不安そうにする。
「神奈子様」
『大丈夫よ』
神奈子が言う。
『今日は休みなさい』
早苗はしばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「はい」
丈も、渋々立ち上がる。
「……じゃあ、休む」
『ええ』
諏訪子が軽く言った。
『寝な寝な。子供は寝るのも仕事だよ』
「都合いい時だけ子供扱いすんな」
『便利だからね』
「便利にするな」
早苗が少し笑った。
それで、その場は終わった。
◇
その夜。
丈は、なぜか目を覚ました。
布団の中で、しばらく天井を見ていた。
守矢神社に泊まるのは、これが初めてではない。
前にも泊まった。
夏の夜。
白い御守りを持っていた夜。
それなのに、今夜の神社は少し違って感じた。
空気が濃い。
昼間に山の奥で嗅いだ土の匂いが、まだ鼻の奥に残っているせいかもしれない。
あるいは、神社の奥にある何かが、いつもより近いせいかもしれない。
丈は起き上がった。
隣の部屋から、早苗の寝息がかすかに聞こえる。
疲れ切っていたのだろう。
よく眠っている。
丈はそっと布団を抜け出した。
廊下は暗い。
板張りの床が、足の裏に冷たい。
夜の神社は、昼とはまるで違った。
人の声はない。
風の音だけがある。
紙垂がかすかに揺れる音。
遠くの木々が擦れる音。
それから。
土の底から、何かが息をしているような気配。
蛇のようで。
縄のようで。
石のようで。
土の下にいるもの。
神社の奥に、その気配が濃くなっていた。
丈は、息を潜めて歩く。
声が聞こえた。
神奈子の声。
諏訪子の声。
昼間より低い。
近い。
そして、少し尖っていた。
『あの寺も、放っておけばまた山に戻る』
神奈子の声だった。
『猿寺と呼ぶ人がいなければ、いずれ形は薄れるわ』
『薄れても残るよ』
諏訪子の声。
いつもの軽さはある。
でも、その奥に、乾いた石みたいな硬さがあった。
『祠が崩れても、石が残る。石が埋まっても、土が覚えてる』
『土が覚えているだけでは、人は帰れない』
『人のためだけにあるわけじゃない』
『人がいなければ、神は名を失う』
『名を失っても、いるものはいる』
『そう言えるのは、土地そのものに根を下ろしているあなたの言葉よ』
『そう言うあんたは、名前と形に頼りすぎる』
丈は柱の陰で足を止めた。
聞いてはいけない。
そう思った。
けれど、足が動かなかった。
『届かなければ意味がないわ』
神奈子が言う。
『人が見ないもの。祀らないもの。呼ばないもの。そんなものを、どうやって守るの』
『守るって言葉、好きだよね』
『必要だからよ』
『変えるって言葉を、守るで包むのも上手い』
風が止まった。
諏訪子の声は、低いまま続く。
『形を変えて、名前を変えて、役目を変えて。それで残しましたって、誰に言うの』
『消えるよりはましよ』
『消えた方がましなものもあるかもね』
『あなたは本気でそれを言っているの?』
『あんたこそ、本気で全部残せると思ってるの?』
沈黙が落ちた。
その沈黙は、ただの間ではなかった。
何かを言わずに踏みとどまった沈黙だった。
丈は、喉が乾くのを感じた。
今日の猿寺の話をしている。
でも、それだけではない。
もっと古いところへ、言葉の刃が届きかけている。
お互いに、相手の急所を知っている。
だから、ほんの少し角度を変えれば刺さる。
刺さらないようにしているのか。
刺さるぎりぎりを撫でているのか。
丈には分からなかった。
『今日の猿鬼は、うまくいった』
神奈子が言う。
『けれど、あれは応急の形よ。人が忘れれば、また戻る。祀り続けなければならない』
『それでいいじゃない』
『誰が祀るの』
『気づいた人が』
『気づく人が減っている』
『気づけるように残せばいい』
『そのために形を整えるのよ』
『整えるって、便利だね』
諏訪子の声が少し笑った。
笑っているのに、冷たい。
『縄を張る。柱を立てる。名前を決める。そうすれば、ぐちゃぐちゃした土地も、人に見せやすくなる』
『悪いことではないわ』
『悪いなんて言ってないよ』
『あなたの声は、そう聞こえる』
『神奈子の声は、いつも正しいみたいに聞こえるね』
丈は、思わず一歩出た。
止めなきゃ。
そう思った。
何を言えばいいのか、分からなかった。
けれど、このまま聞いていたら、二人が本当に傷つけ合う気がした。
神様同士のことなど分からない。
昔のことも分からない。
信仰も、形も、土地も、丈にはまだ分からない。
だから、知っている言葉を使った。
子供が、喧嘩を止める時の言葉を。
「どっちも、諏訪を思ってるんだろ」
声が出た。
二柱が、同時に黙った。
丈は柱の陰から出る。
胸がどきどきしていた。
でも、もう言ってしまったので続けるしかなかった。
「だったら、そんな言い方しなくてもいいだろ」
言った瞬間。
空気が変わった。
風が止まる。
床下の土の気配が、冷たくなる。
紙垂が揺れたまま止まったように見えた。
神奈子も、諏訪子も、何も言わない。
丈は一瞬、自分が言葉を間違えたことだけを悟った。
何を間違えたのかは分からない。
ただ、踏んではいけない場所を踏んだ。
そういう感覚だけがあった。
『……今』
諏訪子の声が低くなる。
『何て言った?』
丈は固まる。
「いや、だから」
言い直そうとした。
けれど、言い直す前に、神奈子の声が重なった。
『...誰のせいで』
風が鳴った。
諏訪子の声も重なる。
『誰のせいで“こうなった"と思っている!!』
二柱の声が、同時にぶつかった。
拝殿の床が低く震えた。
丈は息を呑む。
「……は?」
間の抜けた声が出た。
本当に、何を言われたのか分からなかった。
誰のせい。
自分のせいなのか。
猿鬼のせいか。
それとも、もっと別の誰かか。
丈は目を瞬かせる。
その顔を見て、二柱の気配が、同時に固まった。
『……あ』
『……違う』
気まずい沈黙が落ちた。
丈はしばらく二柱の気配を見ていた。
「何?」
神奈子が、少し遅れて言った。
『今のは、あなたに言うべきことではなかったわ』
『うん』
諏訪子の声も、いつもより小さい。
『ごめん。ちょっと、昔の感覚がね』
「昔?」
丈は眉を寄せる。
「俺、何かしたか」
『していないわ』
神奈子は即答した。
『少なくとも、今のあなたは』
「今の?」
また、分からない言葉が増えた。
丈はその場に座り込んだ。
もう立っているのも面倒だった。
疲れている。
山を歩いた。
猿鬼を呼んだ。
猿を祀った。
叱られた。
掃除もした。
なのに、まだこんな話を聞いている。
丈は深く息を吐いた。
「聞きたいことがある」
神奈子も諏訪子も黙った。
「今日の猿鬼のこと。俺の言葉のこと。神様のこと」
丈は指を折る。
「俺、なんでああいうのに言葉が届くんだ」
返事はない。
「なんで神奈子と諏訪子の声が聞こえるんだ」
夜の風が、廊下を抜ける。
「なんで、山は俺たちを通した」
紙垂が揺れる。
「なんで、お前らは俺に、今の話を聞かせたくなさそうなんだ」
丈は二柱の気配を見る。
「あと、今の『誰のせい』って何だよ」
諏訪子が、小さく笑った。
いつもの笑いより、少し疲れている。
『丈はさ』
「何だ」
『そういうとこ、変わらないね』
「何が」
『分からないまま突っ込んでくるところ』
「分からないから聞いてんだろ」
『そうだね』
神奈子が、静かに息を吐いた。
『本当は、もう少し後にするつもりだった』
「何を」
『昔の話よ』
諏訪子が軽く言う。
『いいよ。教えようか』
神奈子の声が、それに重なる。
『国が奪われた日』
『守った日でもあるわ』
丈は二柱の声を聞く。
同じ出来事を、別の言葉で呼んだ。
やはり、この二人には何か違いがある。
ただの口喧嘩ではない。
笑って済ませられる違いでもない。
けれど、今の丈にはまだ分からない。
分からないまま、聞くしかない。
神奈子が言った。
『少し、昔話になるわね』
その瞬間、拝殿の奥の気配が濃くなった。
土の底から、蛇のようなものが近づいてくる。
いや、蛇なのか、縄なのか、石の連なりなのか分からない。
それが床下から立ち上がる。
同時に、風が拝殿の中を巡った。
神奈子の気配。
諏訪子の気配。
土と風。
縄と柱。
山と湖。
それらが、丈の視界を塗りつぶしていく。
暗くなったのか。
明るくなったのか。
分からない。
ただ、今いる神社の床が遠ざかる。
畳も、柱も、紙垂も、闇に溶ける。
丈は思わず目を閉じた。
いや。
閉じたのかどうかも分からない。
その時、神奈子の声がした。
少しだけ、いたずらっぽい声だった。
『そうね』
風が吹く。
『始まりは、諏訪大戦』
一拍。
『あれが起点だった』
丈の足元から、古い土の匂いが立ち上った。