現人神な幼馴染   作:全肯定逆張りおじさん

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第十七話 「蛇の夢」

第十七話 「蛇の夢」

 

 山を下りる頃には、空はすっかり暮れかけていた。

 

 木々の間に残る光は、赤でも青でもなく、薄い灰色に沈んでいた。山の奥にいる間、時間の感覚はひどく曖昧だった。どれだけ歩いたのか。どれだけ祈っていたのか。丈には分からない。

 

 ただ、足は重かった。

 

 喉も痛い。

 

 制服は汚れ、腕には壁板で擦った細い傷が残っている。靴の底には山の土がべったりつき、歩くたびに湿った葉が潰れた。

 

 隣の早苗も、いつもの元気はなかった。

 

 額には、まだ正行院の札が貼られている。

 

 南無阿弥陀仏。

 

 神社の娘の額に、寺の札。

 

 山の薄闇の中で、その白さはやけに目立っていた。

 

「……早苗」

 

「はい」

 

「それ、まだ貼っとくのか」

 

「神奈子様が、下りるまでは駄目だと」

 

「見た目がすげぇぞ」

 

「言わないでください」

 

「キョンシー」

 

「言わないでくださいって言いました!」

 

 声に力はない。

 

 それでも、少しだけいつもの調子が戻っていた。

 

 石段を下り、沢を渡り、木霊のような小さな影たちに見送られながら、二人は山を下りた。

 

 不思議なことに、帰り道は迷わなかった。

 

 行きは、山が奥へ奥へと姿を変えていった。木は太くなり、祠は増え、学校裏の雑木林が知らない古い山へ変わっていった。

 

 けれど帰りは、その逆だった。

 

 太かった幹は、だんだん普通の木に戻る。

 

 苔むした祠は、木の陰へ沈む。

 

 石の下にあった気配も、少しずつ遠のいていく。

 

 追い出されているのではない。

 

 帰してもらっている。

 

 丈には、そう感じられた。

 

 山のふちが見えた。

 

 旧校舎の裏手。

 

 そこに、人影がいくつもあった。

 

 先生たち。

 

 大人たち。

 

 懐中電灯を持った人。

 

 携帯電話を握っている人。

 

 誰かが叫ぶ。

 

「いたぞ!」

 

 その声を聞いた瞬間、早苗の足が止まりかけた。

 

 丈も、胸の奥から何かが抜けるような気がした。

 

 普通の声だった。

 

 人間の声だった。

 

 心配して、怒って、慌てている声。

 

 それが、こんなにもありがたいものだとは思わなかった。

 

「丈!」

 

 浩介が走ってきた。

 

 その後ろから健太と祐一も来る。

 

 慎二と雅人は、大人のそばにいた。

 

 二人とも泣いていた。

 

 いや、泣き疲れている顔だった。

 

 慎二の足元には影がある。

 

 ちゃんとある。

 

 夕方の薄い光の中で、少しぼやけてはいるが、確かに足元についている。

 

 丈は、それを見てようやく息を吐いた。

 

「……よかった」

 

 思わず漏れた。

 

 浩介が目の前で止まる。

 

 顔はぐしゃぐしゃだった。

 

「お前ら、どこ行ってたんだよ!」

 

「山」

 

「分かるわ! 見りゃ分かる!」

 

「じゃあ聞くなよ」

 

「そういうことじゃねぇだろ!」

 

 浩介は怒鳴った。

 

 それから、いきなり黙った。

 

 丈の肩を掴む。

 

 力が強い。

 

「帰ってきたんだな」

 

「ああ」

 

「東風谷も」

 

「はい」

 

 早苗が小さく頷く。

 

 額の札が揺れた。

 

 浩介はそれを見た。

 

 見て、固まった。

 

「……東風谷」

 

「はい」

 

「何それ」

 

「聞かないでください」

 

「いや聞くだろ」

 

「聞かないでください」

 

 健太が震える声で言う。

 

「お札?」

 

 祐一がぼそっと続ける。

 

「映画で見たことある」

 

「違います!」

 

「何が?」

 

「いろいろです!」

 

 早苗が少しだけ元気に怒った。

 

 その声を聞いて、慎二が泣きながら笑った。

 

 笑ったというより、泣き顔が少し崩れた。

 

「東風谷、変なの」

 

「慎二くんに言われたくありません!」

 

「俺、今日ずっと変だったし」

 

「それは……」

 

 早苗は言葉に詰まった。

 

 慎二は足元を見る。

 

 影がある。

 

 それを見て、また泣きそうになる。

 

「帰ったんだよな」

 

 慎二が言った。

 

「俺、帰ったんだよな」

 

「ああ」

 

 丈は答えた。

 

「帰った」

 

 慎二は泣いた。

 

 今度は、怖くて泣いたのではなかった。

 

 たぶん。

 

 雅人も隣で泣いている。

 

「ごめん」

 

「もういいって」

 

「ごめん」

 

「もういいってば」

 

 慎二はそう言いながら、雅人の袖を掴んでいた。

 

 浩介が鼻をすすった。

 

「お前らも謝れよ」

 

「何を」

 

「心配させた」

 

「お前に?」

 

「俺にも! 先生にも! みんなにも!」

 

 その時、先生が来た。

 

 顔が怖かった。

 

 本気で怖い顔だった。

 

 猿鬼とは違う。

 

 正しい意味で、怖い顔だった。

 

「お前たち」

 

 低い声。

 

 丈と早苗は同時に背筋を伸ばした。

 

「はい」

 

「どこへ行っていた」

 

「山です」

 

 丈が答える。

 

 先生の眉がさらに寄った。

 

「なぜ山へ行った」

 

「……その」

 

 言えない。

 

 言えるわけがない。

 

 猿鬼を祀り直しに行きました。

 

 名もなき廃寺に行きました。

 

 早苗の額に寺の札を貼って、神仏を混ぜて猿を祀ってきました。

 

 そんなことを言えるわけがない。

 

 早苗も同じことを考えたのか、額の札をそっと押さえた。

 

 先生はその札を見る。

 

 しばらく見た。

 

 それから、ものすごく疲れた顔になった。

 

「……それは何だ」

 

「お守りです」

 

 早苗が小さく答える。

 

「額に貼るものか」

 

「今日は貼るものです」

 

「今日は?」

 

「はい」

 

 先生は目を閉じた。

 

 怒鳴る前に、怒りを整理している顔だった。

 

 そして、ゆっくり言った。

 

「全員、後で話を聞く」

 

「はい」

 

「まず、けがを見せろ」

 

「はい」

 

「それから、保護者に連絡する」

 

「はい」

 

「そして」

 

 先生は丈と早苗を見た。

 

「こっぴどく叱る」

 

 丈は頷いた。

 

「はい」

 

 早苗も頷いた。

 

「はい」

 

 その叱責は、山のものよりよほど人間的だった。

 

 だから、少しだけ安心した。

 

     ◇

 

 予告通り、こっぴどく叱られた。

 

 旧校舎へ入ったこと。

 

 山へ入ったこと。

 

 先生の目の届かない場所へ行ったこと。

 

 危ないことをしたこと。

 

 何度も何度も言われた。

 

 丈は黙って聞いた。

 

 早苗も黙って聞いた。

 

 浩介たちも叱られた。

 

 雅人は特に叱られた。

 

 慎二は保健室で休まされたが、それでも先生に「もう二度と行くな」と言われ、泣きながら頷いていた。

 

 その後、子供たちは少しだけからかった。

 

 主に早苗の額の札について。

 

「東風谷、ほんとにキョンシーじゃん」

 

「違います!」

 

「ぴょんぴょん跳ねる?」

 

「跳ねません!」

 

「でもお札貼ってるし」

 

「これは事情があるんです!」

 

「事情って何?」

 

「聞かないでください!」

 

 早苗は顔を真っ赤にして怒った。

 

 怒る元気が戻ってきたことに、丈は少し安心した。

 

 浩介が丈の横に来る。

 

「なあ」

 

「何だ」

 

「終わったのか」

 

 丈はすぐには答えなかった。

 

 校庭の向こう。

 

 旧校舎。

 

 その奥の山。

 

 そこを見て、ゆっくり言う。

 

「たぶん」

 

「たぶんかよ」

 

「たぶんだ」

 

「怖ぇな」

 

「ああ」

 

「でも、慎二は帰った」

 

「ああ」

 

「じゃあ、いいか」

 

「いいのか?」

 

「よくねぇけど、今日はそれでいい」

 

 浩介はそう言った。

 

 それから、少しだけ笑った。

 

「お前、明日学校来るよな」

 

「行くよ」

 

「東風谷も?」

 

「行きます!」

 

 少し離れたところで早苗が即答した。

 

 額に札を貼ったまま。

 

 浩介はそれを見て、口元を押さえた。

 

「ごめん。やっぱちょっと面白い」

 

「浩介くん!」

 

 早苗が怒る。

 

 丈は笑った。

 

 喉が痛かった。

 

 でも、笑えた。

 

     ◇

 

 その後、丈と早苗は守矢神社にいた。

 

 社務所の中。

 

 早苗の父は、娘の額に貼られた札を見て、しばらく黙っていた。

 

 そして、静かに言った。

 

「……貼ったんだね」

 

「お父さん!」

 

 早苗の声が社務所に響いた。

 

「どういうことですか!」

 

「うん」

 

「うん、じゃありません!」

 

「まず座ろうか」

 

「座っています!」

 

「そうだね」

 

 父は穏やかだった。

 

 穏やかすぎた。

 

 それが余計に早苗の火に油を注いでいた。

 

 早苗は両手を膝に置きながら、怒りで震えている。

 

 額にはまだ札が貼られている。

 

 丈は横で正座していた。

 

 足が痛い。

 

 山を歩いた後の正座は、かなりきつい。

 

 だが、それを言える空気ではなかった。

 

「神社のお守りですよね?」

 

 早苗が詰め寄る。

 

「そうだね」

 

「守矢ですよね?」

 

「うん」

 

「中から南無阿弥陀仏って書いたお札が出てきました」

 

「うん」

 

「うん?」

 

「入れたね」

 

「入れたね、じゃありません!」

 

 早苗は額の札を指差した。

 

「これですよ! 神社の娘の額に貼られてるんですよ!」

 

「よく似合っているよ」

 

「褒めないでください!」

 

 父は少し困ったように笑った。

 

 その笑いに悪気はない。

 

 だからこそ、早苗は余計に怒りの持っていき場を失っているようだった。

 

「羊頭狗肉です!」

 

「それは、少し違うかな」

 

「違いません! 神社のお守りと言って渡したものの中身が、お寺のお札! これはもう、実質的に羊頭狗肉です!」

 

「実質的に」

 

「実質的にです!」

 

「でも、役に立った?」

 

「立ちました!」

 

「なら、よかった」

 

「よくありません!」

 

 早苗は机に手をついた。

 

「役に立ったからこそ問題なんです! 神社の立場として!」

 

「早苗、声」

 

「声も大きくなります!」

 

 丈の頭の奥で、諏訪子がぼそっと言った。

 

『怒ってるねぇ』

 

 神奈子は黙っている。

 

 黙っているが、圧がある。

 

 札の一件について、まだ納得しきっていない圧だ。

 

 父は、ようやく少し真面目な顔になった。

 

「理由を話すよ」

 

「お願いします」

 

「半分は思いつきだった」

 

「お父さん!」

 

「気休めとも言うね」

 

「気休め!?」

 

 早苗の声が裏返った。

 

 丈は横で少しだけ体を引いた。

 

 この勢いの早苗は、猿鬼とは別方向に怖い。

 

 父はゆっくり続ける。

 

「僕には、神奈子様や諏訪子様の姿は見えない。声も聞こえない」

 

 その言葉に、早苗の表情が少し変わった。

 

 怒りの中に、別の色が混ざる。

 

「だけど、神主として、信仰を持つ者として、困っている人の手助けはしたい」

 

 父は丈を見る。

 

「丈くんが、何かに困っているのは分かった」

 

 丈は黙った。

 

「でも、守矢には、猿を退ける特別なお守りがあるわけではないからね」

 

 父は苦笑した。

 

「猿にちなんだ縁も、少なくとも僕の知る限りではない」

 

「それで、お寺ですか」

 

 早苗が言う。

 

「そう。正行院のことを思い出した」

 

 その名が出た瞬間、丈の頭の奥で諏訪子が小さく反応した。

 

『ああ、やっぱり』

 

 父は続ける。

 

「昔、少し調べたことがあるんだ。正行院は、猿寺と呼ばれることがある」

 

「猿寺?」

 

 丈が聞いた。

 

 父は頷く。

 

「詳しい由来は、話によって少し違う。ただ、災難から救われた猿の話が残っている。合掌する猿。災いを去る、という語呂にも結びついてね」

 

 諏訪子の声が重なる。

 

『円誉上人の話だよ』

 

 丈は顔を上げた。

 

 父には聞こえていない。

 

 諏訪子は、丈へだけ話している。

 

『危ういところを救われた猿が、手を合わせる。猿が去る。災いが去る。そういう話が、人の中で重なって、正行院は猿寺と呼ばれた』

 

 丈は、山の廃寺で見た合掌猿を思い出した。

 

 小さな猿。

 

 手を合わせて、目を伏せていた。

 

『あの札を見たから、思い出したんだ』

 

 諏訪子が言う。

 

『猿鬼を、その由来へ寄せられるかもしれないって』

 

「それで、山の寺へ?」

 

 丈が小さく言う。

 

 早苗がこちらを見る。

 

「諏訪子様ですか?」

 

「ああ」

 

 丈は頷いた。

 

「正行院が猿寺って呼ばれる由来を思い出したって。だから、猿鬼をそっちへ寄せられるかもしれないと思ったんだと」

 

 早苗は父を見た。

 

「お父さん」

 

「うん」

 

「気休めが、かなり大事な手がかりでした」

 

「そうか」

 

 父は静かに頷いた。

 

 少しだけ安心したような顔だった。

 

 けれど、早苗はまだ終わらない。

 

「ですが!」

 

「はい」

 

「それとこれとは別です!」

 

「そうだね」

 

「神社のお守りにお寺のお札を入れるなら、せめて一言ください!」

 

「一言あったら持っていった?」

 

「……持っていきました!」

 

「なら、次からは言うよ」

 

「次があったら困ります!」

 

 父はまた困ったように笑う。

 

 けれど、次の言葉は真面目だった。

 

「神様に失礼だったかもしれないね」

 

 頭の奥で、諏訪子が少し黙った。

 

 神奈子も、そこでようやく小さく息を吐いた。

 

 父には聞こえていない。

 

 見えてもいない。

 

 けれど、その言葉は届いたようだった。

 

「でも、何もしないよりはいいと思った」

 

 父は言う。

 

「困っている子供に、何か持たせたかった。それが、たとえ気休めでも」

 

 早苗は俯いた。

 

 怒っていた顔が、少しだけ揺れる。

 

「……役に立ちました」

 

「そうか」

 

「でも」

 

 早苗は顔を上げる。

 

「諏訪子様も神奈子様も、ショックを受けてますので、フォローはしてください!」

 

 父は一瞬だけ目を丸くした。

 

 それから、真面目に頷いた。

 

「それは、そうだ」

 

「そうです!」

 

「礼儀は大事だからね」

 

 父は居住まいを正した。

 

 そして、拝殿の方へ深く頭を下げる。

 

「神奈子様。諏訪子様。失礼をいたしました」

 

 早苗も背筋を伸ばす。

 

 丈も慌てて頭を下げた。

 

 父は続けた。

 

「ただ、困っている子を助けたいという気持ちからでした。どうか、お許しください」

 

 頭の奥で、諏訪子がぽつりと言う。

 

『まあ、いいよ』

 

 神奈子も、少し間を置いて言った。

 

『……理由は分かったわ』

 

 早苗は父を見る。

 

「諏訪子様は、まあいいよ、だそうです。神奈子様は、理由は分かったわ、だそうです」

 

「そうか」

 

 父はほっとしたように息を吐いた。

 

「よかった」

 

「まだ完全に許されたかは分かりません」

 

「そこは、これからの態度だね」

 

「お父さん、妙に落ち着いてますね」

 

「内心は結構たじろいでいるよ」

 

「でしょうね!」

 

 早苗は怒っているのに、どこか安心したようだった。

 

 丈はそれを横で見ていて、少しだけ分かった。

 

 父は見えない。

 

 聞こえない。

 

 でも、信じている。

 

 見えるから信じるのではない。

 

 聞こえるから従うのでもない。

 

 信仰を持つ者として、見えないまま礼を尽くす。

 

 それもまた、守矢の神主なのだろう。

 

     ◇

 

 罰とお礼を兼ねて、丈と早苗は本殿の奥の掃除をした。

 

 危ないことをした罰。

 

 そして、神様と山のものに世話になったお礼。

 

 そう父が言った。

 

 早苗はようやく額の札を外したが、しばらく不満そうにそれを見ていた。

 

「お父さん、ほんとに……」

 

「まだ言ってる」

 

「言います。これは言います」

 

「まあ、言うよな」

 

 箒で床を掃く。

 

 普段は入らない奥の場所だった。

 

 木の床は古く、少し冷たい。

 

 埃の匂い。

 

 しめ縄の匂い。

 

 紙垂の白さ。

 

 拭き清められた場所特有の、乾いた静けさ。

 

 山の廃寺とは違う。

 

 こちらは、人の手が今も入っている場所だ。

 

 掃かれ、拭かれ、祀られ続けている場所。

 

 早苗は丁寧に雑巾を絞り、床を拭いていく。

 

 丈は箒を動かしながら、ふと山の廃寺を思い出した。

 

 苔むした石灯籠。

 

 崩れた山門。

 

 名も読めない扁額。

 

 そこに座った小さな合掌猿。

 

 あの場所は、これからどうなるのだろう。

 

 誰かが掃くのか。

 

 誰かが祀るのか。

 

 それとも、また山に沈むのか。

 

「丈くん」

 

「何だ」

 

「手が止まってます」

 

「悪い」

 

「考え事ですか」

 

「ああ」

 

「猿寺のこと?」

 

「たぶん」

 

「たぶん」

 

「今日はたぶんでいいだろ」

 

「そうですね」

 

 そんなことを言いながらも、二人は黙々と掃除した。

 

 体は疲れていた。

 

 けれど、手を動かしていると、少しずつ日常へ戻っていく感じがした。

 

 雑巾を洗う。

 

 箒を立てかける。

 

 水を替える。

 

 床の埃を取る。

 

 普通のこと。

 

 今日、何度も失いかけた普通のこと。

 

 掃除が終わる頃には、外はもう暗くなっていた。

 

 二人は拝殿の奥に座る。

 

 早苗は膝の上に手を置き、少しだけ背筋を伸ばした。

 

「聞いてもいいですか」

 

 早苗が言う。

 

『いいよ』

 

 諏訪子の声。

 

 神奈子も静かに応じる。

 

『ええ』

 

「どうして、山を目指させたんですか」

 

 早苗はまっすぐ訊いた。

 

「正行院のお札があったから、というのは分かりました。でも、あの廃寺は正行院ではありませんでした」

 

『正行院そのものを目指したわけじゃない』

 

 諏訪子が言った。

 

『あの札を見た時、猿寺の由来を思い出した。合掌する猿。災いが去る猿。猿鬼をそちらへ寄せる道があると思った』

 

 神奈子が続ける。

 

『学校や町では無理だったわ。あそこには噂も恐怖も、子供たちの声も多すぎる。猿鬼を鬼の形へ戻すものばかりだった』

 

「だから山ですか」

 

『山には古いものが残っている』

 

 諏訪子の声は静かだった。

 

『名を失った寺も、忘れられた祠も、形を変えながら残っている。そういう場所なら、猿鬼を別の形へ寄せられる』

 

「でも、あの寺は正行院じゃなかった」

 

 丈が言う。

 

『うん』

 

 諏訪子はあっさり答えた。

 

『でも、丈たちは猿に関わる寺かもしれないと思ってあそこへ来た。正行院の札に導かれてね』

 

 神奈子が言葉を継ぐ。

 

『人の認識のずれが生まれた。正行院ではない名もなき寺が、猿に由来する寺として見られた。そのずれを使ったの』

 

「強引ですよね」

 

 早苗が言う。

 

『強引よ』

 

 神奈子は否定しなかった。

 

『けれど、猿鬼は名を得たばかりだった。まだ形が固まりきっていない。あの場でしか、向きを変えられなかった』

 

『倒したんじゃない』

 

 諏訪子が言う。

 

『祀ったんだよ。鬼じゃなくて、猿として』

 

「猿鬼は、どうなったんですか」

 

 早苗が聞く。

 

『猿鬼ではなくなった』

 

 神奈子が答える。

 

『完全に消えたわけではない。恐れも、噂も、山のものの名残もある。でも、今は寺に納まっている』

 

『あの寺も猿寺になった』

 

 諏訪子が言った。

 

 少しだけ、遠くを見るような声だった。

 

『ただ、またいつの日か山のものになるだろうね』

 

「え」

 

 早苗が顔を上げる。

 

『でも、それは仕方がない』

 

 諏訪子は続ける。

 

『形あるものは変わる。名前も、祀られ方も、思われ方も。けれど、そこに残る。土地も、思いも、少しずつ積もってね』

 

 神奈子は黙った。

 

 いつものようにすぐ言葉を返さない。

 

 丈は、ちらりと拝殿の奥を見る。

 

 神奈子の姿は見えない。

 

 けれど、沈黙がある。

 

 それは怒りではなかった。

 

 ただ、簡単には頷けない沈黙だった。

 

 形が変わっても残る。

 

 その言葉は、諏訪子にとっては当然のことなのかもしれない。

 

 けれど、神奈子にとっては、どこか引っかかるものがあるのだろう。

 

 早苗も何かを感じたのか、口を開きかけて、やめた。

 

 神奈子が静かに言った。

 

『丈、あなた、今日は泊まっていくんでしょう』

 

「え」

 

『早苗も、今日は十分すぎるほど疲れているはずよ。休むといいわ』

 

「でも」

 

『話はまた明日でもできる』

 

 その声は、穏やかだった。

 

 だが、奥に固いものがあった。

 

 これ以上は、子供たちに聞かせる話ではない。

 

 そう言われている気がした。

 

 諏訪子も何も言わなかった。

 

 早苗は少しだけ不安そうにする。

 

「神奈子様」

 

『大丈夫よ』

 

 神奈子が言う。

 

『今日は休みなさい』

 

 早苗はしばらく黙っていた。

 

 それから、小さく頷いた。

 

「はい」

 

 丈も、渋々立ち上がる。

 

「……じゃあ、休む」

 

『ええ』

 

 諏訪子が軽く言った。

 

『寝な寝な。子供は寝るのも仕事だよ』

 

「都合いい時だけ子供扱いすんな」

 

『便利だからね』

 

「便利にするな」

 

 早苗が少し笑った。

 

 それで、その場は終わった。

 

     ◇

 

 その夜。

 

 丈は、なぜか目を覚ました。

 

 布団の中で、しばらく天井を見ていた。

 

 守矢神社に泊まるのは、これが初めてではない。

 

 前にも泊まった。

 

 夏の夜。

 

 白い御守りを持っていた夜。

 

 それなのに、今夜の神社は少し違って感じた。

 

 空気が濃い。

 

 昼間に山の奥で嗅いだ土の匂いが、まだ鼻の奥に残っているせいかもしれない。

 

 あるいは、神社の奥にある何かが、いつもより近いせいかもしれない。

 

 丈は起き上がった。

 

 隣の部屋から、早苗の寝息がかすかに聞こえる。

 

 疲れ切っていたのだろう。

 

 よく眠っている。

 

 丈はそっと布団を抜け出した。

 

 廊下は暗い。

 

 板張りの床が、足の裏に冷たい。

 

 夜の神社は、昼とはまるで違った。

 

 人の声はない。

 

 風の音だけがある。

 

 紙垂がかすかに揺れる音。

 

 遠くの木々が擦れる音。

 

 それから。

 

 土の底から、何かが息をしているような気配。

 

 蛇のようで。

 

 縄のようで。

 

 石のようで。

 

 土の下にいるもの。

 

 神社の奥に、その気配が濃くなっていた。

 

 丈は、息を潜めて歩く。

 

 声が聞こえた。

 

 神奈子の声。

 

 諏訪子の声。

 

 昼間より低い。

 

 近い。

 

 そして、少し尖っていた。

 

『あの寺も、放っておけばまた山に戻る』

 

 神奈子の声だった。

 

『猿寺と呼ぶ人がいなければ、いずれ形は薄れるわ』

 

『薄れても残るよ』

 

 諏訪子の声。

 

 いつもの軽さはある。

 

 でも、その奥に、乾いた石みたいな硬さがあった。

 

『祠が崩れても、石が残る。石が埋まっても、土が覚えてる』

 

『土が覚えているだけでは、人は帰れない』

 

『人のためだけにあるわけじゃない』

 

『人がいなければ、神は名を失う』

 

『名を失っても、いるものはいる』

 

『そう言えるのは、土地そのものに根を下ろしているあなたの言葉よ』

 

『そう言うあんたは、名前と形に頼りすぎる』

 

 丈は柱の陰で足を止めた。

 

 聞いてはいけない。

 

 そう思った。

 

 けれど、足が動かなかった。

 

『届かなければ意味がないわ』

 

 神奈子が言う。

 

『人が見ないもの。祀らないもの。呼ばないもの。そんなものを、どうやって守るの』

 

『守るって言葉、好きだよね』

 

『必要だからよ』

 

『変えるって言葉を、守るで包むのも上手い』

 

 風が止まった。

 

 諏訪子の声は、低いまま続く。

 

『形を変えて、名前を変えて、役目を変えて。それで残しましたって、誰に言うの』

 

『消えるよりはましよ』

 

『消えた方がましなものもあるかもね』

 

『あなたは本気でそれを言っているの?』

 

『あんたこそ、本気で全部残せると思ってるの?』

 

 沈黙が落ちた。

 

 その沈黙は、ただの間ではなかった。

 

 何かを言わずに踏みとどまった沈黙だった。

 

 丈は、喉が乾くのを感じた。

 

 今日の猿寺の話をしている。

 

 でも、それだけではない。

 

 もっと古いところへ、言葉の刃が届きかけている。

 

 お互いに、相手の急所を知っている。

 

 だから、ほんの少し角度を変えれば刺さる。

 

 刺さらないようにしているのか。

 

 刺さるぎりぎりを撫でているのか。

 

 丈には分からなかった。

 

『今日の猿鬼は、うまくいった』

 

 神奈子が言う。

 

『けれど、あれは応急の形よ。人が忘れれば、また戻る。祀り続けなければならない』

 

『それでいいじゃない』

 

『誰が祀るの』

 

『気づいた人が』

 

『気づく人が減っている』

 

『気づけるように残せばいい』

 

『そのために形を整えるのよ』

 

『整えるって、便利だね』

 

 諏訪子の声が少し笑った。

 

 笑っているのに、冷たい。

 

『縄を張る。柱を立てる。名前を決める。そうすれば、ぐちゃぐちゃした土地も、人に見せやすくなる』

 

『悪いことではないわ』

 

『悪いなんて言ってないよ』

 

『あなたの声は、そう聞こえる』

 

『神奈子の声は、いつも正しいみたいに聞こえるね』

 

 丈は、思わず一歩出た。

 

 止めなきゃ。

 

 そう思った。

 

 何を言えばいいのか、分からなかった。

 

 けれど、このまま聞いていたら、二人が本当に傷つけ合う気がした。

 

 神様同士のことなど分からない。

 

 昔のことも分からない。

 

 信仰も、形も、土地も、丈にはまだ分からない。

 

 だから、知っている言葉を使った。

 

 子供が、喧嘩を止める時の言葉を。

 

「どっちも、諏訪を思ってるんだろ」

 

 声が出た。

 

 二柱が、同時に黙った。

 

 丈は柱の陰から出る。

 

 胸がどきどきしていた。

 

 でも、もう言ってしまったので続けるしかなかった。

 

「だったら、そんな言い方しなくてもいいだろ」

 

 言った瞬間。

 

 空気が変わった。

 

 風が止まる。

 

 床下の土の気配が、冷たくなる。

 

 紙垂が揺れたまま止まったように見えた。

 

 神奈子も、諏訪子も、何も言わない。

 

 丈は一瞬、自分が言葉を間違えたことだけを悟った。

 

 何を間違えたのかは分からない。

 

 ただ、踏んではいけない場所を踏んだ。

 

 そういう感覚だけがあった。

 

『……今』

 

 諏訪子の声が低くなる。

 

『何て言った?』

 

 丈は固まる。

 

「いや、だから」

 

 言い直そうとした。

 

 けれど、言い直す前に、神奈子の声が重なった。

 

『...誰のせいで』

 

 風が鳴った。

 

 諏訪子の声も重なる。

 

『誰のせいで“こうなった"と思っている!!』

 

 二柱の声が、同時にぶつかった。

 

 拝殿の床が低く震えた。

 

 丈は息を呑む。

 

「……は?」

 

 間の抜けた声が出た。

 

 本当に、何を言われたのか分からなかった。

 

 誰のせい。

 

 自分のせいなのか。

 

 猿鬼のせいか。

 

 それとも、もっと別の誰かか。

 

 丈は目を瞬かせる。

 

 その顔を見て、二柱の気配が、同時に固まった。

 

『……あ』

 

『……違う』

 

 気まずい沈黙が落ちた。

 

 丈はしばらく二柱の気配を見ていた。

 

「何?」

 

 神奈子が、少し遅れて言った。

 

『今のは、あなたに言うべきことではなかったわ』

 

『うん』

 

 諏訪子の声も、いつもより小さい。

 

『ごめん。ちょっと、昔の感覚がね』

 

「昔?」

 

 丈は眉を寄せる。

 

「俺、何かしたか」

 

『していないわ』

 

 神奈子は即答した。

 

『少なくとも、今のあなたは』

 

「今の?」

 

 また、分からない言葉が増えた。

 

 丈はその場に座り込んだ。

 

 もう立っているのも面倒だった。

 

 疲れている。

 

 山を歩いた。

 

 猿鬼を呼んだ。

 

 猿を祀った。

 

 叱られた。

 

 掃除もした。

 

 なのに、まだこんな話を聞いている。

 

 丈は深く息を吐いた。

 

「聞きたいことがある」

 

 神奈子も諏訪子も黙った。

 

「今日の猿鬼のこと。俺の言葉のこと。神様のこと」

 

 丈は指を折る。

 

「俺、なんでああいうのに言葉が届くんだ」

 

 返事はない。

 

「なんで神奈子と諏訪子の声が聞こえるんだ」

 

 夜の風が、廊下を抜ける。

 

「なんで、山は俺たちを通した」

 

 紙垂が揺れる。

 

「なんで、お前らは俺に、今の話を聞かせたくなさそうなんだ」

 

 丈は二柱の気配を見る。

 

「あと、今の『誰のせい』って何だよ」

 

 諏訪子が、小さく笑った。

 

 いつもの笑いより、少し疲れている。

 

『丈はさ』

 

「何だ」

 

『そういうとこ、変わらないね』

 

「何が」

 

『分からないまま突っ込んでくるところ』

 

「分からないから聞いてんだろ」

 

『そうだね』

 

 神奈子が、静かに息を吐いた。

 

『本当は、もう少し後にするつもりだった』

 

「何を」

 

『昔の話よ』

 

 諏訪子が軽く言う。

 

『いいよ。教えようか』

 

 神奈子の声が、それに重なる。

 

『国が奪われた日』

 

『守った日でもあるわ』

 

 丈は二柱の声を聞く。

 

 同じ出来事を、別の言葉で呼んだ。

 

 やはり、この二人には何か違いがある。

 

 ただの口喧嘩ではない。

 

 笑って済ませられる違いでもない。

 

 けれど、今の丈にはまだ分からない。

 

 分からないまま、聞くしかない。

 

 神奈子が言った。

 

『少し、昔話になるわね』

 

 その瞬間、拝殿の奥の気配が濃くなった。

 

 土の底から、蛇のようなものが近づいてくる。

 

 いや、蛇なのか、縄なのか、石の連なりなのか分からない。

 

 それが床下から立ち上がる。

 

 同時に、風が拝殿の中を巡った。

 

 神奈子の気配。

 

 諏訪子の気配。

 

 土と風。

 

 縄と柱。

 

 山と湖。

 

 それらが、丈の視界を塗りつぶしていく。

 

 暗くなったのか。

 

 明るくなったのか。

 

 分からない。

 

 ただ、今いる神社の床が遠ざかる。

 

 畳も、柱も、紙垂も、闇に溶ける。

 

 丈は思わず目を閉じた。

 

 いや。

 

 閉じたのかどうかも分からない。

 

 その時、神奈子の声がした。

 

 少しだけ、いたずらっぽい声だった。

 

『そうね』

 

 風が吹く。

 

『始まりは、諏訪大戦』

 

 一拍。

 

『あれが起点だった』

 

 丈の足元から、古い土の匂いが立ち上った。

 

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